にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 1

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎が義勇と初めて逢ったのは、杏寿郎が四歳になった翌日である。よく晴れた五月の昼下がり、幼稚園のお庭で外遊びしていたときのことだった。
 キャアキャアとにぎやかな園庭の隅、一人膝を抱えて座り込んでいる子がいるのに杏寿郎が気づいたのは、偶然というよりは必然だ。
 みなの輪に入れない子がいれば誘ってあげねばと、キョロキョロと周囲を見回していた杏寿郎だからこそ、気づけたのだろう。それぐらいその子はひっそりとしていて、まるで消え入りたいかのようだった。
 立てた膝にうずめた顔は見えない。着ているスモックは水色で、男の子だということだけが知れた。
 お友達と砂場で大きなお山を作ろうとしていた杏寿郎は、迷わず立ち上がると、その子に向かって駆け出した。

「きみ! なにをちているのだ? あっちでおともだちとあしょぼう! いまからおやまをちゅくって、とんねりゅをほゆのだ! たのちいぞ! いっちょにちゅくろう!」
 笑って声をかけても、その子は顔を伏せたまま小さく首を振っただけだった。
 だから杏寿郎は、その子の隣にストンと腰を下ろした。同じように膝を抱えて座り、はしゃいだ声を立てるお友達を見つめる。
 その子がようやく声を発したのは、杏寿郎が隣に座り込んでから五分ほどもしてからだ。
「……なんでここにいるの?」
「うむ! きみがここにいゆからだ! ははうえが、こまってる人がいたらやしゃしくしなしゃいといってた!」
 胸を張って杏寿郎が言うと、その子はますますギュッと膝を抱えてしまった。
「こまってない。あっち行って」
 言葉のわりにその子は怒っているようではなかった。どちらかというと、なんだか悲しそうな声だ。
「こまってないなら、かなちいのか? しょれならおれがよちよちちてやろう!」
 杏寿郎がしょんぼりとしていると、いつだって母はやさしく抱きしめよしよしと撫でてくれる。そうすると悲しい気持ちはゆっくりと溶けていって、杏寿郎は笑顔に戻れるのだ。
 だからこの子もきっと元気になってくれるはずだ。思い杏寿郎は、隣に座る男の子を小さな手でギュッと抱きしめ、うつむいたままの頭をよしよしと撫でた。
「よちよち、おとこのこは、ないてはだめなのだぞ」
 男の子は、年少さんになったばかりの杏寿郎よりも、ちょっぴり大きかった。それでもなんだか、膝を抱え込んで縮こまっている姿はとても小ちゃく感じられて、消えてしまおうとしているみたいだった。それはとても寂しいことだと杏寿郎には思えたのだ。
 お空は晴れてお日様はピカピカしているし、とても気持ちのいい風だって吹いている。砂場やジャングルジムで遊ぶのは楽しい。なのに誰とも遊ばず隅っこで一人ぼっちでいるなんて、もったいない話ではないか。

「なにがしょんなにかなちいのだ?」

 聞いても男の子は答えてくれない。杏寿郎のほうが困ってしまう。けれども放っておくことなどできなかった。だって杏寿郎よりもお兄ちゃんに見えるのに、男の子はとっても悲しげに小さくなっているのだから。

 杏寿郎は、泣いたことがない。いや、覚えていないだけで、もっと小さいころにはそれなりに泣きべそをかきもしたのだろう。それでも今は、転んだり悲しいことがあったりしても唇をへの字にグッと噛みしめ、泣くのを我慢する。
 男の子は簡単に泣いてはいけない。父や母はいつも言う。だから杏寿郎は泣いたりしない。
 もちろん、泣いている子を馬鹿にする気もない。去年初めて逢ったときに従兄のお兄ちゃんが泣いていたのをうっすらと覚えているけれども、父も母もお兄ちゃんを強い子だと褒めるのだ。涙を見せたからって弱虫ではない場合もあるのだろう。
 男の子がどうしても涙をこらえきれなかったのなら、それは、とっても悲しいからに違いない。だからもしこの子が泣いていたって、杏寿郎は、慰めてあげたいと思うだけだ。笑ってほしいと願うだけだ。
 腕のなかのこの子に、泣いている様子はない。それでも杏寿郎の目には、声を殺して泣いているように見えた。
 杏寿郎は母に「あなたは強い子だからお友達を守ってあげなければいけません」と言われている。だから杏寿郎は黙ったままの男の子を抱きしめ、撫でつづけた。

