錆兎
顔は笑っていても、真菰の声は少し震えてる。きっと自分も、口を開いたら同じような声になるだろうと、錆兎は思う。
だって、絶対に真菰と自分は、同じ不安を抱えているに違いないのだ。
真菰が考えていることならなんだって、錆兎にはわかる。今はまだ。できることならずっとそうありたい。
でも、義勇のことだってわかっていると信じていたのに、近ごろ急にわからないことが増えてきた。炭治郎と義勇が出逢ってから。宇髄と煉獄が現れてから。
「そんなことないだろ? だって義勇さん、真菰や錆兎が大好きだし、二人は義勇さんの特別じゃないか」
きょとんとして炭治郎が言う。困惑する様子もなく。
それはきっと炭治郎にとっては確定事項なんだろう。自分だって義勇の特別になりたいと思っていることが丸分かりなのに、炭治郎は、錆兎と真菰が義勇の特別だと疑わない。疑う要素なんてどこにもない、決まりきっていつまでも変わることのない事実だと、思ってる。
でも、炭治郎は知らない。本当はもう、炭治郎は義勇の特別だってことを。錆兎や真菰の目からすればわかりきったその事実に、炭治郎はまだ気づいていないのだ。
もしかしたら、義勇自身さえ気づいていないのかもしれない、その変化。炭治郎と出逢ってからいつかはと覚悟してきたけれど、それはあまりにも早くて。覚悟を決めたはずなのに、幼い心が追い付かない。だけど、このままでいられるとは、思ってない。このままでいいなんてつもりもない。
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人相似たらず」
「んん? えっと、それ、なに? なんかの呪文?」
ぽかんとした炭治郎に、錆兎は思わず小さく笑った。笑えてよかったと思う。
「変わらない人なんていないってことだ」
義勇の変化を喜ぶべきなのは理解している。うれしいとも思っている。元の義勇に戻ってくれることを、心の底から願う気持ちに嘘はない。誓ってそれは本当なんだけれど。
もう少し、このままで。もう少しだけ、自分たちに守られる義勇でいてほしい。義勇のことを理解できるのは、自分たちだけ。誰より特別なのは、自分と真菰だけ。義勇にもそう思っていてほしかった。
そんなことを願ってしまうのは、俺が子供で未熟者だからなんだろう。だから早く大人になりたい。もっともっと大人になりたい。
それなのに、錆兎たちが大人になることを当の義勇に厭われたら、どうしたらいいのかわからなくて不安になる。自分のなかにある幼さが、怖い、泣きたいと、悲鳴をあげそうだ。きっと真菰も同じように思ってる。
でも。でもな。
「……炭治郎は心配しなくていい。天元が言うとおりだって、俺と真菰もちゃんとわかってる。もう少し時間が欲しかったってだけだ」
炭治郎にだけでなく、真菰にも言い聞かせるように、錆兎は言った。だから泣くなよと伝えるつもりで。それは正しく真菰に伝わったようだ。小さく唇を噛んでうなずく真菰に、錆兎もうなずき返す。
泣くな。うれしくて零れる涙以外は、絶対に流すな。義勇が見ていようといなかろうと。それは二人で決めた内緒の約束。大人になるのだと誓ったときに、小指を絡めて約束したのだ。だから。
錆兎はすっと小さく深呼吸すると、気持ちを切り替え炭治郎と真菰を交互に見遣った。
「それより次はどこに行く?」
うながせば、まだ心配げに眉を寄せつつも「うーん」とうなりながら炭治郎が首をひねった。深く追求しないでくれるのが有り難い。
「義勇さんの言付けを聞いて、外に探しに行ったのかも」
「杏寿郎と入れ違いにってのは考えられなくもないか……じゃあ、外の休憩所を探してみるか」
