にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 4の1

 有料ゾーンは高台だ。坂を登ったどん詰まりの大きなプールが、ショーの開催地であるらしい。途中の道筋も、これでもかとイルミネーションの光が満ち満ちていた。
 大きなピンクのハートや、テールランプみたいにきらめく、色とりどりの光の帯。宵闇に浮かび上がる屋根を光で飾り立てられたコテージ群は、宇宙船のようにも、奇抜なきのこのようにも見えた。
 エリアごとに変わる電飾には、賑々しく華やかなものもあれば、音楽に乗せて揺れ動く幻想的なものもあって、さまざまな趣向が凝らされている。その奥で空に放たれているのは、ショーのレーザーライトだろうか。
 人の流れはみな笑顔で、楽しげだった。誰もみなイルミネーションに夢中だけれど、それでも無作法にジロジロ見てくる者はいる。そんな視線をものともせずに、繋いだ手を離さず義勇たちは歩く。二人の顔にも笑みだけがあった。
 誰彼かまわず吹聴する気は毛頭ないが、胸を張り誰にも恥じぬ恋だと言えもする。手を繋ぎ歩く気恥ずかしさも、幸せも、ほかのカップルとなんら変わらない。同性であることが恋の障害だというのなら、愛とはそもそも偏見に満ちていると言わざるを得ないではないか。
「あんまり近くだと、かなり水が降ってくるらしいからな。迫力不足かもしれんが、少し離れて見るか」
「そうだな。あんまり人が多いと、ちょっと人酔いしそうだ」
 もともと義勇は人混みが苦手だ。寒がりなのでずぶ濡れも勘弁願いたい。

 定員制のエリアでのショーは、すでに多くの客が詰めかけている。最終公演だけあって子供連れは少ないようだが、カップルらしい男女がひしめきあっていた。
 時間はこれまたギリギリだ。それが功を奏したと言えば、なんとはなし負け惜しみめくが、人混みのなかは避けたかったからちょうどいい。
 人混みの後ろを位置取り、二人も、凪いで光を写して鮮やかに染まった水面を、人の肩越しに見つめた。
 アンパンと同じく義勇に傘を取り出させた杏寿郎は、どうあっても手を繋いだままでいるつもりなんだろう。繋いだ手はそのままに空いた手で傘を義勇に差しかけ、杏寿郎は、義勇と繋いだ手をポケットに入れるとピタリと肩を寄せてきた。それでも傘は、ほとんど義勇の上だ。
「おい、おまえが濡れるだろう」
「なに、俺は自前のコートだからな。多少濡れてもかまわん。義勇のは、借り物だろう? 濡らすのはマズイんじゃないのか? 気になるならこうしよう」
 言うなり杏寿郎は、傘を持つ手を義勇の肩にまわして引き寄せ、向かいあう形で横立ちにさせてくる。
「お、おいっ」
「義勇、そっちの手も俺のポケットに入れたらあったかいぞ。大丈夫、誰も見てない」
 それはそうだが、と、ちょっぴり義勇が眉を寄せたところで、音楽が流れ出した。
「始まるぞ。ホラ、水がかかると冷たいだろう。手、早く」
 杏寿郎の声と同時に、空に鮮やかなレーザーライトが放たれ、ほとばしる水流が夜空に向かって伸びた。ワッとあがる歓声。流れる軽妙な音楽にあわせ、噴水はさまざまな角度で放たれては、揺らめく。まるで水が光とともにダンスしているかのようだ。
 放物線を描くカラフルに光る水の柱を見つめたまま、義勇はかじかんだ手を、そっと杏寿郎のコートのポケットに差し入れた。
「……もっとくっつけ、受験生。風邪を引いたら、二月には本当に錆兎と旅行に行くぞ」
「それは勘弁してくれ」
 ぼやくような口調だが、声は笑んでいた。
 抱きあっているのとさして変わらぬ二人に、気づいたものはいないようだ。歓声を上げる観客同様、義勇と杏寿郎も光と水の乱舞を見つめる。
 前方ほどではないだろうが、義勇たちが立っている場所にも、霧雨のようなミストが降りかかってきた。ちらりと視線を向ければ、噴水を見つめる杏寿郎の睫毛の先に、細かな水滴がついていた。義勇の睫毛にもついた細かな水滴は光の粒となって、目に映る杏寿郎の顔をきらめかせている。

