にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 2

 突然だが、冨岡義勇ギリギリ未成年な十九歳は、『犬』と暮らせたらいいのにと昔から思っている。ここ数ヶ月はなおいっそう、キラキラとした毛並みの大きな犬がそばにいてくれたらと願うことが増えた。不甲斐ないことだけれども。

「チワワや豆柴でさえ怖がるくせに、意外だねぇ」
「怖くない。苦手なだけだ」
「ハイハイ、わかったわかった」

 ムゥッと唇をへの字にした義勇に、わけ知り顔した幼馴染たちがそろって微苦笑を浮かべる。うれしくてたまらず勝手に顔が笑ってしまうのをどうにかこらえたものの、やっぱり隠しきれずにこぼれ出た。そんな笑みだ。
 ほんの少しふてくされたくなりつつ、義勇は豚汁うどんを無言ですすった。たちまち汁で汚れる口周りに二人の苦笑が深まり、真菰がサッと取り出したハンカチで義勇の口元を拭ってくれる。
 つい先日に満二十歳を迎えた真菰は、ここ最近やたらと年上ぶる。だがこのタイミングバッチリな仕草は昔からだ。とはいえせっせと義勇の世話を焼くのは、三人のなかで一番早く生まれたからというわけだけでもあるまい。錆兎のほうが義勇よりさらにひと月遅い誕生日にもかかわらず、弟扱いされたことなどないのだ。
 世話を焼くという点だけでいえば、錆兎にだって真菰は甲斐甲斐しい。だが、義勇に対するそれとは世話の焼き方が違う気がする。彼氏とただの幼馴染の差……というよりも、やっぱり義勇は弟分という認識なんだろう。
 不平不満を口にするのはなんとはなしはばかられ、義勇は無意識に視線をさまよわせた。開店直後なせいか、学食はいつもより空いている。人の目が少なくて幸いだ。幼児扱いめいた対応を他人にはあまり見られたくはない。けれども義勇の不機嫌顔は、もうすっかりいつもの無表情になっていた。
 文句など彼らに対する甘えの裏返しだと義勇も自覚している。なんだかんだ言っても二人に世話を焼かれるのは慣れっこだ。というよりも、こういう世話の焼き方は、錆兎と真菰にかぎらず義勇の周囲にいてくれる人々共通なのだ。恥ずかしながら、もはやこれが通常運転である。
「相変わらず食べるの下手だよな」
 言葉は呆れめいているが、錆兎の声音や表情はやっぱりうれしげだ。

 大学進学にともない義勇が生まれ故郷に戻ってから、四月になれば二年が経つ。だというのに、錆兎や真菰はいまだに義勇が帰ってきたことをしみじみと喜ぶのだ。義勇が幼いころと変わらぬ仕草や表情を見せると、どうにもうれしくてたまらなくなるらしい。そんな様子に気づくたび、義勇はちょっぴり面映ゆくなる。

 両親がそろって事故で亡くなり、義勇が引っ越しを余儀なくされたのは五歳のときだ。年に一度は墓参りのため姉と二人で帰郷していたとはいえ、裏返せばその日ぐらいしか義勇は彼らに逢えなかった。それなのに、今もこうして一緒にいてくれる。
 文句なんてやっぱり甘えだ。二人は義勇がどんなに子供じみた真似をしようと、いかにもうれしげにしょうがないなと笑って面倒を見てくれるのを、義勇は知っている。子供扱いが不本意なのも本音ではあるが、それでも彼らが喜ぶなら、幼児のようにかまわれる立場に甘んじるのもやぶさかではない。
 寂しさや不安が胸を占める日があっても、得難い友人たちがいるから乗り越えられている。自分は本当に果報者だ。大好きな幼馴染との縁が途切れなかったことに、義勇もいまだにありがたさを噛みしめる。
 と同時に、ポンッと頭に浮かんだのは、キュウーンと切なげに鳴く『犬』の姿だ。

