にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 4の1

 ホテルのロビーは広くて、天井が高いからか開放的だった。
 走ったせいで少々乱れた息を、義勇は深く深呼吸して整える。ハァッと大きく息をついたのは杏寿郎も同様だけれど、息が整うのは義勇より早かった。引退したとはいえ、剣道部主将は伊達じゃない。
 部を退いても、家に道場のある杏寿郎は今も毎日稽古を欠かさないから、義勇よりも体力があるんだろう。若いから、とは、言わないでおく。義勇との差はたった十五ヶ月だ。忙しくて怠けがちだった筋トレを再開しようと、義勇はちらりと見やった杏寿郎の横顔に、密かに誓った。
 クリスマスといえばホテルだって書き入れ時だろうが、時刻のせいかそんなに人は多くない。客はみなとっくにチェックインを済ませ、イルミネーションや温泉を楽しんでいるんだろう。バタバタと慌ただしく駆け込んでは、さぞや迷惑げな視線が集まるかと少しばかり心配だったが、やれやれだ。義勇は安堵の小さなため息を、そっと噛み殺した。
 傍らの杏寿郎は、いつもと変わらぬ人好きする好漢に戻っている。ほんの数分前に見せた鬼気迫る形相は、跡形もない。
「ギリギリだが間にあったなっ。スカイラウンジは八階だ。行こう、義勇」
 微笑む杏寿郎に、義勇はパチリと一つまばたいた。つい笑みがもれる。
「義勇?」
 いつもと同じでもなかったな。気づいてクスクスと笑った義勇に、杏寿郎はキョトンとしつつも、少しだけうろたえたように見えた。傍目にはわからないだろうけれど。

 慣れぬ場所への緊張なんて、日ごろはまったく感じる様子がないのに、今日ばかりは勝手が違うらしい。動じぬ笑顔の裏に、初々しい緊張がほの見える。気負いが杏寿郎の笑みをほんの少し固くしていた。
 とはいえ、それはささやかすぎて、気づくのは義勇くらいなものだろう。
 胆力のある男なのはたしかだけれど、杏寿郎だって、世間からすればまだ経験の浅い子供にすぎないのだ。大人の振る舞いを求められる場所への緊張に、わずかばかり肩に力が入っているし、口角が少しだけ引きつってる。
 イラストレーターの宇髄が言う「眉の角度が〇.五ミリ違うだけで、表情がまったく別物になる」というボヤキを、杏寿郎の表情でこういうことかと納得する。見る人によっては気づかないだろう、ささやかすぎる違い。
 間違い探しは、きっと正解だ。杏寿郎のことならば、どんなに些細だろうと、義勇はちゃんと見抜ける。それがうれしい。

「なんでもない。ホテルのレストランに二人だけでくるなんて初めてだから、ちょっと緊張してるみたいだ。……でも、エスコートしてくれるんだろ?」
 浮かんだ笑みはそのままに、ほんの少しのからかいを込めて義勇が言えば、杏寿郎の顔に喜悦が浮かぶ。緊張もちょっぴり高まった気配がするけれど。
「うむっ、もちろんだ。任せてくれ」
 精一杯慣れているふうを装っても、杏寿郎は高校生だ。ホテルを利用するなんて、家族旅行や宇髄たちに同行する以外にない。今までは全部、引率される立場である。経験値は義勇とまったく一緒のはずだ。
 義勇の数少ない旅行の経験は、修学旅行を除けばすべて杏寿郎と一緒だった。出逢って以降、家族旅行や友人たちとの旅行の写真には、全部、義勇の隣には杏寿郎がいる。