「杏寿郎、知ってるか? 昔の噴水は逆サイフォンの原理で作られてたそうだ」
「逆サイフォンの原理?」

 踊る水と光に視線を戻し、義勇は言う。杏寿郎の視線を頬に感じるが、見つめ返すのは後でいい。目を見て言うのはちょっぴり気恥ずかしい。

「水はどれだけ離れていても、繋がりあっていると水面の高さを同じに保とうとする。高い位置にある水源から水を引いて、池のなかに出口を作ると、水源と同じ高さになろうとして吹き上がるんだそうだ」
「ふむ。聞いたことがあるな。どこかの城にある噴水だったか?」
「うん。こっちにくると決めたときに、伊黒に言われた。俺と杏寿郎は噴水と同じだから、いらぬ心配をするなと」
 声が少し震えるのは、寒いからだ。ちょっとだけ、恥ずかしさをこらえる勇気がいったのも、確かだけれど。
「離れたってどうせおまえらは繋がりあってるんだから、噴水みたいに好きな気持は同じであろうとするに決まってる、だそうだ。……俺も、同感だ」
 ショーの噴水は、そんな原理とは関係なく動力によって噴射されているのだろうけれど。義勇はちょっとだけ肩をすくめたくなったのをこらえる。
 いずれにせよ、距離なんて関係ないのだ。繋がっている以上は、いつだってお互い想いの丈は同じだ。俺のほうが好きだなんて、不安になる必要はない。嫌われたらなんて、考えないでほしい。

 伝わるだろうか。伝わってくれと義勇は願う。いつだってお互いの心は繋がっているし、いつでも杏寿郎が想ってくれるのと同じだけ、自分も杏寿郎のことを想っていると。

 そっと視線を杏寿郎へと移せば、ひたりと見つめてくる瞳と目があった。
 睫毛についた水滴が、少し邪魔だ。杏寿郎のやさしく温かな焔のような瞳を、光でぼやけさせる。杏寿郎の目に映る自分の顔が、ぼやけて見えるのはちょっぴりありがたいけれど。

「同じ、か」
「同じだ」

 ささやきをかき消すように、ひときわ大きな歓声があがった。
 ショーはクライマックスなんだろう。きっと謳い文句にある、高く、高く、壮大な水の奔流が天を衝いたのに違いない。観客の目は高くそびえた水流に釘付けだろう。
 折りたたみ傘がかしいで、ミストのような水が降りかかる。でも、寒くはなかった。大きな歓声も、流れる音楽や水音も、もう義勇の耳には届かない。
 錆兎たちに、勇壮な日本最大級の噴水についての土産話はできそうになかった。肝心のクライマックスを見損ねたのかと、呆れられるかもしれないが、しょうがない。
 だって、目を閉じてしまったから。噴水の水よりも大きく高く、月にも届けと湧き上がった恋心は、二人、同じだけ。だから、義勇はクライマックスのそれを見ていない。
 天使の羽が触れたかのような、冷たいけれどやわらかくやさしい唇の感触と、強く握りあった手の力強さと温もりしか、義勇は知らない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 駐車場に戻るまでは弾んだ――といえば、ちょっとばかり語弊があるかもしれないが――会話も、車中では、二人ともだんまりが続く。だが沈黙はそれでもにぎやかだ。早鐘のように騒ぐ鼓動がうるさくてしかたがない。

 車に乗り込むまでに交わした会話の内容は、楽しいとばかりも言えないものではあった。
 やはりショーを見に来たらしい狛治と恋雪の姿を見かけたのは、有料ゾーンを出てすぐだ。初対面時の怒鳴り声が嘘のように謝りたおす狛治や恋雪に、米つきバッタよろしく何度も頭を下げられて、ちょっと面食らったときには、まだ心は穏やかだった。
 猗窩座はけっきょく別行動になったらしいが、駐車場で待ち伏せされることもなく、ホッと胸を撫でおろしもした。やけに杏寿郎と義勇を気に入ったみたいだから、見かけたら街なかだろうと注意してくれと再三再四念を押されたのは参ったけれども。迷惑な奴だったなとぼやく杏寿郎に、出くわしても三十六計逃げるに如かず、相手になるなよと、義勇もさらに念押ししたのだから、あまり人のことは言えない。

