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魚が目を覚ますと、そこは見知らぬ場所でした。
姉や友が救ってくれたときと同じでしょうか。魚は少し混乱しながら辺りを見回しました。
ここがどこなのかもわかりませんが、なにより、なぜ自分が生きているのかが魚にはわかりません。魚はたしかに生を終えたはずなのです。
そこはやわらかな光に包まれていました。水のなかではないのに苦しくもつらくもありません。不安に身じろいだ魚は、自分の姿がまた人に変わっているのに気づきました。
初めて立ち上がった足はひどく傷んだのに、ここではちっとも痛くありません。固く乾いた地面ではなく、ふわふわと白い真綿のような雲の上に、魚は立っていました。
頭上の月は驚くほどに大きく、星々もやけに強く輝いて見えます。
あぁ、ここは空の上なのだ。なるほど俺はやっぱり死んだらしい。思ったと同時に、魚の体にスリッとなにかがすり寄ってきました。
それは二匹の魚でした。二匹はうれしくてたまらないと言いたげに、魚に戯れかかります。
魚は二匹の姿を認めた瞬間に、自分が新たな生を得たことを悟りました。
魚はもう、魚ではなく、人の姿であっても人でもないのです。
空できらめく星の化身へと、魚は生まれ変わっていました。
そのとおりと同意するかのように、二匹は魚の手にそれぞれ身をすり寄せてきます。魚の瑠璃の瞳に、じわりと涙が浮かびました。
間違えるはずもありません。
姉さん……錆兎っ。
大切で、とても大事で、大好きだった姉と友の、生まれ変わった姿がこの二匹なのだと、魚にはわかったのです。
水のなかではないのに、二匹はスイスイと自由自在に空を泳ぎます。魚がそっと撫でると、うれしげにヒレを揺らしてもくれました。
もう二度と、離れることはないのです。こんなにうれしいことはありません。
ひとしきり幸せの涙を流したあと、魚が思い浮かべたのは、やっぱり獅子のことでした。
獅子はどうしているだろう。魚はキュッと痛む胸を我知らず掴みしめました。姉と友が心配げにツンツンと魚の手を突いてきて、魚はどうにか微笑んでみせましたが、それでも獅子のことが気がかりでしかたありませんでした。
自分が目覚めるまでに、どれだけの時間が経ったのかわかりません。獅子はもうかなり弱っていて、命は消えかけていました。獅子が魚の体を食べてくれたのならいいのですが、きっと獅子は息絶えた魚ですら食べはしないでしょう。であれば獅子もまた生を終えているはずです。
どこかで生まれ変わってくれただろうか。けれども、星になってしまった自分と獅子がもう一度出逢うなんて、そんな奇跡はもう二度と起こらないに違いありません。
せめて獅子が幸せに暮らしている姿を見守れたらいいのだけれど。
思いながら、魚が雲の切れ間から地上を覗いてみようと身を乗り出したそのときです。
「そこの人! すまないが、ここはどこだろうか。気づいたらここにいたんだが、さっぱりわからないんだ!」
大きく快活な声が聞こえ、魚はあわてて振り返りました。
白く大きく輝く丸い月を背に、一頭の獅子をかたわらに連れた男が立っています。男の髪は黄金と真紅。燃え立つように強い光を放つ瞳も同じ色をしていました。
そこにいたのは、人の姿になった獅子でした。
かけられた声は耳に馴染んだうなりや遠吠えではなく、ちゃんと言葉の意味もわかります。とても元気で、朗らかな声でした。
たくましく伸びやかな体躯や明るい顔には、弱った様子など微塵もなく、獅子もまた星へと生まれ変わったのだと魚にはわかりました。
獅子は、言葉もなく見つめる魚にキョトンと目をしばたたかせ、小首をかしげています。魚のことを覚えていないのでしょう。
魚の最期の望みに天が応えてくれたかのようで、魚は途方もない歓喜と少しの戸惑いに、どうしたらいいのかわからず唇をおののかせるばかりでした。
と、獅子が不意に近づいてきて、身をすくませた魚の頬に、そっと触れてきました。その手はやっぱり熱く、けれども草原で触れたときのように痛くはありません。その熱はただひたすらに心地よく、どうしようもなく魚の胸は喜びに震えました。
「お願いだ、泣かないでくれ」
心配そうな声に、ようやく魚は自分が泣いていることに気づきました。魚に身を寄せ獅子を見定めていたらしい姉と錆兎は、いつのまにか少し離れた場所で二人を見守っています。
「なぜだろう、初めて逢ったはずなのに、君を見ているとひどく胸が苦しい。けれど、つらくはないんだ。うれしくて、幸せで、なぜだか俺こそ泣きたくなってくる」
少しだけ戸惑いの混じる獅子の声は、それでもとびっきりやさしくて、魚の涙は止まりそうにありません。
けれども、魚は誓ったのです。最期のときに、強く願い、祈り、誓った想いを、魚は忘れてはいません。
「……初めまして。俺は、義勇。名前を、教えてくれ」
初めて発した声はぎこちなく、慣れぬことでちょっぴり裏返っておりました。
恥ずかしさに魚――義勇がうつむきかけると、やさしい手が涙を拭ってくれました。ちらりと上目遣いに見た獅子の顔には、世界中の幸せを集めたかのようなとろけんばかりの笑みがありました。
「あぁ! 挨拶を忘れて申し訳ない。俺は……」
大きな月は煌々と輝いています。星々は歌うようにキラキラとまたたいていました。二人を包む光はただやさしく、穏やかです。
星の命はいったいどれだけ続くのでしょう。きっと長い長い時間に違いありません。
もう水のなかにも、草原や密林にも戻れません。けれど寂しくはありませんでした。これから先の長い長い時をともに過ごせるかもしれないのです。これほど幸せなことがほかにあるでしょうか。
ここからはじまる物語は、もう、奇跡ではないのです。
義勇も、歓喜の涙に濡れた頬をゆるめ、じっと愛しい人を見つめ微笑み返しました。胸の内で、義勇はふたたび強く祈り、誓います。
今度こそ、一本の糸のように互いの想いを固く強く撚り合わせ、いついつまでもともにいるのだ。そう、永遠に、と。