にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 4の1

 すっかり日の暮れ切った屋外は、冷え込みがキツイ。吐く息も白く染まっている。
 知らずブルリと震えたら、義勇の手を杏寿郎がすぐに握ってきた。
「手袋を持ってくればよかったな。気が回らなくてすまない」
「べつにいい」
 杏寿郎の体温は義勇よりも高めだから、手を繋いだだけでも充分あったかい。手袋よりも、きっと、ずっと。
「それより、おまえには全然足りなかっただろう? どこかでパン食べるか?」
 杏寿郎が肩に下げたトートバッグのなかには、あわただしく紙袋から移し替えたアンパンが入っている。ホテルのディナーじゃ絶対におまえには足りないはずだと、義勇が無理やり持たせた。
 子供扱いとちょっぴりすねた顔はかわいかったが、そういえば、ほかにはなにが入っているんだろう。杏寿郎からのプレゼントはちょっとかさばるからと、交換するのは後でと決めたし、財布やスマホはポケットにあるはずだ。
「うぅむ、すまんが食べ歩きでもいいか? ショーに間にあわなくなるかもしれない」
 行儀は悪いが、たしなめるほどのことでもない。小さくうなずき許可すれば、杏寿郎は義勇の手を握ったまま、取ってくれと向き直ってくる。
 甘えているのか、はたまた浮かれてるのか。どっちもだなと小さく苦笑したものの、義勇だって同じことだ。手を離したくないのは、義勇も同じ。

 ゴソゴソと探ったバッグには、目当ての大きなアンパンと、思いがけないものが入っていた。
「折りたたみ傘? 天気予報は快晴だったぞ?」
「ショーを見るのに必要なんだ」
 コテンと小首をかしげた義勇に、杏寿郎が浮かべた笑みは、いたずらっ子のようだった。
「それより、手がふさがってるからこれじゃ食えん。食わせてくれ」
 ニンマリ笑ってアーンと口を開けるのに、義勇はポカンと目を見開いた。
 片手は空いているだろうが。言って、そっぽを向くのは簡単だけど。
 フゥッと小さくため息をつけば、杏寿郎は残念そうでもなく肩をすくめて苦笑した。人前で調子に乗るなと叱られて終わる冗談のつもりだったのかもしれない。

「ホラ、アーンしろ」

 だから、義勇がアンパンを口元に差し出してくるなんて、思ってもみなかったに違いない。パチパチとせわしなくまばたいて、じわっと杏寿郎の頬が赤らんでいく。
 無表情でいるつもりだったけれど、そんな杏寿郎の様子に我慢しきれず、義勇の唇にも笑みが浮かぶ。目を細めて見やった杏寿郎の顔に、胸にじんわりと広がるのは、好きだなぁという言葉。
 クフンと忍び笑った義勇の手にあるアンパンに、がぶりとかじりついた杏寿郎が、うまい! と笑う。大きな声に視線が集まるけれども、旅の恥はかき捨てと言うじゃないか。それにこれはデートだし。恋人同士だし。

 あぁ、やっぱり俺も浮かれてるな。

 自嘲はそれでもたいそう甘く、うまいと笑う杏寿郎に、浮かぶ言葉は好きだなぁという感慨ばかりだ。
「イチオシ商品だけあって、すごくうまいぞっ。義勇も食べてくれ!」
「それじゃおまえが足りないだろ?」
「義勇と半分こしたかったんだ。それにかなり大きいからな、二人で食べよう!」
 そういうことなら、意地になって断るのも気が引ける。
 大きな歯型のついたアンパンに、義勇もカプリとかじりつく。間接キス、なんてドキドキしたのは、中学のころだけだ。思春期って怖い。慣れ親しんだ習慣でさえ、ときめきに変えるのだから。
 まぁ、今だってちょっぴりドキドキするんだけれども。
 それでも慣れた行為であるのに違いはなく、ためらいもない。もぐもぐと噛みしめる義勇に、杏寿郎が至極うれしげに笑う顔は、イルミネーションよりも眩しい。
 手を繋いだまま歩きだし、交互に互いの口元に義勇はアンパンを向ける。好奇心を隠さない視線は、たぶんいくつも向けられている。杏寿郎だって気づいているだろう。けれど、気にして手を離す気配なんてなかった。面映ゆさは恋心でしかなくて、後ろめたさを覚える必要なんてない。
 隠さなければならない恋だなんて、一度も思ったことがないのは、杏寿郎が笑ってくれるからだ。