 ちょっとほかの人を好きだなぁと思った途端に想像のなかとはいえしっかり現れ、俺を忘れないでと存在を主張してくるのだから、まったくもってしょうのない奴だ。義勇は勝手に赤くなりかける顔をごまかすべく、またうどんをすすった。
 しょうがないのはどちらやら。離れていたって頭のなかにはいつだって、騒がしい犬が住み着いている。コロコロと転がるように走りまわっていた子犬のころからずっと一緒にいたのだし、それもまた、しかたのないことかもしれないけれど。
 それでもなんにつけて思い浮かべてしまうのは、向こうの自己主張が激しいばかりでもない。
 あぁ、本当にしょうのない奴だ、俺は。自嘲はずいぶんと甘く胸にひびいた。

 真菰に言われるまでもなく、犬はたしかにちょっと怖い。幼いころに、中型犬に追いかけられ尻を噛まれるという不名誉な出来事があったせいで、いまだに義勇は犬を見かけると体が一瞬ピシリと硬直するのだ。ぬいぐるみのような子犬であっても、条件反射でビクンとしてしまう。
 そんな義勇にも、世界で唯一、まったく怖くない『犬』がいる。それはフサフサでキラキラした金色の毛並みの、大きな犬だ。義勇と背丈は変わらないくせに、体の厚みは全然違っていて、ちょっぴり悔しい。
 犬はしつけだってしっかりされている。いかにも血統書付きな毛並みの良さと賢さは、惚れ惚れするほどだ。
 いつだってご機嫌でフレンドリーな犬は、ハチ公も顔負けな忠犬でもあって、義勇を全身全霊で守ろうとする。実際、なにがあったってこの子と一緒なら大丈夫と、義勇が全幅の信頼を置けるほどには強い。
 瞳も毛並み同様に金色だ。ちょっと赤みが差していて、金と朱にきらめくさまは夜明けの空に似ている。清々しくて美しい、澄んだ瞳だ。義勇に対してはいつだって笑みにたわんでいるその目は、義勇へ悪意を向ける輩とひとたび認識するなり、一瞬にして射殺さんばかりに鋭くなる。
 義勇のことが大好きで、大切で、なによりも大事と、いつでも体いっぱいで訴えてくるかわいくて健気な犬だけれど、同時にちょっとヤキモチ焼きだ。
 大切な義勇を悲しませたりは決してしませんとばかりに、義勇が友人などと笑っていてもせいぜい強がっておとなしくしている。大人ぶって余裕のあるところをみせようとする。ところが二人きりになったとたん、我慢の限界とすり寄ってきて、寂しかったとキュンキュン鳴くのだ。
 
 義勇が一緒に暮らせたらいいのにと願っているのは、そんな『犬』だ。

 ほかの言い方をするのなら、錆兎たちと同じく幼馴染。
 二学年差と言うと、生まれ年は一つ違いとすぐさま訂正してくる年下の男の子……なんて言葉にはそろそろおさまらなくなってきた、高校三年生。義勇の守護者で騎士を自認しているだけでなく、その認識を周知徹底させようとするから、ちょっと頭が痛い。まぁ、否定はしないけれど。
 年下なのに生意気な。なんて、とうてい言えないぐらいには、義勇だってあの子を頼っている。頼り切りになるのはごめんだが、幼いころから精一杯背伸びして義勇を守ろうとしていたあの子には、義勇だって弱いのだ。かわいくてたまらない弟分なので。
 本当は、幼馴染で弟分なだけではないけれど。
 去年の春に、それだけではなくなったけれども。

「ていうかぁ、義勇が一緒に暮らしたいのはワンコじゃないでしょ?」
「……犬だ」
「ハイハイ、わかったから。そういうことにしておいてやるよ。で、おまえのかわいい犬は、次いつ来るんだって?」

