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なんだか眩しい。
ふと浮き上がった意識が訴えるのに従い、杏寿郎は一度、ギュッと眉をしかめた。カーテンの隙間から差し込む朝日ほどには、眼球を刺激してこない光ではある。だが常の朝にはない眩しさは、閉じた瞼を透かして杏寿郎の覚醒を促してくる。
もう朝なんだろうか。目を閉じたままぼんやりと思って、意識の片隅で首をひねる。どんなに遅い就寝でも、杏寿郎は早朝稽古のためにいつだって五時には目が覚めるので、たぶん今は朝五時だ。思うけれども、なんとなく違和感が拭えない。
いつもは即座にパチリと目が覚めるのだけれど、今朝は、全身を包む気だるさが勝っているようだ。なんだか目を開けるのが億劫だった。覚醒と睡眠の間で、意識がゆらゆらと漂っているような気がする。
倦怠感はそれでも不快なものではなく、記憶はどこか曖昧だった。なんでこんなに明るいんだろう。目を閉じていても感じる光に、杏寿郎はぼんやりと考える。
次の瞬間には、腕で、足で、むしろ全身で、しがみつくように温かななにかを抱きしめている己に気づき、途端に杏寿郎の意識は急浮上した。
パチリと目を開けば、明るい光のなかでまっさきに瞳が映し出したのは、漆黒の乱れ髪だ。
白いシーツに広がる様ならば、色気もあるのだろうけれども、杏寿郎が目にしたのは頭頂部である。義勇だ。間髪入れずに脳裏に浮かんだ名と歓喜に、杏寿郎の顔が無意識にゆるむ。
そうだ。昨夜は初めて二人でホテルに泊まったんだった。意識の覚醒は記憶を同時に呼び覚まし、杏寿郎の顔はますますとろけていく。
目に入るものは、まさしく乱れているとしか言いようのない、あちこちに飛び跳ねた黒髪ばかりだ。これぞ天使の寝顔と、いつも杏寿郎が見惚れてしまう義勇の顔は、杏寿郎の胸に埋められて今朝は見えない。
二人で眠ると、こういうとき義勇の寝顔はたいがい、杏寿郎の視線の真正面にあるのだけれど、昨夜はめずらしく、胸元に抱き込むようにして眠ってしまったらしい。見下ろす義勇のつむじは、ちょっぴり新鮮な感じがして、胸の奥がホワホワとする。
目が覚めても、夢見心地は抜けきらない。二人でくるまる布団はぬくぬくとして、心の片隅で安堵もする。義勇は寒がりだから、冬場に一緒に眠ると、気づけば抱き枕か湯たんぽよろしく、杏寿郎を抱き込んでいるのだ。
けれど、今朝は義勇も冷気を感じていないようだ。抱き枕にされるのも嫌ではないが、逆の立場での目覚めがなんとなくうれしい。
義勇の寝顔が見られないのは少し残念だが、胸元をくすぐる寝息はただもう幸せの一言で、杏寿郎はそろりと義勇の髪に唇を落とした。大きく胸を波打たせて、恍惚めいた長いため息をもらせば、んっ、と義勇が身じろぐ。
起こしてしまったかと、わずかに腕をゆるめたが、義勇はまた、すぅすぅと寝息を立てだした。なんとはなしホッとして、杏寿郎の顔に小さな苦笑が浮かぶ。
昨夜はだいぶ無理をさせてしまった気がする。チェックアウトは十一時。習慣で五時に目覚めたのなら、まだかなり余裕があるはずだ。疲れているだろう義勇を起こしてしまうのは忍びない。
残念ながら杏寿郎はまだ免許を持っていないので、帰りも義勇に運転してもらうことになる。少しでも体力回復してもらわねば、申し訳ないことこの上ないではないか。
だから、口づけも跳ねた髪にだけ。本当はひたいや頬にも、それこそ顔中にキスの雨を降らせたい。できることなら唇にも。小鳥のようについばんだり、やわらかくて甘い舌に自分の舌を絡めたり。いい加減にしろと怒られるほど、キスしたいけれども。杏寿郎はじっと我慢の子で、義勇の健やかな眠りを守るガーディアンと化す。