「義勇、あんこがついてるぞ」
「っ、調子に乗るな!」

 顔を近づけ舐め取ろうとしてくるから、思い切り足を踏んでやった。痛いと騒ぐ顔はそれでも笑っているんだから、しょうのない奴だ。義勇も口元を拭う素振りで、弧を描いてしまう唇をアンパンを持ったままの手で隠す。

 アンパンはもっちりとして、たっぷりとくるみが入ったあんこは、とびっきり甘かった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 金色にまばゆい光のトンネルは、きれいだと思うのと同時に、懐事情ゆえの少々みみっちい感想も抱かせる。
「うぅむ、きれいだが電気代が大変そうだなっ!」
 義勇の感想は、杏寿郎の口から飛び出た。パチンとまばたいて、義勇はクスリと小さく笑った。
「そうだな。それに、同じ金色なら杏寿郎の髪のほうがきれいだ」
 するりと口から出た義勇の声は、自分でもわかるほど弾んでいた。イルミネーションの光をうけた杏寿郎の髪は、人工の輝きよりもずっと温かくやさしくきらめいている。
「キラキラで、フワフワだ」
 腕を伸ばしよしよしと撫でてやれば、杏寿郎は頬に朱をのぼらせ、ムズムズとうごめかせた口をへの字にする。うれしいと喜びたいけれど、子供扱いされているようなのはちょっと悔しい。そんなところだろう。
「ショーを見終わったら、帰るのはかなり遅くなるな。どこか、泊まっていくか……?」
 義勇のささやきに、杏寿郎の顔がいよいよ赤く染まった。
 遠回しだろうと、義勇から誘い文句など口にしたことはない。そろりとお伺いを立てる杏寿郎に、いいよと義勇が返すのがいつもの始まりだ。
「あ、の……実は、ホテルの予約もしてある。あ! ここじゃなくてだなっ、一つ先のインターチェンジまで行くことになるんだが、ちょっとおもしろいコンセプトのホテルなのだ! ここほど高くないし、義勇も好きそうだと思ってだな!」
「声……大きい」
 不躾な視線を気に留めぬことはできるが、聞こえてくるホテルと呟く声や忍び笑いはさすがにいたたまれない。
「ごっ、ごめん! あ、いや、すまん……あの、そこでも、いいか?」
「ん……予約したんだろ? キャンセル料もったいないからな」

 ちょっとばかり呆れはするが、今日はクリスマスなのだ。高いリゾートホテルではなさそうだし、これだけお膳立てしておいてホテルは予約していないなんて、画竜点睛を欠くってものだろう。やっぱりなとしか浮かばない。
 それに、杏寿郎と家にいるのは、ちょっと怖い。
 長靴を入れたらいっぱいになったからとごまかして、靴箱を使わせないようにはしている。今のところ、杏寿郎も言いつけを守ってくれていた。けれど、万が一隠しているアレを見つけられたらと思うと、ここ数ヶ月の来訪はずっと落ち着かなかったのだ。