 男の子の髪は、キラキラした杏寿郎の髪と違って真っ黒だ。お習字のときに母が磨る墨みたいに艶やかな黒だった。
 母がお習字するときの匂いが、杏寿郎は好きだ。墨の匂いは母のどこか甘い匂いと混ざりあい、なんとなく安心する。
 墨とは違うけれども、この子もちょっといい匂いがする。お花みたいな甘い匂いがする黒髪は、母の髪に似ている。癖のないサラサラとした母の髪と違ってくせっ毛なのだろう。ぴょんぴょんとところどころはねた髪は、見た目よりも柔らかかった。

 どれぐらいそうしていただろう。不意に男の子が小さな声で言った。
「おとうさんとおかあさんが、死んじゃったんだ」
「えっ!?」
 あんまり驚いて杏寿郎が撫でる手を止めると、男の子はますます小さく縮こまった。

 杏寿郎はまだ、死ぬという意味がよくわからない。でも、とても悲しいことだというのはわかる。だって死ぬともう逢えないのだ。この子は父にも母にももう逢えないということではないか。

「おねえちゃんも、学校やめてお仕事することになっちゃった。おうちにもいられなくなったから、もう錆兎や真菰にも逢えない。おうちに帰りたい……おとうさんとおかあさんに逢いたい。でも言っちゃダメなんだ。おねえちゃんが悲しい顔しちゃう」

 男の子の声はどんどんと悲しげに震えていく。うずくまる小さな体も震えていた。杏寿郎の胸がキュウッと痛くなる。
 錆兎と真菰というのが誰なのかはわからないけれど、きっと大好きな人たちに違いない。そんな人たちにも、この子は逢えないのだ。
 お姉ちゃんを悲しませまいと、泣くこともできずにいるんだろう。とってもやさしい子なのに、こんなふうに一人ぼっちで悲しい涙をこらえるなんてあんまりだ。杏寿郎もどんどんと悲しくなってしまう。

「おれがいっちょにいてやる! ないたらいちゅもおれがよちよちちてやるから、かなちかったらないてもいいぞ! しょうだっ、おれのおうちのこになるといい! ちちうえもははうえも、とってもやしゃしいから、だいじょうぶだ!」

 思わず言った言葉は、幼児の思いつきでしかない。だけれども、とびきりの名案に思えた。もちろん、お仕事をしているお姉ちゃんも一緒にだ。杏寿郎の家は大きいから部屋ならある。
「そうちよう! おれはれんごくきょうじゅろう、よっちゅだ! きみのなまえはなんていうのだ?」
 この子が一人で涙をこらえて膝を抱えているなんて駄目だ。そんなの杏寿郎こそが悲しくなってしまう。この子が悲しくて涙を流すときにはいつだって、杏寿郎が抱きしめて撫でてやるのだ。そうしたらきっと、この子だって笑ってくれるだろう。
 明るく言った杏寿郎の声に、ピクンと男の子の肩が揺れて、そろりと顔が上げられた。ようやく杏寿郎を見返した瞳は、澄み渡るお空みたいな青。近所の家に生まれた子猫の目に似た――キトゥンブルーというのだと母が教えてくれた――キラキラと光る目だった。

「……冨岡義勇。五歳」

 おうちの人に言わないで勝手にそんなの決めちゃダメなんだよ? ちょっぴり泣きそうな瞳で笑って言った義勇の顔を、今も杏寿郎は忘れていない。

 その日の夜、布団のなかで杏寿郎は、母にとってもすごい秘密を打ち明けた。
「ははうえ、ぎゆうはしゅごいんでしゅ、まほうがちゅかえましゅ! おほちしゃまとおはなのまほうでしゅ。だってぎゆうがわらうと、おほちしゃまよりもキラキラちましゅ! おはながさいてるみたいでちた!」
「そうですか。義勇さんはとても愛らしい子ですからね。やさしくしてあげるのですよ?」
「はい!」
 満面の笑みでうなずいた杏寿郎の頭を、母はやさしく撫でてくれた。

