ワクワクドキドキときどきプンプン2日目

炭治郎

 ゴールデンウィーク二日目の朝に、炭治郎が目覚めて一番最初に目にしたものは、きらきらとした朝の日射しに照らされた義勇の寝顔だった。

 

 道場の窓から差し込む朝日は細く、辺りはまだ薄暗い。あちらこちらから聞こえてくるいくつもの寝息にまじって、早起きな雀たちがチュンチュンと鳴く声がしていた。まだ誰も目覚めていない初夏の早朝。布団のなかはぬくぬくと温かい。
 義勇はうっすらと唇を開けて眠っている。閉じられた目元に影を落とす長く厚みのある睫毛、すっと通った鼻筋。すぅすぅとかすかな寝息が聞こえてくる。きれいな顔はいつもよりあどけなく見えた。
 目覚めたばかりのぼんやりとした目をゆるくまばたかせた炭治郎は、「義勇さんだぁ」と声には出さずにつぶやいて、ほにゃりと笑った。

 その距離、ほんの十五センチ。

 

次の瞬間にはパッチリ目覚めた炭治郎は、その近さに思わずひょわっと変な声を上げ、あわてて口を押えた。飛び起きそうになったけれどなぜだかできなくて、頭だけ起こして辺りを見回す。
 幸いなことに誰も起こさずに済んだようだ。ホッとして改めて義勇を見る。飛び起きられなかったのは、義勇の腕に抱きこまれているせいらしい。なんなら足も巻き付いてる。体に感じる重みと温もりは心地好いけれども、抱っこされて眠っていたなんて、なんだか赤ちゃんに戻ったみたいだ。
 しっかりと炭治郎を抱きかかえて眠る義勇は、身動いだ炭治郎に一瞬だけ眉を寄せ、んんっと小さく唸ったけれど、すぐにまた穏やかな寝息を立てた。

 嫌じゃないけど。むしろうれしいけど。でも、なんで義勇さんに抱っこされてるんだろう?
 そうだ。道場に布団を敷き詰めてみんなで眠ることになったから、義勇さんに一緒に寝ていいですかって聞いてみたんだった。邪魔になるかと思って不安だったけど、義勇さんはすぐにうなずいてくれて、義勇さんの布団に入ったらおやすみって頭を撫でてくれて……。

 ちょっとずつ思い出してきた昨日の出来事に、だんだんとドキドキが大きくなってくる。昨日の朝と同じように、ワクワク、そわそわした気持ちになってくる。
 なにが起こるかわからないまま、ただ義勇と一緒にいられるだけでワクワクしていた昨日の朝と違って、今日の計画はもう決まっているのだ。

 今日は義勇さんと一緒に剣道の稽古して、それから義勇さんと一緒にお風呂!

 正しくは、リニューアルオープンしたというスーパー銭湯に午後からみんなで行くのだけれど、義勇と一緒にお風呂に入れることに違いはない。
 今日の計画があんまり楽しみで。今日から義勇に剣道を教えてもらえるのがうれしくて。思わず声を上げて笑いたくなった炭治郎は、口を押えたまま義勇の胸にすりすりとひたいをすり寄せた。
 起こしちゃうかなとちょっぴり心配したけど、義勇はよく眠っていて起きる気配はない。すぐ近くで聞こえる義勇の穏やかな寝息と心臓の音に、なんだかとっても安心する。もっともっと小さいころ、抱っこしてくれたお母さんの心臓の音にとっても安心したのと同じだ。
 義勇の温もりと鼓動に誘われて、炭治郎の目がふたたびうとうとと閉じられていく。まだ目覚めるには早い時間。早く大好きなあの瑠璃の瞳が見たいなと、頭の片隅で思いながら、炭治郎はまた眠りに落ちていった。

