にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 5の3

 昨夜、意識が途切れる前に義勇が見つめ返した杏寿郎の瞳は、恍惚に蕩けてしたたり落ちてきそうだった。はちみつとラズベリーの色をした杏寿郎の瞳が、とろりと潤む様はやけに甘そうで、舐めたいと思ったのを覚えてる。
 姉さんが作るラズベリーのはちみつ漬けより、甘そう。それが、義勇が気を失うように眠りに落ちる前の、最後の記憶。

 さて、朝になってみれば、疲労は全身にわだかまって、とくに腰が重くてたまらない。いったい昨夜は何度達したのやら。射精を伴わぬ絶頂を入れれば、両手の指ほども極致感を味わわされて、正直、階下に降りるだけでも億劫でしかたがない。だから移動するのに杏寿郎に抱っこされるのは、言うなれば義勇にとって当然の権利だ。
 とはいえ、義勇ほどではないにしろ、杏寿郎の疲労もいつも以上だったとみえて、寝落ち加減は大差がなかったらしい。電気はつけっぱなしだし、めずらしいことに、義勇の体を拭き清める余裕もなく眠ってしまったようだ。
 すまんと朝っぱらから泡を食ってベッドから飛び出そうとするのには、ちょっぴり義勇もあわてたし、少々むくれもしたけれども、空気は甘いままだから結果オーライだ。あんなにも濃密な夜の後朝きぬぎぬが、喜劇のようなドタバタ騒ぎでは、せっかくの非日常感も台無しである。

 浮かれた空気を醸し出しつつも、杏寿郎は義勇を抱きかかえて、慎重に階段を降りていく。間近に見える男らしく尖った喉仏に、悪戯心をくすぐられるけれども、階段で仕掛けるのは危なすぎる。噛みついてみるのは、風呂場まで我慢。思いながら、義勇はなんとなくブラブラと足を揺らせた。
「義勇、あんまりブラブラさせると壁にぶつけるぞ」
 心配げな声に少し笑いたくなる。状況的には普通なら、真っ先に思い浮かぶのは落としそうだからやめろとかだろうに。ところが杏寿郎は、義勇が足をぶつける心配しかない。義勇を落とすなど、杏寿郎的には天地がひっくり返ろうともありえぬ事態だからだろう。
 義勇だって、杏寿郎はなにがあっても絶対に落としたりしないと知っているから、心配なんてちっともしてやしない。だから、不安定な場所と体勢だろうと、呑気に足を揺らしもする。
「そんなにデカくない」
「ん? ……義勇、そっちじゃない。足」
 一気に脱力した声で言いながらも、杏寿郎の視線は、今はおとなしく足の間におさまっている部位に吸い寄せられたように向けられてるし、目尻もちょっと赤く染まっている。察しがよくてなによりだ。小さく喉仏が上下するのを見てしまえば、義勇もすまし顔を保つのはむずかしい。
 クツクツと忍び笑った腹の上には、猫耳付きの着る毛布。そういうことを主目的としたモーテルで、お互い素っ裸でのいわゆる姫抱っこ。真面目にしているほうがTPOから外れるってなものだろう。

 ありていに言えば、義勇だってまだ浮かれているのだ。

 恥ずかしいから見ないで。なんて。はにかんだ顔でつぶやいてみせたら、杏寿郎はたぶん喜ぶんだろう。思うけれども、今さら馬鹿馬鹿しくて、そんな文言は出てきやしない。
 たぶん、こんな姿を錆兎が見たら「おまえ、恥じらいをどこに忘れてきたんだ?」と、真剣な顔で聞いてくるに違いない。真菰にいたっては、きっとコロコロと楽しげに笑って、ラブラブだねぇだのなんのとからかってくるだけじゃないだろうか。いや、見せないけれど。それはさすがに恥ずかしいけれども。不死川と伊黒が錆兎に、宇髄が真菰に変わっただけと思えなくもない反応は、たぶん予想から外れることはないだろう。
 不死川たちにバグっていると言われがちな杏寿郎との距離感は、義勇もなんとなくは自覚している。けれどもこんなのは、杏寿郎に対してだけなのだ。杏寿郎にしか見せないし、ほかの誰にも見られたくない。多少は破廉恥な気もするが、杏寿郎ならば、かまわないはずだ。今さら裸を恥じるような仲じゃない。だからまぁ、周りの人々のほうに諦めてもらうよりないのだ。
 なにしろ、お互いに毛の生え始めた時期まで知っている。それどころか、幼いころに座薬を入れられる様まで見られているし、見てもいるのだ。この期に及んで真っ裸を恥ずかしがるほうが空々しい。
 かと思えば、鎖骨に落ちる陰影一つにドキドキしたりするんだから、恋心というのは我ながら解せない。自分でも基準がよくわからんと、義勇は胸中だけでちょっと首をひねった。

