にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 5の3

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「義勇っ、こっち向いて」
 弾んだ声に義勇は、ベッドにうつ伏せて頬杖をついた姿勢のまま、嬉々としてスマホをかまえる杏寿郎を視線だけで見た。
 顔を向けたわけでもないのに、たちまちシャッター音が連続して聞こえて、うんざり、なんて言葉が脳裏に浮かぶ。義勇はとうとう、ポスンと顔を枕にうずめた。途端にまたもや聞こえるマシンガンめいた連写音。おい、顔見えなくても撮るのか。うんざり、また思い、枕に小さな唸り声が吸い込まれていく。

 ご希望どおりに着てやった猫耳付きの着る毛布は、たしかにたいへん肌触りもよく暖かい。ちょこんとパーカーの頭で揺れる三角の耳や、首元の真っ赤なリボンもまぁ、かわいいと言って差し支えはなかろう。着ているのがひと月ちょっとで成人する男であっても。
 だがしかし、毛布は毛布だ。スケスケでもなければ、際どい着丈なわけでもない。デザインはともかく、暖かさ重視。だというのに杏寿郎ときたら、義勇がそれを着た途端にブルブル震えたと思ったら「やっぱりいい! よくぞこれを選んだ、俺!」とガッツポーズで雄叫びを上げたのだから、まったくもって意味がわからない。
 だって重ねて言うが、毛布だ。猫耳や長い尻尾がついていようが、リボンがついていようが、色気など皆無な着る毛布。なのになぜそこまで興奮できるのか。そんなに好きか、猫耳。回復呪文は『義勇に猫耳』ちょっと笑えない。もはや笑うしかないだろとも思うけれども。

 風呂で煽ったのは自分だし、昨夜のあれこれも完全に同意のもとだから、腰の重さや疲労感については、杏寿郎を責めるいわれはない。着たところを見せると約束したのも義勇だ。写真撮ってもいいかと、期待いっぱいのキラキラした目で言われ、おねだりに負けたのも義勇自身。だから責めたら駄目だろう。
 けれどもまさか、こんなにも杏寿郎が浮かれまくるとは、思いもしなかった。
 自業自得を含んだ苛立ちに、枕に顔をうずめたままバタバタと足を揺らせば、またもや連写音がひびいた。いったい何枚撮るつもりだ、コラ。

「……杏寿郎」
「なんだ?」

 くぐもる呼びかけに返された声は、いかにも上機嫌で元気いっぱいだ。おまえのその元気はどこからきてるんだ。義勇は小さくうなる。
 昨夜は、お互いもう指一本動かすのさえつらいってぐらい、まさしく精根尽き果てるまで愛しあって。なんならほんの三十分ほど前にも、甘く熱い息を弾ませあいお互いに絶頂を極めたというのに。
 なのに、なんなのだ。杏寿郎のこのタフさ加減は。復活が早すぎるだろう。
 いや、知ってたけれども。ゴールデンウィークにも、自分の体で思い知らされているけれどもだ。
 挿入を伴わない疑似セックスだろうと、射精の快感に変わりはなく、疲労感だって同じことだ。むしろ、風呂でいたしてしまったぶん、軽いのぼせも相まって、義勇の脱力感は深い。だというのに、杏寿郎はケロリとしているのだから、まったくもって納得いかない。
 杏寿郎だって最後に吐き出したものは、いつもと違ってサラサラと水っぽかったくせに。それでも義勇より量が多かったのは、まぁ、ともかくとして。
 やりすぎと宇髄にすら苦笑されそうな密度と回数の果てでさえ、この元気ハツラツさである。義勇を抱えて階段を上がる足取りは、なんならスキップでもしそうだった。本当に、どうなってるんだか。
 若さ、だけじゃないよなと唸りながら、義勇は、枕に伏せた顔をそろりと杏寿郎に向けた。じとっと見据えた杏寿郎の顔は、顔中にご機嫌と書いてあるような満面の笑みだ。
 そういう顔をすると、若いというよりまだ幼いといった風情であるのに、下半身はしっかり大人……というか、かわいくない。ちっちゃいころはアッチもちっちゃくて、つるんと白いミルクキャンディーみたいでかわいかったはずなのに。今やこれだ。ご立派なうえに絶倫。笑えない。