 少しだけ力みを感じる杏寿郎の声は、それでもいつもよりちょっと抑えめだ。日ごろのトーンでないのは、場所柄をわきまえてだろうか。それとも、義勇に大人に見られたいがための努力の一貫か。いずれにせよ、義勇にしてみれば微笑ましいばかりである。
 義勇だって緊張しているという言葉に嘘はない。けれど、杏寿郎が一緒なら、失敗さえも楽しい思い出話が増えるだけだ。緊張しつつも気は楽だった。
 胸の奥で増した不安をかき消してくれるなら、失敗だってうれしい。いっそ、なにかドジってくれたらいいのにとすら願う自分に気づき、義勇は、知らず震えそうになった体を無理やり抑え込んだ。
 大丈夫だ。自分に言い聞かせる。二人で大笑いできたら、きっと怖さも忘れられるだろう。

 脳裏に焼きついた物騒な一幕は、固く閉じ込めている記憶を呼び覚まそうとする。思い出したが最後、叫んでしまいそうで、義勇は無理やりそれを頭から追い払った。
 二度とあんなのは見たくない。杏寿郎はかわいい犬でいいのだ。かわいくて、頼りがいがあって、一生義勇と一緒と笑う、世界一やさしい犬で大事な恋人。そういう、いつもの杏寿郎がいい。

 義勇の手を引いて杏寿郎が歩きだした先は、フロントだ。エレベーターじゃなくて? と、義勇が戸惑う視線を向けると、杏寿郎はすぐに気づいて微笑み返してくる。
「コートを預けてから行こう。邪魔だろう?」
「え?」
 キョトンと目をしばたかせた義勇は、すぐにその目をムッとすがめた。
 睨みつけても杏寿郎は平然としたものだ。それどころか、心なしか自慢気にさえ見えてくる。
「……部屋はとってないって、言ってなかったか?」
 フロントマンに聞こえぬよう、小さな声で叱っても動じる気配などみじんもない。
「嘘なんかついてないぞ。レストランの利用だけでもクロークは使えるんだ」
 こともなげに言う杏寿郎に、義勇は思わず首をひねりそうになる。土産は車に置いてきたから、義勇は完全に手ぶらだ。杏寿郎だって、土産と入れ替えにひっつかんできたキャンパストートを肩に下げているが、大きなものではない。プレゼントだって、交換するのは後にしようと置いてきた。
 クロークなど利用するほどでもなかろうに。義勇の戸惑いをよそに、杏寿郎はさっさとマフラーとコートを脱ぐと、フロントに笑みを向けていた。
「レストランの予約をしている煉獄です。荷物を預かっていただけますか」
「いらっしゃいませ。煉獄さま……はい、承っております。お預かりいたします」
 堂々としたやり取りは、なんだか手慣れている。家族旅行はもちろん、宇髄たちと旅行に行ったときだって、こういうことは任せきりだったのに。
 ポカンとした義勇へ振り返り、杏寿郎は穏やかに笑いさえした。
「義勇、コートとマフラーを」
「あ……うん」
 常日頃のハキハキとした喋り方とも、ちょっと違う。いかにも穏やかで、経験の深さを感じさせる口調だ。義勇が外したマフラーをさり気なく受け取り、温和に微笑む顔も、静かなくせにどこか雄っぽさを感じさせる。
 オフホワイトのニットから覗く鎖骨の、くっきりとした陰影に、いったい今日一日で何度ドキリとさせられているのやら。見慣れているはずなのに、ドギマギとしてしまってどうしようもない。
 こういった場面に慣れた大人の男性のような杏寿郎の振る舞いに、図らずも義勇の心臓が小さくわめいた。聞いてない、こんなに格好よくてスマートなさまを見せつけられるなんて、俺は聞いてないぞ! と、鼓動はドキドキと騒ぎ立てる。車中での杏寿郎の言葉を思い出せば、こっそり舌打ちすらしたくなった。

 セクシー、だと? そんなのおまえのほうじゃないか。ジェントルな仕草に、静かで男らしい笑み、鍛えられていることが服の上からでもわかる体躯。きれいな線を描く鎖骨が、TPOにそぐわぬ想像を掻き立てて、いたたまれない。たくましい首で尖る喉仏が、小さく動くところなど見てしまったら、見つめることさえためらわれた。

