杏寿郎
静かな道場にスマホのアラーム音がピピッと響いた。パチリと目を覚ました煉獄は、一秒にも満たぬ素早さでアラームを止めると起き上がった。グッと伸びをすればすっかりエンジン始動だ。煉獄はいつだって目覚めがいい。布団のなかでぐずぐずとためらったりしない。
時刻は午前六時。道場はすっかり朝の日射しに満たされている。今日もいい天気になりそうだ。
すぐに立ち上がり、畳んだ布団を道場の隅へと運ぶ。抱きあって眠る義勇と炭治郎に気づき、煉獄は思わず微笑んだ。本当にこの二人は仲がいい。
んんっと炭治郎が身動いだ。きっともう起きだすだろう。義勇も目を覚ましそうだ。
昨夜の出来事を思い返して、煉獄の微笑みが苦笑へと変わった。
夕飯をとりながらの会話で、自分が失態を重ねていたことに気づいた煉獄は、少し反省したのだ。炭治郎はただ剣道をやりたいのではなく義勇と剣道をやりたいのだと、やっと気づいた自分の察しの悪さは、どうにも不甲斐ない。穴があったら入りたいぐらいだ。
いつもならばそんなことはないと思うのだが、どうやら自分はかなり浮かれていたらしい。義勇の技を近くで見られた。炭治郎たちが自分と一緒に剣道をやるかもしれない。そんな喜びに浮かれてしまって、炭治郎の気持ちを察することができなかった。
まだまだ俺も未熟だなと苦笑を深めた煉獄に、おはようと錆兎と真菰の声がかけられた。
「おはよう! いい天気だぞ!」
「……派手にうるせぇよ、寝起きから元気だな、おまえ」
愚痴る声に振り向けば、宇髄も起き上がっていた。
「おぉ、すまんっ」
「地声がデケェからボリューム下げてもうるせぇ」
ガリガリと頭をかく宇髄は、寝起きのせいか機嫌はイマイチに見えるが、言葉も表情もいたって軽い。言葉ほどには苛立ちを感じさせないから、煉獄も苦笑するのみだ。
三々五々起きだす面々に笑って挨拶を返す煉獄の声は、やっぱり大きかったんだろう。義勇と炭治郎、禰豆子も起きだしてきた。
「煉獄さんと宇髄さんの髪、キラキラして眩しい……お日様とお月様みたいだね」
ぼんやりとした声で言い、ふにゃんと笑う禰豆子に、煉獄は宇髄と顔を見合わせた。やたらと大人びている錆兎や真菰にくらべ、同い年でも禰豆子は年相応に幼く見える。ニコニコと寝ぼけ眼のまま笑う様の愛らしさに、煉獄の頬が自然と緩んだ。宇髄も同様なんだろう、いつもの斜に構えたシニカルさなどかけらもない、柔らかな笑みを浮かべている。
「禰豆子の髪も天使の輪がキラキラしてるぞ!」
言いながら頭を撫でてやれば、禰豆子はいっそう愛らしく笑った。妹というのもいいものだなと、ほっこりとしていた煉獄の耳に、少し気遣わしげな錆兎の声が聞こえてきた。
「おはよう、義勇。昨日はちゃんと眠れたか?」
日課なのだろうか。尋ねる錆兎に義勇がこくりとうなずくのを、煉獄もなんとなし凝視してしまう。ホッとして見える錆兎と真菰の顔は少しだけ切なく、胸がチクリと痛んだ。
昨日の昼食で初めて知った義勇の少食ぶりは、夕食時でも変わらずだった。山盛りによそられた煉獄や宇髄の茶碗と違い、義勇は茶碗に半分だ。
それっぽっちでも義勇にとっては限界なのだろう。最初は大好物だという煮物を少しうれしそうに食していたが、すぐに眉を曇らせていた。
気づいた炭治郎が、昼と同様アーンと子供にするように食べさせていたのは、気遣わしくもじつに微笑ましい光景だった。仲がいいなと笑った煉獄と違い、宇髄や錆兎が生ぬるい眼差しをしていたのは少し気になったが、それはともかく。
心配なのは食事量だけでなく、義勇は眠りも浅いうえ、たびたびひどくうなされもするらしい。就寝前に真菰がこっそりと教えてくれた。「夜中に起こしちゃったらごめんね」と、すまなそうに詫びられ、気にするなと笑いはしたものの煉獄だって心配だった。
義勇が心に負った傷は、煉獄が想像するよりはるかに深く重いのだろう。いまだに食も進まない、眠りも浅いとくれば、スタミナが追い付かず稽古もままならないのは道理だ。一緒に稽古できないのはしかたないと理解していても、やっぱり残念だなと、煉獄は着替えながらチラリと義勇に目をやった。