 とくに、今朝のは……。

 ゾクッと背筋を走った震えを隠したくて、義勇は、照れ隠しを装いそっぽを向いた。思いがけない義勇の言葉に動揺しきりらしく、杏寿郎は義勇の不安には気づかないようだ。繋いだ手に力がこもって、蕩けそうな笑みを浮かべているが、それでも少しだけ悔しそうにも見える。
「よもや、義勇がそんなことを言ってくれるとは思わなかった。俺から自然に誘いたかったんだがな」
「クリスマスだから」
 ポツンとつぶやいて、義勇はマフラーを鼻先まで引き上げた。
 自分で言い出しておいて、恥ずかしがるのは今さらだ。思うけれども、あまり今は顔を見られたくはない。見抜かれそうで怖いのもあるが、それ以上に羞恥が抑えがたかった。
「クリスマスプレゼントか?」
「プレゼントは別にある」
 じゃあなんでとは、杏寿郎は聞いてこなかった。
 手に込められた力が、また少し強まる。
 不甲斐ない。うれしい。まだ子供扱いか。幸せだ。きっと杏寿郎の心のなかには、たくさんの感情が渦巻いている。それらを全部飲み込んで、杏寿郎は笑うのだ。

「義勇にもっと好きになってもらえるよう、大人になってみせる……頑張るから」

 本当に、賢いくせに馬鹿だ。
 テストの結果はいつだって上位だし、剣道はインターハイで優勝した。バイト先でも真面目によく働いているらしく、社長が褒めていたと姉が教えてくれた。誰からも好かれる杏寿郎は、周りから人が絶えることもない。
 引く手あまたとは杏寿郎のためにある言葉だなと思うのに、当の杏寿郎は、こんなにも義勇でいっぱいで、自分ばかり好きだと思いこんでいる。
 少しだけ切なげな笑みを浮かべる杏寿郎に、義勇こそ切なくなって、ちょっぴり焦れもする。どうして伝わらないんだろう。伝えてやれないんだろう。こんなにも好きなのに。
 もっとずっと小さいころは、大好きと笑いあう気持ちに差などなかった。今だってそうだ。だけどそれを知るのは義勇だけなのだ。杏寿郎は義勇に嫌われることを心底怖がる。そんな日は永遠にこないと、信じてほしいのに。

「恋人だからだ」
「え?」

 口早になったのは、それでも恥ずかしかったから。リードを手放して、愛してるから全部杏寿郎の好きにしていいよなんて、怖くて言えないから。
 胸に沈めた怯えに蓋をして、義勇は杏寿郎を見つめ、ふわりと笑ってみせた。
 恥ずかしいけれど、好きな気持ちは同じなのだとわかってほしくて、愛しさを笑みに込める。

「ホラ、急がないとショーの前にイルミネーション全部見られなくなるぞ」
 ことさら明るく言えば、杏寿郎もフッと息を吐き、いつもの笑みを浮かべてくれる。
「うむ! ショーは二十分間隔でやってるらしいが、今日はクリスマスだから混むだろうしな! チケットが売り切れたら大変だ、急ごう!」
 そう、今日は聖夜だ。愛に包まれる日だ。大切な人と笑いあえたら、それでいい。
 やさしく抱きしめあえたら、それだけで。

 きらびやかなイルミネーションよりもきれいな髪を、くしゃくしゃと撫でてやっても、杏寿郎はもうすねなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 光のトンネルを抜けても、通りはそこかしこが光の渦だ。カラフルなライトで作られたツリーだけでなく、頭上には銀河のように続くイルミネーションが光っている。
 水族館ではやたらと写真を撮りまくっていた杏寿郎だけれど、意外なことにイルミネーションではあまりスマホを取り出さない。
 