 降って湧いたときめきに、ボタンを外す義勇の手はちょっとばかりギクシャクと動いた。スッと後ろに回り込んだ杏寿郎に、コートを自然な仕草で脱がされると、鼓動はなおいっそう早くなる。
 にこやかな声でお願いしますとフロントに告げる杏寿郎に、義勇は内心でちょっとむくれた。これだから杏寿郎は侮れないというのだ。
 どうにか無表情を保ってはいるが、もし人目がなければ、きっと義勇は子供のように頬をふくらませていただろう。一人で大人になろうとなどしないでほしい。勝手が違って、心の奥の不安がまた頭をもたげてしまいそうにもなる。
 ときめきは不意打ちだからこそ、義勇自身の本音の在り処すらあらわにする。そんな本心は義勇にとって忌むべきものだというのに。

 だが、不安は長くは続かなかった。さぁ行こうと義勇をうながし歩きだした杏寿郎が、エレベーターに乗り込むなり、小さく眉をひそめて唇をとがらせたので。
「……失敗した」
「なにを?」
 エレベーターに乗り込んだのは、義勇たちだけだ。二人きりで少し気が緩んだのか、めずらしくも小さな舌打ちすらこぼすから、我知らず義勇はせわしなくまばたいた。
 今の流れのどこに悔しがる要因があったというのだろう。問えば杏寿郎は、ハッと目を見開いて、頬に朱をのぼらせた。どうやら無意識の独り言だったらしい。
「い、いや、そのっ」
「なにも失敗などしていないと思うが?」
 ずいぶんうろたえているから、なんとはなしかわいそうにすらなって言うと、杏寿郎は観念したらしい。
「……フロントを立ち去るときが、腰を抱く絶好のタイミングだと宇髄に教わったのに、緊張してしそこねた」
「は?」
 思わずポカンとして、義勇の目と口が丸く開く。
 宇髄の名が出るのは、べつにいい。なるほど、宇髄からレクチャーされていたかと納得もいく。おそらくは杏寿郎のことだから、面倒臭がる宇髄を押し切り、特訓してくれと頼み込みもしたんだろう。そして絶対に、特訓した。スマートが聞いて呆れるスポ根ノリで。受験生のくせに。
 礼は首尾の報告ってところだろうなと、義勇は胸中でこっそり、絶対に黙秘権を行使させようと誓う。宇髄だってそこまで本気で聞き出そうとはしないだろうが、素直に白状されてはたまったもんじゃない。

 それはいいとして、いったいなんなのだ。腰を抱くタイミング? 誰の? 決まっているだろう、俺のだ。

「……杏寿郎」
「いやっ、だってっ、クリスマスだしどうせ周りもカップルばかりだから、それぐらいはむしろしろと宇髄が! うながすときだけそっと腰を抱くだけなら自然だし、下心がみえみえにならずにスマートな大人に見えて、義勇だってドキリとするはずだと言われたから、それでだな! あっ、しっかりと抱くつもりはなかったぞ! こうっ、そっと支えるぐらいでと言われた、し……すみませんでした」
 ひとしきりわめいて、バツが悪そうに視線をそらせた杏寿郎に、あっけにとられる。

 下心、あったのか。あるのか。……いいけど。

 というか、なにもないと言われればそれはそれで、デートなのに? と、ちょっぴり面白くない気持ちにもなっただろうが、そこはあえて目をそらす。
 恋人同士なのだから、そういう期待がないとは、義勇にも言えない。けれどもはっきり口に出されるのは、勘弁してほしいところだ。あけすけになれるほど慣れちゃいない。杏寿郎だって、大胆に誘ってくるような真似は、今までしたことがないのだ。
 狭くて古いアパートの一室で行為におよぶときは、二人の気持ちが互いに高まったことを、見交わす視線が教えてくれる。杏寿郎は必ずといっていいほど、お伺いを立ててくるから、せいぜい年上ぶってうなずいてやることもできた。スマートな誘い文句など、ついぞ耳にしたことがない。
「人がいないからってわめくな。こんな場所で大声を出してたんじゃ、大人とは言えないな」

