にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 5の1

 杏寿郎が殊勝な顔をして宇髄のマンションを訪ねてきたのは、去年の七月だ。
 宇髄は、ようやく来たかとちょっと呆れもしたし、なんだか少しばかり愉快にもなった。気負いまくった杏寿郎の顔はやたらと赤くて、どこかの誰かさんが以前たずねてきたときと、まったく同じだったので。

 そのころにはもう、義勇はこの町にはいなかった。生まれ故郷にある大学に進学し、四月からそちらで一人暮らしを始めていた。
 義勇が希望する進学先を聞いたとき、周りは当然驚いたし、心配もした。宇髄だって同じことだ。
 だって、ほかの誰かならいざ知らず、義勇である。冨岡義勇といえば煉獄杏寿郎。煉獄杏寿郎といえば冨岡義勇。とにかく義勇と杏寿郎は二人でワンセットというのが、みなの認識だ。
 それなのに、杏寿郎がいるこの町を離れ一人で暮らすなど、義勇にできるのか。心配というよりもむしろ、ありえないとの混乱のほうが大きかったかもしれない。
 不死川と別のクラスになるよりもはるかに、義勇と杏寿郎が離ればなれになることのほうが、信じがたかった。天変地異どころか、地球が終わるんじゃないかと、大なり小なりみんな不安になるぐらいには。
 宇髄も馬鹿馬鹿しいと思いつつ、非常時用の防災セットなんぞを、つい買ってしまっている。備えあれば憂いなしと言うし、まぁ、あって困るもんじゃないし。なんとなく自分に言い訳しながら、彼女たちのも含めて四人分。今のところ出番はない。ありがたいことだ。
 それはともあれ。

 なんでまた地方へ? との疑問については、義勇の姉、蔦子の結婚が決まったとの報告で、ひとまずみな納得した。嫁ぎ先は義勇たちの生まれ故郷であり、そこに義勇が希望する大学はあったのだ。
 義勇の筋金入りな姉さんっ子っぷりは、周知の事実である。大学生になるってのに、まだ姉ちゃんと一緒にいたいのかよと、ちょっと呆れはしたけれども、義勇ならばありえる理由だ。なにしろ、蔦子は義勇にとっては唯一の肉親で、五歳のころから二人肩寄せあって暮らしてきたのだから。
 それでも、まだ疑問や不安は残った。
 だって、義勇なのだ。繰り返すが杏寿郎と二人で一揃い。ペア。靴が二つそろって一足なように、義勇と杏寿郎は二人そろっているのが当然。そんな周囲の共通認識以上に、当の本人たちがそれを信じているだろう。
 なのに、誰よりも早く義勇の決断を受け入れたのは、杏寿郎だった。
 おそらくは、いや、絶対に、やせ我慢だっただろうけれども。

 ともあれ、義勇は無事受験にも合格し、四月になって姉が嫁いだ翌日に、一人暮らしのアパートへと引っ越していった。宇髄が運転する軽トラで、ワイワイと仲間みんなそろってだ。
 荷物なんてほとんどないと義勇は遠慮したが、それでも姉と一緒に使っていた洗濯機やテレビ、冷蔵庫など、業者を使わねば持っていけないものはそれなりにある。ダチから軽トラでも借りて俺らで運び込めば、タダじゃねぇかとの宇髄が提案したのに、諸手を挙げて賛成したのは、もちろん杏寿郎だ。
 そして当然のごとく、杏寿郎が引っ越しを手伝いたい、義勇の住む場所をこの目で確かめたいとおねだりすれば、義勇が断れるわけがない。
 結果、宇髄が運転する軽トラの助手席に伊黒、荷台に義勇と杏寿郎、そして不死川という、良い子は真似しちゃ駄目だぜなドライブとあいなった。
 言うまでもなく、軽トラの荷台に乗っていいのは一人だ。伊黒と不死川が一緒でなければ、定員ピッタリ。荷運びだって三人いれば充分人手は足りる。それでも、晴天だというのに荷台をブルーシートで覆って隠れるようにしてまで、伊黒や不死川が同行したのは、杏寿郎のたっての頼みだったから……だけとも、言いがたい。
 ようは、伊黒たちだって心配だったのだ。ポヤポヤとマイペースで、仲間内では最年少の杏寿郎を差し置き、末っ子扱いな義勇が。いったいどんな場所で暮らすのか、この目でちゃんと確かめたいというのは、杏寿郎と大差がなかったのである。当然、宇髄も含めて。