 真菰はもちろん、錆兎の笑んだ視線もお見通しと言わんばかりだ。なんともはや居心地が悪いことこの上ない。というか、照れくさくてしょうがない。
 意地になって違うと言い張ったところで、ふぅん? とニヤニヤされるだけなのは、わかりきっている。だから義勇はちょっとうつむき、ことさらそっけなく言った。
「クリスマスイブ。終業式が終わったらすぐに来るって言ってた」
 今年のクリスマスは金曜日だ。式は午前中には終わる。金曜の午後から日曜の夕方までいるからと言い張る犬に断る言葉は見つからず、ついでに本心では義勇だって一秒でも長く一緒にいたい。結果、押し切られ了承したのは自分自身だが、少なからず不安もあった。
 うっかりこぼしかけたため息を義勇は無理やり飲み込んだ。

 いつもなら、土曜の午前中から日曜の夕方までの滞在だ。やってくるのは月に一度。だいたい第一週目か二週目に。それ以上は義勇が許可しなかった。だってあの子はまだ高校生なのだ。
 成績は常に上位、部活でも二年時から早くも主将だったぐらい人望がある。父親が剣道の師範である有利さだけでなく、誰よりも努力を厭わず練習熱心で、今年のインターハイではなんと全国優勝をもぎ取った。文武両道のお手本と先生の覚えもめでたい優秀な子だ。
 たいそう真面目なので、勉強に部活にと毎日忙しい。なんにでも全力投球な頑張り屋なのだ。
 義勇がこちらに移り住んですぐに、あの子はバイトだって始めた。新幹線を使えば二時間もかからぬ距離だが、高校生には痛い出費だ。小遣いだけでは月に一度だってキツイだろう。裕福な家庭ではあるが、ご両親はけっして子供を甘やかさない人たちだから、小遣いだってそう多くはない。

 実の息子にはともかく、義勇には甘すぎる気がしないでもないけれども……まぁいい。あの人たちのおかげで義勇は道を外れず育ち、曲がりなりにも大学生にだってなれた。
 借りなどと思う必要はない。恩返しと言うのなら素直に甘えなさい。なによりそれがうれしい。そう笑って言ってくれるから、義勇も恥ずかしながらあの子の両親には甘えてしまう。
 姉も義勇と同様だ。姉弟そろってあの人たちには頭が上がらないし、血はつながらずとも本当の両親みたいに慕っている。

 ともあれ、小遣いが足りなければバイトするのは当然だろうが、向こうにばかり負担を強いるのは義勇だって忍びない。だいいち義勇のほうが年上なのだ。お兄ちゃんだ。
 長期休暇には俺が遊びに行くから、毎月なんて来なくていい。義勇がそう言っても「そんなの義勇が足りなくて俺が死ぬ!」と絶叫されたから、しょうがない。互いに妥協点をすり合わせた結果、目下のところ月イチのお泊りと相成っている。

「おぉ、青春してるなぁ。年末年始も一緒か?」
「年末はこっちで過ごす。正月はたぶん二日から向こう」
「じゃ、初詣は? あっちにいたときはずっと、蔦ちゃんも一緒にみんなで行ってたんでしょ? 今年の元日は義勇まだ寝込んでたけど、来年の予定は?」
「……杏寿郎と一緒に行く。恒例だし」