 ドキリとさせられる? 冗談じゃない。そんなスマートで自然な大人のふりなどしなくても、いつだって何度だって、杏寿郎にはドキドキさせられっぱなしなのだ。知られぬようにしているのは自分なのだから、気づかない杏寿郎を責めるいわれもないけれども。

 今度宇髄に逢ったら、アカンベェしとこう。

 胸中で固く拳を握り決心すると、そっけなく義勇は言う。冷静を装ったら、我ながらちょっと冷たい声音と口調になって、内心ほぞを噛んだ。
 責めたいわけじゃないのに、幻滅したと言わんばかりに聞こえたんじゃないだろうか。
 ちらりと横目で杏寿郎をうかがう義勇の心中は、いろいろと複雑だ。ときめきは消えきっていないし、期待もある。けれど恥ずかしいのも不安も事実で、うれしいけれどうれしくないし、怒っているけど怒ってない。
 こういう義勇自身にも明確にしきれない感情の機微だって、いつもの杏寿郎ならきちんとくみ取ってくれる。だけど、常とは異なるシチュエーションへの緊張もある今は、どうだろう。
 まだ高校生なのだ。恋人を連れての背伸びした大人なディナーなんていったら、そりゃ浮かれたってしかたない。緊張だって本当は並大抵ではないはずだ。それなのに責められたら、さしもの杏寿郎だって落ち込むのではないだろうか。
 せっかくの、クリスマスデートなのに。しかも、去年は義勇が不甲斐なくも寝込んだせいで、逢うことすらできなかった。恋人になって初めてのクリスマスだったのにだ。
 去年もきっと、杏寿郎はいろいろと考えていたに違いない。今日のようにホテルディナーだなんだとまではいかずとも、義勇を楽しませるのだと張り切っていたはずだ。だというのに、やっと正月に逢えたときには、平手打ちまでしたし……。だんだんと義勇のほうこそ落ち込んでくる。
 嫌われたらどうしよう、とは、思わない。やっぱりちっともそんな言葉は浮かんでこない。悔しくて悲しくもなるのは、杏寿郎が落ち込むことに対してだけだ。
 杏寿郎が義勇を嫌うことなど決してないと、義勇は知っている。義勇だって、たとえ太陽が西から昇ることがあろうとも、杏寿郎を嫌うことなどありえない。けれど、杏寿郎はそれを信じていないのだ。
 嫌われたらどうしよう。義勇のなかにはないその不安を、杏寿郎だけが抱えている。信じさせてやれない自分にこそ、義勇は後悔していた。悔しさは計り知れない。

「……すまん! 慣れないことはするもんじゃないなっ。でも、ちゃんと大人になるから、待っていてくれ。お互いしわくちゃのお爺さんになっても、一緒にいたいと思わせてみせる」

 グッと眉を寄せた顔は泣き出しそうだったくせに、すぐにカラリと笑って杏寿郎はそんなことを言うから、義勇のほうこそ泣きたくなる。
「そんなの……とっくに思ってる」
「っ、そうか! うん……約束したものなっ。ずっと、いつまでだって一緒にいると、指切りしたんだから」
 月にかかる薄雲のようなかすかな陰りを瞳に残しながらも、杏寿郎は、噛みしめるような声で言い笑う。
 コートを脱いでスタイルがはっきりわかると、杏寿郎の成長を実感する。身長こそ義勇とほぼ同じでも、杏寿郎の体格はもうすっかり大人の男だ。内面はまだまだ幼さを残しているけれど、こんな表情一つでさえも、ずいぶんと大人びた。義勇の目には眩しいくらいに。
 けれど、どれだけ大人になったって、きっと杏寿郎を杏寿郎たらしめる本質は、いつまでも変わらないのだろう。それこそお互いに白髪頭の老人になっても。
 義勇にとっては浮遊感を覚えるほどにうれしいその確証は、けれども、同時にそれこそが恐ろしいとも思う。