『炭治郎たちも来ていることだし、二日目と三日目の稽古は午前中に集中して行うことにして、午後はみんなで好きに過ごすといい』

 そう鱗滝が言ってくれたのは、ゴールデンウィーク初日である昨日のこと。午後の稽古が終わったときだった。
 何度か短い休憩を挟んだとはいえ、一時から五時半までの稽古はほぼぶっ通しだ。息も絶え絶えにへたばって見えた錆兎と真菰が、途端に元気になって鱗滝の宣言に万歳していた。稽古をサボりたいと思ったことは一度もないけど、たまには遊んだっていいと思うと力説してたのが、ちょっとおかしい。
 たしかに午後の稽古は素振りだけの午前と違って、炭治郎と禰豆子だけでなく宇髄までもがちょっと驚いていたぐらい激しかったから、気持ちはわかる。大きな煉獄までかなり息が上がっているほどのハードさだ。小さい錆兎たちはそうとう大変だったろう。
「こんなのいつものことだぞ」
「今日はランニングがなかったから楽なほうだよね」
 疲れ切ってしばらく立ち上がれもしなかった二人が、そう言って笑ったのがなによりビックリだ。
 こんなに大変な稽古をいつもしていたから義勇さんはとっても強いんだなぁと、感心してますます尊敬を深めた炭治郎だったけれど、義勇は煉獄たちと一緒に稽古していたとは言いづらい。義勇はまだ激しい稽古はできないのだ。体力が足りないのだから無理はするなと鱗滝が言っていた。
 以前は鱗滝を相手に地稽古という試合のような打ち合いもしていたと、錆兎たちが教えてくれたけれど、今の義勇は打ち込み人形相手の稽古や、鏡の前で素振りをするだけだ。
 それすらあまり長くは続けられないようで、地稽古が始まってからは、煉獄と鱗滝が激しく打ち合っているのを、義勇はきちんと正座してじっと見ていた。
 義勇に倣って正座した炭治郎と禰豆子は、すぐに足が痺れて体育座りになってしまったというのに、堅い道場の床板の上でも義勇は身動ぎ一つしなかった。ぼぅっとしているようにも見える瑠璃の瞳には、真剣な光が見てとれた。

「義勇さんもみんなと一緒に稽古できたらいいですね」
 炭治郎たちと違って義勇は、体力さえ戻れば煉獄同様に鱗滝と稽古できたはずだ。いつも竹刀を持ち歩いているぐらいなんだし、剣道がとても好きなんだろう。本当は一緒に稽古したいんだろうなと思って、稽古終わりに鱗滝と神棚に礼をした後で言ったら、答えてくれたのは義勇じゃなくて煉獄だった。
「竈門少年、冨岡はずっと稽古していたぞ!」
「え? えっと、でも」
 禰豆子と二人してどういうこと? と義勇と煉獄の顔をキョトンと見比べれば、煉獄が明るく笑った。
「冨岡がしていたのは見取り稽古だ。師範の間合いの取り方や足捌き、剣先の動きなどを見て、瞬時に相手がどう動くのかを予測するための洞察力を磨く。観見の目付というやつだな。これも大事な稽古だ! 稽古をつけていただいて感じたが、冨岡の剣さばきは鱗滝殿によく似ている。もちろん鍛錬の成果でもあるだろうが、冨岡は観の目に優れているんだな!」
「あー、それ合気道でもやらされたわ。地味だが、達人の技を見て盗むってのも武芸の上達にはかかせねぇからよ。素人目でも鱗滝さんの凄さはわかるぐらいだったからな。あれを毎日見てんだ、そりゃ冨岡の腕前も上がるってもんだ」
 稽古の光景を撮っていたカメラをしまいながら、宇髄もそんなことを言ってくれたものだから、炭治郎の興奮はうなぎのぼりだ。炭治郎は剣道を見るのは初めてだったけれど、煉獄がすごく強いのは稽古を見ていただけでもわかる。鱗滝だって感心していた。そんな煉獄が褒めるのだ。義勇だって負けていないに違いない。
「へぇ! やっぱり義勇さんはすごいんですね!」
 煉獄や宇髄に褒められて、炭治郎はとてもうれしくなったのだけれども、とうの義勇本人は無表情のまま少し居心地悪げだった。
「うむ! 先日の一件でも、冨岡は即座に竈門少年の思惑に気づいただろう? 冨岡、竈門少年の体の傾きや足の運びから、竈門少年が方向転換すると察したんじゃないのか?」
 くりっと義勇を振り返り見てたずねる煉獄につられ、炭治郎が義勇に視線を向けると、義勇は、わずかばかり戸惑った様子を見せながらも小さくうなずいた。
 煉獄たちと出逢ったときの一幕は、記憶に新しい。繋がれた犬を逃してくるなんて誰にも言わずに走り出したのに、なんで義勇には考えてることがわかっちゃったんだろうと不思議だったけれど、答えは剣道のおかげということか。
「そんなほんのちょっとのことでわかるんですか!?」
「煉獄さんもわかる?」
「わかるとも! 鱗滝殿やうちの父上ほどともなれば、相手の目や息遣いだけで次の動作を読むぞ! 残念ながら俺はまだその域にはおよばんがな!」
 禰豆子と一緒になって聞けば、煉獄は言葉ほどには悔しげでもなく言って笑う。
「へぇーっ! 錆兎や真菰もできるのか?」
「真菰ちゃんすごいね!」
 大興奮で聞いた炭治郎と禰豆子に、二人はそろって肩をすくめた。
「まだ無理だな。でも絶対に爺ちゃんと同じくらい強くなってみせる」
「そのために稽古してるんだもんね。もっと大きくなったら煉獄さんにだって勝つよ」
「煉獄さんにも? うわぁ、すごい! 真菰ちゃんがんばって!」
「うん。ありがと、禰豆子ちゃん。がんばるねっ」
「ふむ、煉獄道場を継ぐ身としては負けられん! 俺も今まで以上に鍛錬に励むとしよう!」
「チビっ子相手に派手に大人げねぇ……と、言いたいところだが、こいつら歳のわりにはかなりできるのが素人の俺でもわかるからなぁ。うかうかしてらんねぇぞ、煉獄」
 キャッキャと笑いあう禰豆子と真菰は楽しそうだ。打ち負かすと宣言された煉獄もニコニコしているし、宇髄もどこか愉快げだった。
 みんなが笑っているなか、義勇だけはいつもの無表情。ちょっぴり寂しいけれど、それでも錆兎たちを見る義勇の目はとてもやさしくて、楽しそうな匂いが少し嗅ぎ取れた。
 よかった、義勇さんも楽しそうだ。うれしくなりながら炭治郎が、義勇さんも頑張ってくださいと応援しようとしたとき。