 いや、初めてのときも大きさとかは今と同じだったけれど、それでもかわいく見えたか。
 なんとなし思って、義勇は知らずゆるみかけた頬を引き締めた。

 初めての夜は、去年の七月。七夕飾りが街から消えたころ。
 恋人になっても杏寿郎がキスしかしない理由なんて、嫌になるほどわかるから、自分から誘いのメッセージを送った。

『次の土曜日は、ちゃんと布団で寝ろ』

 あからさまな言葉では伝えられずに、スマホに打ち込んだのはそんな文言。それでも杏寿郎はちゃんと汲み取って、すぐに電話がかかってきた。
「こ、ここ、これ! 義勇! これっ!」
「週末以外は電話禁止」
 応答をタップした途端に、もしもしでもなく聞こえてきた声は上ずりきって、ニワトリかってぐらいにめったになくどもってた。

『いいのか?』『無理してないか?』『うれしい』『好きだ』『無理しないで』『本当に?』『好きだ』『義勇、誰よりも好きだ』『ごめん』『ありがとう』『優しくする』『早く逢いたい』

 うるさいぐらいに鳴りひびいた通知音。そのたび現れるメッセージに、義勇が布団をかぶってダンゴムシみたいに丸まったのは、誰も見てなくたって恥ずかしくて死にそうだったから。
 そのくせスマホは手放せずに、暗い布団のなかで光るスマホを見つめる瞳に、涙が浮かんだ。
「……ごめんだけ、よけいだ」
 つぶやく声がかすれたのを覚えている。
 謝らなくちゃいけないのは俺のほうだろうと、胸が苦しくて、でもどうしようもなく幸せで。遅いなんてどの口が言える、身勝手だと悔しくなりながらも、涙がとまらなくなるほど幸せでたまらなくて。
 以前に宇髄から教えてもらったとおりに準備するあいだだって、緊張と恥ずかしさで泣きたくなりながらも、幸福感のほうが深かった。いつもは駅で待つけれど、その日はアパートでソワソワと杏寿郎を待った。カンカンと階段を上がる足音が聞こえるたび、ピョンと飛び上がって玄関を注視した自分の姿は、はた目から見たらさぞや滑稽だったことだろう。
 何度かの肩透かしのあと、いよいよ玄関の前で止まった足音。控えめなノックの音はいつもの杏寿郎らしくない。一ヶ月ぶりと笑った杏寿郎の顔は真っ赤で、頬がちょっと引きつってた。
 それから夜までの上滑りな会話は、よく覚えていない。もういっそ今すぐにと思うたび、表から聞こえてくる子供の笑い声や、隣の部屋から聞こえる水音に、ビクンとお互い肩を揺らせたことばかりを、なぜだか鮮明に覚えている。