 だから決してリードを手放せない。手放してはいけない。絶対に自分の手に繋いでおかなければ。でないと杏寿郎から引き離されてしまう。

 ときめく胸とかすかな不安。見果てぬ未来は喜びに満ちていると信じたいのに、危惧は消えないから、かすかに睫毛が震える。
 答える言葉がとっさには見つからず黙り込んだ義勇に、杏寿郎の顔に不安がよぎるより早く、エレベーターが止まった。静かにドアが開く。
 世界から切り取られたような二人きりの空間から、俗世へと投げ出される刹那の戸惑いは、お互い様だったろう。虚を衝かれた義勇同様、杏寿郎も、一瞬だけ呆けた顔をしていた。
 だが、我に返るのは杏寿郎のほうが早い。いつだってそうだ。義勇を守ることを至上の命題にしている杏寿郎は、義勇といるときには常に義勇の半歩先を歩もうとする。手をつないでいてでさえそうなのだ。義勇を守る盾となり、義勇を傷つけるものを排除する剣となるべく。それは外面的なものだけではなく、内面でも同様だ。

「新幹線のなかで確認したんだが、今日の前菜は鮭らしいぞ。ツイてるなっ」
 杏寿郎の纏う空気は、完全に切り替わっている。いつもとまったく変わらぬ、お日様みたいな笑顔だ。義勇の肩からも知らず力が抜けた。
 予約客はそれなりに多いらしい。順番に案内されていくのが見える。カップルが多いから、お互いにしか意識が向いていないようだけれど、反射的にこちらへ視線を向けてくる人たちもいた。だからだろう。杏寿郎はたちまちかわいいワンコから義勇のガーディアンへと早変わりだ。
「さぁ、行こうか」
 スッと腰に触れてうながす仕草に、義勇はパチリとまばたいた。だけど、抗う気にはなれないし、ねめつけもしなかった。リカバリーだって杏寿郎は早い。落ち込みを引きずらないのだ。内心はどうあれ、少なくとも義勇の前では絶対に、落ち込んだままでいたりしない。

 宇髄の作戦通りにドキリとしたのは、内緒にしておきたいけれども、さて、どうしようか。

 向けられた視線は男女半々くらいだろう。男性同士での来客は義勇たちだけのようだ。ちょっと頬を染めてなにやら耳打ちしあっては、こちらをチラチラと見てくる友人同士らしい女性たちへの、牽制のつもりもあるんだろうなと、義勇は肩をすくめたくなる。
 あの人たちが見ているのは杏寿郎に決まってるのに。俺がモテるなんて馬鹿げたことを考えてるのは、絶対におまえぐらいだぞと、ちょっと呆れてしまう。
 呆れは素直に苦笑になって、義勇は小さな声で少しいたずらっぽくささやいた。
「サツマイモは? こういう店でわっしょいって叫ぶのは駄目だぞ?」
「……気をつける」
 いかにも憮然とした声にクフッと忍び笑うと、腰を抱く手に少し力が込められた。無意識にちらっと杏寿郎の顔を見ると、杏寿郎はなぜか真顔だ。
 恋人になってからたびたびあるこの反応に、義勇はいつもキョトンとしてしまう。
「義勇、錆兎さんたちがいないときに、人前でそういう笑みを見せてはいないか?」
「約束しただろ。ちゃんと守っている」
 だいいち、今は杏寿郎が一緒ではないか。笑おうとふてくされようと、注意される筋合いはない。口をへの字にして義勇がむくれると、杏寿郎はいかにもホッとした様子で笑った。
「それならいいんだ。あ、入れるみたいだぞ」
 ご機嫌な顔になってくれたのはいいけれど、なんなのだ。
「手」
「……むぅ、やっぱり駄目か。残念だ」
 意趣返しのつもりはないが、釈然としないのは変わらず、腰を抱いたままの手をペチンと叩けば、満更冗談でもない声で言って杏寿郎の手が離れた。
 本当は俺だって離してほしくない。なんて。そんなことは、絶対に言ってなどやらない。