「あ、そうだ。炭治郎と禰豆子も剣道やってみるか?」
「それ、いいアイディア! ね、禰豆子ちゃん、炭治郎も。剣道やらない?」

 ポカンとした炭治郎と禰豆子に笑顔を向け、錆兎と真菰は、いかにも名案とばかりになんだか興奮気味に詰め寄ってくる。
「うちに通えば、義勇の弟弟子と妹弟子になれるぞ」
「義勇が炭治郎や禰豆子ちゃんのお兄ちゃんになるよ。私と錆兎もね」
 え? 義勇さんがお兄ちゃんって……なにそれすごい。とっさに炭治郎は隣に座る義勇をパッと仰ぎ見たけれど、炭治郎のはち切れそうな期待とは裏腹に、義勇は小さく首をかしげただけだった。いつもと同じ、なにを考えているのかわからない無表情だ。
 でも、そわっとした期待の匂いがかすかにする。炭治郎はなんだか「うわぁ!」って叫びたくなった。
 だって義勇の弟弟子になるってことは、錆兎や真菰が義勇のことを弟って言って撫でたりかまったりするように、義勇も炭治郎のことをいっぱい撫でてくれたりするってことで。炭治郎が禰豆子たちのお兄ちゃんなのと同じように、義勇が炭治郎のお兄ちゃんになってくれるってことで。
 そうしたら、義勇みたいに強くなれるかもしれない。観の目っていうのを炭治郎も使えるようになったら、もっと義勇のことがわかるようになるかもしれない。義勇ともっとずっと仲良くなれるかもしれないってことだ。

 うわぁ、うわぁぁ、うわぁぁぁっ!! なにそれ、すごい!

