ワクワクドキドキときどきプンプン2日目

実弥

「実弥くん、そっち終わったらフロント行って洗い物運んでくれる?」
「うぃっす」
 空き瓶が詰まったビールケースを置いた実弥は、せわしない声にうなずくとすぐにきびすを返した。背中にかけられた悪いねとの声には、手を上げるだけで応える。古参の社員は実弥の事情を熟知しているせいか、言葉づかいや態度をたしなめることも、不快げに聞えよがしな陰口を吐くこともない。
 悪いねとはこちらの言葉だと、実弥は内心で独り言ちる。まだ中学生の実弥はアルバイトができない。であるにも関わらず、手伝いのお礼という名目でオーナー個人から、幾ばくかの収入を得られるのだ。感謝こそすれ文句などあるわけもない。古参社員たちもまた、実弥に好意的に接してくれる。ありがたいことだ。思いつつも少しだけやるせなく、ちょっぴり苛立つ自分を、実弥は持て余していた。

 リニューアルオープンしたばかりのスーパー銭湯。それが実弥の母の今の職場だ。オープン前の準備期間から務めさせてもらえたのは、オーナーの好意にほかならない。
 昔ながらの健康ランドだったころは、母も実弥も、宴会場の舞台に立っていた。
 実弥やその家族は、大衆演劇の劇団員だった。父はその劇団の団長だった。いずれも過去形だ。父はもういない。実弥の顔や体にいくつも残った傷と引き換えに、いなくなってくれた。
 遺骨の一部を母は持っているようだが、実弥は捨ててしまえばいいのにと思っている。墓参りさえごめんだ。
 大衆演劇と一口に言っても、売れっ子な劇団もあれば、食うや食わずのカツカツな暮らしを余儀なくされる劇団もある。実弥の家は後者だった。
 女性やカップル向け、家族向けなスパが増える一方で、大衆演劇の劇団を呼ぶような健康ランドは年々減っている。その割を食った実弥の父の劇団は、日に日に呼ばれる舞台が減っていき、劇団員は次第に辞めていった。
 それに反して父の酒量は増えた。劇団員が全員去ったころには、もはやアル中としか呼べない状態だったのが情けない。逆か。大衆演劇を愛する者ほど、父への落胆が深かったんだろう。劇団員が去った理由のひとつはきっと、父が酒浸りだったからだ。実弥は苦い舌打ちを飲み込んだ。
 役者として大成はできず、かといって舞台しか知らず変にプライドが高い父に、ほかの仕事などできるはずもなく。ただただ酒に溺れて、諫める母や母を庇う実弥に暴力を振るうのが、ここ数年の父の姿だった。

 フロントに続く廊下を歩きながら、実弥は、今では休憩所になっている座敷にちらりと視線を向けた。
 去年まで、あそこには舞台があった。オーナーは最後の舞台に父の劇団を呼んでくれたが、去年はもう劇団なんて名ばかりだったから、実弥が最後の舞台を踏むことはなかった。
 故意に目立つよう振る舞うのは苦手な実弥だが、舞台に立つのが嫌いだったわけじゃない。小さいころに浴びた客の歓声や拍手は心地好かったし、なにより殺陣が好きだった。ここの客筋はとくによかったのを、覚えている。観客の年齢層が高いから、黄色い声援などと言えるようなものではなかったけれど。それでも、青いウェアのおっさんたちの喝采も、水色のウェアのおばさんたちの歓声も、子供心に誇らしくはあった。幼かった実弥は、女形は勘弁被りたいと逃げ回ったが、殺陣のある役はそりゃもう張り切ったものだ。
 けれど、食えないのならしかたないじゃないか。見切りをつけて地に足をつけた生活をすればよかったのだ。今の母や実弥たちのように。
 それが父にはできなかった。昔の歓声が忘れられず、ずるずるとタイミングを逃した愚か者。自分の才能の限界を認められずに、時流や世間のせいにして酒に逃げた卑怯者。挙句、借金のために実弥を伴って遠出した帰り道、飲酒運転で事故を起こし自分はさっさとくたばった大馬鹿野郎。実弥の父はそんな男だった。