 杏寿郎の提案は残念ながら義勇には却下されてしまったが、お迎えにきたとてもやさしそうできれいなお姉ちゃんは、義勇と仲良くしてやってねと杏寿郎に言ってくれた。「はい! おれがぎゆうをまもってあげましゅ!」と宣言した杏寿郎に、うれしそうに笑ってもくれた。
 蔦子と名乗った義勇の姉と、母が交わした会話を、杏寿郎は知らない。母がぜひにと誘い、義勇と一緒に家で夕飯を食べたあとも、帰宅した父も交えての蔦子との話し合いは長く続いた。そのあいだ杏寿郎は義勇と遊べたのだから、文句はない。
 父が懇意にしている弁護士のおじさんが、それ以来しょっちゅう家に来るようになった理由だって、そのころの杏寿郎にはわからなかった。当時杏寿郎が理解できたことなど、ほんのわずかだ。おじさんがいつもお土産にくれるシュークリームが、義勇と一緒に食べると今までよりずっと甘くおいしく感じられたことや、頬についた生クリームを拭ってやるとはにかみ笑う義勇が、とてもかわいかったこと。それだけわかっていればじゅうぶん幸せだった。
 未成年後見人だの遺産の管理や着服だのといった、義勇たちを苦しい境遇に陥らせた諸々の言葉を杏寿郎が知ったのも、もっとずっと大きくなってからだ。
 そのころにはもう蔦子も成人して、義勇と二人で住んでいた四畳半一間の風呂なしアパートからだって引っ越していた。部屋が六畳になりユニットバスがついただけだったが、義勇はとてもうれしそうに、杏寿郎が泊まりに来てもこれで大丈夫と笑っていた。

 本当なら高校一年生だった蔦子が、父や母からの援助の勧めにうなずくことなく働き続けたのは、いまだに少し残念な気がしないでもない。
 後見人となった親戚が頼りにならないどころか、未成年な蔦子たちの保護すらせずに遺産や保険金を食いつぶそうとしていたのを思えば、警戒心が騒いでもしかたのないところだ。
 だが、蔦子が煉獄家との養子縁組にうなずかなかった理由は、出逢ったばかりの他人でしかない父たちへの不信からではなかろう。生真面目すぎる人なのだ。
 運送会社の事務員として働いていた蔦子は、義勇の学費に充てるため、取り戻せた遺産にもほとんど手を付けずにいたらしい。大学に進学せず就職しようとした義勇を説得できたのは、父や母の諭す言葉よりもむしろ、蔦子に見せられた貯金通帳のおかげだろう。
 心配無用と笑った蔦子は、儚げな容姿であっても肝の据わった女性なのだ。でなければ、齢十五の少女が細腕一つで弟を育て上げることなどできやしない。
 そんな蔦子の弟であるから、生真面目さは義勇だって変わりがない。頑張り屋なのも姉譲りだ。どんなに家族同然だろうと、二人は煉獄家に頼りきりになったりなどしなかった。義勇も蔦子も、水臭いほどかたくなに節度を守ろうとする。幼いころからそうだった。そろって血統書付きさながらな品の良さでありつつも、性根の部分では野良猫のごとくにたくましく生き抜く力を備えている。そんな姉弟なのである。
 頼られたい杏寿郎からすれば、そのかたくなさはときどき他人行儀なと思わなくもないが、これはもうしょうがない。口さがない世間の陰口に対する自衛もあっただろうけれど、そういう気質なのだ。
 そんな義勇だからこそ、ためらいがちに甘えられるのがかわいくてたまらず、父や母は杏寿郎に対してよりもよっぽど義勇のことを案じていたと思われる。いまだにやたらと義勇を甘やかしたがるのだ。
 杏寿郎は放っといてもまっすぐにたくましく育っているが、義勇は繊細だけど大雑把だし、賢いけれども抜けている。なによりもとにかく愛らしい。うかつに目を離せばどんな危険な目に遭うことか。というのが、父と母の大義名分である。杏寿郎とて否定はしない。いや、むしろ全面的に同意する。