 到着し、ブルーシートで覆った荷台から降りた義勇と杏寿郎は、めったにない体験に楽しげだったが、不死川はチベットスナギツネもかくやというありさまだった。
 人間の目って、こんなにも死ぬことあんだな。宇髄の感想もむべなるかな。半目開きの無の表情は、ドライブのあいだじゅう、逃げ場のない走るトラックの荷台での苦行を如実に物語っていた。

「アイツラはイチャついてねぇと死ぬ生き物だから、しょうがねぇんだ……ピッタリくっついてねぇと干からびてミイラになるに違いねェ……」

 怒鳴る気力も残っていないのだろう。お疲れ、と苦笑しつつ肩を叩いた宇髄に返ってきた不死川の声は、いっそ宇宙の真理でも悟ったかのようだった。お気の毒さまとしか言いようがない。
 青く狭い密室。揺れて不安定な場所。なにより、明日から離ればなれという、恋人になりたてな杏寿郎と義勇にとっては、めったにないシチュエーションも相まって風変わりなデート気分だったんだろう。不死川の存在を、うっかり忘れるほどに。
 見ずとも宇髄の目にだって簡単に思い浮かぶ。それでなくともあの二人のことだから、横並びでおとなしく座っているわけがない。
「ふん、どうせ奴らのことだ。揺れるからこっちになど言って、杏寿郎が冨岡の背もたれよろしく、抱っこでもしたんだろう。それだけで終わっておけばいいものを、また冨岡が「これじゃ杏寿郎の顔が見えなくて寂しいな」だのなんだのとくだらんことを言い出したに違いない。そうなれば杏寿郎が「ならこうしよう」とかなんとか言って、向い合せで膝に冨岡を乗せるに決まっているからな。まったくくだらない、くだらない」
 壮絶なジャンケンで助手席を勝ち取った伊黒が、安堵に加えて憐れみと苛立ちまで器用に混ぜた顔をして、滔々と宣った状況は、まさしくそのとおりだったんだろう。不死川のこめかみに、ピキリと青筋が浮いた。
「デコくっつけあって、寂しいけど我慢するだのいい子だなだのと言いあった挙げ句に、デコだのほっぺただのにチューしあうってのも、追加しとけェ。気づかねぇフリするこっちの身にもなれってんだァ」
「チューって、おまえさん顔に似合わず言い方派手にかわいいな、おい」
「就也や弘のが移ったんだよっ! ドラマでそういうシーン出るたび、チューしたチューしたってうるせぇったらよォ……」
 げんなりとボヤく不死川の声を遮るように、杏寿郎の快活な声がひびいた。
「部屋は二階の真ん中だそうだ! 荷物を運び入れる前に掃除をしてしまおう!」
「了解。あ、煉獄。おまえはレンジや洗濯機に触んじゃねぇぞ。派手に壊しそうだからな」
 ビシリと指差して言った宇髄に、杏寿郎の眉根がグッと寄せられた。いかにも重々しげにうなずき、わかったと答えるまで、沈黙は三秒間。

 運ぶだけで壊れると思われているのは、どうにも腑に落ちん。だが、もし本当に壊れたら義勇を困らせてしまう。力仕事の役に立てないのは不甲斐ないかぎりだが、洗濯機が壊れ義勇がコインランドリーへ行く羽目になるよりはマシだ。義勇が洗濯したシャツやら下着がぐるぐる回るのを、不埒な目で見る輩がいないともかぎらん。それは阻止せねば! 無念だが致し方ないな。