 足早に歩いていた実弥は、すれ違った客が会釈した実弥を見て息を呑んだのに気づき、握った拳に力を込めた。
 廊下の大きな窓ガラスに、そっと目を向ける。ぼんやりと映しだされた自分の顔に舌打ちしそうになった。
 顔を横切る大きな傷の数々。父が自らの死と引き換えに実弥に残したものは、顔や体に刻まれたいくつもの傷と、母や弟妹の泣き声のない生活だ。
 舞台に立つわけではないから、男が顔の傷など気にすることはない。思えども、他人の目はそうもいかない。好奇心や憐みの視線には苛立ちが湧く。怯える視線にはうんざりもする。
 それでも自分はまだいい。我慢できる。だが、まだ幼い弟の玄弥の傷に向けられる視線には、はらわたが煮えくり返ってしかたなかった。
 父が暴れて割った窓ガラスから庇いきれず、玄弥の顔に傷を作ってしまったことを、実弥は今も後悔している。客が向けてきた今の視線は、玄弥にそれが向けられるさまを連想させて、苛立ちが実弥の胸を焼いた。
 とはいえ、昔のよしみで母を雇ってくれたオーナーに、迷惑をかけるわけにはいかない。実弥にこうして手伝いをさせてくれ、いくらか小遣いまでくれるのだ。目立たぬよう、客を怖がらせぬよう、うつむき歩くしか実弥にできることはない。

 フロントの裏に顔を出すと、心得ている従業員が「それよろしく」と重ねられたランドリーバスケットを指差した。繁忙期なゴールデンウィークにくわえオープンキャンペーン中なだけあって、スーパー銭湯は盛況だ。洗濯物の量も半端ない。
 実弥は濡れたタオルやウェアが入ったバスケットを抱えると、ランドリールームへと足を向けた。
 今日はオーナーの好意で弟や妹も入泉している。玄弥が子守をしてくれて助かった。厨房で働く母と一緒に賄いを食べさせてもらえるから食費も浮く。ゴールデンウィーク様様だと、実弥は小さく自嘲の笑みを浮かべた。
 本当なら友達と同じように遊園地などに行きたいだろうに、玄弥をはじめ実弥の弟妹は我儘を言わない。母や実弥が父に殴られ蹴られするのを見て育ったからか、子供らしい我儘を言うなど思いもよらないのだろう。それが実弥には悲しい。

 でも、こんな暮らしはいつか終わらせる。自分が終わらせてやる。
 金を稼いで、母や玄弥たちを絶対に幸せにしてやるのだ。母は仕事を辞めて好きなことをして過ごせばいい。玄弥の傷もきれいに治してやる。ほかの弟妹たちだって、こんな連休には遊園地だろうと動物園だろうといくらでも連れて行ってやろう。自分の拳で、そんなすべてを掴むのだ。
 実弥は中学を卒業したらアルバイトをしながらボクシングジムに通い、十七になったらすぐにプロテストを受けるつもりだ。腕っぷしには自信がある。
 殺陣が好きだったから、定住するなら本当は剣道をやってみたかった。けれど、剣で食っていけるわけがないし、役者やスタントマンはこの傷が邪魔をする。人を殴るという行為は、スポーツであっても最初はためらいがあった。喧嘩っ早い自覚はあるが、争いごとが好きなわけじゃない。金に困らぬ生活なら、きっと別の将来を夢見ただろう。けれども、そんなのはしょせん『もしも』の話だ。自分の才覚だけで大金を掴むことを考えたとき、実弥が選んだのはボクシングだった。
 幸い、実弥が通うキメツ中学には拳闘部があり、実弥は早くもいくつかの大会で優勝もしている。高校のボクシング部からの勧誘もあるのだが、いくら奨学金を出すと言われても要は借金だ。借金してまで高校に進学する意義を実弥は見いだせなかった。
 ただでさえ、事故の際の実弥の入院や父の葬儀で借金はさらに嵩み、家計はいまだに火の車なのだ。母はせめて高校は卒業してほしいと思っているようだが、実弥の下には玄弥たち弟妹が六人もいる。実弥の学費にかける金があるなら、玄弥たちに遣ってほしいと実弥は思う。
 だから実弥は、そんな話は全部聞き流してきた。勧誘してきた高校の名前すら知らない。知る必要もないと思っている。