 いや、意外でもないか。

 青いツリーの前で写真を撮っていたカップルに声をかけ、写真を頼む杏寿郎に、口を挟みはしないものの、ちょっぴり義勇は呆れ気味だ。
 ようは、繋いだ手を離すのが惜しいのだ。ついでに、イルミネーションだけを撮るのには興味がない。水族館でだって、杏寿郎が撮るのは水槽を覗き込む義勇ばかりだった。
 金魚を見にきたんだから金魚を撮れ。それを見せられる不死川たちの気持ちも、ちょっとぐらいは考えろ。言っても無駄だったから、もう言わないけれど。
 言いあいも楽しいのは確かだが、人前で嫌だ駄目だと揉めるより、さっさと撮ってもらって終わるほうがマシだ。恥ずかしいのは一瞬で済む。マフラーが顔を隠してくれるし。
「……調理家電とかは壊すのに、黒物家電は平気なのはなんでだろうな。スマホやパソコンを壊したことはないだろ」
 撮ってもらった写真をホラと笑って見せてくる杏寿郎に、義勇の声はちょっとだけ呆れたものになった。
「むぅ。それに関しては俺こそ知りたい。レンジと洗濯機ぐらいは使えるようになりたいのだが」
「大学はやっぱりこっちか?」
「当然だ! 絶対に合格するからな!」
 そりゃ確実に受かるだろうが……と、義勇は我知らず眉を寄せた。
 もっとレベルの高い学校を狙えばよかったのにだの、わざわざ家を出る必要はないだろうだのといった小言だって、言うだけ無駄だ。物理的に距離が離れたところで、杏寿郎の義勇への想いがわずかにでも薄れることなどないのも、十二分に実感をともない理解している。だが、煉獄家の面々が案じる杏寿郎の壊滅的な家事音痴っぷりは、義勇にとっても心配の種だ。
「食事は作りに行ってやる。洗濯は、コインランドリーが近い部屋を探すよりないな。食事付きの学生マンションという手もあるが」
 歩きながらの会話が、義勇の言葉にピタリと止まる。ついでに足も。
 足を止め黙り込んだのを訝しみ視線を向ければ、へにゃりと眉を下げた杏寿郎と目があった。
「やっぱり、一緒に暮らすのは駄目か?」
「俺の部屋は四畳半一間だぞ。台所も一口の電熱コンロだ。二人で暮らすには向いてない」
 杏寿郎の食欲を満たす量を毎食作るとなると、二口以上のガスコンロは必須だ。IHは万が一杏寿郎が触った場合を考えれば却下。
「……壁だって薄いし、おまえの声は大きいからな。毎日苦情を言われかねない」
 少し声のトーンを落として言った義勇に、杏寿郎の顔がちょっぴり引きつりつつも赤く染まった。壁を叩かれたドンッという大きな音を、杏寿郎も忘れてないのだろう。きっかけとなった声は、杏寿郎のではなく、義勇の声だったけれど。
 いろいろと思い出してしまって、義勇の頬も寒さばかりでなく赤い。鼻をすっぽり覆うほどに引き上げたマフラーで、杏寿郎ほどは目立たないだろうけれども。
「声は、その、気をつける。食事は、惣菜を買うとか……もちろん、食費は俺が多めに出すぞ!」
「きっちり折半。それ以外は認めない」
「ならっ、広い部屋に引っ越せば」
「引越し費用がいくらかかるか、わかってるか? 初期費用をまた出せるほどの余裕はない」
 杏寿郎の言葉を遮り、きっぱりと言い切った義勇に、ハァッと杏寿郎がため息をついた。
「俺のわがままで引っ越してもらうのだから、俺が出すと言ってもか?」
「出すのはおまえじゃなく槇寿郎さんだろ?」
「……父上たちは、むしろ費用は出すからと頼み込むと思うのだが」
 それはそうだろうなと、義勇も小さくため息をつく。
 マフラーに吸い込まれ気づかれないほどの、ほんの小さな未練を吐き出せば、肩をすくめて苦笑してみせる余裕も生まれた。
「どうせ部屋を探すならうちの近所なんだろう? 食事を作りに行くと言ってるんだ、それで手を打て。買い物の代金は折半するが、光熱費は任せる。それぐらいは甘えるから、それでいいだろう?」
 一緒に暮らしたいのは義勇だって同じだ。でも、それじゃ駄目なのだ。
 杏寿郎と朝から晩まで一緒に暮らせば、きっと遅かれ早かれ自分は恋に溺れる。どんなに自制しようとしても、杏寿郎の熱に焼かれて溶ける。
 溺れたって、いいのかもしれない。恋人同士なのだから。そんな誘惑に、揺らぎそうになることだって、ないとは言えない。周囲の人々だって二人の恋を認め、祝福すらしてくれている。
 だけれども、その先に待つのはきっと別離だ。杏寿郎と自分は引き離されるだろう。十五ヶ月の差が口惜しい。せめて杏寿郎が成人するまで、二人して溺れるわけにはいかないのに。
 杏寿郎に嫌われたらなんていう不安はない。だけど、杏寿郎と逢えなくなるのは、どうしようもなく怖い。
 だって好きなのだ。大好きで、愛おしくて、世界でただ二人になってもいいと思えてしまうほど、恋しくてたまらないのだ。
 そんなの、駄目に決まっているのに。そんなふうに生きたくはないし、そんな生き方などさせたくないのだから。