 もう、寝ようか。夜になって、そう切り出したのは杏寿郎からだった。今でもそれが二人の合図になっている。
 ローテーブルを畳んで布団を敷いたら、緊張はマックスで、自然に二人して布団に正座したのも、今となってはちょっとおかしい。
 伸ばされた杏寿郎の手は、かわいそうになるほど、震えていた。キスは初めてじゃなかったのに、近づいてくる顔はやっぱり緊張があらわで、いっそ「なにか怒ってる?」なんて聞きたくなる真剣さ。義勇だってたぶん、怨敵を迎え撃つかのような顔をしていたに違いない。
 ぎこちない子供みたいなキスは、それでもやがて深まって、もたつきながらも二人とも服を脱ぎ捨てたら、ようやく布団に転がりあった。
 触れてくる手も唇も、愛撫というにはおっかなびっくりすぎて、今だったら焦らされてると思うかもしれない。
 おぼつかぬ手つきでの愛撫と緊張で固くなった体では、うまく快感を拾えもしなかったくせに、慣らす指をようやく抜き去られたときには、もうお互いこれ以上は我慢できないほどに張り詰めていた。
 どこに触れるにもそろりとしていたくせ、杏寿郎は、避妊具をかぶせる手つきだけは早かった。たぶん、杏寿郎のことだからこっそり練習したんだろうなと、思い出すたび義勇は笑いたくなる。
 ずぶりと自分の肚に入り込んでいく熱がもたらす圧迫感。義勇が息を詰めるたび、ビクリと杏寿郎が腰を引きかけるほうが、ちょっと怖かった。まるで体のなかから腸を引きずり出されそうな感覚がして、本能的な恐怖に身がすくんだ。
 いいから止めずに全部挿れろと命じた声に滲んだ怯えを、杏寿郎が誤解しないでくれて幸いだ。無理してる、やっぱりやめようなんて言われたら、義勇はその場で舌を噛み切りたくなったかもしれない。
 ようやく繋がりあって、義勇の胸をまず占めたのは、とにかく安堵だ。やっと入ったと、脱力して目を閉じ、長い吐息をこぼしたら、頬になにかが落ちてきた。
 濡れる感触、温かいなにか。なんなのかなんて考えずもわかって、あわてて目を開けば、大きな目からぽろぽろと涙を落とす杏寿郎の、どこか幼い顔が見下ろしていた。
 オレンジ色の豆電球の光を背に、義勇を見下ろす杏寿郎の顔は影になり、涙をこぼす目だけがやけに輝いて見えた。
 かすれた声で義勇と名を呼ぶ声も、幼くて。愛おしさに胸が詰まった。
 肚のなかを圧迫する体積に感じるのは、快感よりも違和感だったけれど、幸せと愛しさばかりがふくらんで、そっと撫でた杏寿郎の髪が指をすり抜ける感触も、鮮明に覚えている。とたんにクシャリと杏寿郎の顔が歪んで、いよいよ泣きじゃくるから、義勇の目にも陶酔の涙が滲んで、幸福の笑みにたわんだ。

 好き。うれしい。義勇とつながってる。気持ちいい。好き。好きだ。やっと一つになれた。義勇も気持ちいい? うれしい。好き。義勇。義勇。義勇。

 しゃくり上げながら何度も何度も、子供みたいに杏寿郎は繰り返す。ぽろぽろ溢れるきれいな温かい涙が、頬や胸に落ちて散るたびに、義勇の胸にも愛しさが積もって、抱きしめる腕は慈しみが深くなる。杏寿郎の声に応えた自分の声は、思い返せば我ながら恥ずかしくなるほど甘かった。

 好きだ。俺もうれしい。幸せだ。うん、気持ちいいな。いい子。かわいい、杏寿郎。かわいい。好き。いいよ。もっとおいで。杏寿郎。杏寿郎。杏寿郎。……ずっと、待ってた。

 泣きながら腰を振るセックス。もしかしたら普通じゃないのかも。だけどそれがどうした。みっともなかろうと、自然な行為じゃなかろうと、世界中でただ一人の番と交わす愛だ。
 幸せで、かわいくてたまらなかった、初めてのセックス。あの日の杏寿郎の涙は、今も義勇の宝物だ。

 うん。かわいかった。ギンギンになってても、あの日の杏寿郎の杏寿郎くんは、やけにかわいく見えたものだ。義勇は遠い目をして記憶のなかの宝物を思い浮かべた。
 かわいげのないソレのサイズやら硬度や形、なんなら味まで知っているぐらいだけれども、義勇としては限界数だけは知らずにいたいところである。杏寿郎が本気で無理って音を上げるところまでつきあったら、たぶん死ぬ。

 その場合も腹上死って言うんだろうか。むしろ腹の下にいるんだが。

 現実逃避した義勇の目は、死んだ魚より死んでいる。大興奮しつつもしっかりと、杏寿郎が念入りにマッサージしてくれたおかげで、腰のだるさはかなりマシにはなっているけれど。

