にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 5の2

 知らず黙り込み唇を噛んだ杏寿郎の頬から、色が抜ける。ようやく思い出すこともなくなってきた記憶は、四年経っても鮮明だ。義勇がそんな顔をしたのは、たったの一度きりなのに。
 怖いものなしの杏寿郎が、ただ一つ恐れるもの。誰よりも恋しくて、誰よりも愛おしい義勇が――そんな義勇からの拒絶が、杏寿郎にとっては、なによりも怖い。
 あのときだって義勇は、すぐに杏寿郎が受けた衝撃に気づき、いつものように杏寿郎に抱きついてくれたけれど、怯えた瞳は杏寿郎の記憶から消えてくれそうになかった。
 失敗して笑われるなら、まだいい。けれどもまた怯えられたら? またあの凍りついたような義勇の瞳が、自分に向けられたら。それがただもう嫌だ嫌だと叫びだしたくなるほどに、杏寿郎には怖くてたまらない。
 杏寿郎の沈黙の理由を過たず悟ったんだろう。宇髄の手がまたポンッと、杏寿郎の頭に乗せられた。
 不安に狭まっていた杏寿郎の視界が、苦さと慈しみを混ぜ込んだ宇髄の笑みを映し出す。知らず固くなっていた肩から、ふっと力が抜けた。
「なぁ、聞いていい? なんでおまえ、冨岡が引っ越すの嫌がらなかった?」
 パチリと杏寿郎の目がまばたく。宇髄の視線に下世話な好奇心の色はなく、どこまでもやさしい。杏寿郎は、ほんのわずか瞳を伏せた。

 義勇が地方に進学すると聞いたとき、杏寿郎の頭は真っ白になった。離ればなれになるのか、義勇はそれでいいのか。そんな言葉がじわじわと脳裏を侵食していくにしたがって、嫌だ、なんでと、叫びだしそうになったのは確かだ。
 けれどそのとき、杏寿郎は、笑ってみせた。

 そうか。生まれ故郷だものな。蔦子姉さんの近くなら俺も安心だ。

 心にもないと思いながら、受験がんばってくれと応援さえした。だってほかになにが言える。瞬間思い浮かべたのは、怯えた瞳だ。杏寿郎に怯える義勇の瞳。距離を置く決意を、義勇はいよいよしたのかもしれない。本当は杏寿郎の近くにいるのはずっと怖かったのかもしれない。そんな疑念が杏寿郎の顔を笑ませた。

「……嫌われたくなかった。大学受験は将来を見据えてだ。義勇も充分悩んだと思う。そのうえで義勇が決めたことなら、応援するのは当然だと……建前だなっ! 本当は、今度こそ義勇に嫌われたんじゃないかと、怖かっただけだ……」

 誰にも、それこそ義勇にも見せぬよう心の奥底に封じ込めていた本音は、不思議と素直に杏寿郎の喉から滑り出た。
「告白したのは、終わらせようとしたからか?」
「どう、だろう。自分でもよくわからん。でも、そうだな。なにかしら、区切りをつけたかったのかもしれない。義勇のことを好いている気持ちに、終わりなどあるわけもないが、終わりにするからと笑ってやりたかったのかもしれない」
 ただの幼馴染で弟分なら、本心では怯えていたって、義勇は杏寿郎が近くにいることを拒めないだろう。だからこそ、義勇は物理的な距離をとろうとしたのかもしれない。そうしてゆっくりと、自然を装い疎遠になる。そんな思惑は、義勇らしくないと思いもするが、義勇らしいとも思うのだ。
 義勇から別離を切り出せば、どうしたって杏寿郎は傷つくと義勇はちゃんとわかっている。だから、ゆっくりと、少しずつ。義勇の存在がかたわらにないことに、慣らしてくれるつもりでいるのかなと、そんなことを考えた。
 だけどそんなのは無駄なあがきでしかない。地球の裏にいたって杏寿郎はずっと義勇を想い続けるし、恋心が消えることなどないに決まっているのだから。
 終わりが見えないその間、義勇はどんな気持ちでいるだろう。杏寿郎の想いに答えられない罪悪感に、苛まれやしないだろうか。杏寿郎の心から義勇への恋が消えないかぎり、一人で幸せになどなれないと、自身の恋を諦めることだってあるかもしれない。義勇は、とてもやさしい人だから。杏寿郎のことを、とても大切に思ってくれているから。たとえ、杏寿郎に怯え、怖がっているとしても。