 そんなふうに周囲の者たちの庇護欲を掻き立てる末っ子気質な義勇だが、杏寿郎に対しては、守るのは自分の役目だと思っているフシがある。やけにお兄ちゃんぶりたがるのだ。
 義勇は蔦子と歳が離れているせいもあってか、両親が健在のころから冨岡家の小さな王子様といった扱いだったらしい。いわゆる猫かわいがりだ。同い年の幼馴染たちにも弟のように思われているそうで、甘やかされてばかりだったものだから、お兄ちゃんという立場に多大な憧れがあったとみえる。
 ちなみに、命日には毎年蔦子と二人だけで故郷に墓参りに行っていた義勇は、そんな幼馴染たちとも今なお交友を続けている。毎年恒例の、杏寿郎が義勇と離ればなれになる日。義勇が杏寿郎の知らない大好きな人たちと過ごす日だ。
 命日なのだから水入らずでのほうがいいだろう、邪魔はしないように。そう父や母に言われたし、義勇だって年に一度しか逢えぬ友人たちと心置きなく交友したいはずだ。となれば、杏寿郎だってじっと我慢の子で義勇の帰りを待つしかない。そんな日が幼いころからあったのだ。
 まぁ、それを経験してきたからこそ、お互いの修学旅行だとかインターハイ出場のための遠征も、どうにか我慢できたのかもしれないが。墓参りと違って数日に及ぶ学校行事は、我慢しきれず毎日電話してしまったけれども。それはともあれ。

 悲しくてつらくてたまらぬ時期に出逢ったせいか、当時の義勇は生来の人見知りがさらに強くなり、幼稚園でも杏寿郎の影に隠れがちだった。けれど、杏寿郎よりも年上だという自負はしっかりと持っていたに違いない。杏寿郎のお兄ちゃんとして振る舞おうとする場面は多かった。それは今も色濃く残る習性となっている。
 とはいえ、言葉こそ舌足らずであっても杏寿郎は元来しっかり者だ。手助けを求めることなどほとんどない。だから義勇は、杏寿郎が義勇を守りかばおうとするのを、うんうんと素直に聞いてやることで甘やかしていた。……とは、母の見解である。
「ぎゆう! みじゅたまりがあるぞ! ぬれてちまう、こっちだ!」
 ナイトよろしく手を引く杏寿郎に、ありがとうと笑って素直についていく姿はたいそう愛らしかったと、母は懐かしそうに笑う。
「義勇さんのおかげで、子育てがとても楽です」
 いつも義勇がお世話になってと恐縮する蔦子に、母がコロコロと笑ってそう言っていたのは、掛け値なしの本音だっただろう。
 義勇さんはちゃんとうがい手洗いしてますよだの、遊んだ玩具を片付けられて義勇さんはえらいことだの言われれば、杏寿郎だってきちんとせねばと張り切る。お手伝いやお勉強だって義勇と一緒なら以前にもまして進んでするし、義勇に恥をかかせてなるものかと礼儀作法だってバッチリだ。父から習いだした剣道も、義勇を守る強さを身につけるため真剣に打ち込んだ。
 おばけだって怖くないし、転んでも泣いたりしない杏寿郎だけれど、義勇に嫌われるのは怖い。悲しくてつらいに決まっている。嫌われるのは絶対に嫌だ。
 義勇に呆れられたり眉をひそめられたりしないよう良い子に、義勇を守る騎士となるべく今以上に強い子になるのだと努めた結果、杏寿郎はまったく手のかからぬ子になった。駄々をこねたりわがままを言うなんて子供じみた真似はもってのほか。反抗期? なんですか、それ。ってなものだ。
 とはいえ、義勇はおっとりとしているわりに存外気が強いので、深窓の姫君のごとくに守られるつもりなどさらさらないだろうが、気持ちの問題である。

 どれだけ杏寿郎が頑張ろうと、家事能力に関してだけはいかんともしがたかったのだが、それはまぁしょうがない。義勇はそんなことではちっとも杏寿郎を嫌ったりしなかったし、それどころか、杏寿郎よりもできることが俺にもあってうれしいと笑うから、今まで問題にもならなかった。
 千寿郎が生まれてからは、杏寿郎が生来持つ庇護欲もいや増したものだが、義勇だって負けず劣らずである。兄貴分として堂々と可愛がれるからか、義勇は千寿郎にはたいそう甘い。千寿郎が家事を好むようになったのは、大好きな義勇が率先して母や姉の手伝いをするのを見て育ったからだろう。杏寿郎を尊敬してやまぬ千寿郎だけれども、こと家事に関してだけは、母の次に義勇を師と崇め奉っている兆候すらある。
 そんな煉獄家であるから、家電や家さえ無事ならば、杏寿郎の家事音痴もとくに問題視されていなかった。だというのに、ここにきてまさに杏寿郎の破壊神もかくやな家事能力こそが、義勇を連れ戻すにあたっての大問題なのだ。
 煉獄家一同が落とすため息は、とてつもなく深かった。