「母上に、義勇の生活に支障が出るような真似は許さないと、釘を差されている。それでなくともバイトだってしているのに、毎日俺の家にくるのでは、義勇が体を壊すかもしれないだろう? それは俺が嫌だ。というかだな、うちに来たらそのまま泊まっていくんだろう? それなら一緒に住むのと変わらんなっ! 帰らない部屋の家賃を払うほうが無駄じゃないか?」
「……おい。なんで帰らないことになってるんだ。飯を食ったら帰るからなっ!」
「その場合は俺が送っていって、そのまま義勇の部屋に泊まることになるな! ほら、やっぱりどちらかの部屋の家賃が無駄になるぞ!」
 さも当然といった笑い声に、義勇はことさら目を据わらせる。
 杏寿郎はきっと、固くなった空気を変えようとしてくれている。わかるから、軽口で言いあうのに義勇も乗った。
「それより、義勇は写真を撮らなくていいのか? 錆兎さんたちが見たがりそうだが」
「……おまえのを送ってくれればいい。俺が撮ってもうまく写せないの知ってるだろ」
 話のそらしかたとしては無難だ。けれども義勇の心臓は一瞬キュッと縮こまった。
「調理家電の扱いはお手の物なのに、義勇は黒物家電に弱いからな。俺と暮せばビデオの予約も楽だぞ?」
「うるさい。レンジや洗濯機が使えれば問題ないっ。それに、どうしても見たい番組があったら、錆兎に頼んでるからいい」
「禁句だと自分も言ったくせに、それはズルいだろ」
 むぅっと唇をとがらせる杏寿郎に、義勇は、わざとしてやったりという笑みを浮かべてみせた。多少は小狡いと自分でも思うが、スマホから意識が離れてくれたならそれでいい。
 義勇が写真を撮ろうとすれば、杏寿郎もスマホを覗き込んでくるに決まっている。そうして目ざとく見つけるのだ。見知らぬアプリを。
 気づかれたら、これは? と聞かれるのは目に見えている。スマホの基本機能さえうまく使いこなせない義勇が、アプリをダウンロードするなど、杏寿郎からすれば青天の霹靂と言っていいのだ。フリックすらいまだにうまくできなくて、文字を打ち込むのに義勇がいちいちタップし続けていることだって、杏寿郎は知っているのだから。

『隠し通すつもりなら、絶対にアプリが入っていることをバレないようにしろ。杏寿郎はおまえに関してだけは異様に勘が鋭いからな』

 言われなくても。脳裏に蘇った伊黒の声に、義勇は内心で強くうなずいた。
 本当に、伊黒には感謝が尽きない。相談できてよかった。コートのポケットにあるスマホを、義勇は知らず握りしめた。お守り代わりのアプリを、使うことなく済めばいいのだけれど。