 だから、杏寿郎は自分からフラれようと決めたのだ。胸が引き裂かれそうに苦しくて悲しい決意を抱いて、怯えに閉じ込めた恋を、桜の花びら舞うなかで口にした。大丈夫だ。今ここで線を引いていい。ここから先は入ってくるなと、言っていいんだ。そんな、強がりなやせ我慢と、どうしようもなくあふれかえって止められない愛おしさに、笑って。

『義勇が好きだ。幼馴染の好きじゃない。俺は、キスするなら義勇がいい。いつか、義勇とセックスだって、したいと思ってる。そういう、好きだ』

 笑ってみせても、声も体も恥ずかしいぐらい震えていた。蔦子の結婚という幸せの涙を流した、その夜のことだった。
 遅い。せっかちなくせに、待たせすぎだ。あの日、震えを懸命に押し殺した杏寿郎の笑みに返ってきたのは、そんな言葉とうれしげな微笑み。

 呆気にとられてごめんと謝った声は、我ながらみっともないほどひっくり返っていた。夢じゃないかと戸惑う杏寿郎に苦笑して、ギュウッと抱きしめてくれた義勇の腕は力強かった。
 その背を抱き返す腕は、やっぱり震えて。夢じゃない、今日から義勇は俺の恋人だと、しがみつくように無我夢中で抱きしめ返した春の夜。よくもまぁ泣き出さなかったものだと、今も杏寿郎は、しみじみと思い返したりする。
 泣けなかった答えなんてわかりきっているから、消えない疑念を抱く自分を殴り飛ばしたくなったりもしている。それは今、この瞬間も同じことだ。
 恋人になれたって、義勇の怯えは消えていないのかもしれない。いつか、杏寿郎が怖いと遠ざかっていくのかも。そんな不安が心にくすぶり続けているから、喜びの涙が浮かんでこなかっただけのこと。

 義勇の前で杏寿郎が涙を見せたのは、二度きりだ。初めては、義勇がランドセルを見せてくれたとき。義勇が小学生になったら、幼稚園に通う自分とは一緒にいられないのだと知って、物心ついて初めてワンワンと大号泣した。
 二度目はわりと最近。蔦子の結婚式で、並んで流したうれし涙だ。
 三度目はいつになるだろう。できれば幸せな涙であればいいと思うけれども、もしかしたら、もう二度と義勇の前で泣くことはないかもしれない。義勇に嫌われたら、それでも自分は笑うだろうからと、杏寿郎は心の片隅でそっと笑った。
 そのときには告白したときと同じように、声も、体も、震えてたまらないだろうけれど、それでもきっと自分は笑うだろうと、杏寿郎は信じているし覚悟している。杏寿郎が流す涙で、義勇が苦しまないように。

「……待ってたって、言われたろ」
「っ、なぜそれを!?」
 問いというには確信めいた宇髄の言葉は、いつものどこかからかいめいた笑みで紡がれた。
 まるで記憶を読まれたみたいに図星すぎて、物思いから引きずり戻された杏寿郎の目が、思い切り見開く。おさまっていた顔の熱も、一瞬で元通りだ。クツクツと押し殺した声で笑われれば、恥ずかしさに頭まで茹だりそうになる。

 つきあうことになったと、宇髄らにすぐ報告はした。けれども、告白の言葉やらそのときの義勇の反応などについては、一言だって口にした覚えはない。それはさすがに恥ずかしいというか、二人だけの秘密にしたかったので。
 義勇だって、宇髄たちにはちゃんと報告しようとの言葉には同意してくれたが、詳細については箝口令を敷いてきたぐらいだ。家族に告げるのはまだ恥ずかしいとも言うから、蔦子たちには恋人になった事自体、伝えてすらいない。ちなみにそれについては、杏寿郎だって異論はなかった。
 だって恋人になったと伝えてしまったら、どんな顔をして義勇の家に泊まりに行く許可をもらえばいいのだ。さすがに恥ずかしすぎるではないか。
 杏寿郎だってもう十七だ。清く正しい健全なおつきあいだけでは済まないところまできているから、こうして宇髄に相談してもいる。けれども家族は無理だ。家族に童貞卒業を知られるなど勘弁願いたい。帰宅したら赤飯が炊かれているなんて、いたたまれないことこの上ないではないか。
 まぁ、どうせうすうす察しはつくのだろうけれども、確認されなければ赤飯は回避できる。たぶん。