 三秒の間に杏寿郎の頭を巡ったのは、こんなところだろう。
 杏寿郎のいかにも無念そうな苦悩顔に、不死川だけでなく、遠距離恋愛開始前日の恋人同士がイチャつく空間に同席という窮地を脱したはずの伊黒まで、半目開きの虚無顔だ。伊黒と不死川にも杏寿郎の思考は筒抜けだと、二人の表情が物語っている。砂を吐き出さないだけマシといった風情だ。
 一方で、無自覚にはた迷惑なイチャつきカップルの片割れである義勇はといえば、不死川たちの虚脱っぷりなどまるで頓着することなく、黙々と荷台からバケツやら箒やらをおろしていた。マイペースにもほどがある。

 まったくもって、これだからコイツラとのつきあいはやめられない。派手におもしれぇったらありゃしねぇ。

 吹き出しそうになるのをどうにかこらえ、宇髄は、さっさと一人で階段へ向かう義勇をちらりと横目で見送りながら、杏寿郎にさり気なく近づいた。肩を抱き、小さな声で話しかける。
「掃除しながらご依頼の件に取りかかるからよ。冨岡と二人で、コンビニでも行ってこい。ホレ、引越し祝いの蕎麦代な。ここは全員分、俺様が派手に奢ってやんよ」
 取り出した万札を一枚振って言えば、不死川と伊黒の目に光が戻った。
「うむ。義勇は知ればきっと、そこまで心配がられるのかと落ち込むだろうしな。面倒をかけるが、よろしく頼む! だが、奢りは無用だ! 頼んだのは俺だからな! その金はしまってくれ、俺がみんなの分も出そう!」
 真剣な顔から一転、パッと笑顔になって言う杏寿郎に、宇髄は軽く肩をすくめた。
 こういうところが、杏寿郎と義勇はよく似ている。というよりも、金銭面にキッチリしている義勇の影響であるのは、間違いない。
「まぁ、心配しすぎって気はしねぇでもないけどな。オラ、遠慮せず受け取っとけェ。テメェはどうせこれから、何度もこっちに来るつもりなんだろうがァ。無駄遣いしてんじゃねぇよ、高校生。宇髄、あとで俺と割り勘なァ」
「……ふん。ここでグズグズしていたら、いくら薄らぼんやりの冨岡でも怪しむかもしれないぞ。俺たちが割り勘したあとの、百円単位の端数をおまえが持つということで納得しろ、杏寿郎。宇髄、金は帰ってからでいいな?」
「だとよ。ホレ、冨岡が呼びに来ちまうぞ。あ、飲みもんも頼まぁ。今日はけっこう暑いし、多めにな」
 言いながらひらひらと紙幣を振り、宇髄はニヤリと杏寿郎に笑いかけた。
 杏寿郎の顔は、なんとも言えず複雑そうだ。だが、不死川や伊黒への反論が見つからなかったのだろう。心なし未練ありげにうなずいた。
 財布に札をしまう手付きも、なんとなく落ち込んでいるように見えて、宇髄たちは、おや? と無言のまま視線を見交わした。杏寿郎は思考を切り替えるのが早い。だというのに、めずらしいこともあるものだ。
 思わずまじまじと杏寿郎を見つめた三人の、キョトンとした目に気づいたのだろう。杏寿郎が、あ、いや、と少し言いよどみながら頬を赤らめた。
「俺ができる家事は掃除くらいだからな。荷物も運べないとなると、義勇の手伝いができるのは掃除だけなので……その……。いやっ、すまん! こうしていても時間がすぎるばかりだ、ありがたく甘えることにしよう!」
 チベスナふたたびな不死川と伊黒をしり目に、宇髄はとうとうブファッと吹き出した。
 一瞬ポカンとした杏寿郎の顔が、さすがにこれは子供じみているとでも思ったのか、ますます赤くなる。宇髄は心底愉快になって、ケラケラと笑った。

