◇ ◇ ◇ ◇ ◇
助手席から聞こえたもう何度目かの含み笑いに、義勇は、ほんのちょっぴり呆れ顔をして、視線だけで隣を見た。
杏寿郎は見るからに幸せそうに笑っている。会話が途切れるたびにこれだ。思い返しているのは猫耳か、それとも昨夜のあれらか、今朝のそれらか。いずれにしても、恥ずかしいからやめてほしい。運転中の若葉マークの気を散らさないでもらいたいものである。
「……むっつりすけべ」
「はっ? な、なんのことだ?」
面食らった顔で即座に反応した杏寿郎の視線が、頬に突き刺さる。悪口のつもりではないけれど、気恥ずかしさのせいで、ちょっとつっけんどんな声音だったのかもしれない。
「思い出し笑い」
「いやっ、違うぞ! 今のは思い出していたのではなく、まだ義勇と一緒にいられると思って、うれしくなっただけだ!」
あぁ、そっちか。昨夜からほんの十数分前にかけてのあれやこれやを、反芻しているのかと思いきや、もっと純粋な理由だった。
内心「やぶ蛇」と首をすくめつつ、義勇はまた、助手席の杏寿郎にちらりと視線を投げた。
横目で窺う杏寿郎の顔は、ほんのりと赤い。自分の頬は大丈夫だろうか。思いながら義勇は軽く肩をすくめてみせた。
「いつもと違って、明日の夜まで義勇といられるからなっ。これからまだ二十四時間以上も一緒だ!」
「……車を返しに行かなきゃいけないし、ずっと二人きりってわけじゃないぞ」
「おぉ、村田さんか! 俺もお礼を言いたいから、まったくかまわない! それに、義勇がこちらでともに過ごしている人たちとは、俺だって仲良くなりたいしな」
視界の端に映る杏寿郎の笑みが、天真爛漫な子供っぽさから一転、大人びた男のものへと変わる。みだりがましさなどまるでないのに、それはどこか夜に溶け込む甘い熱を思い起こさせて、むっつりすけべは俺のほうかもと、義勇は思わずもぞりと尻をうごめかせた。どうにも据わりが悪い。
「そんなに多くない。おまえとはもう知り合いって人ばかりだ」
「義勇は慎み深くて慎重だからな! 人を見る目が確かだから、俺も安心だ!」
朗らかに笑う杏寿郎の声に、揶揄のひびきはない。杏寿郎は義勇に対して本音ばかりを口にするから、買いかぶり過ぎに思えるこんな言葉もすべて本心なんだろう。ちょっぴりのいたたまれなさと気恥ずかしさに、また少し義勇は落ち着かなくなる。
コミュ障だとか根暗だとか、影で自分が言われていることぐらい、義勇だって自覚している。実際に耳にしてしまうことだってあった。悲しいと思いはすれど、事実だし、怒る筋合いなどない。
けれども杏寿郎の目には、自分でもときどきうんざりする義勇の気質が、負の要素として映ることなどまるでないのだ。
義勇自身やほかの者から見ればやっかいな人見知りだの口下手だのも、杏寿郎からすると好ましい要素に変わってしまうのだから、恋は盲目とはよく言ったものだ。
杏寿郎の言葉を素直に享受できない理由は、呆ればかりではないけれど。
幼いころのトラウマが、義勇の心の核に刻んだ傷はそれなりに深い。今もときおり、ジクリと痛む。
その傷の在処を義勇が打ち明けた人は、たった一人きり。杏寿郎では、ない。
「……帰る前に、昼飯食ってくか?」
思い浮かんだ顔に、忘れかけていた不安がよみがえり、義勇は何気なさを装いたずねた。家にいる時間はできるだけ短いほうがいい。今のところ隠し通しているけれども、杏寿郎は、こと義勇に関しては異様なほどに敏いのだ。高感度冨岡センサーはたまにポンコツになるとはいえ、侮れない鋭さを見せるから、油断はできない。
「それもいいが、コンビニの弁当でもいいんじゃないか? まだ少しつらいだろう? 部屋でのんびりしよう」
気遣いの言葉は事実でもあるから、義勇も反論はしにくい。すっかり腕の上がったマッサージのおかげで、腰の痛みはだいぶ良くなってはいるが、体調的には今日一日ゴロゴロとしていたいのが本音だ。
部屋を出たり入ったりしないほうが、むしろバレにくいか?