 それはともあれ、宇髄たちにだって、恋の進展について微に入り細に入り伝える気は、杏寿郎はもちろん、義勇にだってないだろう。告白の言葉も義勇の答えも、お互いの想い出のなかにだけあればいいのだ。
 とはいえ、それぐらい容易に想像がつくと笑われれば、それもそうかと納得せざるを得ないところである。なにしろ杏寿郎が宇髄と不死川に面識を持ったのは、義勇が小学校に入学した翌日で、宇髄たちはそれからずっと、杏寿郎がひとかけらも偽ることなく義勇大好きと笑うのを見てきているのだ。
 その月日たるや、じつに九年間。杏寿郎と義勇が出逢ってからともなれば、十二年間におよぶその年月。自覚のあるなしはともあれ、十二年間、杏寿郎と義勇はお互いに大好きと寄り添い合ってきたのだ。宇髄たちはそれを間近で見ている。そりゃ、遅いと呆れもするだろうし、じれったいと歯噛みもしてきたことだろう。
 杏寿郎が義勇に恋してきた月日は、義勇が杏寿郎への恋心を抱えてきた時間と同義だ。ちょうど四年前の今ごろ、義勇の瞳が一度きり宿した恐怖の色に、杏寿郎はずっと怯えてきたけれども、義勇が自分を好いてくれている事自体は疑ったことがない。俺が義勇を好きなだけじゃなく、義勇も俺のことが好き。無邪気な確信は、幼いころから変わりがないのだ。
 それが変わったのは、中一の七月。あの日のことを家族よりも知る宇髄たちにしてみれば、杏寿郎と義勇の恋が停滞したままでいるのに、気をもんでもいたことだろう。不死川や宇髄には、罪悪感だってあったかもしれない。祝福はそれもあってのことだろうかと、杏寿郎こそが少しだけ申しわけなさを覚えなくもなかった。
 それはともあれ、報告したときだって、三人ともくっつくのが遅いと呆れていたぐらいだ。だから、バレていてもおかしくはないのだが、いくら気心知れた仲であろうと、隠していたいことだってある。

 だだ漏れだろうとは思っていたけれども、よもや二人きりの秘密まで、宇髄には丸見えなんだろうか。

 うろたえる杏寿郎に、宇髄は唇の前にスッと指を立てると、パチンと音がしそうなウィンクまでしてくる。
「内緒。ま、俺さまほどにもなりゃ、それぐらい派手にお見通しってことで」
「俺たちが秘密にしても宇髄にはバレるのに、宇髄は内緒にするなんて、なんだかちょっとズルいぞ」
 ちょっぴり拗ねたくなるが、素直な感嘆もまた、杏寿郎の胸には湧いた。
 杏寿郎はもともと自分の感情に素直なタチではあるけれども、宇髄にはとくにその傾向が顕著になる。それはたぶん、他人から見ればチャラいと言われがちな言動とは裏腹に、宇髄がいつも杏寿郎たちに対して真摯でいてくれるからなんだろう。
 面白がりのからかい口調であっても、宇髄は、けっして杏寿郎たちを傷つける言葉など口にしない。ためらいなく嘘だってつくし、隠しごとだって山ほどあるに違いないけれども、宇髄の本音はいつだってやさしいものだと、杏寿郎は知っている。
 だからこそ、警戒心の強い伊黒だって、宇髄に対しては信頼があらわだ。人を頼ることをよしとしない不死川ですら、兄貴ヅラすんなと文句を言いつつも、気づけば宇髄にはなんだかんだと相談したりもしているらしい。末っ子である義勇にいたっては、言わずもがな。長男力が高くとも同い年の不死川には、負けず嫌いが顔を出すこともあるようだが、宇髄には素直に甘えを見せる。
 杏寿郎はといえば、義勇に無条件に甘えられているのを見るたびちょっぴり悔しくて、だけど、軽く見えてそのじつどっしりとかまえて揺るがない宇髄に、憧れもするし尊敬もしている。
 華やかな容姿と誰もが認める才覚の裏で、血のにじむような努力をしようと、宇髄はけっしてはた目にそれを見せない。杏寿郎たちにすら、最初のうちはそうだった。

