twine (100のお題20:永遠)

 広い草原を、一頭の獅子がゆっくりと歩いていました。草原は広く、空は地平よりずっと遠くまで広がり、灼熱の太陽がギラギラと照っています。
 草原といっても見渡すかぎり緑はまるで見えません。生き物の姿も、獅子よりほかには一匹たりと見かけませんでした。この一年ばかり草原にはほとんど雨がふらず、もはや死の平原と言っていい有り様だったのです。
 獅子の足取りはヨロヨロとしていました。獅子の視界がゆらゆらと揺れるのは、立ち上る陽炎のせいばかりではないでしょう。空腹と乾きでクラクラと目眩がするほどだったのです。
 それでも獅子は、凛と胸を張り毅然と顔を上げて歩いておりました。その姿は、いかに弱りきっていようとも、まさに百獣の王にふさわしく威風堂々としていました。まだ若く、たくましい体躯の獅子です。
 獅子は遠い南の地からやってきました。草原よりも暑く、緑豊かな密林が獅子の生まれ故郷です。若獅子にとっては身を焼く太陽はさして苦でもありませんでしたが、たいそう腹を減らしておりました。この草原に足を踏み入れて以来、獅子は、餌はおろか水一滴口にしてはいません。獲物となる動物は死に絶えるか、緑を求めとうに群れを移したのでしょう。
 狩りができなければ、腹が減るのも道理です。おまけに、途中で見つけたいくつかのオアシスもすっかり水が枯れ、獅子はどうしようもなく喉が渇いてもいました。
 自分のプライド縄張りを得るために生まれ育った密林を出たものの、このままでは縄張りをめぐってほかの雄と戦ったところで、勝てるものではありません。それどころか、空腹と乾きで息絶えるのは時間の問題だったでしょう。
 乾いた砂まじりの熱い風が、獅子のたてがみを揺らします。豪奢な金と真紅のたてがみは、だいぶ毛ももつれ砂ぼこりにくすんでおりましたが、輝きを失いきってはいませんでした。どれだけ空腹を抱えてもうつむくことなく歩むその獅子の姿は、あくまでも堂々としていたのです。
 その獅子は、勇猛果敢で知られる赤獅子でした。その若獅子を見るものがあれば、まさに草原の覇者となるべく生まれたような獣だと、感嘆のため息をこぼしたかもしれません。若いながらに威厳と覇気をそなえた獅子でありました。
 とはいえ、ほかに生き物のいない草原では、いかに美しいたてがみや精悍な体躯を持とうとも、なんの意味もなしません。獅子はただ、ふらつく足でどうにか歩みを進めておりました。
 よろけつつも歩いているうちに、獅子の鼻先をかすかな水の匂いがよぎりました。やれ助かった、乾きだけは癒せそうだ。獅子は水の匂いがしたほうへと、なんとか歩いていきました。
 ほどなく見つけたのは小さな泉です。泉の周りの茂みもほとんど枯れ果てていましたが、水はこんこんと湧いています。澄みきって凪いだ水面みなもはきらきらと日差しを弾き、まるで獅子を誘っているかのようでした。
 夢中で口をつけた水は冷たく、甘く、獅子の体に染み渡っていきます。獅子はガブガブと必死に水を飲みました。そうしてしばらく水を飲み続け、獅子はようやく泉から顔を上げました。
 泉はまだまだ枯れる気配がないようですが、それでも生き物の気配はまるでありません。小さな泉です。この泉をめぐって亡くなった生き物は少なくないのでしょう。辺りをよくよく見れば、泉の周りには多くの骨が散らばっておりました。
 わずかな水と草を取り合い争った挙げ句、残ったものはみな新天地を目指し草原を去ったのでしょう。草原にはもう、赤獅子しかいないに違いありません。これではプライドを作るなど土台無理な話です。雌の獅子どころか生き物がいないのであれば、生きていくことさえできません。
 獅子は疲れた息を一つ吐くと、立ち去ろうとしました。そのときです。小さな水音が聞こえ、獅子はとっさに振り返りました。これはぬかった、ほかに生き物がいたのか。むざむざ獲物を逃すところだった。さっと鋭い視線を泉に投げた獅子は、泉のなかに動くものを見つけました。
 それは一匹の魚でした。瑠璃色に輝く美しい鱗におおわれた魚はそれなりに大きく、喰らえば今しばらく歩いていくだけの力を得られそうでした。