 夏休みや年末年始には二、三日ぐらい義勇があちらにお邪魔するのも、条件の一つだ。でないと父上たちがすねると言われれば、義勇にだって否やはない。
 あの子――杏寿郎の両親のことを義勇だって心から尊敬しているし感謝も尽きないが、ときどき大人げないのがなんともはや。実際、年に二度だけではとうてい足りないとばかりに、今年の春休みには義勇の両親の墓参りにと父の槇寿郎を筆頭に母の瑠火、弟の千寿郎……ようは煉獄家総出でやってきた。一同を引き連れた杏寿郎の笑顔が、ほんのちょっぴり引きつっていたのは言うまでもない。
 当然、義勇の四畳半のアパートに煉獄家四名が泊まれるはずもないし、まだ新婚気分抜けやらぬ蔦子の家にお邪魔するのもなんだからと、杏寿郎以外は日帰りだ。しょんぼりするのを健気にこらえ笑顔になろうとしていた千寿郎の姿には、義勇も胸が痛んだ。ゴールデンウィークには絶対にそっちに戻りますと約束したら、千寿郎だけでなく、槇寿郎や常日ごろ冷静そのものな瑠火までもが満面の笑みになったものだ。
 ついでにちゃっかりと家族旅行への同行まで押し切られ、蔦子を除く以前のメンバーうちそろい熱海で一泊したのは記憶に新しい。思い返せば義勇の二十年未満の人生のなかでも、とびきり賑やかかつ忙しない休暇だった。
 ゴールデンウィーク初日には煉獄家でのんびり過ごし、翌日は宇髄たち友人一同に千寿郎や不死川の弟妹たち、宇髄の彼女らもまじえてのけっこうな団体様で動物園。とどめに煉獄家プラス義勇で熱海に一泊の家族旅行。あんなにも遊び倒したのは中三の夏以来だ。
 そのいずれも杏寿郎は義勇の隣りにいた。なのに義勇が足りないと、熱海で別れて帰宅する義勇にしっかりとついてきたのだから、槇寿郎が「すまんな、義勇。馬鹿息子をよろしく頼む」と苦虫を噛みつぶしたような顔になったのもしかたのないことだろう。
 ゴールデンウィークなんてアルバイトにとっては稼ぎ時だろうにとたしなめる気は、義勇にもなかった。義勇だって生活費はバイトでまかなっているから正直痛手だったし、書き入れ時に休む申しわけなさもあったが、いいよと言う以外選択肢なんてない。
 だって一緒にいたかった。ずっと一緒でも恋人としての時間はなかったからと言われれば、三日間のお泊りを断る理由など存在しなかったのだ。
 稼ぎを不意にしようとも義勇は了承すると見越してか、有無を言わさぬ静かな圧を込めて瑠火が杏寿郎が滞在中の食費にと手渡してきた封筒も――三日ぶんで四万入っていた。いくら大食漢な杏寿郎でも多すぎだ――断れなかった理由に含まれるが……半分は杏寿郎が出していたのには、やっぱり呆れる。というか、頭が痛い。

 俺が出したら義勇は受け取らないに決まっているが、母上からなら断れないだろう? だと? そのとおりだ。予測できなかったとはなんたる不覚、未熟者め。食費なんてほとんど使わなかったのに、返金させてくれないし。食事は買い置きのインスタントばかりで家から出ず、大半の時間布団と風呂の往復……思い出すんじゃない、未熟者め。

 赤裸々な記憶を頭から追い出すべく、義勇は機械的な仕草で七味唐辛子に手を伸ばした。うどんに振りかける手は八つ当たりめいて、常になく少々乱暴だ。
 とにもかくにも、そんなふうにときおり我慢が効かなくなることはあれど、基本的に杏寿郎は品行方正な高校生といえよう。逢えない週末は義勇同様に杏寿郎もバイトに勤しんでいる。インターハイ後には部活も引退したから、休日や放課後にシフトに入れる時間が増えたと笑っていた。
 離れていても、杏寿郎の日常を義勇はすべて把握している。毎日スマホに届くメッセージと、週末の夜に電話越しに交わす会話で、杏寿郎が伝えてくれるから。
 それをどれだけ義勇が楽しみにしているか、杏寿郎はきっと、義勇自身よりも深く理解している。
 生徒会長への推薦は断固拒否したと言っていたが、もったいない話だ。面倒見がよく誠実で、誰に対しても公正な子だから、いい会長になっただろうに。
 とはいえ生徒会の仕事まで加われば、体力おばけかというぐらいタフな杏寿郎でも、さすがに体を壊しかねない。そうなれば、義勇は月一の来訪すら断固として拒んだだろう。
 そうして寂しさを無理やり押し殺し、一人で膝を抱えるのだ。そんな自分の姿は簡単に想像がつく。我ながら暗い。
 杏寿郎の主張はそれを見越してだと理解できてしまうから、義勇もあまり強く出られないでいる。