恋人だからというのはもちろんだけれど、本音を言えば、恋人だけじゃとうてい足りない。杏寿郎は、義勇のかわいいワンコ兼弟――ちょっぴり口惜しくはあるが、甘やかされるのは嫌いじゃない――、かつ、頼りになる恋人で、なにものからも義勇を守り抜く守護者になりたいのだ。
推定五時の現在、杏寿郎が守るべきは義勇の睡眠だ。だから杏寿郎は、義勇が安らかに眠っていられるよう、がむしゃらに抱きしめたがる腕だって抑えつけて、息をひそめてじっと見守る。
義勇の寝息を聞き、温もりを抱きしめているだけで、言いようのない多幸感に包まれるから、つらくはない。杏寿郎は、叫び出したいような泣きたいような、どうしようもなく胸を締めつけてくる幸せが、涙になってこぼれてしまわぬよう、ギュッと目をつぶった。
ふと思い出すのは、常にはない穏やかな笑みで教えられた『本当に気持ちいいセックス』とやらだ。
義勇と抱きしめあって目覚めるこんな朝に、いつも杏寿郎は、あの日の宇髄の言葉を思い出す。そうして、願うのだ。昨夜のことも、思い出に残る『一生気持ちいいセックス』になればいいと。自分にとってそうであるように、義勇にとっても同じであればいいと、噛みしめるように杏寿郎はいつだって願う。
今朝もやっぱり、杏寿郎は、記憶のなかの宇髄の笑みとともに、『一生モノ』をまた積み重ねられただろうか、そうであればいいと、強く願った。
今日はクリスマス。腕のなかには、月に一度だけ逢える恋人。宇髄との会話の記憶も相まって、杏寿郎の脳裏には真冬だというのに、五色の短冊がサラサラと揺れる。小さなころから、義勇と並んで短冊に書いた願い事は、いつだって、今だって、変わらない。
いつまでも、義勇と一緒にいられますように。
強く抱きしめそうになるのをどうにかこらえた杏寿郎の腕のなか、一生をともにと願う最愛の人は、すやすやと穏やかに眠っていた。
それは、杏寿郎の一世一代の告白が義勇に受け入れられ、義勇が引っ越していってから三ヶ月がたった七月のことだ。
おりしもその日は七夕で、縁側で千寿郎と一緒に五色の短冊が揺れる竹を眺めているうちに、杏寿郎はいてもたってもいられなくなった。杏寿郎が父に外出の許可をとり、急いた声で今から行っていいかと宇髄に電話をしてから、宇髄のマンションのインターフォンを押すまで、十五分と経ってはいない。
宇髄は、息を切らせて頬を赤く染めた杏寿郎を、快く出迎えてくれた。
まるで、杏寿郎が訪ねてきた理由などお見通しと言わんばかりに、くるのが派手に遅ぇよと笑いながら。
決意はしてきたものの相談の内容が内容だけに、いつもにくらべて口が重い杏寿郎に対し、宇髄は急かすこともなく穏やかに笑っていた。
引越し当日に発見された盗聴器は、現状、やはり推測どおり前の住人を狙ってのものだと考えるのが妥当だろう。義勇の耳目を盗んで錆兎たちと情報を共有し、彼らにもたびたび調べてもらっているが、新たな盗聴器なり盗撮器なりは発見されていない。今後も継続的に調査はするつもりでいるけれど、不審者の存在も今のところはなく、義勇の新生活に問題はないようだ。
そんな報告をするあいだは冷静だった心臓も、いよいよ本題に入るぞと宇髄を真正面から見つめれば、とたんにドクドクと落ち着きなく騒ぎ出した。
遠回しな文言など、ちっとも浮かんでこなかった。だけれども、単刀直入にも聞きにくい。ガラにもなくうつむいて、杏寿郎はもじもじと膝の腕で指をすり合わせた。
宇髄や不死川、伊黒にも、つきあうことになったと二人で報告はしている。ようやくかと、呆れた顔をして笑ってくれた三人には、今さらなにを隠す必要もない。それでもやっぱり、羞恥心はどうしようもなかった。
「部屋に問題がねぇなら、ようやく煉獄も童貞卒業できるか。派手におめでとうさん」