 そうして車に乗り込み、今度は高速を使わずに走ること、早十分。搭載されていたナビに杏寿郎が目的地を入力してしまえば、車内に聞こえる声は、ナビゲーションのどこか機械めいた音声のみだ。
 猗窩座の話をしているあいだは、神妙に肩を落としてうなずいていた杏寿郎も、もうすっかりこれからのことへと意識が向いているようだ。義勇も無表情を貫いてはいるが、目的地が近づいてくるに従って鼓動はどんどん早まっていく。
 緊張も期待も、自分一人ではないから幸せだ。口を開いたら、それこそ高まる想いが噴水みたいにとびだして、ホテルに辿り着くまで我慢できなくなりそうだと、ハンドルを握る義勇の手が小さく震える。杏寿郎も、鏡写しのように同じ気持ちでいるとわかるから、鼓動は治まる気配がない。
 恋人として初めて二人きりで過ごす、クリスマス。義勇の小さなアパート以外で愛しあうのも、初めてで。一緒に夜を過ごし朝を迎えることぐらい、恋なんて言葉も知らないころから恋人になった今でもずっと、当たり前の日常だ。けれど今日は、きっと特別な夜になる。そんな予感が二人ともしている。
 杏寿郎は、頭のなかで必死にシミュレーションを繰り返してるんだろう。ちらりと横目で見るたびに、面映そうに笑みを噛み殺したり、真剣な顔で小さくうなずいたりしてる。ホテルに着いたあとのことまでレクチャーされてないだろうなと、ちょっぴり面白くない気分にならなくもないが、小さな百面相はそれなりに愉快だから、まぁいい。
 ときどき義勇をちらりと窺い見ては、目があって、パッと頬に朱をのぼらせる杏寿郎を笑う余裕は、義勇にもない。だって義勇もおそらくは、どっこいどっこいな顔をしてるに決まっているのだ。冷静にと自分に言い聞かせても、口は勝手に笑いたがりムズムズするし、杏寿郎がなにか壊したらどうしようと、眉間が寄ったりもする。
 ちょっとだけ、嘘だ。
 心配なのはむしろ、自分自身の浮かれ具合だ。もう何度も杏寿郎と体を重ねてきているけれど、初めての夜から今までずっと、義勇の部屋での経験しかない。月イチということもあってか、マンネリとは今のところまったく無縁だけれど、いつもお定まりの流れになるのは致し方ない。
 だけど、今日は。
 いつもなら食事をしたあと、狭いユニットバスじゃ昔みたいに一緒になんて入れないから、交代で風呂を使う。他愛ない話などしているうちに夜が更けて、だんだん会話が途切れがちになる頃合いに、そろそろ寝ようかと少し固い声で杏寿郎が言うのが合図。
 四畳半一間の部屋は、ベッドなんて置けない。布団を敷く一分にも満たない時間は、本当はいつでも恥ずかしい。客用の布団なんてない義勇の部屋で、二人を照らすのはオレンジ色の豆電球と、声をごまかすためにつけたテレビ画面。空々しい笑い声やら、静かなナレーションにまぎれてもらす、二人分の吐息や喘ぎはいつだって控えめだ。
 でも、今日は。
 
 早く。そんな言葉が、冷静なつもりの頭で繰り返される。吐く息すらもう、やけどしそうに熱くなっているのがバレそうで、なんだか少し息苦しい。おこちゃまだとか奥手だとか、宇髄や真菰にからかわれることが多い義勇にだって、欲はあるのだ。杏寿郎限定で。

「あ、アレだ。義勇、あの看板のところに入ってくれ」
「車が飾られてるとこか?」
 ナビが告げるより早く指し示された看板に、義勇は思わずパチリとまばたいた。
 面白いコンセプトのホテルと杏寿郎は言っていたが、看板にはモーテルとある。看板のすぐ脇に、ショールームみたいなガラス張りの小屋があり、なかでレトロなアメリカ車がライトアップされていた。
 なんだか予想外だ。義勇が思い浮かべるホテルといえば、リゾートホテルや駅前などに多いビジネスホテルだ。杏寿郎が予約するなら、せいぜいビジネスホテルだと思っていたから、外観は普通のビルだろうと予想していたのに、ずいぶんと趣が違う。
 モーテルと言われて義勇が思い浮かべるのは、以前、錆兎にお薦めされて杏寿郎と観た深夜映画だ。あれもたしか、舞台がモーテルだった。
 アメリカにある寂れたモーテル兼ダイナー兼ガソリンスタンド。なのにタイトルにはカフェとついていて、なんで? と杏寿郎と二人で首をかしげたのを覚えている。
 錆兎には申し訳ないが、内容についてはほとんど覚えていない。その夜の思い出はといえば、前月に激しく壁を叩かれたのを反省し、テレビをつけっぱなしにすることにしたのはあの日からだったななんていう、なんともいたたまれないものだ。大学で逢ったときに感想を聞かれてもなにも言えず、訳知り顔で苦笑した錆兎の顔まで思い出してしまった。
 ともあれ、モーテルだろうとホテルだろうと、宿泊施設であるのに違いはない。