「賛成。煉獄さんたちは男湯を探してるんでしょ? なら私たちは外だね。同じところを探すんじゃ効率悪いもん」
ともかく外にある休憩所の場所を調べようと、ドアに向かって歩き出した錆兎たちの足が、背後からかけられた声にぴたりと止まった。
「竈門の兄ちゃん、いたぁ!」
「え? 俺?」
炭治郎を呼んだ声に三人が振り向くと、同い年ぐらいな男の子が満面の笑みで駆け寄ってくる。
「竈門禰豆子の兄ちゃんだよなっ? あのさ、竈門がここで兄ちゃんを探してたんだ。俺の兄ちゃんがあんまり動き回らないほうがいいって言うからさ、竈門には厨房で待っててもらって、俺と就也で竈門の兄ちゃん探してたんだよ」
「本当に!? ありがとう!!」
パッと輝いた炭治郎の顔。真菰と錆兎も顔を見合わせ瞳を輝かせた。
禰豆子の隣のクラスだと言うその男の子──不死川弘に案内されて、厨房へと向かう。
厨房は近づく夕飯時に備えてか、ずいぶんと忙しそうだ。夕食をとる客がレストランを訪れだしたら、今以上に慌ただしくなるのだろう。
せわしない空気に満ちた厨房を進むと、奥のほうに、こんな場所には不似合いな子供たちの姿があった。床に置いたビールケースに腰かけて、子供たちはなにやら楽しげだ。
「玄弥兄ちゃん! 竈門の兄ちゃん連れてきたよ!」
弘の声に、一番大柄な背中が動いた。その陰からひょこっと顔を見せたのは探し人。
「お兄ちゃん! 真菰ちゃんと錆兎くんもいたぁ!」
「禰豆子!! 探したんだぞ!」
いたってのはこっちのセリフだぞと、錆兎は軽くため息をつく。ぴょこんと立ち上がり小走りにやってくる禰豆子の満面の笑みとは裏腹に、同じく足早に近づいていく炭治郎は少し泣きそうだ。真菰もほぅっと安堵のため息をついている。
禰豆子にお説教したい気持ちが沸き上がりかけたけれど、それでも錆兎は、自分が口を出すことじゃないかと口をつぶんだ。それは炭治郎や宇髄たち年長者の役目だろう。同い年の自分や真菰に叱られては、禰豆子だって立つ瀬がないに違いない。
なんにしろ、動き回られるよりはよかった。迷子の放送をしなくてすんだ。もしそれしか手立てがなくなっていたら、禰豆子が自信喪失するだけでなく、義勇の罪悪感も計り知れないことになっていたはずだ。
「禰豆子が世話になった。ありがとう」
義勇は自己評価がとんでもなく低いからなぁと思いつつ、錆兎は、一番大きな子に向かいペコリと頭を下げた。
「べつにたいしたことはしてねぇよ」
モヒカン頭の男の子は、一見かなり悪ぶった印象だが、炭治郎と真菰に頭を撫でられている禰豆子を見やる眼差しは、どこかやさしい。
「一人で歩き回っちゃ駄目だろ? うちだって父さんたちが仕事してるときは厨房に入っちゃ駄目なのに、みんなの邪魔しなかったか?」
「ごめんなさい。あのね、就也くんたちがお兄ちゃんを連れてきてくれるまで、ここで待ってなさいって言われたの。みんなでお手伝いしてたんだよ? レストランで出すご飯、いっぱい作らなくっちゃいけないからお手伝いしてって、頼まれたの」
謝りつつも禰豆子は、申し訳なさや安堵に自慢とが交ざって、自分でもどんな顔をしたらいいのかわからないらしい。なんとも言えない表情をしているのに、思わず錆兎も苦笑してしまった。モヒカンの子も
「こっちも手伝い増えて助かったから、あんまり叱んねぇでやれよ。あいつ、男湯と女湯があること知らなかったみたいだからさ。間違えてもしかたねぇよ。それより、ぎゆさん? って人は大丈夫なのかよ。一緒に休憩所に行ったらいなかったもんだから、なんか禰豆子がすげぇ心配しててさ」
