にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 1

 煉獄杏寿郎、当年とって十八歳は、『猫』と暮らしたいと常々願っている。
 級友などに口を滑らせるたび、おまえは犬派かと思ってたと意外そうな顔をされるが、とくに反論する気はない。犬もいい。忠実で健気だ。元気な犬と公園や河原で遊ぶのはきっと楽しいだろう。
 だが一緒に暮らすなら猫がいい。黒くつややかな毛並みで真っ青な瞳の猫ならば最高だ。むしろその猫でなければ一緒に暮らしたいなど思わない。
 ちなみにごく親しい友人たちに同じことを言うと、なぜだか生ぬるい目で見られるのだが、それはともあれ。

 父が動物嫌いなので、煉獄家では今までペットを……もとい、モフモフした生き物を飼ったことがない。千寿郎が幼稚園のころに祭りですくった金魚なら、いる。あれを金魚と呼ぶのは少々ためらうけれども。
 縁日の金魚は短命と聞くが、煉獄家の一員となった金魚は言葉どおり水があったのか長生きで、年々大きくなっていった。今では水槽に収まりきらず、庭の池で飼われている。居を移した当初は、野良猫に狙われるかもとの懸念もあったが、そんなものは一週間も経たぬうちに消えた。むしろ、池に来た猫が逆に食われかねないと怯えて逃げ帰る始末だったので。
 これもう鯉じゃん! 遊びにきた友人は、池の金魚を見るとほぼ百パーセントの確率でそう叫ぶ。
 金魚にしてはやたらと圧の強い眼差しやら規格外な大きさはともかく、六年ものあいだ家族の一員としてともにいるのだ。杏寿郎とて愛着はある。餌をねだってパクパクと口を開ける様子も、それなりにかわいいものだ。たとえ天敵なはずの猫やトンビを眼光一つで追い払うさまに、金魚そっくりな新種のUMAなのでは? なんて疑惑がまことしやかに囁かれようと家族なのだから、杏寿郎だって当然かわいがっている。
 だが金魚では腕に抱くどころか撫でてもやれない。しかもいるのは池のなかだ。添い寝など無理難題がすぎる。
 寒い夜ともなれば杏寿郎は、しなやかな『黒猫』の体を抱きしめて眠りたいのだ。むしろ杏寿郎のほうが湯たんぽ代わりになる気はするが、それこそ本望。ぎゅっと猫に抱きつかれて眠る夜、まさしく天国ビバ添い寝。ハラショー、ブラボー、ワンダーホーってなもんである。そんな幸せなひとときが冬場だけなど我慢できるはずもない。真夏にエアコンが壊れ汗みずくになったとしても、添い寝する。猫が不満げな顔をしようと、絶対にしてみせるとも。杏寿郎の決意は固い。

 なにはともあれ、ともに暮らすならそっけなくて愛想なしな黒猫以外ありえないと、杏寿郎は思っている。いや、ぼんやり思い願うどころの話じゃない。杏寿郎の人生設計において、一緒に暮らすのは確定事項だ。
 無愛想だけれど気がつくと隣に寄り添っている、本当は甘えん坊で寂しがり屋の黒猫。なついた者にしかゴロゴロと喉を鳴らすことはないのがまた、たまらなくかわいい。ちょっとばかり自己肯定感が薄いのが玉にきず。そのせいか控えめで遠慮がちであるが、反面ひっそりと負けず嫌いで気が強い。杏寿郎が必ずや一緒に暮らしてみせると心に決意の焔を燃やすのは、そんな猫だ。クールな見た目に反し、ちょっとぼんやり屋さんでわりとドジっ子な『黒猫』と、是が非でも同じ屋根の下で暮らしたい。
 けれども、煉獄家で一緒に暮らすのは無理だ。
 家族が反対しているわけではない。むしろ、ぜひともうちに来てくれと全員が心から願っている。だが、猫が受け入れてくれないのだ。
 益体やくたいもない世間の陰口など気にすることはないのにと、考えるたびいまだに杏寿郎の不満と怒りは噴出する。猫に対してでは、もちろんない。口さがなくて下世話な好奇心に満ちた世間というやつにである。
 誓って杏寿郎にも父や母にも、悪意や下心などなかった。だというのに、世間には下衆の勘ぐりをする輩が多いらしい。両親から何度か持ち出されてはそのたび流れ、今となっては誰も口にしない話だ。
 残念ではあるがしかたのないことと杏寿郎も納得している。実情を知ろうともせず下卑た妄想をふくらませる奴らに、やさしい猫が傷つけられるなど、杏寿郎だって我慢がならない。
 それに同居は叶わずとも、小さな子猫のうちは毎日のように煉獄家に入り浸りとなっていたので、なんとか杏寿郎も不満を飲み込むことができた。お泊りだって多く、一緒の布団で添い寝だってできたのだ。煉獄家でそれが果たせたのは、杏寿郎が小学生のうちだけだったけれども。