 生まれ故郷とはいっても、義勇がこちらに住んでいたのは五歳までで、知り合いなどほぼいない。元来口下手で人見知りでもあるから、新しい友達を作るにも時間がかかる。
 錆兎と真菰、それにこちらで新婚生活を始めた姉夫婦ぐらいしか頼れるものがいない新生活は、マイペースな性分の義勇にもそれなりにこたえた。
 なまじ向こうにいたころは友人にも周囲の大人にも恵まれて、暮らしは裕福でなくとも心豊かでにぎやかな日々だったから、一人きりの小さな部屋がずいぶんと寒々しく感じられたものだ。
 杏寿郎にはきっと全部お見通しなんだろう。義勇が寂しくないように、我慢しないようにと、毎月新幹線に飛び乗り満面の笑みで逢いにくる。
 本当に、よくできた犬だ。忠犬もここに極まれり。
 
 難点をあえて挙げるとすれば頑張りすぎるところだと、うどんをもぐもぐ噛みしめながら義勇はちょっぴり眉を寄せた。それと、義勇に関してだけは妙に心が狭いところも、どうかと思わないでもない。
 もう少し言っていいなら、若さゆえなのか体力が有り余っているのか知らないが、元気すぎるところも、ちょっとだけ困るというか、なんというか。
 ……七味唐辛子をかけすぎた気がする。辛い。なんだか顔が熱くなってきた。錆兎と同じ秋鮭丼にすればよかったかもしれない。

「でもアイツ受験生だろ? 大丈夫なのか?」
「息抜きも大事だからって押し切られた。模試も毎回A判定だから大丈夫だって言ってる」
「へぇ、頭いいんだねぇ。ね、どこか行くの? クリスマスだもんね、絶対にあのワンちゃん張り切ってるでしょ」
「ワンちゃんって言うな。……ドライブする。イルミネーション見に行こうって言ってた」

 おぉーっ、とそろってあがる声には、わずかながら冷やかすひびきが混じっている。嫌悪や蔑視などかけらもない声や表情に感謝もするし安堵もするが、からかうのはやめてほしい。色恋沙汰など慣れちゃいないのだ。想ってきた時間の長さに対し、恋人として過ごした時間はまだまだ少ないのだから。
 それでもデートじゃないと反論しなかったのは、二人に嘘をつきたくないだけでなく、自分もちょっと浮かれているせいかもしれない。
「レンタカーか? なんなら俺の車貸すぞ?」
「錆兎たちもどこか行くんじゃないのか?」
「私たちはまったりおうちデート。クリスマスは楽しくて好きだけど、どこ行っても人が多いのが嫌だよねぇ」
 少しうんざりした声音で真菰が言うと、錆兎の顔にわずかばかり苦笑が浮かんだ。
 もしかしたら真菰に言わなかっただけで、錆兎もクリスマスだからとデートプランを立てていたのかもしれない。持ち上げた丼の影からちろりと視線を投げれば、以心伝心。錆兎の眉根がキュッと寄って、余計なこと言うなよという視線が返ってくる。
 答える代わりに義勇は、丼に残った汁をグイッと飲み干した。即座に真菰の手が伸びてきて、また口元を拭われる。

 本音を言えば真菰の言には同感の一語だけれども、口にはしないでおく。
 前回のお泊りで切り出されたクリスマスの予定に、人混みに出るのはと義勇が口ごもったとたん、杏寿郎がいかにも悲しげに言葉に詰まったあとすぐに「たしかにクリスマスじゃどこも混んでるな! いつもどおり家にいようか!」と空笑いで言ったのを思い出したので。