 獅子はじっと魚を見つめました。けれどもその視線にはもう、獲物を狙う鋭さはありません。獅子は瑠璃色の魚に目を奪われ、言葉もなく見惚れていたのです。
 なんと美しい生き物だろう。きらきらと輝く鱗は星月夜を思わせました。長いヒレを揺らす姿はどこまでも優美で、天女の衣もかくやといった美しさです。
 息を詰めて獅子が見つめていると、魚がゆらりと身を揺らせ、いかにもおずおずと岸辺に近づいてきました。
 魚が水面にちょっぴり顔を突き出しました。まるで私をお食べなさいとでも言っているかのようです。実際、獅子がひょいと鋭い爪でひっかければ、魚はたやすく捕まえられたでしょう。魚は逃げるでもなく、ただじっと獅子を見上げていたのですから。
 けれども獅子は魚をとらえるどころか、ドサリと腰をおろすと、いっそうまじまじと魚を見つめるばかりでした。
 獅子は、これほどまでに美しい生き物を見たことがありませんでした。こんなにも美しい生き物をひと飲みにしてしまうなど、滅相もない。魚を見つめているだけで、獅子の心臓はドキドキと高鳴ります。いつまでだって見つめあっていたいとすら思いました。
 魚がゆらゆらと長い尾ビレを揺らすたび、水面には静かに波紋が広がってゆきます。瑠璃の鱗は水のなかでもキラキラときらめき、星のまたたきを見るようでした。
 少しだけ水面に顔を出したまま、魚もじっと獅子を見つめています。いったいどれぐらい見つめあっていたでしょう。やがて魚はプクンとあぶく一つを残し、水底へと潜っていきました。ゆっくりと泳ぐその様は、獅子が自分を食べずにいるのがいかにも無念だと言っているように獅子には見えました。
 沈む魚影に向かい、獅子はグルルと小さくうなりました。行かないでくれ、もっとその姿を見せておくれと、獅子はなるったけやさしくうなります。ちょっぴり甘えるようでもありました。
 獅子の声が届いたのでしょうか、魚は、ふたたびゆっくりと水面に近づいてくれました。けれども今度は顔を出さず、クルリ、クルリと、誘うように泳いでおります。まるで踊っているようにも見えました。獅子はなんだかとても楽しくなってきました。
 魚のヒレがひらりと揺れるたび、獅子もパタパタと長い尾を揺らしてみせました。こんなにも心躍るのは久しぶりです。なんとも愉快だ。獅子はうれしげな咆哮を上げました。空腹でへこんだ腹でもその声は大きく高らかで、真っ青な空にとどろき渡るほどでした。
 楽しげな遠吠えに応えるかのように、魚がパシャリと跳ね、空中で身をよじらせました。瑠璃の鱗がいっそうきらめき、獅子の顔に降り掛かった水しぶきはまるで真珠の粒のようです。そのしなやかな肢体に獅子はますます見惚れ、ご機嫌に尻尾を揺らせました。
 飢えた腹はキリキリと痛みましたが、獅子はそれでも、魚を食らおうとはまったく思いませんでした。瑠璃色にきらめく魚を見ているだけで、とても満たされた心地になっていたのです。

 獅子はすっかり腰を落ち着け、太陽が沈み夜が訪れても、ずっと小さな泉のほとりから離れませんでした。
 日差しを弾く様も見惚れるほどに美しい魚の鱗は、月明かりの下ではなおいっそう艶やかに見え、獅子を魅了します。夜の魚は、昼間よりも頻繁に、昼間よりも少しばかり長く、水面から顔をのぞかせてくれました。ピシャンと水音を立てて、何度も水上に跳ね上がってもくれます。
 もしかしたら、昼間は日差しが暑すぎて、魚の身には酷なのかもしれません。獅子はたいそう夜目が利きますので、瑠璃の鱗が月の青白い光をまとってきらめく様も、よく見えました。
 ときに一頭と一匹は、ヒレと尻尾をともにゆらして、触れあえぬダンスを楽しみました。長く見つめあいもします。
 そうして日が昇り、また沈むのを、幾度繰り返したでしょう。夜空に輝く月がだんだんと丸く太っていくあいだ、泉を訪れる生き物は一匹たりといませんでした。まだ草原にいたとしても、獅子が恐ろしくて泉には近づけないのでしょう。ともあれ、今、泉は獅子と魚のためだけにありました。