 本当に、この純粋さは見ていて飽きやしない。子供と大人の端境期にある、無闇矢鱈な反抗心すら無縁な少年の一途な恋は、見ているとちょっぴりむず痒く、たいへん微笑ましく、ほんの少しうらやましい。

「はいはい、そりゃ派手に大事だわ。んじゃ、掃除はとりあえずみんなでやるか。おまえさんが手伝えねぇ荷運びのあいだに、買い物に行きゃあいいだろ。俺さまと不死川で大物運んでるあいだに、伊黒が調べる。オーケー?」
 杏寿郎の肩を抱いたまま、宇髄が洒脱な仕草で二人へと視線をやれば、不死川はひょいと肩をすくめ、伊黒も小さく鼻を鳴らしうなずいた。
「妥当だなァ」
「まったく、しょうもないことで時間を無駄にするんじゃない。サッサと手伝いに行け」
 顔の熱が下がらぬまま、杏寿郎が少しばかり恥ずかしげに、それでも満面の笑みでうなずいたのと同時に、タイミングよく階上から義勇が顔をのぞかせた。
「杏寿郎、俺が窓を拭くから、畳拭いてくれ」
「わかった! 今行く!」
 タッと駆けていく杏寿郎の後ろ姿は、まるでご主人さまの声にブンブンとしっぽを振る犬のようだ。置いてけぼりとなった宇髄たちは、なんとなく顔を見合わせ、誰からともなく小さく笑った。

 義勇の新居はなんと、今どきめずらしい四畳半一間の、いかにも古いアパートだ。しかも、六畳の部屋に無理やりユニットバスをぶちこんでリフォームしたという、奇妙な作りである。
 それでも義勇は、室内に洗濯機置き場があるし、一口の電熱コンロとはいえ台所だってあると、なんだか自慢げだった。
 いや、台所はともかく、室内洗濯機置き場のせいでさらに部屋狭くなってんじゃねぇかよ。不死川のツッコミはもっともだ。
 だが、聞けば賃料は管理費込みで月一万千円というから、狭さも使い勝手の悪さもしかたないかと思わざるを得ない。どこで探したんだよ、ある意味希少価値だろと、宇髄までもがちょっぴり遠い目をしたけれども。

 ともあれ、狭い四畳半に男五人も詰め込めば、掃除もなにもない。掃除は新米カップルと伊黒に任せ――今度も壮絶なジャンケンの末に、なぜ俺は最後パーなど出したんだっ! との盛大な後悔つきだったが――宇髄と不死川は、軽トラの荷を解く係にまわった。伊黒のMPが0になる前に、掃除が終わりゃいいけどと、宇髄はクツクツと楽しげに笑う。
 大柄な宇髄はジャンケン免除だ。義勇や杏寿郎も百七十代後半という身長なので、高い場所要員も必要はない。デカすぎてかえって邪魔というみなの言い分はともあれ、さすがの宇髄も無自覚なイチャつきが炸裂する狭い空間で、一人黙々と掃除する自信はないのだ。避けられるものなら避けて通るが吉ってなもんである。
 まぁ、宇髄の場合は、二人のイチャつきを目にしたら、爆笑しかねないからだったりするのだけれども。明日には離ればなれになる二人のおじゃま虫になるのは、宇髄にとっても不本意だ。無にならんとする不死川や伊黒のほうが、こういう場合は適任ってものだろう。