 中学に入学した日は杏寿郎にとって、猫から同じ布団で眠るのを拒まれた日と同義だ。というよりも、まさにそれこそが重要である。その夜の衝撃と悲しさを、杏寿郎はいまだに忘れられない。
 あのころはまだ、杏寿郎のほうが猫より体も小さかった。それはそれで悔しい思いもしていたというのに、もう大きくなったのだからとはどういうことだ。両親のことは尊敬しているが、あの日の言は今もって解せぬ。
 中学生になれたのはもちろん喜ばしい。それでも、猫と一緒に眠れなくなるなら大きくなんてなれなくていいとさえ思ったものだ。今は自分の成長に感謝しているけれど、当時は本気で泣きそうだった。
 だがしかし、武士は食わねど高楊枝と先人も言うではないか。中学生となり大人の男に一歩近づいたからにはとやせ我慢で笑って見せたのは、杏寿郎からすれば当然の成り行きだ。たぶん猫や両親には強がりだとバレバレだっただろうけれども。男はつらいよとは真理だなと、つくづく悟った苦い思い出である。

 ようやくまた一緒の布団にくるまることを当の猫から許されたのは、杏寿郎がさらに大きくなってからだった。
 具体的には、高校二年生の夏休みである。
 その夜の泣き出したいぐらいの喜びを思えば――というか、実際に泣いた。猫がオロオロと視線をさまよわせるほど男泣きに泣いた。不甲斐なし――こんな夜を毎日のようにと、杏寿郎が切願するのも当然だ。
 だが実際に煉獄家に猫が身を寄せた場合、ふたたび一つしとねで眠るのは、逆に難しくなったと言わざるを得ない。なにしろ杏寿郎も大きくなったが、猫だってもう子猫ではないのだ。
 それに、正直言えば杏寿郎は、夜だけでなく朝も昼も猫を抱きしめていたかった。けれども家での猫は母や千寿郎にかまい倒され、ちっとも杏寿郎が近づけなくなる可能性が高い。
 否。可能性どころじゃない、確定事項だ。父だって油断はならない。なにせ煉獄家の面々は、例外なくみなあの黒猫が大好きなのだから。
 猫が家にくるたび、母と千寿郎の浮かれっぷりは激しい。父だってソワソワしているのを隠しきれちゃいない。猫もうれしげに母たちにかまわれていて、家にいるとちっとも杏寿郎の相手をしてくれやしないのだ。
 たまのことだからかもしれないが、一緒に暮らしても大差はないだろう。それは寂しい。できれば杏寿郎が独占したい。家では駄目だ。

 だからといって、では家を出ればいいとはいかない事情がある。なにせ杏寿郎は現在高校生、学費も生活費もすべて親がかりだ。おいそれと一人暮らしなどできるわけもない。
 けれども春がくれば、杏寿郎も高校を卒業する。希望する進学先はそれなりに遠いので、大学生になるのと同時に家を出れば万事解決だ。
 ところが、杏寿郎が一人暮らしをするには、年齢以上に深刻で高すぎるハードルが存在する。父や母だけでなく、親しい友人たちもそろって真顔になり、やめておけと言うほどのハードル……いや、今はなきベルリンの壁クラスの難題だ。なにしろ大のお兄ちゃんっ子で杏寿郎を心の底から尊敬してくれている千寿郎さえもが「生き急ぐような真似はやめてください、兄上」と涙声で言う始末である。
 たかが一人暮らしで、この言われよう。あんまりではなかろうか。
 たいへん心外ではあるが、進学先を決めるにあたっても少々もめた。もちろん学力のレベルや学費うんぬんではなく、学校の場所が問題で、だ。
 杏寿郎が進学を希望する大学は、先にも述べたとおり煉獄家から離れた場所にある。県を二つほどまたいだ地方都市だ。家から通うなら新幹線通学になる。移動に大幅に時間を取られるのは必至で、バイトもできないし、学業にも支障が出るかもしれない。
 ここまでくれば誰だって、大学近くにアパートでも借りるのが妥当と考えて然るべきだろう。杏寿郎だって春からの一人暮らしをまったく疑っていなかった。
 ところが、父や母はそろって渋い顔をした。新幹線通学も問題がないとはいえないが、杏寿郎に一人暮らしさせるよりはまだマシだと。
 その理由はといえば、父や母曰く。