 ハンドルを切り敷地に入ると、いよいよ古き良き時代のアメリカめいたロケーションだった。
 アメリカのモーテルを意識しているのであろう、ネオンライトが光る給油機。ライトで照らされた順路の先には、お愛想程度に植えられたパームツリーが見える。小さなテラスのついた赤と白を基調としたダイナーの窓から見えるのは、いかにもアメリカンテイストな内装である。なんだかそういうコンセプトのテーマパークみたいだ。
 ダイナー以外の建物は、メゾネットタイプの集合住宅のように見える。それぞれにガレージがついていて、どの部屋にも車が止まっていた。
「フロントがある建物はどれだ? 部屋に直接駐車するホテルみたいだが、まずはフロントに行かないと駄目なんじゃないか?」
 義勇はもっともな疑問を口にしたつもりだったが、なぜだか杏寿郎はちょっとあわてだした。
「いやっ! アメリカのモーテルと同じでガレージインなんだっ。予約してあるから部屋はわかるし、チェックアウトは部屋に自動精算機があるらしい!」
「叫ぶな、耳が痛い。変わったホテルだけど面白いな。おまえが泊まりたがったのもわからないでもない。子供が喜びそうだ。よく予約できたな」
 義勇だって緊張はそれなりにあるけれど、義勇をエスコートすると気負っている杏寿郎は、よりいっそう緊張しているんだろう。そう思ったから、軽口で返したのだけれど、杏寿郎はグッと言葉に詰まったあげく、めずらしいことにうつむいてしまった。モジモジと膝の上で手を握りしめてさえいる。
 リゾートホテルで見せた堂々とした態度が嘘みたいだ。物慣れた紳士然とした姿だって嫌いじゃないが、こんな初々しさにはホッともするし、キュンとときめきもする。
 だが……これはちょっと、緊張しすぎじゃなかろうか。いや、緊張というよりも、むしろ。
「おい、なにを隠している」
 後続車がないのを確認し、脇へと車を止めた義勇は、じっと杏寿郎を見つめて問いただした。
「その、子供は……駄目なんだ。十八歳未満はだな、保護者同伴でも、ここには、泊まれなくて」
 いっそううつむいて言いよどむ杏寿郎の顔は、トマトみたいに真っ赤だ。
「は? なんで?」
 いかにもテーマパークっぽくて子供が喜びそうなのに。というか、そもそも子供が泊まれないホテルなんてあるのか? いや、それ以前に質問の答えになってないだろうが。
「杏寿郎?」
「……っ、義勇とラブホテルに泊まってみたくて、男同士でも入れるところを探していたら、ここを見つけました! 満室だと格好つかないし、義勇に先に言ったら叱られるかもと思って予約しました!」
 シートベルトが切れるんじゃないかと思うほどに、運転席へと身を乗り出した杏寿郎が、勢いよく頭を下げて叫んだ。あんまり大声すぎて、キーンと耳鳴りがする。

 ラブ、ホテル。って、なんだ。いや、知ってる。言葉なら。どんなに奥手だとからかわれようと、それぐらいは知っているとも。利用したことなどないけど。断じてないけれど。
 だって恥ずかしいだろう。そういうことに特化したホテルに入るなんて。目的がわかり易すぎる。
 というか、そうか、男同士では入れないところもあるのか。知らなかった。

「……ここ、そういう」
 ポカンとして義勇がつぶやいたのは、無意識だ。責めたつもりはなかった。だけど杏寿郎はそうは思わなかったんだろう。
「黙っていて、ごめんなさい!」
 頭を下げたまま言う声は変わらず大きいが、ちょっと震えている。