 階段脇に敷いたブルーシートの上に、不死川と二人で荷物をおろす。
 ジャンケンの結果とは言え、受験が終わってすぐに運送会社でバイトを始めた不死川が残って、正解だ。非力な伊黒では、宇髄との身長差も相まって、洗濯機などを運ぶには不向きだ。
 引っ越し荷物の運送も請け負うだけあって、不死川は冷蔵庫や洗濯機の運搬にも、多少は覚えがある。面白がりで仲間内では様々な経験豊富な宇髄でも、洗濯機を運ぶ際の注意点など、さすがに知らない。
 賃貸物件なのに玄関だのを傷つけるわけにいかねぇだろうがと、養生のしかたも社員たちから教わってきたという不死川は、なんだかんだ言ってやっぱり面倒見がいい。
「冨岡の引っ越しを手伝うっつったら、あれも持ってけこれも持ってけって、みんなして仕事道具渡してきやがんだ。引っ越しの依頼が多い時期だろうによォ」
「そりゃまた、愛されてんねぇ。ま、おかげで費用は軽トラのガソリン代ぐらいで済んだんだから、派手によかったじゃねぇか。段ボールすら買う必要なかったもんな」
 養生テープやらキルティングマットだけでなく、ドライバーやカッターといった工具にいたるまで、引越しに必要なものはほぼすべて、不死川のバイト先であり蔦子の元勤め先からの借り物だ。衣服などを梱包する段ボール箱も、杏寿郎の家で行われた蔦子の結婚式に出席した社長夫妻が、式の後で義勇に渡してきたものである。いたれりつくせりとは、このことか。
 蔦子ちゃんよかったなぁ、本当によかったと、式のあいだじゅう男泣きに泣いていた厳つい社長の泣き顔を、なんとはなし宇髄は思い浮かべる。一人暮らしを始めたマンションが近いこともあって、ときどき宇髄は、残業で遅くなった蔦子を送ってきてほしいと頼まれることもあった。十時を越えると、蔦子は義勇と杏寿郎の迎えを頑として断るので。
 どんなに大きくなって、どんなに強くなったって、義勇と杏寿郎は蔦子にとって、いつまで経っても守るべき存在なのだろう。

 女性である蔦子姉さんのほうが、よっぽど夜道は危険だというのに、危ないからこんな夜遅くに出歩くなんて駄目と言われてしまうのだ。

 だから頼む! と、杏寿郎と義勇が情けなさげに眉を下げて頼み込んでくるものを、無下に断るなど、薄情がすぎる。送迎ドライバーを仰せつかりましたぁと、運送会社に顔を出すことがままあった宇髄も、社長夫妻とは顔馴染みだ。
 誰の目にも美しい蔦子と二人、夜のドライブ。それなりに役得。なんて。派手に彼女たちが嫉妬しそうなシチュエーションだというのに、三人とも悋気などちっとも見せなかったのはありがたい。一番年下の須磨にいたっては、あんなに美しいお姉さまと二人きりなんて、天元様羨ましすぎますぅ! と、逆に宇髄にプンプンと頬をふくらませる始末だ。地味に複雑な気分になったものではあるが、それはともあれ。

 寂しくなるなぁ、風邪引くんじゃないぞと、やっぱり泣きながら社長が義勇にドサッと渡した段ボールは、正直多すぎて余りまくり、宇髄がありがたくいただいた。ちょっとばかり興味があった段ボールアートに手を出す、いいタイミングだったと思う。
 遊びでしかないので、気が済むまで作ったら、派手に燃やしてしまうつもりだけれども。ド派手なキャンプファイヤーだ。一人きりでは、虚しいかもしれないが。

 今年のキャンプは、はたしてできるのか。在宅ワーカーで自由が効く宇髄と違い、ほかのメンツは環境が違った今年、予定を合わせるのはむずかしいかもしれない。
 不死川はバイトと、伊黒は卒業前に開発したアプリをきっかけに起業し、どちらも大学生との二足のわらじで忙しくなるだろう。地元を離れる義勇は言わずもがなだ。杏寿郎だって、義勇に逢いにくるためにバイトを始める予定だし、みんなで去年までのように遊ぶ時間は減るだろう。
 取り残されるとか、寂しいとか。そんな地味で鬱陶しい感情は、持たぬが花というものだろう。面白がりが宇髄の信条だ。変化を拒むようでは人生なんて楽しめやしない。
 それに。広い世界に飛び立つ仲間が、帰ってきて羽を休めるための大樹となるのも、なかなかに愉快ではないか。宇髄の世界は、彼らと違って室内でだって広がっていく。アートという名の自由な空を飛べる。