「アパートが燃えでもしたら、どう責任を取るつもりか」

 だ、そうな。
 心外の極み……とは、口にしづらい。二階以上の部屋なら階下を水没させる可能性もあるとの言にも、反論は難しいところだ。
 なにしろ一人暮らしとは家事をすべて自分でこなすのと同義である。まともに生活したかったら、掃除洗濯、炊事もすべて、自分でしなければいけない。杏寿郎だって当然そのつもりでいる。
 だがそれこそが、杏寿郎の一人暮らしをみんなが阻止したがる理由だった。

 突然だが、煉獄杏寿郎という男の家事スキルは、ゼロどころかマイナスである。母のお腹に家事能力のすべてを置き忘れてきたのだろうとは父の言だ。忘れ去られた家事の才能は、そっくりそのまま弟の千寿郎が二人分持って生まれたと思われる。千寿郎の家事スキルは幼稚園児のころでさえ杏寿郎を遥かにしのぎ、小学五年の今ではベテラン主婦並みなので、眉唾とも言いがたい。
 とはいえ、掃除はまだいい。これだけは杏寿郎だって人並みにこなせる。雑巾がけはむしろ得意だ。
 だが、炊事洗濯になるとてんで駄目だ。杏寿郎はたちまち人間凶器と化す。台所のリーサルウェポン。年上の友人である宇髄が命名した杏寿郎の二つ名に、誰もが神妙な顔でうなずく始末だ。
 包丁を持てばまな板が真っ二つ。フライパンや鍋が天井に届かんばかりの勢いで燃え上がったのも、一度や二度ではない。これならどうだとご飯を炊けば、炊飯ジャーが煙を吹き、十中八九壊れる。無洗米と水を入れてスイッチを押しただけなのに、なぜだ。こればかりは誰にも解けぬ長年の謎だ。
 それでもどうにか料理ができあがることもまれにあるが、正直、ダークマター以外の何物でもない。

 天国に一番近い料理。食べるな危険。食の破壊者デストロイヤー

 杏寿郎が作った料理を前に宣われた数々の言葉には、常にポジティブな杏寿郎ですら粛々と土下座するよりなかった。
 中学のころに友人たちと初めてキャンプに行ったときも悲惨だった。杏寿郎の壊滅的な調理スキルを甘くみていた友人たちとカレーを作ったのだが、できあがった代物ときたら……。
 杏寿郎が鍋の前にいた時間は、ほんの数分である。なのにどうしてこうなった。
 唖然とする一同を前に、先輩であり友人でもある不死川が「食い物を粗末にすんじゃねェ!」との怒鳴り声とともに脳天に落としてきた拳骨は、かなり痛かった。仲の良い従兄の伊黒にすら「すまん、これは庇えそうにない……」と文字どおり匙を投げられたカレーは、なぜだか紫色をしていた。
 まぁ、あれはあれで、不本意ながらある意味役に立ったと言えなくもないのだが。

 とにもかくにも、そんな諸々の惨劇を経て誰もが悟るのだ。煉獄杏寿郎に鍋釜包丁を持たせるな、と。
 巷にあふれるレンジでチンするだけの便利な食品も、杏寿郎にとってはこれまた鬼門だ。
 なぜ、レンジというのは爆発するのだろう。聞いても誰も納得のいく答えを返してはくれない。

 普通は爆発しねぇから!