 飢えが本能を刺激するたびに、獅子は、魚にお伺いを立てるように鼻先でちょんと水面を揺らします。そうすると魚は心得たとばかりに岸から少し離れるのです。
 喉の乾きを癒すよりむしろ、どうにか腹を満たすために獅子は、しきりと水を飲みました。魚は獅子が水を飲み終えるたび、長く水面に顔を出しました。それはまるで、かまわないから私をお食べなさいと、獅子に訴えかけているように見えます。
 いえ、実際魚は、さぁどうぞと言わんばかりに岸へと跳ね上がってきさえしたのです。獅子があわてたのは言うまでもありません。獅子は岸で苦しげに身をくねらせる魚を鼻先で押しやり、泉へと戻しました。
 どこか不満げに見つめてくる魚に獅子はグルルとうなり、君を食べたりはしないと伝えようとしたのですが、魚は何度かそれを繰り返しました。獅子がどれだけやさしく語りかけようと、魚にはきっと獅子の言葉がわからないのでしょう。獅子にも、魚の言葉はわかりません。触れあうこともできません。
 やがて魚も、けっして獅子は自分を食べないと悟ったか、岸へ上がるのは諦めたようでした。ホッとした獅子はやっぱりうれしげな遠吠えをひびかせました。
 そうして一頭と一匹は、ただただ見つめあうことしかできぬまま、いくつもの昼と夜をともに過ごしたのです。
 たとえ見つめあうばかりで触れることすらできずとも、獅子は幸せでした。どれだけ飢えて体がどんどんやせ衰えようと、尻尾を揺らすのすら苦心するほどに弱ろうと、魚を見つめていられることがどうしようもなくうれしかったのです。
 けれどもそんな日は長くは続きません。水で空腹を誤魔化そうと、食べなければ生き物は死ぬのです。獅子にもそのときが近づいておりました。
 獅子には、餌を求めて立ち去るだけの力など、もはやかけらも残ってはいませんでした。この泉で俺は命果てるのだろう。獅子にはすでにその覚悟がありましたが、それでも心残りはありました。
 獅子の一族には、けっして唱えてはならぬ禁呪が伝わっています。それは生涯一度きり、どうしても叶えたい願いを天が聞き届けてくれるというものでした。けれども代わりに、己の命は終わります。その身と引き換えだからこその禁呪なのです。
 このまま終わるのならば、ただ一度。一度きりでかまわないから、あの魚に触れたい。鋭い爪を持つ獅子の前足では、魚の柔らかい体に触れればきっと傷つけるでしょう。大きな牙は魚の腹をかみ裂いてしまうことでしょう。それゆえ獅子は、魚に触れることはできませんでした。
 今まで獅子は、己の強い爪や牙を疎んだことなど一度もありません。必要なぶんの狩りはしますが、それでも赤獅子は王者なのです。弱きものを守るために大きな牙や鋭い爪はあるのです。だから獅子は、己の爪や牙に誇りを持っておりました。
 けれども今このときばかりは、自分の爪や牙を悲しまずにはいられませんでした。獅子はいつしか魚に恋していたのです。
 獅子と魚が番うなど、ありえぬことです。それでも獅子は魚をただひたすらに恋い慕っていました。この魚に触れたい。口づけられたらどんなにかうれしいことだろう。あぁ、この美しい魚と一度でいいから触れあえたら。それはどれだけ甘美な心地がすることか。獅子の脳裏には始終その願いが浮かびます。
 それでも、天へと願うことはできませんでした。願いが果たされたそのときに、獅子の命は終りを迎えるのです。自分に触れた獅子が亡くなれば、魚はなにを思うでしょう。獅子が死から逃れるなどもはやありえぬことですが、獅子は、魚には自分のせいだと思ってほしくはなかったのです。

 また夜が来ました。きっと獅子にとって今生最後の夜です。
 灼熱の太陽は地の果てに沈み、空には濃紺の帳が落ちています。大きくまんまるな月が白く輝き、空を埋め尽くす星々はチカチカとまたたいていました。
 もう座っていることすらできぬほど獅子は弱っていましたが、それでも魚に己が死ぬところを見せたくはありませんでした。別れの挨拶をしたら、泉から見えぬ場所へと行こう。獅子はそう思い定め、なけなしの力を振り絞り元気な声を張り上げました。