 ホテルレストランのディナーともなれば、さぞ高級感があふれているかと思いきや、家族連れもそこそこいる。
 普段行くファミレスでは、放ったらかしにされた子供が走りまわっていることもあったりするが、小さい子もお行儀よく座っているあたりが、グレードの高さというものだろうか。緊張はするものの、落ち着いた空気に少しばかり安堵もした。
 ドレスコードもないようで、カジュアルな格好が目立つ。もしそんなものがあれば、ジャケット着用ではない義勇たちだって、門前払いだっただろう。記憶にあるテーブルマナーを、義勇は頭のなかで懸命に思い起こした。
 義勇たちが通った高校には、年に一度、社会に出たときに困らないようにというお題目で、希望者のみテーブルマナーの講習があった。学年問わず参加者を募った課外学習で、面白そうだなと杏寿郎が目を輝かせたから、渋る不死川や伊黒も一緒に四人で参加したことがある。マナーよりもむしろ、本物のフランス料理を食べられるという触れ込みが効果大だったんだろう。わりあい参加者は多かった。
 自分が将来フランス料理店を訪れる事態など想像もつかず、義勇たちも食べることに気を取られた授業だったけれど、それでもうっすらとマナーは覚えている。

 たぶん、杏寿郎のマナーは今のところ完璧だ。杏寿郎があの講習内容を完全に覚えていたとは……なんて思うわけがない。テーブルマナーまで完璧とは、宇髄天元、恐るべし。と、言うべきだろう。