意固地に大丈夫だと言い張れば、かえって杏寿郎は怪しむ可能性がある。帰宅時に靴を下駄箱にしまうよう躾けられてもいるから、習慣でうっかり下駄箱を開けられたら困るのは義勇だ。
アレを送りつけられるようになって以降の数回の訪問で、長靴で埋まってスペースがないという言い訳を杏寿郎が疑う気配はなかったけれども、今日も大丈夫という確証はない。なにしろ、瑠火の薫陶は、まさしく骨身にしみこんでいるのだ。煉獄家の広い玄関でさえ、都度きちんと靴をしまう杏寿郎が、アパートの狭苦しい玄関に靴を置きっぱなしにするのは、気がとがめることだろう。
義勇だってあんなものがなければ、脱いだ靴を放置していることに、なんだかソワソワとしてくるのだ。瑠火の躾けの賜である。玄関を出入りする回数は、できるかぎり少ないほうがいい。
決断すると、義勇は前を向いたままコクンとうなずいた。
「行くならコンビニじゃなくスーパー。荷物持ちがいるうちに買い物しとく」
一泊ではない今回は、買い物に行くのも義勇にしてみれば予定内だ。義勇の背丈よりはるかに小さい冷蔵庫には、昨日までに作り置いた惣菜を詰めておいたが、杏寿郎の食欲にはきっと追いつかない。
それに、昨日だけでもかなり散財している。外食時に食事量が違うときには、それぞれ食べたぶんを支払うルールになっているから、杏寿郎の財布から消える紙幣はかなりの金額になるだろう。昨夜のクリスマスディナーから今朝のパンまでの食事では、いつもの杏寿郎の健啖っぷりからすると、とうてい足りていないはずだ。外食なんてしたら、絶対に五千円ぐらいは杏寿郎の腹に消えるに違いない。それは避けたいと、義勇の眉間に小さくシワが寄る。
だいたい今日だってすでに、押し切られてホテル代は杏寿郎持ちだったのだ。ああいうホテルも同じなのか義勇は知らないが、クリスマスなら通常より割増なんじゃなかろうか。新幹線代だってかかるのだ。まだ高校生の杏寿郎に、これ以上金を使わせたくない。
彼氏としてと言うなら義勇だって立場は同じだというのに、なんであそこまで必死にホテル代だけは俺が出すと杏寿郎が言い張ったのか、正直謎だ。
だがまぁ、身体的な負担はどうしたって義勇のほうが勝るのだから、杏寿郎の言い分もわからないでもない。甘い余韻を、金銭のことで言いあって壊すのは、義勇だって嫌だったのだし、そこはもう素直にありがとうで済ませて正解だろう。
「うむ! 米でも洗剤でもいくらでも持つぞ! あ、正月はうちに泊まってくれるんだろう? 今年も二日からか?」
うれしげに胸を張った杏寿郎が聞いてくるのに、世知辛い思考から覚めた義勇の顔にも、ほのかな笑みがのぼる。けれどもそれも、すぐにささやかな罪悪感に苦笑へと変わった。
「そうだな。……なぁ、二年参り行っていいんだぞ。俺に遠慮しないでいい」
蔦子が結婚し義勇が引っ越す前までは、二人して煉獄家と一緒に大晦日の夜から二年参りに行くのが、常だった。長く続いた習慣は、昨年の大晦日で途切れている。
煉獄家の二年参りに、蔦子と義勇、そして杏寿郎は参加していない。今年もたぶん、杏寿郎はそのつもりでいるだろう。
「遠慮じゃないぞ。初詣は義勇と一緒がいいと、俺がわがままを言ってるだけだ。父上たちもまったく気にしていないしな! 義勇こそ、俺に遠慮せず、蔦子姉さんたちと初詣に行ってかまわないんだぞ?」
本音を口にしない場合もあったな。思って、義勇の苦笑が面映ゆさをたたえて深まった。
杏寿郎が本音以外を――嘘を、つくとき。それはいつでも、誰かのためだ。嘘も方便。誰かの心を軽くする嘘を口にするなら、杏寿郎はためらわない。バレバレだとわかる嘘をつく機会は、義勇に対してが断然多かった。