 何度かフロントとランドリールームを往復し、バスケットをあらかた運び終えると、少し休憩しなよとフロントにいた初老の従業員に声をかけられた。健康ランドだったころからの古参だから、実弥とも顔馴染みだ。実弥の傷を痛々しそうに見はするが、ほかのアルバイトたちと違って下世話な好奇心や怯えなどを表に出さないぶん心安い。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、ゆっくりしておいで」
 そう言ってまた来客に笑いかける従業員の背中にぺこりと頭を下げて、実弥はフロントを出ると、男性用の大浴場に続く廊下を歩きだした。
 休憩はありがたいが、さてどうするか。玄弥たちの様子を見に行くにしても、自分はあまり客の前に顔を出さないほうがいいだろう。従業員の休憩所にはできれば行きたくない。誰もいないか馴染みの従業員ばかりならいいけれど、アルバイトの女子大生などはあからさまに実弥に怯えるので、顔を合わせるのは億劫だ。
 あまり人の来ない裏庭のベンチで休めばいいかと、まずは大浴場入り口近くの給茶機に向かう。
 冷茶を淹れた紙コップ片手に裏庭へと向かった実弥は、そこにあった人影に眉をひそめた。

 濡れた黒髪をポニーテールに結んだ女の子が、ぽつんとベンチに座っている。背丈などからすると実弥と同じ中学生ぐらい。だがキメツ中学では見ない顔だ。
 男どもが放っておかないだろうと思うぐらいにはきれいな子だった。同じ学校なら話題になっていてもおかしくないが、転校して間もないとはいえ、こんなにきれいな子がいるなんて話は、まったく聞いたことがない。キメツ学園かキサツ中学の生徒なんだろうか。
 お仕着せの水色のウェアから伸びた手足も、うつむくうなじも、細く頼りない。上気した頬、少し伏せられたまぶたと寄せられた眉、うっすらと開かれた唇はかすかに震えている。
 具合が悪いのかもしれない。逆上のぼせて外の空気を吸いにきたのだろうか。ほかに人は見当たらない。

 女は苦手だ。なにもせずとも実弥に怯えた視線を向ける。
 けれど。

「……逆上せたのかよォ」
 声をかけたのは、客だからだ。しかも、具合が悪そうな。
 自分は従業員ではないけれど、一応はここで働いているのだし、客が具合を悪くしていたら声をかけるのは当然だ。誰に対して言い訳をしているのか自分でもわからないまま、実弥はベンチに近づいていった。
 ベンチの前に立つと、実弥の言葉が自分に向けられたものだとようやく気づいたのか、女の子がゆっくり顔を上げた。
 まっすぐに実弥をとらえた瞳は、澄んできらめく深い瑠璃色。苦しいのだろうか、その目は潤んでいる。女の子は実弥が間近に立っても声を上げるでもなく、表情も変わらない。逸らされることのない瞳からは、怯えてすくむ様子は微塵も感じられなかった。
 なぜだかドキドキとしながら、実弥は手にしていた紙コップを女の子へと差し出した。
「……ほらよォ」
「……?」
 実弥を見上げたままこてりと首をかしげる仕草が幼い。髪の先から滴った雫が、細い首筋をつっと伝い落ちていくのになぜだか目を奪われ、鼓動が速まった。
「口はつけてねェ。逆上せたんなら水分とらなきゃマズイだろうがァ」
 ぶっきらぼうな声になったのに意味などない。自分は愛想よしではないのだ。誰に対してもこんなものだ。
 女の子は動かない。首をかしげたままぼんやりと実弥を見ている。
 怯えているようには見えないが、やはり傷だらけの自分が怖いのだろうか。思った瞬間、ツキリと胸が痛んで、実弥は軽く眉を寄せた。