 最初のうちは誰もが青筋立ててそう言ったものだが、今では誰一人まともにとりあってくれやしないありさまだ。残念ながらこれからも謎は謎のままだろう。
 三代目の電子レンジがご臨終となったのを機に、杏寿郎は台所への立入禁止を母より厳命されたため、冷食やチルド食品にも見放された。レンジに触れたのは、小六の二月が最後だ。
 ちなみにそのとき温めようとしたのは……というか作ろうとしたのは、レンジで作れるという触れ込みのフォンダンショコラ。ぶっちゃけバレンタインのチョコである。
 毎年贈りあっていた友チョコだが、その年は特別だ。友達として贈るのはこれでおしまい。来年のバレンタインはきっと……と、面映ゆさと膨らんでいくばかりの恋心を込めたチョコだった。
 だが、できあがったのはなにやら怪しげな泡をブクブクと立てる炭だ。レシピを考案した人も、よもや自分のレシピで炭が誕生するなど夢にも思わないだろう。ご臨終した三代目電子レンジも最後の仕事がこれではやりきれまい。
 結局チョコは買い替えられたピカピカのオーブンレンジを使用し、当時まだ幼稚園児だった千寿郎が作ってくれた。杏寿郎はホットケーキミックスやココアの分量を計っただけ。やるせないことこの上ない。
 それでも、アナログかつ理科の実験と変わらない作業だろうと、できることがあったのだから、良しとすべきだろう。「俺が作った」とは口が裂けても言えないが、「俺も手伝った」とはかろうじて言えるのだから。
 材料を混ぜ合わせることすら、幼稚園児らしからぬ達観した透明な笑みを浮かべた千寿郎に「大丈夫ですから」と断られはしたけれども。それでも、ほんのちょっとはやれることがあったのだから良かった。
 型をレンジに入れるのでさえ、まるで出来の悪い子をやさしく見守る慈母のような目で「本当に大丈夫ですから」と微笑まれつつやんわりと阻まれたが、チョコは無事にできたのだから、良かったったら良かったのだ。無念さは拭い難いが、ポジティブ思考と切り替えの早さは杏寿郎の美点のひとつだ。
 そんなありさまになるのを確実に予測済みだったであろう母が、まだまだ寿命には間があるレンジの使用を杏寿郎に許可した理由は、あまり考えないでおきたい。いそいそと新たなレンジを買いに行った母が買い求めたのは、新発売の高機能オーブンレンジだ。新聞広告を見ながら母が「いいですね……」とつぶやいていた機種である。かなりお高いらしい。とりあえず、煉獄家の献立レパートリーはぐんと増えた。

 母の思惑はともかくとして。
 では洗濯はどうかというと、煉獄家の脱衣所に鎮座している洗濯機は、四代目である。それで察してほしい。
 廊下にまであふれ出た泡で足を滑らせた父が、思い切りすっ転んで足を骨折したその日から、洗濯機には『杏寿郎 触れるべからず』と母直筆の書が貼られている。
 市のカルチャーセンターで講師をしている母の書は、墨痕鮮やかかつ整然として美しいが、見るたび杏寿郎の眉はへにゃりと下がる。猫が泊ってゆくたびに、じっとその紙を見ているのがまた、いたたまれない。
 口頭で充分ですと、杏寿郎にはめずらしく母に反発したこともあるが、菩薩の如き穏やかさでありつつどこを見てるのか判然としない目で、静かに微笑まれただけで終わった。今も洗濯機には、美しい筆跡で情けなさをかき立てる文言をしたためられた半紙が、堂々と貼られている。
 手洗いできるものは手洗いでと思わなくもないが、穴の空いた靴下や襟ぐりがよれよれに伸びたTシャツばかりになるのは合宿で実証済みだ。
 それでも洗濯物を干したり取り込んでたたむぐらいは、多少シワが寄るけれどもなんとかなる。完全アナログ力加減不要な家事ならば、問題ないのだ。だがアイロンがけはアウトだ。ごく普通のスチームアイロンがなぜだかボイラー並みの蒸気を吹き出し、危険物取り扱いの免状が必要な家電と化す。
 ここまでくれば誰だって、杏寿郎に家電製品が必要となる家事を任せようとは思わないだろう。杏寿郎の手からは白物家電を破壊する電磁波が出ているとは、まことしやかに友人連中がささやくところだ。
 そんな杏寿郎ですらほうきやちりとり、雑巾を使えばできるのだから、掃除という家事は素晴らしい。掃除機にはもれなく『禁杏寿郎』の札が貼ってあるが、箒は杏寿郎が使っても壊れない。アナログ万歳。ありがたいかぎりだ。