その声が聞こえたのか、禰豆子が「ぎゆさん!」と飛び上がった。
「お兄ちゃん、ぎゆさんは大丈夫? あのね、玄弥くんに借りたタオル持っていったら、ぎゆさんいなかったの。ぎゆさんの髪、ビッショリしてたのに……風邪ひいちゃう!」
泣き出しそうな声で言われて、炭治郎が顔色を変えた。真菰も心配そうに錆兎に顔を向けてくる。錆兎だって、当然心配なわけで。
「なんか大変そうだな。俺たちも探すの手伝ってやりたいけど、母ちゃんの手伝いしなきゃいけないから……」
すまなそうに玄弥と呼ばれたモヒカン少年が言う。見た目は強面だけれど、面倒見のいい性格なんだろう。息を詰めてこちらを見ている子たちは、みな弟妹なようだから、炭治郎と同じく『お兄ちゃん』らしいと言うべきか。
「いや、これ以上迷惑はかけられないからな。禰豆子を保護してくれてただけで十分だ。本当に助かった」
「……なんかおまえ、チビのくせに大人みたいな喋り方だなぁ。禰豆子と同じ一年生なんだろ?」
「チビはよけいだ。身長が男の価値を決めるわけじゃないっ」
宇髄のような押しも押されもせぬ大男にチビと言われるならともかく、自分より少しばかり大きいだけの玄弥に言われるのは、甚だ不本意で、錆兎は思わず目を怒らせた。
こういうところがまだまだ未熟で子供なんだろうと、自分でも思いはするのだが、腹が立つものはしかたがない。が、真菰のあきれた視線に気づいてしまえば、バツが悪くもなる。
ごまかすように錆兎が咳払いすると、小柄な女の人がクスクスと笑いながら近づいてきた。
「玄弥、こっちの手伝いはいいから一緒に探してやれば? ついでに実弥を呼んできてよ」
「わかった。じゃあ、行こうぜ。これ以上迷子にならねぇよう、俺が道案内してやるよ」
一瞬カチンときたけれど、炭治郎と禰豆子は気にした様子もなくありがとうと笑うので。真菰に苦笑されつつ、一言多い奴だなという言葉を飲み込んだ錆兎だった。
「さてと、どこから探す? 救護室にでも行ってみるか?」
玄弥の言葉に炭治郎たちがそろって錆兎を見た。みんな錆兎の判断を待っている。禰豆子を探しているときには炭治郎がリーダーになっていたけれど、義勇に関してならリーダーは錆兎と、炭治郎も思っているのかもしれない。炭治郎の表情には引け目や嫉妬などどこにも見当たらなかった。
「……とりあえず、四十五分になったら一度座敷の休憩所に集合することになってる」
「んじゃ、まずは休憩所だな」
とくに疑問を持った様子もなくうなずいた玄弥に引き連れられ、ぞろぞろと休憩所に戻ると、宇髄が待っていた。
「お、禰豆子見つかったか。よかったな」
「はい! ありがとうございます! 煉獄さんは?」
「あいつは冨岡を探しに行った。禰豆子を探すのは俺とおまえらで十分だしな。で、そっちのは?」
玄弥に向ける宇髄の視線に警戒心は見られない。だからといって宇髄の本心など錆兎にはわかりようもないのだが。
禰豆子が玄弥をやたらと褒めつつ宇髄に紹介するのを聞きながら、錆兎は先ほどの宇髄の言葉を思い出した。宇髄ほどには外面を取り繕えない錆兎の眉は、われ知らず寄せられ、落ち込みが少しばかり顔に表れる。宇髄の目には、義勇が焦って見えるらしい。宇髄の観察眼はきっと、悔しいが自分や真菰以上だ。だから宇髄の印象はおそらく正しいのだろう。
炭治郎のヒーローであるために義勇が頑張っていることは、錆兎だって承知している。自分の体力や食事量に焦っているなら、いっそ微笑ましく思いもするし応援したい。