 やりたいと大きな声で言かけた炭治郎を止めたのは、煉獄の一言だった。
「だが、竈門少年の家からでは、こちらに通うのは厳しくないか?」
「煉獄……おまえさぁ、空気読んでやれよ……」
 悪気なく炭治郎をしょんぼりさせた煉獄に、宇髄が軽いため息とともに言う。べつに煉獄が悪いわけじゃない。煉獄の言うことはもっともだ。
 なにせ、鱗滝の家は炭治郎にとっては遠すぎる。バスで通うにしても、炭治郎にはお兄ちゃんとして禰豆子たちの面倒を見るという重要な使命があるのだ。竈門ベーカリーの看板息子としては、お店のお手伝いだってしなくちゃいけない。
「剣道ならうちでも教えてやれるぞ! 竈門ベーカリーからもそう離れてはいないし、竈門少年、禰豆子と一緒に煉獄道場に通うのでは駄目か?」
 見る間に意気消沈してしまった炭治郎を、煉獄が気遣ってくれているのはわかる。あわてさせてしまっているのも申し訳ない。だけど、そういうことじゃないのだ。
「こちらとは流派が違うが基本は同じだ! うちの稽古も厳しいが、竈門少年たちならきっといい剣士になれるだろう。大歓迎するぞ!」
 そう言って笑ってくれるのは、とってもありがたいことだと炭治郎だって思う。でも違うのだ。
 煉獄のことは好きだけど。煉獄がとても強いことだって稽古を見ていてわかるけれど。本当に、本っ当に、申し訳ないと思うけれども。

 そうだけど、そうじゃない。

 煉獄を見る錆兎と真菰や宇髄の目も、そう言っていた。
 みんなにじとっと睨まれて、ん? と首をかしげて一同を見回した煉獄は、義勇が目に入ったと同時に、己の失態に気づいたらしい。
「冨岡、すまん! 竈門少年を横取りしようとしたわけじゃないぞっ!」
 さっきよりも盛大にあわてた煉獄の言葉に、炭治郎が義勇に視線を向けると、義勇は無表情のまま膝を抱えていた。感情の読めない瞳は変わらない。でも少し伏せられた瞼。落ちた肩。落ち込んでいるのが誰の目にもよくわかる。
 かすかに感じた悲しい匂いに、炭治郎もあわててしまう。
 どうしよう、義勇さんを悲しませちゃった! だけども、絶対に煉獄さんのところには行きませんなんて言うのは、親切で誘ってくれた煉獄に悪くて口にはできない。どうしようと迷っていたら。

「でも、煉獄さんのとこに行ったら、ぎゆさんの妹にはなれないんでしょ? 禰豆子、真菰ちゃんと一緒がいいなぁ」

 空気を読んだわけじゃないだろうけれど、禰豆子がちょっと残念そうに言ったのに、錆兎や宇髄が強くうなずいた。
「禰豆子よく言った! 大事なのはそこだ、そこ!」
 宇髄に睨まれた煉獄はめずらしく困り顔だ。男らしい眉毛がへにょりと下がっていた。
「しかし、通いきれんのならしかたないだろう? 勝手に決めたところで親御さんの意見もあるからな。その話はまた改めて相談することにして、いい加減風呂に入ってこい。飯が遅くなるぞ」
 煉獄への助け舟は、道場に戻ってきた鱗滝の苦笑まじりの鶴の一声。一同顔を見合わせて、言葉もなく立ち上がる。小さな騒動は一旦保留だ。なにせみんな育ち盛り、空腹には勝てない。

 ぞろぞろと母屋に向かう途中、炭治郎は隣を歩く義勇をこっそり盗み見た。義勇の顔には、さっきの落ち込みなどまるで見当たらない。義勇も残念だと思ってくれたのならいいのだけれど。炭治郎が残念に思うほどには、義勇は気にしていないのかもしれない。
 悲しんでほしいような、悲しまずにいてくれてよかったような、複雑な気分だ。炭治郎の視線に気づいたのか、義勇が炭治郎をじっと見た。ぽんっと炭治郎の頭に置いてくれた手から感じたのは、やさしく慈しんでくれる温もり。
 慰めてくれているのだろうか。それだけでうれしくなる炭治郎だけれど、でもよけいに残念な気持ちは大きくなってしまう。
 錆兎や真菰みたいに義勇が考えていることがわかるようになりたいのに、炭治郎が義勇と一緒にいられる時間はあまりにも少ない。しかたのないことだけれども、できることなら義勇の弟弟子になれたらいいのにと思ってしまう。