なかなか相談を切り出せないのを察してくれたんだろう。わずかなからかいを含みつつも、なにげない口調で言った宇髄に、杏寿郎は、思わず勢いよく顔をあげた。
やけに熱くてしかたがない顔は、きっと今まで以上に真っ赤に染まっていたに違いない。それでも宇髄は、いつものように爆笑せずに静かに笑っているから、杏寿郎は意を決して身を乗り出した。
「あ、あのっ、それでなんだが」
「はいはい、みなまで言うな。どうせおまえさん家のこったから、スマホはフィルタリングされてんだろ? 調べたくてもむずかしいわな」
常よりもちょっぴり穏やかに笑って、杏寿郎の前でノートパソコンを開いた宇髄のレクチャーは、小一時間もかかっただろうか。からかいや冷やかしなどまるでない真面目な口調での説明は、宇髄の手による図解込みだ。いったいいつからこんなものを準備していたのかと、杏寿郎がうろたえても、宇髄は平然としたものだった。
「まぁ、最初だしな。もし失敗してもあんまり落ち込むなよ? セックスなんざ相手がいなけりゃ成り立たねぇんだ。どっちかだけの失敗ってわけじゃねぇよ」
「そうは言うが……やはり、義勇にはその、ちゃんと気持ちよくなってほしい、と……」
宇髄の教えはテクニックよりも注意点重視だ。事前の準備から事後の処理、最適な避妊具やら潤滑剤やらまでまとめられた宇髄謹製の資料は、かゆいところに手が届くとはこのことかと思わず感動するほどではある。宇髄の言葉だって、言いたいことはわかるし、もっともだと思いはした。
それでも杏寿郎からすればやっぱり、失敗などしたくないし、義勇にもなんというか、メロメロになってもらいたい……なんて、思ってしまうのはしかたのないところだ。
言いよどみもじもじとうつむいた杏寿郎に、宇髄はまた、静かに笑って言った。
「あのな、本当に気持ちいいセックスは、テクなんかまったく関係ねぇんだよ」
ピンとこず、コテンと首をかしげた杏寿郎の姿は、宇髄の目にはきっとずいぶんと幼く映ったのだろう。くしゃくしゃと少し雑な手つきで頭を撫でられた。からかいの見えぬ、やさしい手だった。
「たとえば、だ。俺の経験でよけりゃ、これなら誰でも派手にメロメロになるってエロテクも、確かにあらぁな。けどそれは、あくまでも体だけだぜ? おまけに体が覚える快感なんて、簡単に上書きされる。刺激に慣れて、次から次にハードル上げてったところで、ジジイになりゃあそうそう若いころみたいにはいかねぇんだ。そんときおまえ、どうすんの? ドギツいセックスじゃなきゃ満足できねぇ、けど体は思ったようには動かねぇ。昔はよかったって、年食ってから冨岡にグチグチ言われてぇか?」
聞かれ、杏寿郎は、無意識にグッと顎を引いた。わずかに眉根だって寄る。スッと宇髄の手が離れていった。
ククッと喉の奥で忍び笑った宇髄に、杏寿郎は少しばかりバツ悪く首をすくめた。お見通し加減も気恥ずかしいが、なによりも、深く考えていなかった自分が恥ずかしい。けれども。
「冨岡ならそんなこと言わないってぇ顔だな。けど、子供っていう枷が作れねぇ男同士だ。快感だけで繋ぎとめんのは、キツイぜ?」
「……でも、最初に失敗したら、ハードルを上げるどころか、次がないかもしれないだろう?」
気持ちいいと思ってもらえなければ、初めてが最後になってしまう可能性はゼロじゃない。それこそ、男同士だ。失敗して義勇につらい思いをさせたり、呆れ返られたりしたら、無理にセックスしなくてもいいんじゃないかと義勇が言い出しても、杏寿郎には反論の術がない。
だって、ことがことだけに、練習するからというわけにもいかないのだ。誰と? と聞かれれば、義勇とと答えるしかないが、それじゃ本末転倒もいいところだ。義勇はしたくないと思っているのに、義勇と練習してからって、なんだそれ。そもそも、どこまでが練習でどこからが本番なんだか、わかりゃしないではないか。
