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その泉はとある草原にポツリと存在しておりました。
ほんの小さな泉でしたが、いつでも冷たい清水が満々と湧きいでている泉です。近くに住まう動物たちはみなこの泉で乾きを癒し、つかの間の涼を求めるのです。水はどこまでも澄んで、空を写して青々としておりました。
泉には、魚が一匹棲んでいました。瑠璃色の鱗がきらきらと光る、たいそう美しい魚です。
魚は泉に動物がくるたび、仲良くなれないだろうかと岸の近くを泳ぐのですが、陸の生き物である動物たちには、どうしたって近寄れません。襲われかけることもあります。
一人ぼっちの魚は、仲間や家族とともに泉に訪れる動物たちを、羨ましそうに見つめるばかりでした。
草原に雨が降らなくなり、泉には以前よりもたくさん生き物たちが集まってきました。魚は最初のうち、様々な動物の訪れを喜びましたが、やがて彼らが泉を取りあい争うようになると、悲しみで胸が張り裂けそうになりました。ときに負けた動物が流した血が泉へと流れ込んでもきます。魚は嘆き悲しみましたが、どうすることもできません。
瑠璃の魚の一族には、己の命と引き換えに願いを叶える禁呪が伝わっておりました。魚は自分の命を惜しむことはありませんでしたが、けれど雨を降らしてくれと願うことも、死んだ動物たちを生き返らせてくれと願うこともできませんでした。なぜなら天候も命も、天が必要と定めたものなのです。どれだけ願おうと、定めに背く祈りは天には届きません。
なにもできぬ自分に嘆き、せめて争う声を聞くまいと、魚は長く水底に沈んだままでいました。
いったいどれぐらい経ったでしょう。泉に落ちる影がまったくなくなってからずいぶん経ちました。きっと草原の生き物はすべて去ってしまったに違いありません。それもまた魚にとっては寂しく悲しいことでしたが、それでも命が失われるよりはいい。魚はたった一匹で寂しさと悲しさを抱え、自分の命が終わる日をひっそりと待つばかりでした。
そんなある日のことです。泉に見慣れぬ大きな獣が一頭、ふらりと現れました。ずいぶんと喉が渇いていたのでしょう。獣は泉によろよろと近づくと、ガブガブと一心不乱に水を飲みだしました。
なんと美しい獣だろう。魚は揺れる水面を見上げ、プクリと小さなため息をもらしました。
獣の体はふさふさとした毛で覆われております。金色に光る毛並みと、大きな牙、それに鋭い爪を獣は持っていました。獅子です。金のたてがみにところどころ混じる真紅の毛を見るに、もっとずっと南に住まうという赤獅子でしょう。
魚は獅子を見るのは初めてでした。このあたりには草食動物は多くいましたが、獅子はおりません。なんと美しい獣だろう。また思い、魚は、一心に水を飲み続ける獅子に見惚れておりました。
もう少し近くで見たい。欲求に逆らえず、魚はそっと水面へと近寄っていきました。獅子の邪魔にならぬよう、少し離れた場所から獅子をじっと見つめます。
やがて獅子はフゥッと息を吐くと、よろける足で泉に背を向けようとしました。魚はそのときになって初めて、獅子がずいぶんと弱っていることに気づいたのです。
きっとなにも食べていなかったのでしょう。辺りには魚のほかには生き物はもういないはずです。草原は広く、獅子が餌となる動物を見つけるまで生きていられるとは思えませんでした。
今、獅子の飢えを満たせるのは自分だけだ。魚は必死にヒレを動かして、ここに獲物がいるぞと獅子に教えようとしました。あの美しい獣の命を永らえるために果てるなら、自分の命の使い道としては上等だ。魚はそう思ったのです。
ありがたいことに獅子は魚が立てた水音に気づいてくれたようです。振り返った獅子にホッとして、魚は獅子が自分を狩るのをドキドキとしながら待ちました。けれども獅子は、じっと魚を見つめてくるばかりです。