 もちろん、性的な意味合いでの恥じらいならば、義勇だってそれなりに覚えもする。最中にやたらときれいだのかわいいだのと言われまくれば、恥ずかしいからやめろと、思わず杏寿郎の腰に踵落としをおみまいしてしまうこともある。
 自分が言うのはかまわないのかと杏寿郎にすねられても、それはそれ、これはこれだ。だってしょうがないだろう。実際、必死に求めてくる杏寿郎が、義勇にはかわいくてしかたないんだから。
 杏寿郎はどんなに獰猛な牙を見せたってかわいいワンコなんだよと、言い聞かせているふしは、あるけれども。杏寿郎はきっと気づいちゃいないだろうし、気づかれたいとも思ってないから、それでいい。

「シャワーだけにしとくか? それともお湯溜めたほうがいいか?」
 ゆるぎない腕に抱えられたまま、階下まで。ひとまずはと、ダイニングテーブルセットの椅子におろされながら聞かれ、んー、と義勇が考えたのは五秒ほど。時間はまだまだあるのだから、答えはやっぱり。
「風呂、入りたい」
「わかった」
 義勇を残して杏寿郎が風呂場に消えてすぐに、水音が聞こえてきた。
 エアコンは効いているが、素っ裸のままではちょっと寒い。けれども汚れたままの体で、プレゼントに袖を通すのもちょっとためらわれる。杏寿郎のことだから、お湯を張る前にザッと浴槽を洗うのは想像に難くない。
 戻ってくるまで五分ってとこかな。思いながら義勇は、テーブルに置かれたままだったパンの紙袋を、手持ち無沙汰に覗き込んだ。
 かなり大量に買い込んだが、大食いファイターもかくやたる杏寿郎の食欲からすると、二人でわけてどうにか足りるかどうかという数だ。セールしてくれていてよかった。
 いつか二人で暮らすようになったら食費が大変だな、なんてちょっとだけ考えて、義勇は思わず空咳なんかしてみる。誰が見ているわけでもないけれども、なんとはなし面映ゆくて据わりが悪い。
 室内はそれなりに暖かいとはいえ、冬の朝だ。いつもは炊きたてご飯の和食派な杏寿郎には、せめて温かいほうがいいだろう。それに、惣菜系のいくつかは、きっと温めたほうがよりおいしい。
 さて、となると風呂から出るまでに、レンジやポットを使えるまでには回復せねばなるまい。杏寿郎に触れさせて、万が一にも壊されては一大事だ。パンを温めて紅茶を淹れる。ただそれだけのことでさえ、杏寿郎の前にそびえるハードルはスカイツリークラスの高さなのだから。義勇は知らず遠い目を虚空に向ける。

 あれは、本当に謎だ。

 家事ができないぐらいは気にもならないが、家電を壊されるのは困る。洗濯機や冷蔵庫をポンポンと買い換えるようなお大尽な暮らしは、さすがに無理だ。アナログでエコな暮らし路線も悪くはないだろうが、専業主婦と化す気などさらさらない以上、共働きになるのは確定なのだ。レンジや洗濯機、炊飯器すら使えない生活は勘弁してほしい。
 錆兎たちに杏寿郎の白物家電クラッシャーっぷりを話したら、話を盛りすぎだろうと笑われたが、冗談ごとではない。至極真面目に首を振る義勇を見つめ「え、本当の話?」と、あの真菰ですら無表情になる逸話の数々は、本気でなにかしらの怪電磁波でも出ているんじゃないかと疑うレベルである。普通なら、触っただけで故障の可能性があるなど考えられないだろうが、杏寿郎ならば充分ありえるのだ。

 まぁ、立てなかったとしても、杏寿郎に抱きかかえさせて移動すれば、どうにかなるか。先々については……そのときまでにどうにかさせよう。どうにかなるものかはわからないけど。

 小さくため息をついたところで、風呂場から顔を出した杏寿郎が戻ってきた。
「義勇、お湯を溜めてるあいだに体洗おう」
 言いながら、確認するでもなく身をかがめ、杏寿郎は義勇を抱き上げるから、義勇も素直に杏寿郎の首へと腕を回す。
「出たら一度上に戻らないか?」
「なんで?」
 お伺いの理由がわからずに、キョトンと見上げれば、杏寿郎の頬がほんのりと赤らんだ。
「腰、つらいだろう? 体が温まってるうちにマッサージしたほうがいいかな、と」
 あぁ、なるほど。納得した瞬間に、自分の顔も赤くなったのがわかった。既視感のあるセリフだ。うろたえっぷりは段違いだけれども。
「……じゃあ、頼む」
「うむ! 任せてくれ!」
 パッと破顔する杏寿郎は、たぶん、思い出してはいない。初めての翌朝も、同じようなこと言ってたぞ、なんて。言わないでおいてやるのは武士の情けだ。忘れなくていいと杏寿郎は言うけれども、それでも思い出せば恥ずかしさに身悶えそうになるだろうから。