寝間着を脱いだ義勇の体は、自分はおろか文化部のクラスメイトたちとくらべても、ずいぶんと薄い。煉獄の顔がわずかにしかめられた。
ライバルやクラスメイトとしてだけではなく、義勇のことが心配だと思う。義勇がどう思っているのかは知らないが、煉獄からすればもう義勇は大切な友達だ。静かすぎる気配の義勇はどこかすべてを諦めているようにも見えて、なぜだか放っておけない。無条件の慈しみを与えてやりたい気にさせられる。弟の千寿郎に対する感情に少し似ているかもしれない。
同級生の男子に対して抱くには不似合いな感情かもしれないが、不思議と義勇には、庇護欲をかき立てられるのだ。それは義勇の事情を知ってますます深まった。
いつか炭治郎のように、錆兎や真菰のように、自分も義勇と笑い合えたら、どれだけうれしいことだろう。思い願うけれど、義勇はまだ、煉獄や宇髄にはよそよそしい。煉獄たちを見る瞳からは、ためらいや戸惑いが拭えずにいるのが見てとれた。
このゴールデンウィークで、冨岡にちゃんと友達だと思ってもらえるよう、頑張らねば。
決意を新たにした煉獄の耳に、明るい声が聞こえてきた。
「ねぇ、宇髄さん。スーパー銭湯ってなにを持っていけばいいの?」
「レンタル代がもったいねぇから、持ってくならタオルと着替えだな。シャンプーだのは、こだわりがねぇなら必要ねぇよ。たいがいのもんは備え付けのを無料で使えるからな」
楽しみだねぇと真菰と禰豆子が笑い合っている傍らで、炭治郎もワクワクとした様子で義勇に向かい「義勇さんの髪は俺が洗いますね!」と宣言している。そんな子供たちを微笑み見ながら、煉獄も少しワクワクとしている自分に気づいた。
それは昨夜の禰豆子の涙に端を発した小さな騒動。炭治郎たちが鱗滝道場に通えるかは、今日鱗滝が親御さんに相談してからの話なので保留のままだ。だが、義勇と風呂に入りたかったという炭治郎の小さな我儘は、宇髄が財布から取りだした割引券でひとまずの決着をみたのだ。
『ちょっと遠いがリニューアルオープンしたスーパー銭湯の割引券があるから、どうせなら皆で一緒に風呂に行くか』
そんな言葉に子供たちが歓声をあげるさまは、たいへん微笑ましかった。
せっかくのゴールデンウィークだ。稽古ばかりでは幼子――とくに見学ばかりの竈門兄妹には、やはり物足りないだろう。煉獄にとっても、義勇との友情を深められるなら、裸の付き合いは望むところである。
全員で車に乗るのはさすがにむずかしい。駅からなら送迎バスがあるとの宇髄の言を受けて「それなら子供たちは車で駅まで送ろう」と鱗滝が言ってくれた。
「駅で待ち合わせて送迎バスで向かえばいい。君らは駅まで自転車で行ったらどうだ? わしの自転車を貸すぞ」
その意見に、煉獄と宇髄はすぐに賛同した。煉獄家よりも学園の寮のほうが鱗滝家に近い。午前の稽古中に宇髄が自分の自転車を取りに寮まで戻り、義勇と煉獄は自身や鱗滝の自転車で駅に向かうこととなった。
「私、スーパー銭湯って初めてなんだぁ。ね、宇髄さん、どんなところ?」
「前は古臭い健康ランドだったんだけどな、リニューアルでテーマパークみてぇになったらしいぜ?」
ホラ、と宇髄が差し出したスマホをみんなで覗き込む。表示された公式サイトによると、風呂も種類豊富だしサウナや岩盤浴もあった。
「ラウンジで漫画や雑誌が読み放題だって。お風呂入るより、漫画を読む時間のほうが長い人もいそうだねぇ」
「へぇ、中庭にツリーハウスまであるのか。アスレチックみたいだな。遊んで汗かいたらすぐ風呂に入れるって、合理的だよな」
「うむ、かなり設備が充実しているようだな! レストランや休憩所もあるぞ、楽しみだ!」
レストランで夕飯も食べてこい、連絡をくれれば迎えに行ってやるとの鱗滝に甘えることになったから、午後は夜まで子供達だけでの風呂三昧になりそうだ。