きっと獅子は泳げないのだろう。もっと近づかなければ狩れないのかもしれない。それとも魚では獅子の口には合わないのだろうか。自分はいかにも不味そうに見えるのかも。
魚は毒を持ってはいませんが、獅子はこいつを食らうのは危険だと思ったのかもしれません。なんだか悲しくもなりましたし不安にもなりましたが、食べてもらわねば獅子の命が長くないのは確かです。魚はおずおずと岸辺に近づいていきました。
じっと見つめている獅子に、俺は不味いかもしれないけれど死ぬよりはいいだろうと伝えるべく、魚はそっと水面に顔を出しました。これだけ近づけば、あのたくましい前足でひょいとすくうだけで魚はたやすく獅子に捕まえられるはずです。
水面を透かすことなく見た獅子の瞳は、金と朱にきらめいて焔のようでしたが、とてもやさしい光を放っておりました。それでも大きな牙や鋭い爪はいかにも強そうで、あの爪や牙で切り裂かれかみ砕かれるのは痛そうだなと、ちょっぴり魚は身をすくませました。
けれども逃げようとはしません。どうあっても食べてもらわねばと、魚はじっと獅子を見つめ返しました。誰かの……この獅子の生命を救えるのなら、己の命に未練などなかったのです。
魚は、もっと大きな湖で生まれました。魚には姉がいました。今よりずっと小さく幼かった魚は、姉とともに湖で楽しく暮らしていたのです。ところがあるとき鷹が舞い降りて、魚を鋭い爪で捕らえようとしました。死を覚悟した魚は、けれども食べられることはありませんでした。魚の体が掴み上げられそうになった次の瞬間、魚は見知らぬ川にいたのです。
すぐに魚は、禁呪を唱えた姉が自分を安全な場所へと逃してくれたのだと悟りました。姉はきっともう生きてはいないでしょう。願いを叶えてもらうには、己の命を差し出さなければならないのですから。
魚は嘆き悲しみ、自分こそが死ねばよかったと悔やみましたが、友との出逢いが嘆きを癒やしてくれました。川には魚たちよりもずっと大きく獰猛なワニがいましたが、二匹はどうにか助けあいながら川で暮らしていました。けれど楽しい日々はやはり長くは続きませんでした。ワニに襲われて友と一緒にひと飲みにされそうになったのです。けれども魚はまた、生きながらえました。
九死に一生を得た魚は、友がどうなったのかを見ていません。魚は、気づけば一匹きりで、この泉にいたのです。
姉も、友も、魚が幸せに暮らせますようにと願い、代わりに己の命を天へと捧げたに違いありませんでした。天が叶えたからには、魚の命運はまだ尽きないということなのでしょう。救ってもらった命を粗末にすることはできず、魚は寂しさと悲しさを抱え、この泉に一匹きりで生きてきました。
いつか自分も誰かを救うためにこの命を使おう。それだけを思い定めて、魚は今まで一匹きりで生きてきました。けれども、そんな機会は一度として訪れず、魚はただ生きて、この泉で腐ちていく日を待つばかりとなっていたのです。
だから魚には、なにも未練などありませんでした。美しく堂々としたこの獅子の糧となれるのです。誇らしくなりこそすれ、命を惜しむなど滅相もないと、魚は精一杯胸を張って獅子を見つめていました。
だというのに、獅子は魚を捉えようとはしません。やっぱり自分では、こんなにも美しい獣の餌にはふさわしくないのだろう。きっと獅子はこのまま立ち去ってしまうに違いない。不甲斐なさと悲しさに耐えきれず、魚はまた水底に戻ろうとしました。
すると、岸からグルルとやさしい声が聞こえてきました。獅子の声です。魚には獅子の言葉などひとかけらもわかりません。けれどもそのうなり声はとびきりやさしく聞こえました。どこか甘く、魚を呼んでいるようにも聞こえます。
魚はもう一度水面へと泳いでいきました。食べる気になってくれたのだろうか。さっきは見つめすぎたのがいけなかったのかもしれない。魚は、ホラ捕まえてごらん、大きなおまえには俺ではきっと足りないだろうが腹が減っているんだろう? と、ゆっくりと泳いで獅子を誘ってみせます。けれどやっぱり獅子は魚を捕らえる気配がありません。