「だが、宇髄が俺たちをしっかり見ていてくれるということでもあるからなっ。いつも相談に乗ってくれて感謝している! ありがとう、宇髄!」

 赤く染まった顔はそのままに、素直に笑ってみせた杏寿郎に、宇髄の目が虚をつかれたように見開かれ、ゆっくりと笑みにたわんでいった。
 小さく開かれた宇髄の唇は、言葉を紡ぐ前に笑みの形に閉じられた。なにを言おうとしたのか杏寿郎が疑問を覚えるより早く、宇髄の手がまたくしゃくしゃと杏寿郎の髪をなでてくる。

「……あのな、いいこと教えてやるよ。一生心に残るセックスってのは、快感とは関係ねぇ。失敗したっていいんだ。大好きでたまらなくて、抱き合わずにゃいられなくての失敗なら、気にする必要なんてねぇんだよ。快感に溺れるよりも、そういうセックスのほうが、ずっと気持ちよくいられる」
「ずっと?」
 どういうことだと小首をかしげた杏寿郎に、宇髄はふと真摯な顔をすると、杏寿郎の額と胸を、トントンッと指先で軽く突いてきた。
「男の快感なんざ、けっきょくのところ射精の一瞬で終わる。だけど、一生気持ちいいセックスもあるんだぜ? こことここが、ずっと気持ちいい」
 ポカンと口を開いた杏寿郎の胸に指先を当てたまま、宇髄はまた、穏やかな笑みを浮かべた。
「無我夢中で大好きだ幸せだって気持ちを与えて与えられるセックスは、手間取ろうがうまく快感が拾えなかろうが、頭と心が、ずっと気持ちいい。この奥に、ずっと残るんだ。十年経っても、きっと二十年、三十年経っても、それこそ思い出すたび一生『あぁ、あのときはあんなセックスしたな。幸せだったな』って笑える。気持ちよかったなじゃねぇぞ。頭と心が、ずっと幸せを覚えてるんだ。あのさ、性欲処理でしかなくてもセックスはセックスだけどよ、快感だけに支配されずに幸せだって笑えるなら、それはメイク・ラブって言うんだよ。どれだけはた目にゃみっともなかろうが、笑い話になろうが、気持ちいいだけのセックスじゃないメイク・ラブなら、ずっとずっと気持ちいい。そういうのが、おまえらにはあってるよ」
 語る声音はやわらかく、けれども常に飄々とした態度を崩さない宇髄にしては、真剣そのものなひびきをしていた。
 思い出しては、幸せな時間だったと笑えるセックス。メイク・ラブ。じんわりと胸に染み込んでいく宇髄の言葉に、杏寿郎は、コクンと小さく喉を鳴らした。

 もしかして、宇髄もそういうセックスをしたことがあるんだろうか。今も、幸せだと笑えるんだろうか。

 問いかけは喉元でとまり、杏寿郎は、浮かんだ疑問をそのままそっと飲み込んだ。
 根掘り葉掘り聞いてどうする。気心知れたといっても、なにもかも余さず伝え合わねばならないなどという道理はない。筒抜けなのは致し方ないにしても、宇髄たちが無理に聞き出そうとしてこないのと同じように、杏寿郎だって、宇髄たちが心に秘めた想いまで暴こうなどとは思わないのだ。
 杏寿郎の顔にも自然と真剣な色が浮かぶ。コクリとうなずいた杏寿郎を見つめる宇髄の目は、やっぱりやさしい。
 そっと触れてみた自分の胸から、鼓動がトクトクと掌に伝わってくる。この心臓が刻むのは、義勇が好きだ、大好きだとの、恋の音。抱き合う日がきたら、きっともっと大きく強く。

 一生、この奥に残る、愛を作りあう行為。
 義勇と睦み合うなら、そういうのが、いい。そういうのだけが、いい。

「あの……宇髄。一つだけ、聞いてもいいだろうか」
「んー? なによ」
「その、一生モノなそういう行為は、一度きりなんだろうか。俺は、義勇とは一生ずっと、そういう気持ちで抱き合いたい。一生モノの幸せなメイク・ラブというのは、何度ここに残せるんだろうか」
 少し気恥ずかしく、けれどもまっすぐ宇髄を見つめて問いかけた杏寿郎に、宇髄はパチリと一つまばたきした。すぐに秀麗な顔は破顔し、宇髄は明るく、たとえようもなくやさしく、断言してくれた。

「心配すんな、俺さまが派手に太鼓判押してやる。おまえと冨岡なら、一生モノの愛をずっと作りつづけられるさ。俺さまが約束してやんよ」