 眉が一瞬だけへにゃりと下がり、ごまかすように笑ってみせたわりには、声がちょっぴり上ずってやせ我慢がみえみえだった。そんなふうに笑われては、嫌なわけじゃない楽しみだと答える以外、義勇になにが言えようか。
 たちまち「本当か!? 当日のプランは任せてくれ! 義勇と行きたいと思って調べたのだ!」と、見えないしっぽをブンブン振りまわしているのが感じられるほど喜色をあらわにするから、胸がキュンとしたことまで思い出してしまった。
 錆兎や真菰になにかもの申せば、そんなあれこれも口にせざるを得なくなる。口下手な自分の口さえをも軽くしてしまう人というのはいるものだ。目の前の二人がまさにそうだし、筆頭は杏寿郎である。
 杏寿郎の場合、日ごろは圧の強さによってだが、雨の日に捨てられた子犬のような眼差しで見てくるギャップも大きい。卑怯だ。あんなの強く出られるわけないじゃないか。
 脳裏に浮かぶキュンキュンと鳴くすね顔に、思わず頬がゆるみかけた義勇は、すぐに少しうつむいた。

 楽しみなのは嘘じゃない。逢いたいのは自分だって同じだし、初めて二人きりで過ごすクリスマスにソワソワともしている。
 今までは煉獄家に招かれたり、宇髄たちも一緒に遊ぶのが常だった。そのころはまだ、お互いを言い表す関係は幼馴染だとか友人としか言いようがなかったので、しかたのないことかもしれないけれど。だけど今は恋人同士なのだ。クリスマスなんて絶対に外せないイベントではないか。
 去年のクリスマスだって本当は、二十五日には逢えるはずだった。なのに、インフルエンザで義勇がダウンしてしまったせいで、予定は全部中止だ。逢うことすらできなかった。当然、看病に行くと電話口でわめかれたが、そんなことさせられるはずもない。
 姉さんのところで世話になるから来るなと言い聞かせた義勇の声音は、我ながらいつも以上にぶっきらぼうで少し気だるげに聞こえた。だからだろう、杏寿郎が了承するまで長くはかからなかった。
 ここで揉めて義勇の病状を悪化させるわけにはいかない。杏寿郎はきっとそう考えた。それでも電話越しに「わかった、お大事に」と告げる声は、なんだか泣き出しそうだった。
 義勇も本当は泣きたかった。だって、恋人になって初めてのクリスマスだったのだ。気恥ずかしさが先に立ち素直に好きだと口にするのは稀だけれど、義勇だってちゃんと杏寿郎が大好きで、できることならいつだって一緒にいたいと思っている。
 熱に浮かされているときには、実際にちょっと泣いた。逢いたくて、そばにいないのが寂しくて。

 まぁ、そのぶん、あちらにお邪魔した正月にはべったりくっつかれて、ちょっとばかり難儀したけれども。

 いや、くっつかれているのはべつにいいのだ。ギュウギュウとたくましい腕で抱きしめられるのは、照れくさいけれどもうれしいし幸せだ。でも、ご両親やらまだ小学生の弟の前でもべったりというのは、いかがなものか。

 うんうん、寂しかったな。約束守れなくてごめん。そう言って甘やかしてやれたのは、一時間が限界だった。義勇にしてみれば、よく我慢したと自画自賛したいぐらいである。
 正月早々に――といってもあちらに行けたのはギリギリ松の内という日付だったけれど――平手打ちしたのは、ちょっとだけ悪かったかなと思わなくもないが……まぁいい。しつけは大事だ。どんなにかわいくても、ご家族の前でキスなどしかける駄犬には、鉄拳制裁も辞さない構えでいなければ。でないとあのワンコは元気がありあまりすぎてて……ちょっと……うん。
 