本当は、たとえ蔦子であってもほかの誰かを優先されるのは寂しいと、子供のように駄々をこねたいだろうに、杏寿郎は義勇に罪悪感を抱かせないよう嘘をつく。義勇と一緒がいいとの本音を口にしながらも、その口ですぐに、義勇は違っていてもかまわないと笑うのだ。
義勇に対する杏寿郎の独占欲と執着心は、誰の目にもあきらかなのに、それでも杏寿郎は義勇を束縛しようとはしない。義勇は義勇らしくあるがまま、心が望むとおりに過ごしてくれと、杏寿郎は笑う。
ちょっとのヤキモチはうれしいぐらいだけれども、旺盛な嫉妬心でがんじがらめにされるのは義勇だって御免こうむるし、杏寿郎のことだって縛りつけたくなんてない。杏寿郎は杏寿郎らしく、自由にどこへだって走り回ればいいと、義勇は本心から思っている。物理的な意味でも比喩的な意味合いでも。杏寿郎の世界が、広く、広く、どこまでだって広がっていけばいいと、祈るように願ってもいた。
だけれども杏寿郎は、義勇と一緒がいいと寄り添い離れず、そのくせ俺のことは気にしないでと笑うから、なんだか泣きたくさえなってくる。
そんなの駄目だよと諭してやるのは、年上の義勇の役目だろうに、うれしくって幸せで、ずっと一緒にいてと自分こそが杏寿郎を縛りつけている気がして。
わがままなのは、俺だ。
苦い想いは顔には出さない。杏寿郎をより縛りつけてしまうだけだ。
だから義勇は胸のうちだけで、決意をより強く固く噛みしめる。杏寿郎と一緒にいたいのなら、番の役目を果たし通すのだ。そう。それこそ人生の終わりまで。繋いだリードをけっして手放してなるものかと。
フゥッともらしたため息が、呆れや諦めに聞こえればいいと願いながら、義勇は意識を切り替えた。鬱々と悩めば杏寿郎に悟られる。
「俺も初詣は杏寿郎と一緒がいい。姉さんもそれでいいと言ってる」
「そ、そうか! なら来年も一緒だな!」
杏寿郎がパッと顔を輝かせ、子供みたいに笑うなら。いつまでも、初めて逢ったあの日のように笑いかけてくれるなら。嘘が苦手な義勇だって、嘘もつけるし知られたくない秘密も隠し通せる。隠し通してみせるとハンドルを握る手に力を込め、義勇はもう前だけ見据えて車を走らせた。
日常の続きに戻りつつある車中は、まだほんのりと空気が甘い。帰り着くまでは、まだクリスマスデートの最中だ。幸せなことだけ考えよう。杏寿郎が笑っていてくれるように。
義勇の唇に浮かんだ笑みも、幸せな弧を描いていた。
杏寿郎の張り切りっぷりに任せて買い込んだ食材が、後部座席を占めている。それでも明日の夕飯まで外食をつづけるよりは、はるかに安上がりなはずだ。
土産やお互いのプレゼントもあるから、かなりの大荷物になっている。部屋に運び入れるにも一回では終わらないかもと思いながら帰り着いたアパートの狭い駐車場は、めずらしいことに埋まっていた。
「ここが満車状態になっているのを初めて見たな。とめる場所がないとは」
「うん。いつもは空いてるのに」
一応、駐車場を使用できるのは月額を支払う契約をした住人だけだが、短時間ならば空いたスペースを客用に使用してもいいことになっている。三台分しかない狭い駐車場だが、アパートの住人に車を所有している者は二人きりらしい。休日だろうと一台分は空いているのが常だ。車を返しに行くまではそこにとめておけばいいと思っていたのに、予定が崩れた。
「裏の空き地にとめるしかないか」
「とりあえず荷物だけ階段脇におろそう。俺が運ぶから、義勇は車を置いてきてくれ」
