ワクワクドキドキときどきプンプン2日目

義勇

 脱衣所に戻るなり洗面台の前に腰かけさせられた義勇は、タオルとドライヤーを手にしようとした錆兎と真菰を視線で止めた。
 目前の鏡には、心配げに義勇を見つめている炭治郎と禰豆子が映っている。二人とも落ち込みがあらわだ。湯あたりして脱衣所に運ばれたときに、炭治郎はしきりに自分のせいだと己を責めていたし、禰豆子は禰豆子で、きちんと義勇の介抱が出来なかったことを悔やんでいるようだ。
 女に間違われたのではないかなどという不名誉な疑いを宇髄からかけられたときもそうだ。「義勇さんはとてもきれいだからだと思います」だの「禰豆子とお揃い、ぎゆさんは嫌? 髪かわいいって宇髄さんたちも褒めてくれたよ」だのと懸命に言う二人の言葉に笑ってやれなかったことも、尾を引いているのかもしれない。
 いくらなんでも男の服を着ているのに女と間違われたりするものかと立腹していた義勇にとっては、本心からそう思ってますと言わんばかりの炭治郎と禰豆子の言葉は、追い打ちにしかなっていなかったのだけれども、それはそれとして。
 先ほどから二人は、義勇に近づくのをためらっているように見える。きっと気のせいではないだろう。炭治郎や禰豆子の落ち込んだ顔など見ていたくなくて、義勇は振り返ると二人を手招いた。
「……頼む」
 その一言で錆兎と真菰は理解したらしいが、炭治郎と禰豆子はきょとんと首をかしげている。これでは言葉が足りないのだろう。
「……髪、乾かしてくれ」
「あの、俺と禰豆子でいいんですか?」
 少し戸惑う炭治郎に、コクリとうなずいてやる。驚いた顔を見合わせた炭治郎と禰豆子は、パッと瞳を輝かせ、すぐに満面の笑みを浮かべてくれた。
「はい!」
「禰豆子がタオルするね!」
 明るい声で言い錆兎たちからドライヤーやタオルを受け取った二人が、ほどかれた髪に触れるのを、義勇はぼんやりとした目で見ていた。
 役目を取られた錆兎たちが気を悪くするだろうかと、少しだけ思い浮かんだが、そんな考えはすぐに消えた。錆兎や真菰がそんな狭量な考え方をするわけがない。むしろ、義勇が炭治郎たちを気遣うことを喜ぶはずだ。思いながら鏡に映る錆兎と真菰を見ると、二人はやっぱり笑っていた。
 けれど。
 言葉にならない違和感を覚えて、義勇は思わず首をかしげた。
「ぎゆさん、動いちゃ駄目だよ」
「熱かったですか?」
 ドライヤーを離して尋ねてくる炭治郎に小さく首を振り、義勇は視線だけで錆兎たちをうかがった。もうさっきの違和感は見つけられない。二人とも笑顔だ。
 心のなかでざわりと不安が頭をもたげたけれど、義勇が不安がればそれこそ錆兎たちが気にする。義勇の感情を読み取ることに長けた錆兎と真菰は、すぐに義勇の感情の機微に気づき、自分たちのことは後回しに気遣ってくるのは間違いない。

 きっと炭治郎や禰豆子の手付きが心配だっただけだろう。炭治郎はまだしも、禰豆子はまだ少し覚束ない手付きだから……。義勇が火傷などしないかと、ハラハラしていたに違いない。炭治郎たちが気に病むと思って、顔に出さぬよう気を遣っているだけだ。そう考えれば納得がいく。