ちらりと獅子の様子をうかがえば、獅子はなんだかとても愉快げに見えました。魚がクルリと輪を描くたび、長くしなやかな尻尾がパタパタと揺れています。魚が尾ビレをユラッと振れば、獅子の尻尾もパタリと地を打ちます。まるで一緒に踊ってでもいるかのようで、魚はだんだんとうれしくなってきました。
この泉に来て以来、こんなにも心躍ることがあったでしょうか。俺は獅子にとって美味しげには見えないようだが、それでも楽しませてはやれたのだろう。思い、魚はいよいよ元気に泳いでみせました。そのとおりとでも言うように、獅子が大きく吠えました。
高らかな遠吠えはいかにもうれしげで、魚の胸が喜びにふくらみます。獅子が楽しんでくれているのが、うれしくてたまりませんでした。
けれどもやっぱり、獅子が飢えているのは心配です。もう草原には獣の餌になる動物などいません。ギラギラと輝く太陽も、きっと獅子を痛めつけていることでしょう。獅子は魚よりずっと暑さに強いでしょうが、木立も枯れた草原では日陰一つないのです。ふさふさと豊かなたてがみが、なんだかとても暑そうに見えて、魚は思い切って空へと跳ね上がりました。
必死に体をくねらせて、魚は獅子へと水しぶきを振りかけます。せめて少しだけでも心地よいと思ってくれればいいのだが。思いながら、何度も魚は跳ねてみせました。魚が跳ね上がるたび、獅子の金と赤に彩られた瞳がキラキラと輝きます。長い尻尾はご機嫌に揺れていました。それを見るだけで、魚はとても満たされた心地になったのです。
夜になっても獅子は泉にいてくれました。日差しの下で見た獅子の黄金にきらめく勇猛な体躯は、魚の目にはまぶしすぎましたが、月明かりの下ではやさしく光ります。昼よりもほんの少し過ごしやすい夜は、魚の体を焼き尽くそうとする日差しもなく、魚は昼間よりも多く、獅子のために跳ねてみせました。ひらひらとヒレを動かし泳げば、獅子も魚の動きに合わせて尻尾を揺らせてくれます。水面から顔をのぞかせるたび、獅子がわずかに身を乗り出して見つめ返してくれるのが、魚はうれしくてたまりませんでした。
それでも心配はつきません。だって何度も獅子が水を飲むのは、きっと飢えを誤魔化すために違いないのですから。
獅子が一心不乱に水を飲むたび、魚は、お願いだから俺を食べてくれと獅子を見つめました。獅子はちょっとばかり悲しげに首をかしげ、見つめ返してくれるだけです。
意を決し、魚は岸へと跳ね上がりさえしましたが、ひどくあわてた獅子に泉へと押しやられてしまい、どうあっても食べてもらえそうにはありません。
どれだけ不味くとも食わねば死ぬんだぞと、魚は獅子を睨みつけましたが、獅子はグルルとやさしくうなるばかりです。どんなに魚が食べてくれと訴えても、獅子に魚の言葉は通じません。獅子の言葉も魚にはわかりませんでした。触れあうことだってできません。
魚は水の生き物です。陸では息すらできず、日差しはすぐさま魚の体を焼いてしまいます。獅子の体もきっと太陽のように熱いことでしょう。触れれば魚の体は煮え立つに違いないのです。獅子に触れるための四肢すら魚は持っておりません。それが魚には悲しくて悲しくてたまりませんでした。
獅子はどれだけ魚が願っても、けっして魚を食べようとはしませんでした。昼も、夜も、獅子はいつだって魚に向かってやさしくうなり、楽しげに吠えてくれましたが、それでもどんどんと弱ってきているのは明らかです。魚と踊るように揺らしてくれていた尻尾も、だんだんと力がなくなっていきます。
きっともうじき獅子は死ぬのでしょう。魚はまた一匹きり取り残され、腐ちていくのを待つだけになります。それでも魚は、獅子が餌を取れますようにと願うことはできませんでした。
獅子は肉を食らう生き物です。自分が獅子に食われることは魚にとっては喜びでしかありませんでしたが、ほかの命を獅子のために与えてくれなど魚は願えなかったのです。自然の摂理のなかでの狩りならば、それもまたしかたのないことと思えます。けれど自分の願いに応じて誰かが死ぬなど、耐えられるものではありません。
