母が嫁入りに着た打ち掛けをまとった蔦子は、とてもきれいだった。
父と母を二人目のお父さんとお母さんと呼び、ありがとうございましたと泣きながら笑った蔦子は、今まで杏寿郎が見たなかで一等幸せそうだった。意外と涙もろい父はもちろん、常に冷静な母でさえ涙ぐんだのは言うまでもない。
杏寿郎だって泣いた。ほんの少し寂しくて、でも、途方もなくうれしくて。頬を伝った涙は、杏寿郎のまだ長くもない人生でもっとも温かく穏やかな涙であり、今後も長く不動の座にあるだろう。杏寿郎にとってもそれほど幸せな涙だったのだ。
幼稚園のころに出逢ってからずっと、蔦子姉さんと呼び、心から慕っていた人である。蔦子も杏寿郎のことを、義勇に対するのと同様にかわいがってくれた。杏寿郎にとっては実の姉とも思い、幸せになってほしいと願っていた人なのだ。
うれし涙を浮かべて微笑む義勇と手をつなぎ、新郎と並んで盃をかたむけるお雛様のような蔦子を、きれいだな、よかったなと泣き笑い見つめたのは、ほんの一年半前のこと。桜が舞う四月の初めだった。
生まれ故郷に住む幼馴染と交際を続けていた蔦子が、長すぎる春のすえに結婚したのは、義勇の大学進学と同時だ。結婚を機に仕事をやめ生家のあった地へと蔦子は嫁ぎ、義勇も同じ地に移り住んだ。
新婚家庭に同居はせず、現在義勇は、大学近くにある四畳半一間の築六十年になるアパートで一人暮らし中である。蔦子や義兄が遠慮するなと言っても、意外と意地っ張りな義勇は頑としてうなずかなかった。
義勇の一人暮らしについて、反対意見がなかったとは言わない。ひっそりとすねるから誰も本人には言わないが、義勇はけっこう抜けているところがある。ポヤポヤとして春の陽だまりのような人なのだ。
とはいえ、幼稚園のころから蔦子が残業で遅くなるときには煉獄家で迎えを待っていた義勇は、母の薫陶よろしく料理をはじめ家事全般お手の物である。
杏寿郎だって義勇同様に母のお手伝いに積極的だったが、杏寿郎がやれたことには限りがあった。買い物や洗濯物の取り込みならまだしも、台所仕事に関しては全滅だ。どんなに義勇と一緒にやりたくとも、母は調理中は決して杏寿郎を台所に立ち入らせてはくれなかった。
英断だと家族も友人も深くうなずく。なにしろ幼いころから杏寿郎は、握りつぶした玉子で台所を玉子まみれにし、ピーラーでじゃがいもの皮をむけば血まみれの小さな欠片になるありさまだったのだ。食事時の手伝いは、そうそうにお膳を拭くぐらいしかさせてもらえなくなった。
そんな杏寿郎にちょっぴり苦笑いしつつも、「きれいに拭けてる。杏寿郎はえらいな」と言ってくれた義勇はといえば、一人順調に料理の腕前を磨いていったものだ。
だから杏寿郎と違って、義勇の食生活については誰も心配などしていなかった。料理以外も同様だ。掃除洗濯についても母に手抜かりはない。小学生の時分からすでに義勇は色柄物を分けて洗濯し、湿らせた新聞紙で窓ガラスを磨くお子様となっていた。
当時よく言われた褒め言葉の「いい嫁になれそう」に関しては複雑そうなすね顔をしていたけれども、そんな顔もたいそうかわいかったと、思い返すたび杏寿郎の頬は緩む。大人たちの発言への異論もない。全面的に同意の一言だ。
おばちゃんのおかげでお姉ちゃんの手助けができるとうれしげに笑う義勇には、母も物静かな顔の下でメロメロになっていたに違いない。今も義勇が来るといそいそと一緒に台所に立ち、義勇の好物である鮭大根を食卓に乗せる。義勇が恐縮するぐらい、義勇の好物だらけの夕飯になるのはいつものことだ。
「ご両親のお墓もあちらにありますし、蔦子さんもいるとなれば、定住の地に選ぶ可能性は高いでしょうが……ですが、義勇さんがあちらで暮らしていたのはほんの五歳まででしょう? 知り合いはほとんどこちらにいるのに、なにかあったら頼れる方はいらっしゃるんでしょうか」