「錆兎に頼むときは、錆兎の家で録画してもらってる。うちに遊びにくるときも、真菰や村田が一緒だ。うちに一人でくるのは姉さんとおまえぐらいだ」

 狭い部屋だ。三人も座れば窮屈でしかたがない。けれども錆兎たちは、一人で訪れることがなかった。杏寿郎の嫉妬深さは、誰にも筒抜けなのだ。呆れた顔で苦笑するものの、あんなヤキモチ焼きはやめておけなど誰も言わないのが、ちょっぴり不思議ではある。
 いや、本当は不思議でもなんでもない。みんな知っているだけのことだ。
 世界中で誰よりも義勇を大事に、大切に想っているのは、杏寿郎だということを。
 もしかしたら周りの人らにも、自分と杏寿郎は、世界にたった一組しかいない番のように思われているのかもしれない。絶滅危惧種ってやつだ。保護が必要だと思われているんだったりして。

「べつに、浮気するなんて疑ってないぞ」
 憮然とした声に聞こえるが、杏寿郎の声音から義勇にもたらされる情報は、なんだか面映ゆくさえある。
 仲間はずれみたいで寂しくて、義勇のそばにいられるのが自分じゃないことが悔しくて。でも、義勇が楽しく平穏に暮らせているのにホッともして、錆兎たちに感謝だってしている。
 感情ってやつは厄介だ。喜怒哀楽の四つきりならわかりやすいのに、そうじゃないから自分自身の心にさえ戸惑う。
 それが恋なら、なおさらに。
「俺は、少しだけ疑ってる」
「はっ!? な、なぜだっ! 誰に!? 浮気など俺は絶対にしないぞっ、ずっと義勇一筋だ!」
 鳩が豆鉄砲を食ったようにあわてふためく杏寿郎に、周囲の人々の視線が集まる。意識を反らせるダメ押しのつもりだったが、ちょっと失敗したかもしれない。
「知ってる。声が大きい。……俺だって、ちょっと悔しい。特訓は二人きりだったんじゃないのか?」
 冷静でいるようでいて、自分も少し泡を食ったせいだろう。言わなくてもいいことを言ってしまった。ポカンと見つめてくる杏寿郎の視線が、どうにも恥ずかしい。
 ふわりと、杏寿郎の顔にはにかむような笑みが浮かんだ。

「宇髄のことは尊敬しているし、いろいろと力になってもらって感謝もしている。不死川や小芭内だってそうだ。みな大切な友人だからな。だが、恋しいのは義勇ただ一人だ。大切な人は大勢いるが、俺にとってかけがえのない特別な人は、義勇だけなんだ」

 うれしさを隠しきれない声は、穏やかなささやきだ。言い聞かせるというよりもむしろ、高らかな宣言のようにも聞こえる杏寿郎の声は、それでも密やかで、途方もなくやさしい。
「うん……知ってる」
 義勇だって同じだ。かけがえのない恋人は杏寿郎だけだけれども、大切な人は大勢いる。今度のことだって、一人では抱えきれなくなって結局伊黒に相談した。
 さんざん嫌味を言われたし、説得だってされた。それでも最終的には協力してくれたのだから、本当にしばらく頭が上がらない。いい友人をもって幸いだ。
 錆兎や真菰、村田だって、大切な友人である。もちろん宇髄と不死川も、義勇にとっては大事な人だ。姉夫婦や煉獄家の面々だってそうだ。それだけじゃない。姉が勤めていた会社の社長たちだって、義勇を実の子供のようにかわいがってくれた。

 世界中でただ一人の恋しい人。それは最初から最後まで変わらず一人きりだけれど、杏寿郎とだけ生きることなど、きっとできない。大切な人が多すぎる。これからだって大事な人は増えるだろう。
 そしてそれは、杏寿郎だって同じことなのだ。
 たとえ、自分と杏寿郎が世界でただ一組の番だったとしても。