 やっぱり、女は苦手だ。

「オラッ、とっとと飲めェ!」
 グイッとさらに紙コップを突き出した実弥に、女の子は一つまばたきすると、ようやくゆるゆると手を伸ばした。その指先が紙コップに触れかけたそのとき。

「冨岡! こんなところにいたのか!」

 男の大きな声がして、白い指先が紙コップを受け取ることなく下がっていく。実弥を見つめていた瞳も、声がしたほうへと向けられてしまった。
「外としか言わなかっただろ。探したぞ」
 実弥は中三にしては体格がいいが、心配そうに近づいてくる男も実弥と大差がない。凛々しく整った顔立ちの男だ。このきれいな女の子と並べば、きっと誰の目にもお似合いに見えるだろう。同じお仕着せのウェアが、まるでペアルックみたいに見えた。

 なんだ、彼氏が一緒だったのか。
 ……って、なんで俺はがっかりしてんだァ!

 自分の感情の浮き沈みに苛立って、実弥は乱暴に女の子の手を取ると、無理矢理紙コップを握らせた。
「ちゃんと飲めよ! 水分とりながら入らねぇから逆上せんだァ!」
「これは君のだろう、いいのか? ありがたいが申し訳ないな」
 お茶を受け取ったのは女の子なのに、男のほうが実弥に声をかけるのが、なんだかしゃくに障る。俺の彼女がすまない、ってか? イラッとする自分にますます苛立って、実弥は答えず踵を返した。
「あ、おい! 俺の友人が本当にすまなかった! ありがとう!」
 大きな声で言われ、立ち去りかけた実弥の足がぴたりと止まる。

 友人? 友人って言ったか?

 つい振り返ってしまったら、紙コップを持った女の子が実弥を見つめ、無表情のままぺこりと頭を下げた。その後ろから、「おい、いたぞ!」と大きな声がして、大柄な男が女の子に近づいていく。バタバタと足音がして、男を追い越し小学生ぐらいの子供が何人か、女の子に走り寄るのが見えた。

 なんだ、デートじゃないのか。そうか。ガキも一緒か。けっこう大人数できてたんだな。ふーん。

 途端に浮上していく自分の機嫌に気づかぬまま、実弥はもう振り返らずに歩いた。
 なんだか足取りが軽くて、うつむくことなく上機嫌にさくさくと歩く。だから聞こえなかったのだ。子供たちが口々に呼ぶ女の子の名前など。

「あ、兄ちゃんいた! あのさ、母ちゃんがレストランの手伝いしてほしいって」
 玄弥が廊下の向こうから小走りにやってきたときには、実弥の機嫌は鼻歌だって出そうなくらいに上向いていた。
「おぅ、就也たちはどうした? まだ風呂かァ?」
「もう厨房に行ってるよ。みんなで玉ねぎの皮剥いてる」
 笑う玄弥に実弥も苦笑する。
「なんだァ? もっと遊んでりゃいいのによォ」
「もう十分遊んだよ。それにさ、兄ちゃんが一緒じゃないとつまんねぇよ」
「俺は仕事があんだからしかたねぇだろォ。明日は一緒に公園行ってやっから」

 少し拗ねた顔で言う玄弥をうながして厨房へと向かいながら、実弥はさっきの女の子の、きれいな瑠璃色の瞳を思い浮かべた。

 また来るかな、あの子。もしまた来たら、今度はもう少しやさしくしてやろうか。やさしい言葉なんてかけなくても、あの子は俺を怖がらないみたいだけど。客に親切にするのは当たり前だし、べつに変じゃねぇよな。

 玄弥と連れ立って歩く実弥は気づかない。すれ違う女性客が着ているピンクのウェアに。

 水色が似合っていたポニーテールの『女の子』に、次に逢ったらと考えていたから。今度はあんな苦しそうな顔じゃなく、笑った顔が見てみたいと、考えていたから。