正直、煉獄にしてみれば、禰豆子や真菰と一緒に風呂というのは、やっぱり気恥ずかしかった。煉獄家には母以外女性がいないから、女性の裸なんて煉獄には縁がない。いくら幼いとはいえ、家族でもない女の子の裸を見るなど、男としてどうなんだろう。喜んで興奮する輩と同じにされては心外なことこの上ないが、無心になるには羞恥心が邪魔をしそうだ。
だが、注意書きによると十歳以上から男女別とあるので、気にするほうが不純なのかもしれない。禰豆子や真菰もまったく気にしてないように見える。気持ちの問題なのでためらいはどうしても消えないが、二度も禰豆子を悲しませるわけにはいかないのだから、ここは腹をくくるしかあるまい。
そんなことを切れ切れに思い返しつつの朝食は、昨日と同じ並び順だ。禰豆子が「目玉焼きだぁ」と喜ぶ隣で、今朝も炭治郎が義勇にアーンする気満々なのが少しおかしい。
炭治郎は昨夜の一件で少しばかり吹っ切れたようだ。ちょっぴり恥ずかしそうにではあるが、義勇にかける声には甘えが滲んでいる。
対する義勇は相も変らず不愛想な無表情だが、炭治郎を見る目はやはりやさしく温かい。炭治郎に甘えられるのがうれしいのだろう。義勇のほうこそ子供のように食べさせてもらっているのだから、傍目には甘えているのは義勇に見えるかもしれない。けれど煉獄には逆に見える。
炭治郎は長男だからか、煉獄と同じく甘えられることに慣れているんだろう。甘えられ我儘を言われるのがなによりうれしく誇らしい。小さな体いっぱいに、そんな気持ちが溢れているのが見て取れる。
そんな炭治郎にしてみれば、義勇が自分の手から食事してくれるのは、とても喜ばしく名誉なことだろう。義勇はそれを承知で甘えてみせている気がした。甘えることで甘やかしている。義勇にとってそれは、錆兎や真菰に対しても同じに違いない。
『あの子たちが自分で決めたことだから、大人に都合のいい子供のままでいろとは言えんよ』
昨夜聞かされた鱗滝の言葉が、不意に煉獄の脳裏によみがえった。少し寂しげに見える苦笑とともに、鱗滝はそう言っていた。
宇髄と煉獄を呼び止めた鱗滝が、入館代や夕食代にと紙幣を出したのは、就寝のために道場に向かおうとしたときのことだった。
「いやっ、そんな気遣いは無用にいただきたい! 自分のぶんはちゃんと出します!」
「俺らもなんだかんだで派手に楽しみにしてるんで、気を遣わないでいいぜ、鱗滝さん」
辞退しようとする二人に、鱗滝は莞爾と笑った。
「わしでは孫たちをどこかに連れ出してやることなどなかなかできんからな。連休にどこそこへ行ったと話す友達と自分らをくらべ、ふてくさるような子たちではないが、やはり不憫だとかねがね思っていた。礼だと思って受け取ってくれ」
重ねて言われ頭まで下げられては、頑として断るのもむずかしい。けっきょく受け取った二万円が今日の軍資金だ。
そのまま少しだけ世間話をした流れで、宇髄が錆兎たちの大人びた言動について聞いたところ、鱗滝は少しだけしんみりと苦笑し、先の言葉を言ったのだった。
そして見せてくれたのは、手ずれしてよれよれになった一冊の辞書だ。
「義勇の姉の事故までは、あの子らももっと子供らしかったのだがな。世間というのは口さがないものだ。子供ならわからんだろうと、あの子らの前でなんやかや言う輩もいたもんでなぁ」
必死に大人たちの言葉を覚えてきては、そのたびこっそりと辞書で言葉の意味を調べていたのだと、鱗滝は言う。義勇への悪意を見逃さないように。義勇や鱗滝の前では善人面していても、陰でこそこそもらす本心を見逃さないように。二人は懸命に辞書を引いていたと聞いた。
「そのせいか変に語彙が増えてな。すっかり言動が大人びてしまった」
苦笑する鱗滝は、少しだけ誇らしげながらも寂しそうでもあり、憤慨や申し訳なさも入り混じっているのか、複雑な表情をしていた。
宇髄と一緒にめくってみた辞書にはいくつもの赤線が引かれている。
遺産。業突張り。守銭奴。それらの言葉はきっと、鱗滝への揶揄ややっかみだったと想像するのはたやすい。身寄りのない義勇を引き取った鱗滝の思いやりを邪推し、薄汚い言葉を吐く輩がいたのだろう。辞書の赤線はそれを明確に示していた。