 うん、潔く謝るのは子供のころから変わらないな。口調が小さいころに瑠火さんから叱られたときみたいになってるのも、なんかかわいいし。それに。

 フゥッと息をつき、サイドブレーキに手をかけた義勇に、杏寿郎の肩がビクンと大きく震えた。そろりと上げられた顔は泣き出しそうなくせに笑っている。
「泊まるの、やめるか」
 顔こそ笑っているものの、しゅんと肩を落として言う杏寿郎の前髪は、噴水の水しぶきでほんの少しへにゃっと垂れてる。主人に叱られて落ち込む犬の耳みたいに。車内はエアコンが効いて温かいけれど、コートの肩だってまだ乾いてない。
 俺ばかり濡れないようにするからだ、忠犬すぎるだろうバカ犬めと、胸中で義勇はなじる。でないと、大好きがあふれて抱きついてしまいそうだ。

 ラブホテル、だって。義勇と泊まってみたいから、なんて理由で。むず痒さを覚えて義勇は小さく唇を噛む。幸せすぎて笑いだしたりしないように。
 部屋にこもって真剣にスマホを操る杏寿郎の顔が目に浮かぶ。
 たぶん、千寿郎が入っていいかと声をかけるたび、飛び上がりそうにあわてたことだろう。大急ぎで履歴を消すのが目に浮かぶ。千寿郎はまだスマホを持ってないから、調べ物をしたいと杏寿郎に借りることがそれなりにあるのだ。
 ごまかす言葉を思いつかずに、ちょっと待てと大あわてで履歴を消して、少し引きつった笑みでスマホを渡したあと、深くため息をつく。そんな杏寿郎のさまを義勇はありありと思い浮かべる。

 あぁ、もう、本当に賢いくせに馬鹿だ。馬鹿正直に白状して、子供みたいに謝って。叱られた犬のようにしょんぼりしている杏寿郎に、こみ上げる愛おしさとやるせなさは、同じだけ義勇の胸を締めつける。後悔にはそれでも歓喜がまじるから、わずかばかり泣きたくなった。
 生真面目で正義感が強い杏寿郎が嘘をつくのは、それが必要だと思うときだけ。自分の失敗や過ちを隠すためではなく、誰かのためばかり。義勇が初めて杏寿郎が嘘をつくのを聞いたのも、誰かを……義勇を、守ろうとしたときだ。

 静かに車を発信させた義勇に、杏寿郎の顔が一瞬だけ痛そうにゆがむ。けれどもすぐさま、傷ついたその顔は笑みに戻った。
「勝手なことをして悪かった! キャンセル料金は俺が」
 杏寿郎の言葉が途切れたのは、ちょんと唇を押さえた義勇の指のせいだ。横目でちらりと窺い見る杏寿郎の顔が、目を白黒とさせているのに少しだけ溜飲が下がる。
 片手ハンドルは若葉マークの義勇にはちょっと怖いから、指はすぐに離してハンドルへ。視線も前へ。声は、できるだけ平静を装った。
「もう夜も遅いぞ。ここを出て、どこに行く気だ?」
「……クリスマスだし、どこもきっと部屋は空いてないだろうしな。帰ろうかっ!」
 明るく笑ってみせるから、もうどうしようもない。こういうときこそ高感度富岡センサーを発動させろと、ちょっぴり八つ当たりなんかしたくもなるが、さとられないからこそ助かることもままある。

 おまえにばかり大人ぶらせてたまるか。セクシーなんて要素が自分にあるとは思えないが、してやられてばかりなんて冗談じゃない。

 少し細めた目でちらりと視線を投げて、杏寿郎の唇を塞いだ人差し指を、今度は自分の唇の前に立てる。
 シーッと大きな声を咎めてみせて、少しだけ顔を向けて杏寿郎を見やりながらチュッと自分の指にキスを落とす。ささやかな間接キスに、杏寿郎の顔がますますゆでダコのようになると、胸にむず痒いような歓喜があふれた。
「本当に帰るのか?」
 声はそれでも少し上ずった。セクシーな仕草なんて、どうすればいいのかわからない。杏寿郎みたいに、コートを脱ぐだけで男の色気をあふれかえさせるなんて、自分にはとうてい無理難題がすぎる。でも甘えてみせるぐらいなら。
 そっと伸ばした左手で、杏寿郎の腕をそろっと辿る。早くなんとか言え。片手ハンドル怖いだろうが。思いながら、膝で握られた杏寿郎の手に、義勇は自分の手を重ねた。
「なぁ、本当に……帰る?」
 杏寿郎も、少しぐらいはときめいて、ドギマギすればいいのだ。車を運転しているだけでセクシーだなんて言ったくせに、観光してるあいだ中、杏寿郎は、部屋で二人きりのときに見せる欲情の色など、ちっとも見せやしなかった。俺ばかりときめかされるなんて、ズルい。