 閑話休題。

 さて、そんなこんなで『台所のリーサルウェポン』並びに『白物家電クラッシャー』の二つ名を不動に冠している杏寿郎が、一人暮らしなどすればどうなるか。水浸しになった階下の住人から怒鳴り込まれるぐらいならまだマシで、最悪、家を焼け出されるに違いないというのが、みなの共通認識である。両親にしてみればそうそう許可できるものではない。不本意ながら、杏寿郎だってそれは理解している。
 杏寿郎が壊した家電の買い替えやら台所の修繕やらで、かなりの出費を強いられている煉獄家だ。比較的裕福な家庭ではあるが、大食漢な杏寿郎が一人で爆上げしているエンゲル係数も家計を逼迫する勢いだというのに、これでは父も母も頭が痛いことだろう。一人暮らしさせてアパートまで燃やされてはたまったものではないと、考えるのもむべなるかな。家電破壊を理由に小遣いを減らされなかっただけでも御の字だろう。聖人並みに寛容な両親だと杏寿郎とて感謝している。
 だが、それはそれ、これはこれだ。

「……杏寿郎、人の命は炊飯器やレンジとは違うのだ。買い替えられるものではないんだぞ」
「よもやっ! 人死にが出る前提ですか!」

 最終的な進路を決定する三者面談があった本日、夕食後に杏寿郎を正座させた父が、しかつめらしく開口一番に言ったセリフがこれだ。担任には学力も内申も問題なしと太鼓判を押してもらったのに、さすがにあんまりではなかろうか。
 大丈夫ですよとおっしゃった先生の目は、死んだ魚のようだった気もするが、反対されなかったのだから、まぁいい。
 だというのに、諸手もろてを挙げて賛成してくれると思っていた両親から、まさかの反対意見である。ハラハラと覗き見ている千寿郎の視線もなんだか痛い。
「家を出ればもう上げ膳据え膳な生活はできないのですよ? 近隣の大学からスポーツ推薦もいくつかきているではありませんか。家から通える大学では駄目なのですか?」
 働かざる者食うべからずを地でいく煉獄家であるから、上げ膳据え膳で暮らしてきた覚えはないが、そこは反論すまい。母の言うことはもっともだ。とはいえ杏寿郎にだって引けぬ理由がある。

「無論、あの大学でなければ駄目です! ほかの大学に義勇はいませんから!」
「……少しは建前というものを覚えんか。先生の前でもそんな志望動機を言うとは思わなかったぞ、えらい赤っ恥だ。この馬鹿息子が」

 満面の笑みで高らかに言った杏寿郎に反し、父の声はかなり疲れていた。心外の極みである。
「お言葉ですが父上、義勇が通う大学の偏差値は、けっして低くはありません! 俺が馬鹿では、あの大学に通っている義勇まで馬鹿のように聞こえるではないですか。いくら父上でも義勇への暴言は聞き捨てなりません! 撤回していただきたい!」
「そういうこっちゃないわっ! 誰が義勇のことを言っとるか、馬鹿はおまえだけだ! おまえのその義勇馬鹿もたいがいにせんかと言ってるんだろうがっ!」
「ふむ。義勇馬鹿とは親馬鹿のようなものでしょうか。ならば望むところです! ぜひとも義勇馬鹿を極めたい! いや、極めてみせます!」
 握りこぶしを固め決然と言った杏寿郎をにらみながら、父はぐぬぬと唸っている。こめかみの血管が切れそうで、なんだか心配になるほどだ。
「杏寿郎の義勇さんへのこれは、手の打ちようがないですから。今さらそこをうんぬんしたところでしかたありません。幼稚園からの筋金入りなのは、あなたもご存知でしょう?」
 頭から湯気を立てそうな父をやんわりとたしなめる母は、達観しているのか穏やかなものである。強力な味方を得たかと、杏寿郎は喜悦に頬を緩めかけた。
 けれども、そうは問屋がおろさないとばかりに、母は冷静な眼差しをひたりと杏寿郎に据えてくる。静かな、けれども強い声音で宣った言葉は、杏寿郎をうろたえさせるのに充分すぎた。さすがは杏寿郎を生み育てただけはある。杏寿郎の弱点をよく知っている。

「ですが杏寿郎、あなたのことですから、義勇さんのお宅の近所に住むつもりでしょう? 最悪の場合、義勇さんまで焼け出されてしまうことになります。よいのですか?」
「……そ、それはっ」