「あの、義勇さん。義勇さんは俺が弟弟子になったらうれしいですか?」
 立ち止まって思い切って聞いてみたら、義勇はちょっとだけ眉を寄せた。どうしよう困らせちゃったかな。思って、炭治郎が「今のはなし! ごめんなさい!」と急いで言う前に、義勇が口を開いた。
「煉獄の弟弟子になるのは、いいと思う」
 その言葉に炭治郎の眉がへにゃりと下がる。それをどう思ったのか、義勇は少し焦った匂いをさせながらうつむいてしまった。
 義勇にしてみれば、炭治郎が困るのなら道場にこだわる必要はないと思ったんだろう。とてもやさしい人だから、もしも残念に思ったとしても、我儘なんてきっと義勇は言わない。

 『お兄ちゃん』な炭治郎が、我儘を言わないのと同じように。

 わかっているけれど、それはやっぱり寂しい気がした。
 義勇に甘えたいのと同じくらい、義勇に甘えてもらいたい気持ちが、炭治郎の胸のなかにはある。

 それは炭治郎が『お兄ちゃん』だからなのか。炭治郎にはよくわからない。
 義勇のことが好き。大好き。それに間違いはないのだけれども、その『好き』はほかの人への『好き』とはちょっと違うような気がするのだ。
 炭治郎は誰のことだって好きだ。お父さんやお母さん。禰豆子たちや錆兎に真菰も。煉獄や宇髄、鱗滝のことだって好き。学校の友達や犬のハチ、ご近所のやさしい人たち、みんなのことが好きだ。
 だけど、義勇への好きは、なんだかちょっと違う。独り占めしたい好き。やきもちを妬いちゃう好きだ。

 そんな『好き』は初めてで、炭治郎はときどきちょっぴり不安になる。
 誰かに嫌われれば寂しいし悲しい。それでも、しかたないよなといつもは思えた。炭治郎が仲良くしたいと思っても、向こうが嫌だと言うならしかたない。いつか仲良くなれたらいいなと思いながら、仲のいい子にするのと同じように挨拶するし話しかける。

 だけどもしも。もしも義勇に嫌われたら。

 考えただけで炭治郎は悲しくてつらくて、泣きたくなる。嫌いにならないでと、好きになってと、泣き出したくなってしまう。しかたないなんて思えそうにない。
 義勇の特別になりたい。それがなぜなのかはわからないけれど。この気持ちがなんなのか、炭治郎はまだ知らないけれど。義勇のことをもっと知りたいと思う。義勇の一番傍にいたいと思う。義勇にだけは甘えたいし、自分にも甘えてほしかった。

 それはなんでかな。なんで義勇さんにだけなのかな。『好き』にはいろんな『好き』があるのかな。

 考えていたら、義勇がぽつりと言った。
「炭治郎が強くなりたいなら、煉獄道場のほうが通いやすい」
 さっきの一言では言葉が足りないと思ったんだろう。義勇は一所懸命考えながら言葉を探しているようだ。
「煉獄は、いい剣士だ。俺よりきっと強い」
 だから煉獄のところで剣道を習うのは炭治郎のためになる。義勇の口調は少しだけゆっくりだ。言葉を選び選び話している。たぶんだけど、炭治郎にきちんと自分の言葉で伝えるために。
 とてもうれしくて、ちょっとだけ寂しい気持ちがするのは、義勇の言葉には義勇の気持ちが含まれていないからだ。
 義勇は炭治郎のことを考えてくれている。それはとてもうれしい。でも、義勇が炭治郎の兄弟子になれないことをどう思っているのかは、教えてくれない。それが寂しい。
 きっとこれは自分の我儘だとわかっているのだけれど、義勇にも我儘を言ってほしいと炭治郎は思う。
 義勇がもしも炭治郎の兄弟子になりたいと言ってくれたなら、炭治郎はなにがなんでもお父さんたちを説得してみせるのに。どんなに大変でもちゃんと道場に通いつづけると誓える。
 でも、炭治郎だって我儘は言えないのだ。義勇が望んでくれないのなら、『お兄ちゃん』である炭治郎は、我儘なんて言えない。
 寂しいと思うのは、義勇への『好き』がみんなへの『好き』と違うからなんだろうか。
 わからないから、なにも言えない。炭治郎が黙り込んでしまえば、もともと無口な義勇とのあいだに会話はなくなる。