「義勇? まだ腰が痛いのか? もう少しマッサージしようか」

 そうじゃなくて。
 キョトンとした顔を一転、心配げに曇らせ、ようやくスマホをベッドヘッドに置いた杏寿郎に、義勇は疲労の色濃いため息をついた。
 少しあわてた様子でベッドに膝を乗り上げようとした杏寿郎を目線で制して、義勇はだるい腕を持ち上げて、ローテーブルに置かれたままの箱を指差した。
 言葉で命じなくとも杏寿郎は過たず意図を察して、即座に義勇が昨夜プレゼントした電気カイロを持ってくる。投げたボールを一目散に追って、しっぽをブンブン振って戻る利口な犬みたいに。
「寒いか? まだ充電してないからあったかくないぞ」
 手渡されたそれは、猫の足を模してころりと愛らしい。まさかこんなにも皮肉なアイテムになろうとは、選んだときには思いもしなかった。ハァッとまたため息をついて、義勇はもぞりと起き上がった。
 猫足カイロを頬まで持ち上げて、じっと杏寿郎を見上げる。

「腹減ったにゃー」

 腹立ちが声に出ないよう、せいぜいかわい子ぶって言ってやれば、杏寿郎の時間が止まった。
 微動だにせず義勇を凝視する様は、まさにそうとしか言いようがない。強すぎる視線だけが、彫像ではありませんと告げてる。
 ダビデ像よりよっぽどいい体をしてるとは思うけれども、ホテルのバスローブ姿では様にはならないなと、なんだか的はずれな笑みがこぼれかけた。と、ブルブルと震えだした杏寿郎に、おや? と義勇は小首をかしげた。
 突然時間が戻った杏寿郎が、電光石火の素早さでスマホを掴みかまえたと同時に叫んだのは。

「義勇、録画するからもう一回!」

 おい、待て。動画も撮る気か。正気か、こいつ。
 長いつきあいだ。趣味も好みも承知していると思っていたけれども、まさかこんなにも猫好きだなんて知らなかった。いっそ呆れを通り越して、一緒に暮らせるようになったら猫を飼うべきか、悩み始めてしまうところであるけれど。
 とりあえず、今はそれよりも優先すべき問題がある。

「腹減ったって言ってるにゃん。とっとと連れてけにゃー」

 ドスの利いた声で言った義勇に、また杏寿郎の時間が静止した。
 今度の硬直は短く、にらみつける義勇にあわてて杏寿郎がスマホを置く。かわいげなど皆無だろうと、しっかり録画しただろうけれども、まぁいい。恥さらしだがどうせ杏寿郎しか見ない。
 小さなため息を飲み込んで、義勇もカイロをポンッとベッドに投げた。
 無言で腕を伸ばせば、すぐに体が抱えあげられる。まったくもって元気なことだ。
 フフッと小さな笑みをこぼし、チュッと鼻先にキスしてくる杏寿郎は、いかにもご満悦である。だからこれぐらいは、べつにいいのだ。杏寿郎がうれしいなら、これぐらいの恥はかき捨てよう。
「義勇、ありがとう」
「……どういたしまして」
「あ、猫語はもう終わりか」
「残念そうな顔をするな、駄犬」
 叱る声音は我知らずぶっきらぼうになった。着る毛布とはいえ、もう肌に理性はまとっているけれども、まだクリスマスは続いている。浮かれてたって罪はない、はずだ。

「ハイヨー、シルバー」
「今度は馬か。犬になったり馬になったり忙しいな」
「いいからとっとと行け。落とすなよ」
「太陽が西から昇ろうとありえんな!」

 だからこんなやり取りさえもが、やけに甘くひびきあったって、しょうがないのだ。だって二人は恋人で、今日はクリスマスなのだから。お家に帰るまでが遠足ですと、小さいころにも先生に言われたではないか。お家に帰るまでが恋人たちのクリスマスです。そういうことにしておこう。