「……特訓しただろ」
「バレたか。宇髄に習った。さすがに料理は本物じゃなかったがな。宇髄が作ってくれた食品サンプルのようなのを使ったんだが、やけに本格的だったぞ。見てると腹が鳴って困った」
 ハハハと快活に笑う声も、少し控えめだ。高級感はあれどもカジュアルな店だが、いつものトーンで笑えば迷惑になると肝に銘じているんだろう。
「いつもと違って、俺の後ろを歩くからビックリした」
 着席も義勇が腰掛けるのを待ってだったし、周囲を見回せばコートを椅子の背に掛けてる人らもいるが、なんだか客も給仕も邪魔そうで、クローク利用は正解だったと思い知った。
 席につくのもちゃんと左側からだ。少し年配のウェイターが浮かべた微笑みは、お愛想ばかりでもないだろう。義勇にしてもなんとはなし鼻が高い。杏寿郎は、やっぱり血統書付きだ。
 だけれども、だ。
「俺はエスコートする立場だからな。宇髄に気をつけろと言われたんだ」
「禁句」
 食前酒代わりに出されたジンジャーエールに口をつけながら、義勇がぶっきらぼうに言うと、杏寿郎の目がパチパチとしばたかれた。キョトンと首をかしげる仕草は、ゴールデンリトリバーの仔犬みたいだ。かわいいけれども、ほだされてやるにはやっぱりちょっと面白くない。
 なんのことだかわかりませんと見開かれた目が、目まぐるしく記憶を探っていることを伝えてくる。
「錆兎が」
「うん?」
「俺の誕生日に旅行しようかって言うんだ。おまえも受験だし、こられないだろうからって」
「なっ!」
「大声禁止。あぁ、村田にも、車やバイトのお礼をしないとな。村田が見たがってた映画があるから、一緒に観に行こうかと思うんだが」
 目をむいた杏寿郎に澄まし顔で言えば、杏寿郎の眉がムッとしかめられ、すぐさまへにゃりと下がって、ついでこらえきれぬと言わんばかりの笑みが浮かんだ。
 くるくる変わる表情は、まさに百面相としか言いようがなくて、義勇はムズムズとしてくる唇を懸命にこらえた。
「ほかの男の名は禁句だったな。すまん、義勇がヤキモチを焼いてくれるとは思わなかった」
「……俺だって、嫉妬ぐらいする」
 ふにゃりとうれしそうに笑う顔が、どこか幼い。スマートな大人の仕草にもドキドキしたけれど、それよりもっと義勇の胸をキュンと締めつけるのは、そんな笑顔だということに、杏寿郎が気づくのはいつだろう。知られないままでもいいけれど。
 恋心の大きさは自分のほうがずっと大きいと、きっと杏寿郎は信じている。そんなことないのに。どれだけ義勇が杏寿郎のことを好きでたまらないのか、肝心の杏寿郎だけが気づかないのだから、高感度冨岡センサーの精度も当てにはならない。
 好きだよと、たやすく口にできなくなったのは義勇自身だから、しょうがないのだろうけれども。恋だと自覚してから、今までのように大好きと笑うのは、ちょっぴり恥ずかしい。
 だけど気持ちはまるで変わりがない、というか、むしろどんどん大きくふくらんであふれかえっている。大好きなんて言葉じゃ足りないくらいに。
 愛してるでも、きっと足りない。好きの最上級が愛してるなら、この気持ちを伝える言葉は愛してるになるのだろうけれど、それでもやっぱり足りやしないから歯がゆくもなる。
 でも、愛してるですら言えないのだ。愛してるなんて言ってしまったら、歯止めが効かなくなりそうで怖かった。
 あんまり無邪気に恋に酔うのは駄目だ。杏寿郎まで抑えを忘れる可能性がある。そうなれば、今まで以上に嫉妬心や警戒心もふくらむだろう。それは避けなければならないのだ。

 展望の良さが売りのスカイラウンジだけあって、階下に見えるイルミネーションは非日常感に満ちてきらびやかだ。遠目に見えるショーのライトに気づき、サプライズ感がなくなったと無念そうに杏寿郎が嘆くのに笑う。
 クリスマスリースに見立てた華やかな鮭の前菜。じんわりと身にしみるオニオングラタンスープは、お互いちょっぴり行儀悪く、ウェイターの目を盗んでフゥフゥと冷ましてから。クスクスと共犯者の笑みを浮かべあう。
 魚料理として出たエビにあわせる白ワインや、メインの肉料理に供されるはずの赤ワインが、それぞれ白と赤のぶどうジュースなのは、ご愛嬌ってものだろう。だって未成年なのだし。
 年齢をごまかさず伝える杏寿郎の生真面目さは、興ざめになどならず、義勇にとっては好ましいばかりだ。
 うまい! と、いつものように杏寿郎が言わずにいれば、食事は常になく静かだ。義勇はもともと食べながらでは話せないから、いつもなら杏寿郎がうまいうまいと言うのに助けられている観がある。けれども、静かに微笑みあって、ときおりささやき交わす食事は、それでも夢見心地ってこういうことなのかなと思うぐらいには、穏やかで幸福感に満たされていた。
 カフェテリアスタイルのデザートブッフェは、残念ながらあまり堪能できなかった。杏寿郎の胃袋からすると、ホテルの食事は量がまったく足りないだろうが、タイムオーバーだ。駐車場での一幕で時間を食ったのが惜しい。
 ラストのコーヒーを飲み干したら、二人そろって自然と微笑みが浮かんだ。
「出ようか。イルミネーション見よう」
「うん」
 素直にうなずいた義勇の胸にある不安は、コーヒーとともに飲み込まれて溶けた。