それでもなにか。なにか一つきりでいい、獅子のためになにかしたい。そのためならば魚は命など惜しくはありませんでした。魚はいつしか、獅子に恋していたのです。魚が獅子と番えるわけもありません。けれどどうしても、獅子を恋い慕う気持ちは抑えきれませんでした。
また夜が来ました。きっと獅子にとって今生最後の夜です。
泉に月影が落ち、星々のまたたきを写して水面はキラキラと光っておりました。月は大きくまるく、どんな願いも叶えてくれそうに見えます。
魚の決心はすでに固まっていましたが、それでもためらいはありました。禁呪を使えば獅子に食われずとも魚の命も終わります。果たして魚の遺骸を見た獅子は、どれだけ嘆き悲しむでしょう。魚は、獅子には亡くなった自分の姿を見られたくはなかったのです。
夜の帳を貫くような咆哮が、草原に響きわたりました。獅子の遠吠えです。それはそれは力強い声が、高く、長く、草原に響き続けます。
あぁ、行ってしまう。獅子はきっとこのまま行ってしまう。魚が自分の死を獅子に見られたくないように、獅子もまた、魚の目が届かぬ場所で命を終えるつもりなのでしょう。魚には獅子の言葉はわかりませんでしたが、それでも獅子が魚を心配させまいとしているのは不思議とはっきりわかりました。
その声がやんだとき、魚のためらいは消えました。水面を照らす月に向かい、呪言を唱えます。そうして魚は一心に祈りました。
どうか、獅子の願いを叶えてくれ。それが叶うなら己の命などこの場で果ててもかまわない。獅子がなにを望んでいるのか、魚は知りません。それでもただ一度きり獅子のためになにかできるなら、獅子が幸せだと笑ってくれるなら、命を失うことなど恐くはありませんでした。
不意に、月がまぶしいほどに輝いた気がして、魚は思わずギュッと目をつぶりました。魚には瞼がありません。どんなにまぶしくても目を閉じることなどできないはずなのに、なんでだろう。思いながらも魚が目を開けると、金と赤の髪をしたたくましい男の後ろ姿がそこにはありました。その姿は明らかに人です。
獅子はどこに行ったのかと悩むことはありませんでした。魚にはすぐにわかったのです。ふらつく足取りで泉から遠ざかろうとしているあの男こそが、獅子なのだと。獅子がなにを望んでいたのか魚は知りませんが、それでもあの姿は獅子の望みを叶えるためなのだと思いました。
魚は獅子を呼び止めようと、いつもと同じに跳ねてみせようとしました。ところがなぜだか体がひどく重たくて、飛び上がることができません。なのに視界はいつも以上に高く、獅子の後ろ姿がやけにはっきりと見えました。獅子のすがたはいつでも、水のなかからではゆらゆらと揺れて、水から出れば瞳が乾いてやっぱりぼやけて見えるばかりだったというのに、どうしたことでしょう。
戸惑いながらも岸へと近づこうとした魚は、ようやく自分の姿も変わっているのに気づきました。いつのまにか魚は二本の足で、小さな泉の真ん中に立っていたのです。揺れる水面にぼやけて映る魚の姿は、獅子と同じく人の形をしていました。
ひらめいていたヒレはしなやかな四肢に、瑠璃色の鱗で覆われていた体は、どこもかしこも白い肌へと変わり、しっとりと濡れていました。
この姿なら、獅子に触れられる。獅子を抱きしめることもできる。喜び勇んだ魚は必死に獅子を呼び止めようとしましたが、声は出ませんでした。立つことに慣れぬ足がひどく痛みます。空気にさらされた目も痛いほどに乾いて、ポロポロと涙がこぼれました。
痛む足で魚がよろりと一歩踏み出すと、パシャリと水音が響きました。それを聞きつけたのでしょう、獅子はゆっくりと振り返ってくれました。
こちらを向いた金と朱の瞳が、丸く見開かれるのが見えました。姿はまるで違っていても、その瞳は獣である姿のときとちっとも変わらず、やさしさと強さに満ちた輝きを放っています。