 俺のことは心配するな、君はいつまでも元気でいてくれと獅子は吠えます。獅子の言葉は魚には通じませんが、気持ちはきっと伝わるはずだと信じて、獅子は、楽しかったありがとうと高らかに吠え続けました。
 獅子の命は残りわずかで、もう目も見えなくなってきています。けれども獅子は歩み去る力だけあればいいとばかりに、最後の力をすべて、魚を安心させるためだけに使ったのです。
 とどろく咆哮がやみ、辺りが静寂に満たされました。もう行かなければ。獅子がよろよろと立ち上がったそのときです。
 パシャリと水音がして、獅子はゆっくりと泉を振り返りました。きっと魚が別れを告げるために跳ねてくれたのだと思ったのです。
 月明かりに照らされた泉は静かに白く光っています。獅子の金と朱の瞳が見開きました。そこにいたのは魚ではありませんでした。泉のなかにひっそりと立ってたのは、獅子が初めて見る生き物でした。
 空に輝く月のように白い肌、闇夜のように黒い髪は長く、ところどころ跳ねています。しなやかな四肢はしっとりと水に濡れて、ほのかな光をまとっているように見えました。じっと獅子を見つめはらはらと涙を落とす瞳は深く澄んだ瑠璃色で、魚の鱗とそっくりです。そこにいたのはどう見ても人間でした。
 いえ、姿は人であっても、人間でないのは獅子にはすぐにわかりました。
 言葉もなくただまっすぐに獅子を見つめているその人は、あの魚に違いありませんでした。どんなに姿が変わろうと、獅子にはそれがすぐにわかりました。どうして魚が人になったのかは知りません。獅子は禁呪の呪言など唱えてはいないのです、こんな奇跡が起きるわけがありませんでした。
 それでも獅子は、震えながらその人に向かい前足を伸ばしました。金色の毛に覆われているはずの前足は、魚と同じくつるりとした肌の手に変わっていました。驚いた獅子があわてて自分の体を見回しますと、いつのまにか獅子も二本の足で立っているではありませんか。
 いったいなにが起きているのでしょう。わからないことばかりでしたが、それでも獅子は泉へと近づいていきました。ふと視線を下げれば、泉にぼんやりと見慣れぬ影が映っています。そこに映っていたのは、黄金と真紅がまじった髪をした人の姿でした。若く精悍な男です。
 これが俺か。グルッと驚愕の唸りが獅子の喉から漏れました。姿は人に変わりましたが、獣であることに変わりはないのでしょう。手には名残のように鋭い爪が、口には大きな牙がありました。
 これではやっぱり魚を傷つけてしまうかもしれない。獅子は躊躇し、ジリッと後ずさりました。そのときです。身じろぎ一つせず獅子を見つめるばかりだった魚が、ゆるりと腕を持ち上げました。
 おいでと言うように魚の白い腕が広げられ、獅子を誘います。切なげにはくりと動いた口からは、言葉は出てきませんでした。魚もどこまでも魚でしかないのでしょう。言葉は話せぬようでした。それが悲しいのか、魚の瑠璃の瞳からはポロポロと、涙の粒が浮かんでは落ちています。
 溢れる涙に胸が詰まり、獅子は我知らず泉に走り込んでいました。バシャバシャと水音を立てて魚に近づき、無我夢中で魚を抱きしめます。初めて触れた魚の肌はひやりと冷たくてみずみずしく、しっとりと柔らかでした。
 お願いだ、泣かないでくれ。願いを込めて獅子が魚を見つめれば、視線が絡みあい、魚の唇が薄く開かれていきます。そっと触れあわせた唇もひんやりとしていて、初めて口にしたときの泉の水よりずっと、獅子にとっては甘く感じられました。
 獅子の命はもう残りわずか。朝には果てるだろう命です。ならば一夜ひとよの奇跡に感謝し、ただ一つの願いを叶えようと獅子は魚を抱き上げました。魚も同じ気持ちでいてくれるのでしょう。獅子の腕に逆らうことなく、それどころか、しなやかな腕を獅子の首に回してくれさえしました。
 涙に濡れた瑠璃の瞳がやわらかくたわみ、獅子の胸が痛くなるほどにやさしい微笑みが、魚の白い顔に浮かびます。大きすぎる喜びが獅子の瞳にも涙を誘い、獅子も愛おしさを込めて微笑んでみせました。
 夜はまだ、始まったばかりでした。