 ……まぁ、人前であんな顔をされても困るけれど。
 
 自分に覆いかぶさる杏寿郎の汗にまみれた顔が、義勇の脳裏に浮かび上がりそうになった瞬間に、杏寿郎の顔は見えなくなった。正しくは、近すぎてよく見えない。
 かすめ取るように奪われた唇は、一瞬の出来事。すぐに解放されて、でも、運転中だぞなんて文句を言う暇なんてなかった。
「あんまり、煽らないでくれ。我慢できなくなる」
 耳に直接ささやきかけてきた低い声音と熱い息に、ゾクゾクと背が震えて、知らずゴクリと喉が鳴った。目を閉じなかっただけでも上出来だ。ホテルの敷地内で徐行運転してるとはいえ、事故など起こしたら目も当てられない。
 大学生には敷居が高い借り物の車は、村田曰く、親父がおふくろに土下座して買った一世一代の買い物だそうで。傷一つつけるのも怖いとためらいつつも、ナンバーに背を押されて思い切って借りたシロモノだ。杏寿郎の名を冠した車なら、事故からだって守ってくれそうだなんて、そんな言い訳を自分にしながら。

「……我慢なんか、しなくて、いい」

 だって、今宵はクリスマスだ。世間には、甘い夜に溺れる恋人たちが、あふれかえっているに違いない。自分と杏寿郎だって恋人なんだから、こんな夜に我慢する必要なんて、ないはずだ。
 だってお互いにあるのは、単なる性欲なんかじゃない。恋なのだ。愛おしさだ。
 ゴクリと喉を鳴らす音に誘われて、思わず横目で視線を投げる。ドクンと鼓動が跳ねた。熱をはらんだ瞳が、射抜くように義勇を見つめていた。

 狭い四畳半の部屋で、オレンジの光を背に見下ろしてくるときと、同じ色と熱を瞳に浮かべ、杏寿郎が見つめている。それだけで、ずくりと腹の奥がうずいて、義勇の足は萎えそうになった。ハンドルへと戻した手だって、隠しようなく震えてしまう。

 愛らしくて小柄な女の子なら、こんなやりとりもさまにもなるだろうが、自分はそれなりに体格もいい愛想なしの男だ。やわらかな胸や尻もないし、腕にすっぽりとおさまる華奢な体なんてしていない。甘えるように手を握られたところで誰だってうれしくもないだろうし、むしろ気持ち悪いからやめろと振り払われそうだと、頭の片隅でかすかに義勇は苦笑する。
 同性への性的指向がなくとも、性欲だけで同じ男に劣情をもよおす者が世の中にはいると、義勇は知っている。気に食わない。そんな身勝手な言葉一つで、屈辱と痛みを与えるためだけに同じ男相手に性的な暴力を加えることが、ある種の男たちにはできるのだということも。
 けれどもそんな奴らだって、こんなふうに男に甘えかかられれば、そろって嫌悪の色を浮かべるに違いない。今、二人のあいだにある、繋がりあっている想いなど、そこにはないから。
 杏寿郎とは、ぜんぜん違う。見つめてくる瞳の奥に浮かぶ燃えあがるような熱は、義勇のなかにあるものと同じだ。お互いの劣情は、肉欲よりも熱く深い、恋情がもたらすものだと、義勇はもう知っている。
 世界でただ一人、義勇だけが知っている、杏寿郎のその熱。
 だから、強すぎる視線に震える足は、恐怖ではなく期待だ。
 
 部屋に入ったら、そうしたら……どうなるんだろう。時刻は十時半を過ぎた。チェックアウトまできっと、半日ほどもあるに違いない。それでも愛しあうにはきっと足りない。
 杏寿郎も絶対に、同じことを思っている。だから、怖くなんてない。繋がっているから、想いは同じだけ高まってる。