チベットスナギツネもかくやとなった義勇の顔が脳裏に浮かんで、杏寿郎は思わず顔をしかめた。見慣れた不死川や伊黒なら気にもならないが、義勇にあの目を向けられるのは、ちょっと勘弁願いたい。いたたまれなさ過ぎて、穴を掘って埋まりたくなりそうだ。そんな義勇もたぶんかわいいんだろうなとも思うけれども。
それはともかくとして。
練習なくして上達はありえないだろうが、ほかの誰かとなんて、考えるのも嫌だ。義勇以外にそういう意味で触れたり触れられたりするなど、練習だろうとなんだろうと、まっぴらごめんである。
知らず眉尻を下げていかにも困り顔になった杏寿郎に、宇髄の笑みが苦笑へと変わった。
「どこをどう弄ってやれば気持ちいいかなんて、おんなじ男なんだからわかんだろ? 嫌がることをしねぇでやりゃあ、それで充分。格好つけずに一所懸命抱いてやれよ。それが結局のとこ、一番気持ちいいんだからよ」
「一所懸命と言われても……。もちろん、真剣に挑むつもりでいるぞ! 義勇の気持ちをないがしろになどしないと誓う! だが、その……」
「失敗すんのは怖いか。ま、緊張しすぎて勃たねぇとか、男としちゃ沽券にかかわるわな。女相手じゃねぇから、挿れる場所を間違える心配だけはねぇだろうけど」
「……笑いごとではないのだが」
いつものようにケラケラと笑った宇髄は、けれどもすぐにまた、秀麗な顔をやわらかな笑みへと変えた。やさしいその笑みに、杏寿郎はなんとはなしきれいだなと思う。
世界中の誰もが、美しいと評するのに違いない。宇髄天元という男の外見は、恵まれた体躯同様に、巷の人々から頭二つは飛び抜けている。
つややかでいかにも指通りの良さそうな、銀の髪。威風堂々たる体躯。薄く笑んだ唇も、スッと通った鼻筋も、すべてのパーツが計算しつくされたかのような優美さで、紫がかった紅梅の瞳に見つめられれば、誇張でもなく世の女性という女性が頬を染めそうな男だ。ましてや、こんな慈しみのこもる笑みなど向けられてしまえば、たちまち恋に落ちてもおかしくないんだろう。
改めて、美しい男だなと、杏寿郎も繰り返し思う。けれども、どんなに宇髄が美しくとも、杏寿郎の胸にときめきは生まれない。
これが義勇なら、慈しむ微笑みだろうと呆れた苦笑だろうと、杏寿郎の目にはキラキラときらめいて見える。心臓は騒がしい鼓動を刻み、勝手に頬が熱くなったりもする。
たいそう美しく麗しい人であるのは義勇も同様だ。だが、杏寿郎の胸を騒がせるのは、義勇の容貌が優れているからではない。もちろん、かわいいとかきれいだとかいう一言で心が埋め尽くされて、ボゥっと見惚れてしまうことはある。だけどやっぱり、違うのだ。
考えるのも嫌だが、もしも義勇が顔に大きな傷を負うなり大病を患うなりして、誰もがギョッとする風貌になっても、きっと杏寿郎の胸は変わらずときめくだろう。年をとって、もしも義勇の生え際がだいぶ後退したり腹がプヨンと出っ張ったとしても、大好きだという気持ちは絶対に変わらない。九十歳になろうと、百歳になろうと、杏寿郎は義勇を抱きしめ口づけしたくなるだろう。
義勇と宇髄の違いは明白だ。杏寿郎の胸をしめる恋心。義勇だけにときめく胸の理由は、それしかない。義勇ならば、どんな顔になろうと、どんな表情をしようと、杏寿郎にとっては愛しいばかりだ。
いや、そうじゃない。ただ一度、杏寿郎は『そんな目で見ないでくれ』と義勇に叫びたくなったことがある。
怯えて蒼白となった義勇の顔。あのとき義勇の瞳は、まっすぐに杏寿郎に向けられていた。
嫌わないで。どうか、嫌いにならないで。そんな怯懦が杏寿郎の心の隅にこびりついたのは、そのときからだ。中学一年の、あれも七夕近くのことだった。