 お互いちょっとうつむいたまま無言で母屋に戻ると、宇髄と煉獄が、熾烈なジャンケンの真っ最中だった。
 いやもう本当に、熾烈としか言いようがない。ものすごいスピードであいこの応酬を繰り広げている。激しすぎる気迫とスピードは、なにかの稽古なんじゃないかと思うぐらいだ。
「どうして宇髄さんたちジャンケンしてるんだ?」
「風呂の組み合わせ決めてるんだ。どっちが禰豆子と入るかでもめてな。どっちも炭治郎と入るって譲らなくてこうなった」
 錆兎の呆れた声に、炭治郎は首をかしげてしまった。
 禰豆子はちゃんと肩までお風呂に浸かって百数えることだってできるし、シャンプーハットなしで頭だって洗えるのにな。なんで禰豆子より俺のほうがいいんだろう。それに義勇さんだっているんだし、絶対に煉獄さんたちと入らなきゃいけないってわけじゃないと思うけど。
 不思議に思っていたら、真菰も呆れたように言った。
「私と錆兎と義勇が一緒に入るでしょ? 鱗滝さんは最後に一人で入るから、炭治郎と禰豆子ちゃんには、宇髄さんと煉獄さんに分かれて一緒に入ってもらおうと思ったんだけど……炭治郎じゃなきゃ嫌だなんて我儘だよねぇ」

 あ、義勇さんと一緒に入るのは錆兎と真菰で決定なんだ。

 ちょっとしょんぼりして義勇をちらりと見たら、義勇も宇髄たちを見ながら首をかしげていた。きっと義勇もまったく疑問に思っていないんだろう。義勇と錆兎たちはいつでも一緒。それが三人の、いや、煉獄たちにすら不文律になっているに違いない。
「よっしゃぁ! 派手に俺様の勝ちだぁ!」
「くっ、読みが浅かったか……無念だ」
 ようやく勝敗がついたらしい。拳を突き上げている宇髄と、チョキを出したまま肩を落とした煉獄に、錆兎と真菰が呆れ返っている。よかったですねとも言えず、炭治郎はオロオロとするばかりだ。
「……禰豆子、お兄ちゃんと入る」
「え? どうしてだ?」
 悲しげな声がしてあわてて禰豆子を見ると、禰豆子はしょんぼりとうつむいてしまっていた。
「だって、煉獄さんも宇髄さんも、禰豆子と一緒は嫌だって……」
 クスンと鼻をすすり上げ、泣きだしそうに言う禰豆子に、煉獄と宇髄が一斉にあわてだした。
「嫌なわけじゃねぇぞ!? けど、ほらっ、禰豆子は女の子だろうが!」
「俺も宇髄も弟はいるが、妹はいないのだっ。女の子の扱いはよくわからなくてだな!?」
 二人とも焦っているのはわかるのだけれど、それがなんでなのかが、炭治郎にはよくわからない。
「べつに炭治郎と入るのと変わらないだろ?」
「だよねぇ?」
「禰豆子はもうシャンプーハットがなくても、自分で頭も普通に洗えますよ? 面倒はかけません。な、禰豆子?」
「うん。自分で体も洗えるし、ちゃんと百まで数えられるよ」
 義勇が禰豆子の頭を無言のまま撫でた。えらいなって褒めてくれたんだろう。泣きそうになっていた禰豆子がうれしそうに笑ってくれてホッとしたけれど、ちょっぴり生まれたやきもちが、チクンと炭治郎の胸を刺す。
「えぇー……おまえら、そういうとこはちゃんとチビッ子なのかよ……」
「というか、冨岡は女の子が一緒でもかまわないのか?」
 問われて義勇がまた首をかしげた。その様子は、いかにもなんでそんなことを聞かれるのか理解できないという感じだ。
「マジかぁ……」
「うぅむ、気にする俺たちのほうがおかしいのだろうか」
 どこか途方に暮れて見える宇髄と煉獄に、思わず全員で首をひねっていると、台所にいた鱗滝が顔を出し、苦笑とともに言った。
「それなら義勇が真菰と禰豆子と入ればいいだろう? 錆兎と炭治郎は宇髄くんたちと入れ」
 さっさと風呂に入らないと飯にできないぞと笑われて、それぞれ顔を見合わせる。最初にうなずいたのは錆兎だった。
「わかった。じゃあ俺は天元と入ることにする」
「それじゃ、俺は竈門少年とだな!」

 鶴の一声ですんなり決まったお風呂の組み合わせ。
 炭治郎の胸に、また小さなもやもやを残して。