 それは困る。いや困るどころでは済まされない。
 義勇が現在住んでいる地方都市は都心と違い牧歌的ではあるが、酔漢や下衆な輩はどこにだっている。義勇を着の身着のままで夜の街に放り出すなど、とんでもない話だ。飢えたオオカミたちの前に仔ウサギを放つようなものではないか。
 もちろん、義勇を一人きりさまよわせるなんて、天地がひっくり返ろうと許容できるわけがない。不埒な輩を近寄らせるなど言語道断、断固阻止あるのみ。義勇に群がるケダモノどもはひとり残らず滅殺してみせよう。
 剣術家の家系に生まれたばかりでなく、義勇を守るという大義を金科玉条と掲げている杏寿郎である。そのためにも幼いころからたゆまず修練に励んでいるのだ。インターハイ個人優勝は伊達じゃない。ましてや義勇を守る戦いならば、敗北の二文字など存在しない。
 そうして敵を――思い浮かぶのはもれなくモヒカンでヒャッハーな奴らだ。きっと父が愛蔵する世紀末な某少年漫画の影響だろう――叩きのめした暁には、義勇はきっと、杏寿郎の胸に飛び込んできてくれるだろう。どんなに危なげない圧勝だろうと、秀麗な眉を心細げに寄せ、怪我はないか無茶をするなと杏寿郎をたしなめるのだ。たとえ百万の敵が相手だろうと君にかすり傷一つ負わせるものかと笑う杏寿郎に、義勇はちょっぴり頬を染め、馬鹿と甘くなじって抱きしめてくれるに違いない。

 義勇と身を寄せ合い、夜明けを待つ街角……あれ? ちょっといいな。

 夢想に思わずほわんと頬が緩んだ杏寿郎だが、聞こえてきたひかえめな咳払いで、ハッと我に返る。現実へと引き戻されてみれば、母の突き刺さるような視線が痛い。杏寿郎もガラにもない空咳などして居住まいを正した。
 現実を見よう。義勇がおとなしく守られているはずがない。
 争いごとが大嫌いなわりに、義勇はけっこう手が早い。平手の威力ときたら、杏寿郎でさえ吹っ飛びかけるほどだ。不埒な奴らを地に沈めるぐらい、義勇一人であってもお茶の子さいさいだろう。喧嘩沙汰になれば、杏寿郎とともに大暴れ必至である。
 いや、まずは杏寿郎へと鉄拳制裁がくだされる可能性のほうが、俄然高い。
 斯様に腕っぷしも端倪すべからぬ義勇だが、同時に周囲がヒヤヒヤするぐらいには、ポヤポヤともしている。親切ヅラで声をかけられれば、ホイホイと暗い路地裏に連れ込まれてしまう恐れは多分にあるのだ。

 うむ、やはり守らねばならん。幼いころからの俺の使命だ。必ずや義勇のそばに行かなければ!

 もしもこの場に後輩でもいたのなら、決意を新たに拳を握りしめる杏寿郎をキラキラとした憧憬の目で見て「さすがは煉獄先輩……すごい気迫だっ」だの「おぉぉっ、主将の目に闘志の炎が見える!」だのと言うのだろうが、あいにくとここは煉獄家の座敷である。室内には杏寿郎がなにを考えているのかなどお見通しな家族しかいない。感心や憧憬など銀河の彼方だ。
 杏寿郎に関してのお見通し加減で言えば、義勇も相当なものではあるが、義勇本人にはとうてい知られたくない妄想である。万が一にもありえぬ話だと杏寿郎自身理解しているし、正直なところ鉄拳制裁で済めば御の字だ。冷静になってみれば、そんな事態を想像するだけで肝が冷える。思わず寒気を感じるほどに。