 自己完結してしまえば考えることをやめてしまう。姉の事故以来身についた義勇の悪癖だが、口にも表情にも出さぬ義勇を咎めるものはいなかった。
 手持ち無沙汰に鏡に映る炭治郎たちを眺めていると、煉獄がひょいと義勇の手元を覗き込んできた。
「それ、飲まないのか? 持ったままでは零しそうで危ないな」
 言われてようやく義勇は、持ったままだった紙コップへと視線を落とした。冷えていた茶はぬるくなっている。伝わる温度が手に馴染み過ぎていて、すっかり存在を忘れていた。
 なんとなく宇髄の言葉が引っかかって、素直に口をつけるのをためらってしまっていたけれど、見知らぬ人とはいえ厚意を無碍にするわけにもいかない。
 まさかナンパなどであるわけがない。義勇は無意識に小さく唇を尖らせた。自分が女に見えたなんてこと、あるわけがないし。あの人にだって、そんな浮ついた様子は見受けられなかったし。胸中のみの文句は、それでも錆兎たちだけでなく宇髄にも伝わったんだろう。苦笑する顔を鏡越しに見取り、義勇は少々バツ悪く紙コップに口をつけた。
 座敷で水は飲まされていたけれど、まだ喉は乾いたようだ。ぬるい茶が喉を滑り落ちるとなんだか生き返ったような心地がする。改めて感謝しつつ思い出そうとした顔は、もうあやふやだ。申し訳ない気持ちになるのは、たぶんいいことなんだろう。また少し心が感情を取り戻した証明だ。
 ぶっきらぼうだし少し怒ってもいるように見えたけれど、きっとやさしい人なのだろう。同じ年くらいだろうか。もしも次に逢うことがあればきちんと礼を言わなければ。
 思いながらあっという間に茶を飲み干した義勇に、煉獄が足りなそうだなと笑った。
「ツリーハウスに行くなら、紙コップよりペットボトルのほうがいいな! 水分補給は大事だからな、全員分俺が買ってこよう。なにがいい?」
 たずねる煉獄に、躾が行き届いた子供たちは少し遠慮を見せた。けれど、煉獄だけでなく宇髄も軍資金は鱗滝から貰っていると言うものだから、それならばと笑顔が浮かぶ。口々に子供たちがお茶だリンゴジュースだと挙げていくのを、義勇はぼんやりと聞いていた。
「冨岡は?」
 煉獄に聞かれたときにも、錆兎か真菰が答えるだろうと思っていた。自分が答えるまでもない。義勇にしてみればそれが当たり前になっている。けれど、口を開きかけた真菰を遮り
「おまえに聞いてんだから、ちゃんと自分で答えな」
 と有無を言わせぬ声で言った宇髄に、思わずひくりと喉が震えた。

 ああ、またやってしまった。しっかりしなければと思いながらも、錆兎や真菰が喜ぶものだから、ついつい二人を頼る癖がついている。

 羞恥が身を焼いたけれど、きっと顔には出なかったのだろう。じっと鏡越し義勇を見つめて答えを待つ宇髄に、煉獄が「まぁいいじゃないか」と笑顔でかばってくれるのが、ますますいたたまれない。
「……水」
「ん、だってよ」
 二ッと笑って煉獄をうながす宇髄にホッとする。パチリとまばたきした煉獄が、明るく笑って「わかった、水だな!」」と言ってくれたのにも。
 錆兎や真菰を頼れば二人が喜ぶ。以前ならば年上らしく甘やかすこともできていたはずだけれど、今の義勇にとっては、それぐらいしか二人を喜ばせる手立てなどなかった。だから甘えてみせていたというのは、もはや言い訳でしかない。
 炭治郎のヒーローでありたいと願うのならば、二人に頼るばかりでは駄目だ。以前の自分に戻ることを望んでくれている錆兎と真菰、そして鱗滝のためにも、しっかりしないと。
 自分に言い聞かせながらちらりと宇髄をうかがうと、宇髄はもう義勇のことなど見ていなかった。錆兎と真菰の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら笑う顔は大人びている。やめろと文句を言いながらも、錆兎と真菰もどこか楽しげだ。
 三人の様子に、義勇の胸の奥が小さくうずいた。

 以前は、自分もこんなふうに笑っていた。錆兎と、真菰と、そして……蔦子姉さんと。

「義勇さん? あの、なにか悲しくなっちゃいましたか?」
 炭治郎の声に意識を引き戻され視線を移すと、髪を乾かす手を止めぬまま炭治郎は、心配そうに義勇を覗き込んでいた。
 いつものように大丈夫だと伝えるために炭治郎の目を見た義勇は、思い直し口を開いた。
「……なんでもない」
「でも……なんか悲しい匂いがします」
 自分のほうこそしょんぼりと悲しげなのに、炭治郎はそんなことを言う。
 ああ、そうか。思いついて、義勇は少し笑ってみせた。
「本当に……大丈夫だ」
 途端に炭治郎の顔に笑みが戻った。ほわりと笑う炭治郎はお日様のようだ。その笑顔が好きだと義勇は思う。笑ってくれるとホッとする。