「しかし、義勇が録画してまで見たがる番組というのは、興味があるな。予約してまで見たいものなどないと答えられるかと思っていた。なにを録画してもらったんだ?」
「ん……? ネイチャー系のドキュメンタリー番組だ。昔、一緒にニュースを見ただろ? ガラパゴス諸島のカメ」
 ふと思い浮かんだ記憶を読まれたみたいなタイミングでの、杏寿郎の疑問に、義勇は小さく苦笑した。高感度冨岡センサー発動というわけでもあるまいに、偶然にしてはタイムリーなことだ。
「あぁ、思い出した。ロンサムジョージだな!」
「うん。特集をしていた。懐かしいなと思って」
 なんとなくうつむいて、義勇は静かに言った。

 ふわりと脳裏に浮かんできたのは、小学生のころに杏寿郎と一緒に見たテレビだ。世界で一匹きりだったカメが亡くなり、絶滅が確定したというニュースだった。
 世界に一匹だけしかいなかったゾウガメ。どんなに似ていたって、彼と同種は世界中のどこにもいない。一人きりだから、彼の名前はロンサムジョージ。孤独なジョージ。
 ジョージは亡くなるとき寂しかったのだろうか。それとも、ようやく仲間に逢えると喜んだだろうか。
 ギュッと胸が痛くなって、テレビを見ながらハラハラと涙をこぼした義勇に、杏寿郎は肩を跳ね上げらせ、すぐさまギュウッと抱きついてきた。
「大丈夫だっ、俺がずっと一緒にいる! 義勇を一人になど絶対にしない!」
 ジョージと違って、義勇は人だから、仲間はたくさんいる。世界中にあふれかえっている。それでも、杏寿郎がいなければ、一人きりになる気がした。
 誰といても一人。それはどれだけ悲しかろう。つらかろう。もしも、杏寿郎と出逢っていなかったら。五月のあの日に、杏寿郎が笑いかけてくれていなければ。

 一人ぼっちだ。

 ずっと、ずっと、自分は一人きり膝を抱えて、泣くこともできずに震えていただろう。姉がいたって、錆兎と真菰がいたって、悲しみと罪悪感を一人で抱え込んでいたはずだ。義勇はそれを疑わない。
 杏寿郎は違うかもしれない。いや、出逢うことがなければ、確実に違う今となっていたはずだ。杏寿郎は誰にだって好かれるから、もしも義勇と出逢わず過ごしたとしても、義勇のように寂しい悲しい、ごめんなさいと、泣くことなどない日々を送ったに違いない。
 それでも、もう出逢ってしまったのだ。だから義勇は疑わない。杏寿郎もまた、義勇がいなければ一人ぼっちになることを。

 世界で二人きりな番の存在があるとすれば、それはきっと、自分と杏寿郎だ。

「うん。俺も杏寿郎を一人になんてしない。ずっと一緒にいようね、杏寿郎」
 まだ涙の浮かんだ目で笑えば、杏寿郎は、さらにギュウッと抱きしめてくれた。

 そうして今も、一緒にいる。離れて暮らしたって、こうして逢いにきて、隣にいる。
 広くてたくさんの人があふれた世界で、互いの存在だけを抱きしめ生きることはできないと、大きくなった義勇は知っている。それではいけないのだということも、理解していた。
 互いのことだけに頭を占められて、恋に溺れて暮らせるはずもない。
 無人島で二人きり暮らしているわけではないのだ。杏寿郎がいなければ生きていくのさえつらくとも、杏寿郎とだけ生きることはできない。
 多くの人たちに助けられ、助けあい、笑いあって生きていく。大好きな人達と一緒に、二人で。
 杏寿郎がいない生活も、杏寿郎とだけの生活も、選びたくなどないし、そんなものクソくらえだ。

「俺は、ジョージのように義勇を一人にはしない。ずっと一緒にいる。そうだろう?」
 ギュッと握られた手と強い声。ずっと変わらぬ約束の言葉。
「……あぁ、約束だ」

 だから、けっして負けるものか。義勇は微笑みの裏側で決意を燃やす。
 いい加減、行動に出てこいと焦れている。でも、今は駄目だ。杏寿郎がいるうちは、マズイ。杏寿郎と引き離されるトリガーになり得る危険性は、避けて通るが吉だろう。