 思考がまたもやあらぬ方向に流れかけた。まだ昼だ。そういうことを思い出すには、時間も場所も不似合いすぎる。
 杏寿郎を思い浮かべるのはいつのものことだが、TPOはわきまえるべきだろう。自重しているはずなのだけれども、最近はとみに怪しい。
 理由は義勇も自覚している。クリスマスが近づいてきているからだ。楽しみすぎてというだけならいいのだけれど、それだけではないから厄介だ。
 向かいの席で楽しげにクリスマスの話題に興じている二人は、ふと義勇の顔によぎった陰りには気づかなかったようだ。聞かせたい話ではないから、義勇は常の無表情をあえて保つ。
 不甲斐ない。こぼれそうになるため息をふたたび飲み込んだそのとき、知り合いの声が聞こえてきた。

「みんな、ここにいたのか。冨岡、親父からオーケー出たぞ。当日の昼からでいいんだよな?」
 そろって視線を向ければ、気のいい同級生が栄養ドリンク片手に近づいてくる。
「村田くん、なんか顔色悪くない? 目の下の隈、すごいよ?」
「よぉ。マジでひどい顔してるな。大丈夫か?」
「ありがとうございますと伝えてくれ。体調悪いのか? うん」
「まとめて返事すんな。わけわかんないから」
 村田の声や足取りはいかにもお疲れ気味だ。浮かべた笑みもなんだか妙に力ない。いつもはサラサラツヤツヤとした髪すら、今日はキューティクル控えめである。めずらしいこともあるものだ。
「風邪?」
「んにゃ、先輩につかまってオールで麻雀つきあわされた……」
 義勇の隣に腰を下ろした村田は、げんなりと言ってため息をつく。本気でお疲れモードだ。
「……タバコ臭い」
「マジで? うわぁ、ごめん。あっちの席行くわ」
 あわてて立ち上がろうとするから、義勇はとっさに村田のパーカーの裾を掴んだ。

 気のいい同級生を恐縮させてしまった。こういうところが自分はなっていないのだろう。錆兎たちが幼いころと変わらぬ扱いをしてくるのも当然かもしれない。

「いい。ここにいろ」
「……あのさ、冨岡。俺だからいいけど、そういうのほかの奴にすんなよ?」
 焦って口早になった義勇に、村田はしみじみとそんなことを言う。なぜだか錆兎や真菰まで神妙な顔でうなずいていた。
「そういう?」
「だから、そういうの。あざといわぁ」
 コテンと小首をかしげれば、いよいよ村田は遠い目をする始末だ。解せぬ。
「天然だからヤバイよねぇ」
「まぁな。よく今まで無事でいられたもんだ」
 真菰と錆兎までそんなことを言い出すのだから、ますますわけがわからない。
 怪訝な顔をした義勇に錆兎が苦笑し、真菰はコロコロと軽やかに笑った。
「ちょっと悔しい気もするけど、杏寿郎くんには感謝しなきゃねぇ。ね、義勇」
 真菰が感謝する理由はよくわからないが、賛同の意をごまかす必要もない言葉だ。
「うん」
 知らずホワリとはにかみ笑った義勇を、村田がぎょっとした目で見つめてくる。
 視線に気づき見返せば、目があった村田の顔はなぜだかやけに赤い。やっぱり風邪を引いたんじゃなかろうか。
 心配になって少し眉根を寄せたら、錆兎が感に堪えないと言わんばかりのため息をついた。
「本当に、杏寿郎にはいくら感謝してもし足りないな」
「だよねぇ」
「日ごろ無表情だから威力がすごいな。あんまり人前で笑うなって言われてるって聞いたときには、なんのこっちゃと思ったけど、大正解だ。冨岡、ほんと気をつけろよ?」
「うん?」
 なんのこっちゃとはこっちのセリフだ。思うけれども、問うほどのことでもない。
 ようは杏寿郎は正しいと言われたってことだろう。やっぱり杏寿郎はすごい。賢い。
 なんだかちょっと明後日の方向に思考は変換されて、義勇はうれしくさえなる。