狭い道に路上駐車したままというわけにもいかない。すぐ裏手とはいえ、荷物を持ってだとそこそこ歩くことになる。重いものは杏寿郎が絶対に持つのはわかりきっているが、それでもまだいくぶん重さの残る腰では歩くだけでも億劫だ。
義勇は、しょうがないかとうなずいた。杏寿郎が、義勇はそのままでと言うのに甘え、荷物をおろし終えるのを待つ。
ドアを閉める寸前にポンッと投げた鍵を、慌てるでもなく軽々と受け止めた杏寿郎に、ナイスキャッチと笑えば、杏寿郎も少し自慢げに笑い返してくる。褒められてブンブン振られるしっぽが見えるようだ。
「肉とかは冷蔵庫に」
「入れなくていい。いや、入れるな。すぐ戻るから」
もっと褒めてほしいと思っての発言をさえぎられ、杏寿郎の眉がへにょっと下がるが、義勇は心を鬼にしてじっと見据える目に力を込めた。
「杏寿郎、返事は?」
「……はい」
しょんぼりされようと、これは譲れない。冬場とはいえ、冷蔵庫を壊されるのは困る。杏寿郎が触っても比較的壊れにくい白物家電ではあるが、煉獄家の冷蔵庫が買い換えられていないわけではないのだ。そして、壊れるのは必ず、杏寿郎が開閉したときだけだ。
一度で壊れることがないだけに、杏寿郎が開け閉めするのを目にするたび、まるでロシアンルーレットを見守る気分にさせられる。かわいそうだが、こればかりはおねだりの目に負けるわけにはいかない。
両手に荷物を下げ肩を落としつつ階段を上っていく杏寿郎に、呆れと微笑ましさがまじった苦笑を浮かべ、義勇はアパートの裏手へと向かった。
猫の額ほどの空き地は、位置的にはアパートの生け垣を挟んだすぐ裏なのに、道を一本通り抜けなければ車では入れないのが、ちょっと厄介だ。勝手に使用させてもらうのだから、文句をつけては罰があたるが。それに、荷物を下げてでは狭くて厳しいが、手ぶらなら生け垣の脇から出入りできるのだし、戻るぶんにはすぐだ。
とめた車から降り、無意識に見上げたアパートの自室は、まだカーテンが閉まっている。杏寿郎は荷物を運んでいる最中なんだろう。
「あれ? 冨岡さん」
急いで戻らないととドアを閉めた義勇が、呼びかけに振り返ると、生け垣の脇から顔をのぞかせた管理人が近づいてくる。
「こんにちは。どこかにお出かけだったんですか。車でなんてめずらしいですね」
すぐに義勇の目の前に立った管理人は、にこやかに話しかけてくる。義勇は知らず緊張を覚えつつ、内心の狼狽を押し殺した。
もともと人見知りなタチだし、友人たちとでもなければ世間話すら苦手なほうだ。めったに顔を合わせることもない管理人には、知人と呼べるほどの親しさもわかない。それに。
「はい、ちょっと……友人が遊びにきてるので。すみません、待たせているので失礼します」
とくに不審な様子もないのに警戒するのは申しわけないが、なんとなく、この人は苦手だ。
言葉を濁して立ち去ろうとした義勇の手を、男は突然、掴み止めてきた。
「朝帰りどころか、もう昼だよ? 悪い子だなぁ、クリスマスだっていうのに、俺を置いてあんなガキとなにしてたの?」
「は……? なにを」
言っている、と、続くはずの言葉は、義勇の口から出ることはなかった。唐突に顔に押しつけられた布地から、アルコールに似た刺激臭が鼻を刺してくる。
駄目だ。頭のなかで警戒の声が怒鳴る。けれども息苦しさにはかなわず、無意識に呼吸は大きくなった。
くらりと目眩に視界がぶれて、義勇の意識は、言葉にならない「杏寿郎!」という叫びを残して、急速に遠ざかっていった。
続けたかった言葉は、助けてなのか、それとも、くるなだったのか。自分でもわからないまま。