 ……いや、なんだか本当に寒い気が。

 冷気の出処に何気なく視線をやった杏寿郎の顔が、気づいたそれにヒクリと引きつった。日ごろは暖かな篝火を思わせる母の赤い瞳が、絶対零度のブリザードを放ってじっと杏寿郎を見つめている。正直、怖い。激昂する父よりも、静かな母のほうがよっぽど恐ろしい。実は雪女の末裔ですと言われたら信じそうになるレベルで極寒な視線に、冷や汗が流れる。
 ブルッと背を震わせた杏寿郎は、それでも意を決し、深く深く頭を下げた。
「義勇に迷惑をかけるような真似は、死んでもいたしません! どうか同じ大学への進学をお許しください!」
 もはや土下座だがかまうものか。矜持など義勇と過ごすバラ色のキャンパスライフの前では塵芥ちりあくたよりも軽い。
「おまえなぁ……同じ大学に入ったところで、義勇はおまえより二つも年上なんだぞ? 卒業してこっちに戻れば、残りの二年間はおまえ一人で暮らすことになるんだ。また離ればなれになるからといって、簡単に違う大学に編入などさせんからな」
「父上、俺と義勇は十五ヶ月差です」
 杏寿郎のズレた返答に、父の眉根がギュッと寄せられた。
「それぐらいどうでもいいだろうが」
「よくありません。二歳差ではなく十五ヶ月差です。二年と十五ヶ月ではまったく違います! いま俺は十八で義勇は十九、一つしか違いません! なのに学年は二つも離れてしまう……早生まれという日本の教育制度には多大な欠陥がある! せめて飛び級制度を組み入れるべきだと俺は思う! 父上もそう思われませんか!」
 杏寿郎の主張は、もう何度目なのか。杏寿郎としては何度訴えても言い足りないが、父にとっては耳にタコらしい。いかにもげんなりとして見える。
 だが、そこは間違えないでもらいたい。二月生まれの義勇はたしかに杏寿郎の二学年上になるけれど、生まれ年は一つしか違わないのだ。杏寿郎にとって九ヶ月の違いは些細ではない。
 義勇が二つ年上になるのは、五月にある杏寿郎の誕生日までの三ヶ月きり。一年のたった四分の一だ。なのに二学年差。解せぬ。
 おかげで中学も高校も、一緒に通えたのは一年きりだ。なんともやるせないことこの上ない。世の不条理を嘆くのも当然ではないか。
 それでも別の学校に進むなどという選択肢は杏寿郎にはなく、高校受験の際にも、義勇が通っているという理由で今の高校に決めた。就学中に飛び級制度が制定される僥倖《ぎょうこう》に恵まれた場合を考え、成績だって上位をキープしている。
 結局高校を卒業するこの年になっても、日本の教育制度が変わることはなかったが。

 あぁ、幼稚園のころはよかった。行き帰りはもちろん、お遊戯やお昼寝も義勇のクラスに混ざって一緒にいるのを大目に見てもらえたのだから。匙を投げられたと言えなくもないが結果オーライだ。問題なし。

「わかったわかった! おまえのそれはちっとも変わらんな。だが、十五ヶ月の差はどうしようもないだろうが。義勇が卒業したあとはどうするつもりだ」
「それに関しては、心配無用です! 義勇は院に進んで、公認心理師の資格を取る予定なのです。修士課程修了はちょうど俺の卒業と重なりますから、四年間同じ学校です! ……それに、もし義勇が院に進まなくとも、あちらには蔦子姉さんもいますから。義勇があちらで就職する可能性は高い気がします……」

 最後の言葉はシュンと肩が落ちた。一緒にいられる時間が増えるのはいいが、そうなると父が言うように、結局は離ればなれになってしまう。
 杏寿郎は煉獄家の嫡男だ。ごたいそうな家系でもないが、それなりの旧家には違いない。跡取りである杏寿郎が、家から遠く離れて就職するというわけにもいかないだろう。
 けれどもそんなしがらみなど、義勇には関係ない話だ。

 杏寿郎のいるこの街で暮らすという選択肢は、義勇にはないのかもしれない。いや、よもやそれはあるまい。いやいや、義勇は将来を決める大事な選択に、情を挟むことなどないだろう。いやでもそれはどうなんだ。将来というなら杏寿郎の存在は重要なファクターなはずだ。……はずだが……義勇のことだから、楽観は許されない。義勇の思考回路は時に突拍子もない方向へ進むのだ。

「うぅむ……たしかにそれは言えるな。蔦子ちゃんが幸せになってくれたのはよかったが、義勇までいなくなったままでは、寂しいかぎりだ。できれば戻ってきてくれるといいが……」

 腕組みしてしみじみと言う父は、すっかり杏寿郎の進路など頭から抜け出ている。父もしょせんは義勇とその姉である蔦子に甘いのだ。
 不遇な境遇にあった健気な姉弟をなにくれとなく面倒を見てきた父と母にとっては、義勇たちだって我が子同然である。蔦子の嫁入りの際にも、結婚式をする余裕はないからと遠慮するのを説き伏せ、ならば我が家で昔ながらの式をすればいいと質素ながらも式を挙げさせ送り出したほどだ。