どれだけやせ衰えても精悍でたくましかった獅子の体躯は、人の姿になってもやっぱり魚の目には美しく、黄金と真紅の髪はお日様のように輝いて見えました。獅子の口元には名残のように、大きな牙がのぞいています。大きな手には鋭い爪がありました。人の姿になろうとも、獅子もまた獣であることになにも変わりはないのでしょう。魚はそんな獅子の姿がなぜだかとても誇らしく、胸が高鳴るのを感じました。
ポロポロとこぼれ落ちる涙もそのままに、魚がじっと獅子を見つめていると、獅子が少しふらつきながら近づいてきました。けれども獅子は、泉まであと一歩というところで立ち止まると、なぜだか悲しげに顔を歪めて後ずさりしてしまったではありませんか。
やっと触れられるのに。お願いだ、行かないでくれ。魚はヒリヒリと痛む腕をゆっくり上げると、震えながら獅子に向かって広げました。
泉に吹く風は夜になっても暑く、魚の肌を痛めつけます。それでも魚は痛む足で立ったまま、ひりつく腕を差し伸ばして獅子を待ちました。
獅子がちらりと自分の手に視線を落とすのが見えました。きっと魚を傷つけることを恐れているのでしょう。
気にしなくていいのに。少し切なく思いながら、魚はかすかに微笑んでみせました。鋭い爪で引き裂かれても、大きな牙にかみ砕かれても、それが獅子の爪や牙ならば、魚はちっともかまわないのです。獅子と一度きりでも触れあえるなら、獅子の願いが叶うならば、魚は命を投げ出せるのですから。
熱い風に吹かれ苦しい息をもらしながらも、魚は、おいでと獅子を誘いました。声は、どんなに魚が望もうと出てきてはくれません。魚は魚でしかないのです。声を持ちません。獅子に名を告げ、その声で呼んでほしいと願っても、獅子もまたグルルと唸り声を上げるだけです。人の姿であっても、獅子は獅子、魚は魚でしかないのでしょう。けれどもこれはただ一度だけの奇跡、明日のない一頭と一匹に、言葉は必要ありませんでした。
ひときわ大粒な涙が瑠璃の瞳から落ちたと同時に、バシャンッと大きな水音を響かせて、獅子が走り寄ってきました。たくましい腕が、大きな手のひらが、魚のしなやかな背を掻き抱きます。初めて触れた獅子の体は固く引き締まり、草原に乾きを与えた太陽よりもずっと、魚には熱く感じられました。
それでも魚は、身を焼く獅子の熱から逃れようとはしませんでした。どれだけ痛もうと、二本の腕はヒレと違い、獅子の背を抱き返すこともできるのです。うれしくて、涙に濡れた目でじっと獅子を見つめれば、獅子の精悍な顔が静かに近づいてきました。
ゆっくりと伏せられていく獅子の目に、魚は薄く唇を開いてみせると、獅子と同じように静かに目を閉じました。時を置かず重ねられた唇も、やっぱり燃え立つように熱くて、魚の背が知らず震えます。生きながら焼き尽くされそうな獅子の熱は、けれども魚にとっては目眩がするほどに甘く感じられました。舌先をかすめる牙の鋭さにすら、魚の胸は喜びにはち切れそうでした。
この一夜の奇跡が明けたら、魚の命は終わります。獅子が明日を生きられるかもわかりません。ならばこの奇跡に感謝し、獅子の願いを叶えようと、魚は、抱き上げてくる獅子の首にすがりつくように腕を回しました。
幸せそうに魚を見つめる獅子の瞳には、隠しきれない飢えの焔が見えるようです。魚は世界がどれだけ広いか知りません。けれどもこの焔に焼き尽くされてこの世を去る自分はきっと、世界で一番幸せな生き物に違いないと、魚はほのかに微笑みました。獅子の瞳にもきらめく涙が浮かび上がり、幸せそうに微笑み返してくれた獅子の頬を、静かに伝って落ちていきます。
夜はまだ、始まったばかりでした。
熱をはらんだ風が渡る草原は、太陽が月へと空の支配を譲ろうとも、魚の身には酷すぎる暑さでした。