でも、宇髄の言葉には自分たちのことも含まれていたはずだ。義勇は嫌がっているわけではないと宇髄は言ったが、本当のところはどうなのだろう。生まれた不安は消えてくれそうになかった。
今の義勇は自己評価がとても低く、なにごとも自分の非だと思い込みやすい。錆兎や真菰が大人びていくのに対して、罪悪感を覚えてもしょうがないところではあるのだ。少し前までは、自分たちを不安がらせないようにするだけで精一杯だったろう。だが、感情が戻ってくるにつれ、考えることが増えてきたに違いない。今の義勇にしてみれば、もういい俺にかまうなと、本当は言いたいのかもしれなかった。
ちょっと前までは、義勇が考えていることならちゃんとわかったのに。
義勇がなにを考えなにを思っているのか、錆兎や真菰でさえわからないことが増えた。それが不安を呼ぶのだ。
思い出すのは、それまでやさしげに笑ってくれていた人たちの、心ない言葉たち。表立っては義勇や鱗滝を心配し、気遣う言葉を言っていたくせに、陰で笑う顔は醜かった。幼い錆兎たちならわからないだろうとたかをくくっていたんだろう。意味を調べた錆兎たちが青ざめるほど薄汚い言葉で、二人を馬鹿にしていた奴らの、偽善の笑み。
もちろん、そんな人たちばかりじゃなかった。本心から義勇のことを案じてくれていた人だってたくさんいる。鱗滝や錆兎たちのことも気遣って、今もお裾分けだのをしてくれるやさしい人たちは確かにいるのだ。
それでも、そういう人たちだって、義勇を案じてかわいそうにと泣いてはくれても、義勇を引き取ろうとは一度として思わなかっただろう。義勇を受け入れすべて面倒をみようと言ったのは、鱗滝ただ一人だ。
しかたのないことだと錆兎にだって理解できる。わかるようになった。語彙が増えるに従って、大人の事情をも鑑みるようになったから。それが子供らしくないというのなら、子供でなんていたくない。
義勇の姉の事故が、すべてを変えてしまった。義勇も、錆兎と真菰のやさしいものばかりであふれた小さな世界も。すべてがいっぺんに色を変えた。
親切だと思っていた人たちの本心や薄汚い笑み。大人の事情。笑うどころか悲しむことすらできなくなった、義勇。
錆兎や真菰の友達にも、錆兎たちへの見る目を変えた者がいる。きっと家で親がなんやかんやと勝手なことを言っているのだろう。頭がおかしい奴と住んでるって本当かと不安そうに聞いてきた子を、錆兎は殴ってしまったことがある。鱗滝がそいつの親に謝り倒す羽目になったので、それからはなにを言われても手を出すのは我慢しているけれど、腸が煮えくり返るのは抑えられない。
あのころの義勇が、まだなにも考えられない状態でよかった。錆兎が暴力を振るった理由と自分を結び付けて考えられるようになっていたら、義勇の心はもっと迷子になってしまっていたかもしれないから。
「おい、なに呆けてんだ。冨岡探しに行くぞ」
「すぐに見つかるといいな。じゃあな、炭治郎、禰豆子。また学校でな」
物思いに耽っているうちに、玄弥はここで別れ自分の兄を探しに行くことになったらしい。宇髄に声をかけられハッと顔を上げれば、玄弥が手を振って立ち去るところだった。
自分でも意外なぐらい、先ほどの宇髄の言葉が後を引いている。厄介なことを言ってくれたものだと逆恨みしそうになって、錆兎は小さく頭を振った。そんな男らしくないことはしたくない。
「錆兎、大丈夫?」
小さな声でこっそりと言った真菰の顔が、どこか不安そうだ。不甲斐ない。しっかりしろと内心で喝を入れて、錆兎は笑ってみせた。
「おぅ。義勇が風邪ひいたら大変だし、急いで探そう」
悩むのは後だ。自分に言い聞かせて、錆兎は先を立って歩きだした。