 ──義勇さんが笑ってるのが一番うれしいですよ!──

 ──悲しいですか? 大丈夫ですよ、俺、ずっと一緒にいます! 義勇さんがどこに行っても、絶対に俺が迎えに行ってあげますから!──

 初めて逢った日の、炭治郎の言葉が頭をよぎる。
 義勇が笑えば、炭治郎も笑ってくれる。炭治郎が笑うと義勇も楽しいと思えた。義勇が悲しめば、炭治郎も悲しいと顔を曇らせてしまう。今、炭治郎が悲しげにしているだけで、義勇の胸が痛んだのと同じく。
 かわいいと素直に思う。この子が笑ってくれるなら頑張ろうと、愚直なまでにすんなりと決意が湧く。
 弟がいたならこんな感じなのだろうか。姉も……もしかしたら義兄も、自分のことをこんなふうにかわいいと思ってくれていたのだろうか。思えばどうにも面映ゆく。同時にどうしようもなく切ない。
 後悔は尽きないし、罪悪感は今も胸を焼いて、心から悲しみが消え去ることはない。それでも、この子が……炭治郎が望んでくれるのなら、ヒーローにだって兄にだって、なってやりたいと思うのだ。
 錆兎や真菰のことも大切で大事だし、禰豆子のことだってかわいいと思うけれど、炭治郎にはなぜだか不思議に執着心や独占欲が湧く。これは一体なんなのだろう。
 恩人だからだろうか。いろいろと考えることが増えたのも、炭治郎が心に光を灯してくれたからだ。恩義を感じているのは確かだけれど、それだけじゃないような気がして、義勇はじっと炭治郎を見つめた。
 炭治郎は義勇の髪を乾かすのに集中している。髪を洗ってくれていたときと同じように、炭治郎は真剣な顔をしてドライヤーを動かしていた。

 こんなふうに互いに髪を乾かしあう日々を、炭治郎と送れたら。炭治郎の髪に触れ、炭治郎に髪に触れられるのは、きっと毎日だって飽きやしない。そのたび炭治郎は笑ってくれるだろう。そうしたら、自分も笑ってやって……。

 ふと浮かんだそんな想像に、義勇は思わずきょとんとまばたきした。
 今、自分はなにを考えたんだろう。それではまるで一緒に暮らしたいと言っているようなものじゃないか。
 もっと一緒に過ごす時間があればいいのにと、思ったことはある。炭治郎が弟弟子になれば叶うとうれしくもなった。けれど、家族でもないのに一緒に暮らすのはどうなんだろう。
 錆兎や真菰だって戸籍上では家族ではないけれど、二人や鱗滝は、もう義勇にとっては家族以外のなにものでもない。だが炭治郎にはちゃんと禰豆子たち家族がいる。義勇と家族になることなんてありはしないのに。

 ……やっぱり、俺は炭治郎のことを本当の弟のように思っているんだ。だからこんなにもかわいくてしかたないんだろう。

 家族にはなれなくても兄弟子にはなってやれるし、ヒーローでいてやることだってできるはずだ。自己完結した義勇は炭治郎への自分の想いについて考えることをやめた。精一杯頑張って、炭治郎のヒーローでいること。そのために自分ができること。それを考えるほうが、今の義勇にとっては大事なことだった。
 そこまで思って義勇は、ふと、そう言えば今日はあまりぼんやりせずにいるなと、また目をしばたかせた。
 あんまりいろいろと目まぐるしかったからか、常にあった心がどこかへ行く感覚さえ、ここに来てから忘れていたような気がする。
 元はと言えば宇髄と煉獄のせいではあるけれど、湯あたりしてからずっと、思考が働き続けているような。いや、もっと言えば宇髄や煉獄と公園で出くわして以来、考えることが以前よりずっと増えた。
 炭治郎と出逢ってから、自分で考えることはたしかに増えていたけれど、それでもぼんやりしてしまうのは止められない。自分の意思ではどうにもできないのだと、少し焦りつつも諦めていた。
 それなのに、どうして自分はこんなにもいろいろと、考えを巡らせるようになったのか。答えが見つからず想いに沈み込みかけた義勇の耳に、炭治郎と禰豆子の明るい声が聞こえてきた。
「ぎゆさん、終わったよ!」
「これでもう風邪ひかないですよね!」
 いつもの位置で髪を結び終えて笑う二人にうなずき、二人の頭を撫でてやる。答えを考えるのは後でもいい。今、一番大事なのは。

「ありがとう……」

 ほんの少し笑ってみせたら、炭治郎ははにかむように笑った。