獅子と魚のほかには生き物の気配はまるでありません。枯れた草が風に揺れ、カサカサと音を立てます。魚のやわい肌を気づかってか、獅子は魚を膝に乗せ、けっして地面に横たえさせようとはしませんでした。獅子の体も息もひたすら熱く、二人に吹き付ける風よりもなお、魚の身を焼いてゆきます。
それでも、魚もまたけっして離れまいと獅子にしがみつき、獅子の大きく熱い手や舌が肌をたどるたび、喉をのけぞらせ息を喘がせながら、ポロポロと歓喜の涙をこぼし続けます。どれだけ苦しくとも、業火に焼かれるが如き熱のなかにあっても、魚は獅子と視線が絡むたび微笑んでみせました。
獅子の手も、舌も、ただひたすらにやさしく触れてきます。甘く歯を立てられても、魚の白い肌には傷一つついてはいません。ただ甘やかなしびれが魚の背を走るばかりです。二人が流す汗が青白い月光にきらめき、溢れる涙を真珠のように輝かせていました。
獅子のたくましい背ややわらかく輝く髪を撫でながら、魚はこの上なく幸せでした。もう二度と心地よい水のなかを自由に泳ぐことはできず、白い肌の下はどんどんと焼きただれていきますが、それでも魚は幸せで、ただ幸せで、この世のすべてに感謝せんばかりの喜びに満たされていたのです。
身のうちから己を焼き尽くす灼熱に背をのけぞらせ、珠のような汗を振りまきながら、魚は、白くまるく輝く月を、ささやくようにまたたく星々を、揺れる瞳で見上げました。この夜が明けたら、終わる恋です。終わる命です。それでも、月も星々も、二人の恋の成就を祝福してくれているように見えました。
長い夜は狂熱をはらみながらもゆっくりと、静かに更けてゆきました。
どれだけ長く抱きあっていたでしょう。長く深い息を吐き、とろけるような笑みを浮かべて魚の髪をやさしくなでた獅子は、目を閉じると魚を抱きしめたまま眠ってしまったようでした。
甘い倦怠感と熱に痛む体をどうにか動かし、魚はそっと獅子の腕から抜け出すと、月明かりを弾いてきらめく獅子の髪に静かに口づけました。
獅子が眠ってくれてよかった。自分が死ぬところを見せずに済む。少しだけ安堵して、魚は這いずるようにして泉へと戻っていきました。岸辺で眠る獅子へとちらりと視線を投げ、魚は冷たい水に身を浸します。ゆっくりと視界がぼやけて、魚は終わりがきたことを知りました。
禁呪は一度きり。どれだけ祈ったところで、もう天は願いを叶えてはくれないでしょう。それでも薄れていく意識の底で、魚は願わずにはいられませんでした。
獅子が俺のことを忘れてくれますように、と。魚は、獅子が苦しみ続けるくらいなら、自分を忘れてほしいと願ってやまなかったのです。
獅子が魚のことを忘れても、魚はけっして獅子を忘れはしないでしょう。魂だけになっても、いつまでだって想い続けることでしょう。そうしていつか生まれ変わったのなら、またどこかで獅子に出逢えるといい。そのときには、今度こそ名前を聞けるだろうか。自分の名も、獅子に呼んでもらえたらうれしい。
姉や友にも出逢えたらいいけれど、多くを望んだところで一つも叶うことはないかもしれません。だってもう、禁呪は使い果たしたのですから。
それでも魚は薄れていく意識のなかで、いつかの未来を願いました。訪れることなどないかもしれない未来を、夢見るように思い浮かべ続けました。
獅子にまた好いてもらえるようにとは、願いませんでした。天が叶えてくれたとしても、獅子の心を操るような真似はしたくはなかったのです。
また出逢えたら、獅子に少しでも好きになってもらえるよう、今度はもっともっと頑張ろう。初めましてから、もう一度。今度は一夜で終わる奇跡ではなく、いつまでも獅子と一緒に笑って過ごせるように頑張るのだ。魚は命の日が燃え尽きるまで、ただそれだけを願い続けました。
自分を忘れた獅子ともう一度出逢えたら、好きになってもらえるよう頑張ろう。そうして今度はきっと、固く一つに想いを撚り合わせ、いついつまでもともに。
空が朝焼けに染まりゆくなかで、さよならと告げる声を持たぬまま、密やかにけれども強く願い、誓いながら、魚は静かに息を引き取りました。