ホゥッと少し悩ましげなため息とともに言った母に、杏寿郎の目がカッと見開いた。
「それです! たとえ生まれ故郷といえども、友人や知人はこちらのほうが多いはずですし、長男とはいえ家を継ぐわけでもない! 義勇だってまだあちらに骨を埋めると決めたわけではないはずです! だが、義勇は父上や母上もご存知のとおり、遠慮がちで慎ましい……少々強引にでもこちらに戻るよう促さねば、遠慮し続けいずれは通り一遍なお付き合いなんてことにもなりかねないではないですかっ! それは絶対に阻止しなければなりません!」
遠い親戚めいたつきあいになるなど、まっぴらごめんだ。それは杏寿郎のみならず、煉獄家の総意でもある。
「兄上、義勇さんは今よりもっと遊びに来てくれなくなるのですかっ!?」
心配げにチラチラと部屋を覗き見ていた千寿郎まで、泣き出しそうな顔で杏寿郎へと詰め寄ってくるにいたり、家族会議の場は妙な緊迫感に包まれた。
「……説得できるか?」
「猶予は四年間あるのです、必ずやしてみせます!」
「ですが……杏寿郎、あなたの一人暮らしについてはまた別です。義勇さんにおんぶに抱っこというわけにはいかないのですよ。義勇さんの生活に支障をきたすような真似は、この母が許しません」
「ぅぐ! ……わ、わかっています!」
「義勇は杏寿郎の世話まで一手に引き受けかねないからな。あの子は本当に気立てがいい」
「せめて杏寿郎にもうちょっと生活力があればよかったのですが……」
「大丈夫です! これから猛特訓して、俺も四月までには鮭大根を作れるようになってみせます!」
意気軒昂に宣言した杏寿郎に頑張れと励ましてくれるかと思いきや、父や母のみならず千寿郎までもが心痛な顔から一転、クワッと目を見開いた。一斉に叫ぶ声が座敷に響きわたる。
「やめろっ! 家を燃やす気か! よしんば火事は免れても家計が火の車になるだろうが!」
「台所は立入禁止と言っているでしょう! 鍋釜包丁を凶器に変えるのは許しません!」
「兄上、義勇さんのところに行く前に天国に逝ってしまいますよ!」
「……よもや、そこまでか」
つかの間の沈黙が重い。一同そろって、ハァッと深いため息をつく。肩だって落ちる。
もはや杏寿郎の進路がどうこうという話ではない。議題はすでに、いかに義勇をこちらへ呼び戻すかにシフトしていた。が、誰も気づかない。というか、あえて無視している始末だ。
ここまで杏寿郎を……というか煉獄家の面々を駆り立てる、義勇という人物。いったいいかなる者かと問われれば、杏寿郎は、世界で一等麗しい人だと胸を張って答えるだろう。
冨岡義勇、御年十九歳の大学二年生。出逢いは幼稚園。杏寿郎にとっては幼馴染ということになる。
見目麗しく高潔な心根の、生真面目を絵に描いたような好青年だ。艷やかだけれどもくせの強い黒髪と青く透き通った瞳をした義勇は、幼少時からたいそう愛らしかった。今はどちらかといえばクールだとか冷静沈着と言われることが多くなったが、かわいさだってちっとも目減りしちゃいない。
もちろん義勇の美点は容姿だけではない。口下手なうえ無愛想もここに極まれりといったまるで置物のような佇まいだけに、誤解されることも多々あるが、とてもやさしく思いやり深い人でもある。
少なくとも、幼いころから義勇をよく知る煉獄家の面々にとって、愛さずにはいられない人物であるのは間違いない。
つけ加えるならば、杏寿郎にとっては初恋の人でもあった。
齢四歳での初恋は、自覚まで幾分かかりはしたものの、高三も終盤近い現在にいたっても継続中だ。むしろ年追うごとに想いは深まるばかりである。
さらに言えば、目下絶賛遠距離恋愛中の――高校生の杏寿郎にとっては、新幹線で七駅も離れれば充分遠距離だ――恋人でもあった。一応、父や母には内緒ではあるけれども。どうせ筒抜けだが、一応、内緒なのだ。だって義勇が恥ずかしがるから。