 それでも少しばかりしんみりとしかけた宇髄だったが、聞こえてきた声に、かすかな寂寥などすぐに放り捨てた。
「掃除終わった。荷物運んでくれ」
「おぅ。その前に、玄関とか養生しねぇと駄目だとよ。だろ?」
 ふたたび階上から顔を出した義勇を仰ぎ見て、宇髄は軽く手を振り不死川に視線を移した。
「まぁなァ。おいっ、煉獄。俺らが荷物運んでやっから、飯買ってこいやァ」
 義勇の背中にピッタリ張り付く距離で、やっぱり階下を見下ろしてきた杏寿郎が、不死川の声にパチッと大きな目をまばたかせた。
「うむ! わかった! 義勇、近くの店を調べておいたほうがいい、一緒に行こう!」
 不自然さのない流れだ。義勇も疑問を持った様子はない。白物家電を杏寿郎に触れさせたくないのは、義勇も同じだろう。二人で買い出しは渡りに船と思ったのかもしれなかった。
「おい、冨岡。引っ越し祝い、煉獄に渡してっから。飯代、そっから出せよ。気になんなら釣りで銘菓でも送ってこいや」
 それじゃ悪いと義勇なら物申すだろうことは、予測済みだ。だが、義勇が口を開くより早く、ふらっと幽鬼のように背後に立った伊黒が、地を這うような声で言った。
「グズグズするな。俺の貴重な休日をくだらん言い合いで潰すなど、ただじゃおかんぞ」
「くだらなくはないなっ! 義勇は慎ましやかで真面目なのだ! だが、小芭内の言うことももっともだ、義勇。昼飯を買うついでに、みんなに持って帰ってもらう菓子も買ってこよう! 釣りに義勇が出す分をプラスして、お祝い返しにすればいい!」
 義勇の逡巡は、十秒にも満たなかった。伊黒や杏寿郎の言い分のほうに、分があると判断したんだろう。コクリとうなずいた義勇が階段に向かって足を踏み出すより先に、杏寿郎がサッと義勇の前に進み出た。
 見慣れた杏寿郎の癖だ。階段を歩くとき、のぼるのならば義勇の一段後ろを、降りるときは義勇の一段前を。義勇が万が一足を踏み外したら、即座に支えられるようにと動く杏寿郎は、きっと、無意識だ。馴染みすぎて、考える前に体が動くらしい。
 宇髄たちにももはや見慣れた光景で、今さら不死川や伊黒も動じる気配はない。

 行ってくると笑って手を振る杏寿郎に軽く手を振り返して、宇髄は、さて、と階上でまだ幽鬼の如き風情で立っている伊黒に、ニヤリと笑いかける。
「派手に生気抜かれてっけど、大丈夫か? 操作ミスって見逃すなよ?」
「ふん、あんなものミスするほうがむずかしい。俺があれしきで心折れるとでも言うのかね? たとえ、杏寿郎がやたら熱心に畳を拭きながら、義勇の白雪のような肌がダニにでも食われたら一大事だなどという馬鹿馬鹿しいことを真剣に言いだそうと、それに対して冨岡が、ダニがいたら先におまえが食われるかもしれない窓拭きと変われと言い出し、俺が、いや俺がと、すさまじくくだらない言い合いだかイチャイチャだかを五分も繰り広げようと、俺の心は折れん……っ!」
「……おぉ、なんつぅか……ご苦労さん」
 聞いている不死川まで少し魂が抜けかけているが、爆笑している場合じゃない。クツリと忍び笑うにとどめ、宇髄は、ポンッと不死川の背を叩いた。
「んじゃ、先にご依頼の件やっちまうかね。テレビとか運び込む前のほうがいいんだろう?」
 顔をふたたび伊黒に向けて聞けば、スマホも一応置いてこいと、冷静さを取り戻した声で返ってくる。
 二人を待つことなく部屋に向かう伊黒に、顔を見合わせた宇髄と不死川は互いに軽く肩をすくめると、軽トラの助手席にポイッとスマホを放り投げた。
 さっさと済ませるに越したことがないのは、こちらも同じだ。心配し過ぎの観はあるが、それでも万が一がないとは言い切れない。この時点で杞憂で終わらないのであれば、狙いは義勇ではない可能性もあるが、それでも不安の種は取り除くにかぎる。