 最初に言われたときには、義勇もどうしてと少し反発もした。当然だろう。自分がいないときに人前で笑うのはよくないなんて忠告を、すぐさま納得などできるわけもない。
 けれど、ほかの友人たちや姉をはじめ大人たちも、こぞって杏寿郎に同意するし、なにより杏寿郎がとんでもなく心配そうな顔をしていたから。ならば義勇があえて逆らう理由などありはしないのだ。
 言われるまま素直に、一人でいるときにはあまり笑みを浮かべないよう気をつけたら、お年寄りや子供以外から道を聞かれることが減った。面白いところに連れて行ってあげると誘ってくる人も、ほぼいなくなった。だからきっと、杏寿郎は正しい。

 人見知りで口下手なものだから、知らない人に声をかけられるのは少し緊張する。幼いころはなおさらだった。それでもお年寄りや小さな子ならば気にならない。お兄ちゃんありがとうと感謝されたり、いい子だねぇと褒められるのは、ちょっぴり気恥ずかしさはあれどうれしかった。だがお使いなどで義勇が一人きりでいるときに声をかけてくるのは、義勇が困惑し緊張してしまうタイプの人が多かったのだ。
 道に迷って困っていると言うわりには、説明を聞いているんだかいないんだかやたら義勇をジロジロ眺めまわすばかりの人や、見ず知らずなのに手を握ったり肩を抱こうとするやけにフレンドリーな人。そんな人たちにはどうしたらいいのかとオロオロとしてしまう。きみ本当にかわいいねなんて言われるのも、なんと答えていいのかわからない。こんなことを言っちゃいけないとも思うが、ニヤニヤと笑う顔がなんだかこう、胡散臭いというか気持ち悪いというか……あまり近くにいたくない雰囲気がビシバシとする人ばかりなのだ。
 困っているのならば助けてあげなければと思うし、親切で言ってくれたものを拒むのだって申しわけないと思うけれども、知らない人についていくわけにもいかない。なによりあまり近づきたくない。言い方は悪いかもしれないが、生理的に無理、この一言に尽きる人たちが本当に多かった。
 しかしながら、気を悪くされぬよううまく断るのは、まだ幼かったころの義勇にはずいぶんとハードルが高かったのだ。
 笑顔でいれば声もかけやすかろう。杏寿郎はきっと、義勇が困っているのなんてお見通しだったに違いない。いつだって目ざとく義勇を見つけすっ飛んできては、困っている人を放おっておけないとばかりに大きな声を張り上げ
「なにかご用ですか! お困りなら俺が交番まで送っていきます! おまわりさんは父上の知り合いなのでご安心ください!」
 と、言ってくれた。おかげでいつでも義勇はお役御免。早足で去っていく人の背中に、ホッと胸を撫でおろしたものだ。
「大丈夫だったか、義勇っ! お使いなら俺も一緒に行こう!」
 そう言って手をつないでくる杏寿郎の笑顔の頼もしかったことったら。
 つくづく杏寿郎は、年下だなんて思えぬほど頼れる男の子だ。

 それでも、義勇が年上であるのに違いはない。出逢ったのが五歳と四歳だったからか、いまだに義勇の心には、舌足らずで自分よりも小さな体をした杏寿郎が棲んでいる。
 今では背丈はほぼ同じなうえ、体格的には杏寿郎のほうが義勇よりもよっぽどたくましいのだが、義勇の目には今でもかわいく映るのだ。
 幼かった義勇のよりさらに小さなふくふくとした手で、義勇の手をギュッと握り、姫を守るナイトめいて振る舞う杏寿郎は、ほんとうに愛らしかった。
 ふと記憶の底から浮かび上がってきたのは、出逢ったその日に、杏寿郎の家でごちそうになったココア。思い出したとたんに自分でもわかるほどに頬がゆるんで、義勇は面映ゆさをこらえ少しうつむいた。
 いま鏡を覗けば、自分の顔は絶対にとろけきっているはずだ。恥ずかしくて人に見られたいものではない。けれども思い出はやさしすぎて、頭から消えてはくれなかった。