気違い。障がい者。精神異常。みなしご。少し震える赤線を引かれたそんな言葉で、義勇を蔑む者の一端には、すでに対峙したことがある。醜悪な言葉と下劣な嗤いは、思い出してもふつりと怒りが湧いてくる。
まだ付き合いの浅い煉獄でさえこうなのだ。錆兎と真菰の怒りは如何ばかりだっただろう。赤線の震えから二人の怒りが立ち昇ってくるようだ。
錆兎と真菰は醜い感情から発せられた言葉の意味を一つひとつ調べては、口にした者を決して義勇たちに近づけまいと、気を配ってきたに違いない。
小さな体とまだ幼い心で、それでも懸命に大人になろうとしてきた子供たち。誰に言われたわけでもなく、自らの意思で錆兎と真菰は大人への階段を駆け上る。
子供のままでいい。まだ大人になんてならなくていい。そう言ってやるのはたやすい。けれどそれで二人の心が休まるのかといえば、きっとそんなことはない。二人が望んでいるのはお為ごなしな慰めなどではないのだ。慰められ、いなされたところで、義勇や鱗滝に向かう悪意や下劣な好奇心が消え失せるわけではないのだから。
誰よりも好きだから、誰よりも大切だから、義勇や鱗滝を守るためにと二人は急いで大人になろうとする。錆兎と真菰が自分で考え、自分で決めたことだ。いくら二人が幼く小さかろうと、決意は大人のそれと変わらない。不憫だと身勝手に憐れみ、とやかく言う権利など、誰にもない。
鱗滝や義勇にできたのは、二人の決意を尊重し受け入れて、見守ってやることだけだったのだろう。
だからこそ義勇は、二人が自分を甘やかそうとする手を、素直に受け入れているのだと煉獄は思った。甘えてやることで、義勇なりに二人の心を守っているのだ。そしてそのやさしさは今、炭治郎にも向けられている。
炭治郎が我儘をなかなか言えないのと同じように、義勇もきっと、我儘を軽々しく口に出せる質ではないのだろう。義勇は我儘の代わりに甘やかされることで、錆兎たちや炭治郎を甘やかしているのではないだろうか。
ずいぶんと不器用なやさしさだ。煉獄は小さく微笑んだ。
宇髄も同じようなことを考えているに違いない。じっと辞書を見ている端正な顔には、かすかな苦笑が浮かんでいた。
「義勇に君らのような友人ができたことは、この上ない天の配剤だろう。錆兎や真菰ではいたらぬことのほうが多いしな。義勇が立ち直れば、あの子らも報われる。だが、今の義勇の世界は、あまりにも狭い。君たちと付き合うことで、義勇の世界も広がっていくだろう。どうか……義勇をよろしく頼む」
中学生の煉獄たちに向かい、老齢の鱗滝はためらいなく頭を下げる。居丈高さなど微塵もなく、心から中学生の煉獄や宇髄を頼りにしたいと、年配の鱗滝が礼を尽くしてくれる。それはそのまま義勇への情の表れであり、錆兎と真菰への労りに違いなかった。
煉獄は下げられたままの白髪頭を見つめ、居住まいを正した。
「どうか頭を上げてください、鱗滝さん。俺がどれだけ冨岡の力になれるのかはわかりません。ですが、俺はもう冨岡のことを友人だと思っています。冨岡にはまだ友人と認められていないかもしれませんが……級友としての責任や同情などではなく、そばにいられない錆兎や真菰の代わりではなく、もちろんあなたに頼まれたからでもなく! 俺自身が、名実ともに冨岡と友人になりたいと望んでいます! 冨岡に拒まれても諦めません!」
そう宣言したのは煉獄なりの不退転の決意の表れだ。義勇がすぐ心を開いてくれるなど思い上がる気はないが、煉獄は心底そう思っている。
鱗滝や錆兎と真菰が、ここまで心を砕く存在。炭治郎や禰豆子が心から慕い、なついている、義勇。
そして、自分の目で見た冨岡義勇という男の素晴らしい剣と深いやさしさに、心惹かれるのはもう、自分でも止められそうにない。
頼まれるまでもないと、煉獄は、鱗滝を見返す瞳に力を込めた。
煉獄の宣言をどう思ったのか、隣で宇髄も面倒くさげな声を装いつつ「あいつらと関わるのは飽きねぇし、派手に面白いからな」とうそぶいた。