 月は煌々と光っています。朝はまだ遠く、枯れた草原には獅子と魚以外には誰もいません。生き物のいない草原に聞こえるのは、熱い風が枯れ草を揺らす葉擦れと、二人がもらす熱い吐息のかすかな響きばかりです。
 膝の上に乗せて抱きしめた魚の肌は、やがて魚自身の汗に濡れていきました。浮かび上がる小さな汗の珠は、月明かりを浴びて仄白く光っています。おとぎ話に聞く深海に眠る秘宝のようだと、獅子は自分の腕のなかの宝物にやさしく、とびっきりやさしく、触れました。魚の小さな唇から溢れる吐息は不思議に甘く、獅子は魚の唇に、肌に、何度も口づけせずにはいられませんでした。一滴すら逃したくないと滴る汗を舐め取る獅子の舌に応えるように、魚もぎこちない手付きで獅子の髪をなで、幾度も獅子の頬に口づけてくれました。
 どれだけ夢中になっても、獅子は、魚を傷つけたくはありません。自分の爪が、牙が、魚の体に一筋の傷もつけぬよう、獅子はただひたすらにやさしく魚に触れました。白い肌をそっとなで、やさしく舐めあげ、甘く歯を立てるたび、魚のしなやかな白い体がビクンと震えて跳ねます。
 獅子の体はどんどんと熱をおび、獅子の肌にも汗が流れ落ちました。互いの肌を濡らすのはもう、泉の水ではなく互いが流す汗ばかりです。どれだけポロポロと涙を落とそうと、魚はそれでも微笑んでいてくれました。
 その真珠のような涙をそっと吸い取りながら、獅子はこの上なく幸せでした。もう二度と草原を駆けることはできず、魚とも別れることになりますが、それでも獅子は幸せで、ただ幸せで、泣きたいぐらいの喜びに満たされていたのです。しっかりと抱きあう二人を照らす月や星々も、恋の成就を祝福してくれているようでした。
 灼熱の太陽に照らされる昼よりもずっと暑い夜は、静かに更けてゆきました。

 魚を抱きしめたまま眠ってしまった獅子が目を覚ましたのは、真っ赤な朝焼けが草原を染めるころでした。
 腕のなかに魚がいないことに気づいた獅子があわてて辺りを見回すと、赤く染まった泉にプカリと浮かぶ魚の姿がありました。瑠璃色の魚は白い腹を見せ、ただプカプカと浮いています。
 総毛立った獅子の大きな口から、驚愕と悲嘆の咆哮がほとばしり出ました。
 バシャンッと水しぶきを上げて泉に飛び込んだ獅子の体は、獣に戻っておりました。もう抱きしめる腕はありません。必死に鼻先で魚の体をつついてみても、魚はただゆらりと揺れるだけです。いつものように長いヒレをひらひらと振って、優雅な姿で泳いではくれません。瑠璃の鱗もどこか色あせて見えます。
 燃え立つような朝焼けに、獅子の嘆きがとどろきました。
 もう、獅子にもわかっておりました。奇跡の夜はきっと魚が願ったことなのです。赤獅子に伝えられるのと同じく、魚にも禁呪が伝わっているのでしょう。獅子よりも先に、魚は禁呪によって命を使い果たしたに違いありません。
 魚を生き返らせてくれと願うことはできませんでした。命は天が定めたものです。どれだけ願おうと、失った命を取り戻すことはできません。
 獅子は、弱りきった体に残る力のすべてで吠えながら、それでも天に向かって呪言を唱えました。
 願う言葉はただ一つ。魚が最期に願った望みが叶いますように。ただ一心に、獅子はそれだけを願いました。
 魚が禁呪に願ったのはきっと、獅子の願いを叶えてほしい。ただそれだけだっただろうと、獅子は信じて疑いませんでした。
 禁呪は天に背く願いを叶えることはありません。獅子の死はもはや逃れられぬところまできていました。獅子の延命を願ったところで叶うことはないのです。ならば昨夜の奇跡は、魚が己の命をかけて獅子の願いが叶うようにと願ってくれたからに違いありません。
 だから獅子は、ひたすらに魚自身の願いを、望みを、どうか叶えてくれと願い祈りました。自分の残りわずかな命で購えるものならば、いくらでもこの命を投げ出そう、だからどうか魚の願いを叶えてくれと獅子は祈ります。まだ天空に残る月に、静かに消えていく星々に、地平を染める太陽に向かい、命果てた魚の幸せだけを願って祈りました。
 抱きしめる腕をもたぬまま、魚の亡骸に寄り添い水底に沈むまで、ずっと。