『落ち着いて行動しろよ? 貴様は抜けているからな、万が一のためにもちゃんと練習しておけ。だがいいかっ、練習するなら今から十分だけにしろ! 動作確認とはいえ、あんなもの何度も聞きたくない、聞きたくないっ!』

 今朝は見つけたものに動揺して、思わず伊黒に電話してしまったけれど、大丈夫だ。ちゃんと落ち着いている。アプリの動作も正常だった。伊黒はなんでまたそんなものにしたと、やっぱりうなっていたけれども。
 それに、今日は帰らない。明日は部屋に帰らなければならないけれど、なんなら明日もどこかでデートしようと言えば、杏寿郎だって反対しないだろう。そのまま杏寿郎が帰るまで時間を潰せばいい。

「あ、ホラ、義勇! 有料ゾーンに入るぞ」
 明るい声にうながされ、義勇は顔を上げた。思考を引き戻されて助かった。知らず表情が固くなりかけていた。
 ちょうど顔をチケット売り場に向けたところだったせいか、杏寿郎は、義勇の様子には気づかなかったらしい。気づかれなくて幸いだ。なんてタイムリー。たしかに、杏寿郎と一緒にいるとツイてる。
「……噴水?」
「うむ。驚かせたかったが、よもやレストランから丸見えだとはな」
 残念そうにうなるから、義勇も自然に笑えた。
「あれだけ高く上がればな。でも、楽しみだ」
 イルミネーションの最大のイベントは、音楽にあわせて上がるライトアップされた噴水のショーらしい。流行り廃りにうとい義勇は知らなかったが、けっこう有名なイベントなのだそうだ。
 とはいえ、杏寿郎だってそういった催しには不案内なタチだから、説明してくれた内容は、ネットの受け売りばかりのようだったけれども。

 ともあれ、今日は楽しいクリスマスデートだ。不安にばかりとらわれるのはもったいない。
 サプライズではなくなったが、噴水を杏寿郎と見られるのは、義勇にとってはやはりタイムリーだと言える。折り紙つきの運の良さと豪語するだけあるなと、義勇は小さく笑った。
「近くで見たら、すごく迫力がありそうだな」
「うむ! なにしろ、傘がないとずぶ濡れになるらしいぞ」
 ちょっぴりいたずらっ子のような笑みで言う杏寿郎に、義勇は合点がいったと眉を開いた。
「それで折りたたみ傘か」
「無料の貸し出しはあるようだが、一本ずつ渡されては相合い傘ができんからな」
 うんうんと心得顔でうなずくのに、呆気にとられてしまう。
「……馬鹿」
「義勇馬鹿と父上によく言われる!」
 ハハハと快活に笑う杏寿郎の顔を見ていると、なんだか恥ずかしがっているのが、それこそ馬鹿みたいだ。
 それに、馬鹿はお互い様なのだ。義勇だって杏寿郎馬鹿を自認している。それこそ、杏寿郎から引き離されないために、一人で膝を抱える夜を過ごす日々を選んでしまうぐらいには。
「相合い傘にしたら、手は繋げないな」
「むぅ……それだけがちょっと問題だ。だがまぁ、どうにかなるだろう!」
「……おい、意地でも手を離さないつもりじゃないだろうな」
「駄目か?」

 ……だから。その上目遣いをやめろ。雨に濡れた仔犬か。

「……あんまり人目があるところではするなよ」
「心得た! だが、どうせみんなショーに夢中で、周りのことなど気にしないと思うがな」
「ならおまえもショーに集中しろ」
「それはちょっとむずかしいな! 隣に義勇がいるんだ。義勇を見てしまうに決まっているだろう?」

 だからっ! いきなり男くさい顔をして低い声でささやくのもやめろ!

 思わず小さくうなった義勇を、イルミネーションの光を弾いてやさしくきらめく杏寿郎の目が、幸せそうに見つめていた。