きっとそれは、宇髄なりの宣言だろう。それを聞いた鱗滝は、今度は楽しげに笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝食を終えれば、午前の稽古だ。楽しみの前だと思えば、準備運動にさえ熱が入る。
今日の稽古は初心者な炭治郎と禰豆子がいるからか、義勇と炭治郎達組、煉獄や錆兎達組にわかれての稽古になった。
「剣道は、礼に始まり礼に終わる。先生と神様に失礼のないよう、挨拶はちゃんとしろ」
「はいっ!」
義勇に言われ、炭治郎と禰豆子がしかつめらしく神棚に礼をするのがおかしかった。きっと自分も、初めて道場で稽古をした日はあんな顔をしていたのだろう。思えば少し面映ゆい。
道着や袴は親御さんの許可を得てからだ。普段着のまま稽古に臨んだ二人は、真剣に義勇の言葉に耳をかたむけ、元気に返事をしていた。初めての竹刀の重みに驚きつつ、懸命に義勇の注意を聞き逃すまいとするさまは、経験者たちにとっては自分も通ってきた道だ。煉獄だけでなく、錆兎や真菰、宇髄の顔にも微笑みが浮かんでいた。
八時から始まった稽古が終わったのは十一時半。初めての稽古に禰豆子はすっかりバテているが、炭治郎はまだまだ元気だ。瞳を輝かせて、錆兎たちと入る風呂の順番などを相談し合っている。
稽古の終わり間際に戻ってきた宇髄も一緒に、みんなで軽く昼食をとるころには、禰豆子も元気を取り戻したようだ。これからお出かけというカンフル剤が効いているのかもしれないが、稽古についていける体力があるのはいいことだ。
さて、いよいよ出発しようかと煉獄と宇髄が玄関を出ようとしたところで、錆兎と真菰がこっそりと手招きしてきた。義勇には内緒にしたいのだろう。義勇が炭治郎たちに話しかけられている隙を狙ったらしい二人に、煉獄は思わず宇髄と顔を見合わせた。
「あのな、繁華街の近くにある道は絶対に通らないでくれ」
「遠くても大通りを走ってほしいの。お願い!」
真剣な様子の二人に、そろって首をかしげる。疑問を口にしたのは宇髄が先だった。
「大通りからだと十分は違っちまうぞ?」
「でも駄目だ! あの道は……あそこは、蔦子姉ちゃんが事故に遭ったとこなんだ」
「義勇はあそこに近づけないの。でも、二人が一緒だったら無理するかもしれない……お願い、義勇の心がまた迷子になっちゃわないように、あそこには近づかないで」
「前に一度だけ、カウンセリング帰りに乗ったタクシーがあそこを通ったら、そのあと一週間くらいはなに食べても全部吐いて、また少し入院したんだ……だから頼む! 義勇をあそこに近づけないでくれ」
必死に言い募る錆兎と真菰に、煉獄は小さく息を呑んだ。
義勇の姉の死因が交通事故だということは聞いていたが、それをリアルに捉えたのはもしかしたら初めてかもしれない。生々しさを伴って、錆兎と真菰の言葉が頭のなかに木霊する。
身内の死を煉獄はまだ知らない。それがどんなにつらく悲しいものなのかは、想像するよりほかない。
交通事故という言葉が示すものは理解ができても、実感を伴って心に迫ってきたのは、今この時が初めてだった。
改めて煉獄はそれを深く胸に刻む。義勇を懸命に守り続けてきた、小さな保護者に敬意を表して。
小さくうなずき、煉獄は強く言った。
「わかった。絶対に冨岡をそこには近づけない。剣に誓って約束しよう」
「ほかに注意しとくことはあるか? 今のうちに言っとけ」
煉獄と宇髄の返事に、「あまり急がせないようにして」と答え、ホッと眉を開いた錆兎と真菰が炭治郎たちの元へと駆け寄っていく。それを煉獄とともに見送った宇髄がつぶやいた。
「ったく、派手に過保護なこった」
「俺たちもその過保護な保護者の一員になりそうではあるがな」
うぇぇと顔をしかめてみせるが、宇髄の瞳も笑っている。
「さて、それじゃ俺らも行くかね」
「うむ! しかし、禰豆子たちと同じ風呂か……」
「おい、思い出させんな。意識する俺らが変態に思えてくんだろうが」
思わず顔を見合わせ乾いた笑いを浮かべた煉獄と宇髄が近づいていくのを、自転車のハンドルを持った義勇がきょとんと見ていた。