 養生テープなどを手に向かった部屋では、すでに伊黒が小さな機械を手に、ドアポストや靴箱のなかやらを調べていた。
「玄関にはないようだな」
「んなとこすぐ見つけられんだろォ? 隠すやつなんかいんのか?」
 ユニットバスに向かう伊黒に、玄関に養生テープを貼り付けながら不死川が聞いた。
「カード型はクレジットカードほどの大きさしかない。靴箱の板裏などに貼り付けられれば、そう簡単には気づかんさ。宇髄、換気扇のなかを確かめろ」
「了解」
 トイレタンクの裏側を覗き込みながら言う伊黒に従い、宇髄は、準備してきたペンライトを換気扇に向けた。
「くっだらねぇなァ。んなもんを高性能にする奴らの気がしれねェ」
「同感だが、需要があるから供給がある。仕掛ける理由は様々だろうがね」
 ひととおり調べ満足したのか、そっちはどうだと視線を向けてくる伊黒に、宇髄もうなずいた。
「こっちもオーケー。とくに怪しいもんはねぇよ。ま、俺らはんなもんとは無縁で生きたいもんだねぇ」
「こっちが御免こうむると言っても、クソみたいな輩はどこにでもいるからな。……杏寿郎の心配性も、責められん。まったくくだらないかぎりだがね」
 狭い部屋の隅々まで器具を向けながら言った伊黒の口調は、いかにも苦々しげだ。玄関の養生をしながら、不死川も鼻にシワを寄せ険悪な表情になっている。
「まぁなァ。それに関しちゃ、俺にも責任があるからよォ。万が一があっちゃ目覚めがワリィ」
 ぶっきらぼうな物言いを装っても、不死川の声には深い悔恨があらわだ。
「バァカ、おまえさんが罪悪感なんか感じる必要は、派手にねぇよ。それを言うなら、俺様だって同罪になんだろうが。ああいう奴らは、理由なんざどうでもいいのさ。自分とは違うやつがムカつく、自分がうまくいかない理由を人に押し付ける、そういうバカの言い分なんざ、真に受けんじゃねぇよ」
 不死川が、風貌のせいで売られる喧嘩を十倍で買った挙げ句に、おまけ付きの勢いで相手を叩きのめそうと。派手で華やかな暮らし向きの宇髄に擦り寄り恩恵にあずかろうとして、けんもほろろに相手にされなかろうと。不満を冨岡に向けて晴らそうとするような奴らの言葉に、一分だって正当さなどあるものか。
 軽い口調で不死川に言いはしても、宇髄の目にもほのかな怒りが知らず浮かんだ。

 口にしたのは本心だ。それでも心の片隅で、忸怩とした思いは消えずにくすぶっている。
 傷ついた瞳をして呆然としていた杏寿郎と、青ざめて震えていた義勇が、記憶から消えることはないから。
 知らず識らず黙り込んだ二人の耳に、ピーッと甲高い音が飛び込んできた。
 バッと伊黒を振り返り見る。ゆっくりと二人に向けられた伊黒の顔は、明らかに緊張しつつも、わずかばかり呆然とした色が浮かんでいた。

「おい……あったぞ。盗聴器だ」