 義勇だって、忘れたくない。忘れられるはずもない。杏寿郎が流した涙も、しゃくり上げながら紡がれつづけた好きという言葉も。翌朝の、腰は大丈夫か? マッサージするか? そうだ、その前に風呂! と、義勇があっけにとられるほどオロオロと落ち着きなく、腰を気遣いまくられた恥ずかしさも含めて。なにもかも全部、忘れてたまるかと思う。
 忘れてなんかやらない。いつまでだって。一生、覚えてる。思い出すたび幸せに勝手に頬がゆるむ、あの日の全部を。

 抱きかかえられたまま入った浴室は、すでに湯気がこもって暖かい。お湯は浴槽の半分ほどまで溜まっていた。
 おろされたのは床ではなく、浴槽のへりだ。今年のゴールデンウィークもそうだったなと、なんとはなし義勇は浮かんだ記憶に微笑みかけた。一線を越えてから初めて二人きりで風呂に入ったあの日とは、理由は異なるだろうけれども、同じ仕草は少しドキドキとしなくもない。
 義勇のアパートの狭いユニットバスでは、腰掛ける場所はそこしかなかったからだろうが、今朝はたぶん、床じゃ冷たいと杏寿郎は考えたんだろう。きっと、無意識に。息を吸うように義勇を最優先するのが、煉獄杏寿郎という男なのだ。
 慣れていたって、ドキドキするものはする。愛されていると、ほんの些細な言動一つからでさえ伝わるから、義勇の胸はいつまでだってときめきに弾む。
 愛や恋に慣れる日は、もしかしたら一生くることはないのかもしれない。慣れてはいけないとも思う。あって当然のものだなんて、思っちゃいけない。これはきっと、奇跡なのだから。

「義勇、足」
 洗面器片手に言う杏寿郎の意図は明白だから、恥じらうことなく義勇は足を開いた。
 まだ勃ってるくせに、こういうときの杏寿郎に性的な意図はなにもない。無心を心がけて触れてくるから、義勇もどうってことない顔をする。ひとたびそういう意味合いで触れられれば、たとえ指先一本でもゾクゾクと背が震えもするけれど、そうじゃないなら幼いころと変わりはない。
「熱くないか?」
「大丈夫」
 そろりと掌で洗い清められていく肌は、愛撫でなくとも心地いい。こびりついた昨夜の残滓が流れていく。背を支えられて、視線での促しに義勇は浅く腰かけ直すと、だるさの抜けぬ右足を杏寿郎の肩へと乗せた。
 あられもない姿態は、受け入れるときに似ている。それでも杏寿郎は、わずかたりとも欲の目で見てはこない。帰りも車を運転するのは義勇だ。もう一度愛しあう時間はあっても、義勇にさらに負担を強いるなど杏寿郎がするわけもないから、当然だろうけれど。
 こういうとき、ちょっとだけ義勇は年の差が恨めしくなる。弟扱いしたって普段は年齢差なんて気にもならない。けれども、まだ高校生なんだと思い知らされるのは、胸の奥が少し痛かった。

 十八にはなってくれた。あと少し。未成年とくくられなくなるまで、もう少し。そうしたら、もう誰にも奪われない。なにがあっても。誰にも奪わせない。

 決意はどこか甘いうずきをともなっている。義勇の瞳がわずかに熱を帯びた。
 ボディソープの泡をまとった杏寿郎の指先が、今は慎ましやかに閉じたすぼまりに、そっと触れてきた。
「少し腫れてる……ごめん。痛くないか?」
「ちょっとだけ」
 偽ったところで、杏寿郎の罪悪感が消えやしないのはわかっているから、義勇は気遣う声に素直に答えた。
 避妊具を欠かさない杏寿郎との行為では、体内まで清める必要はない。固く太い指先は、いたわるようにそっと撫でてくるだけだ。性の匂いがしない触れ方でも、受け入れ慣れたそこを撫でられると、どうしたって甘い電流が走り抜け、義勇の腰が震えた。そんな自分の反応は、ほんの少し悔しくて、やっぱり自分は杏寿郎の番なのだとの実感も湧く。泡でしみるチリチリとしたわずかな痛みすらが、幸せだとも思う。
 ごめんとまた謝りながら頬にキスしてくる杏寿郎に、キュンと胸をうずかせたときめきは甘い。けれども、勝手に連動したそこが、杏寿郎の指先にチュプッと吸い付いたのはいただけない。ピクッと杏寿郎の肩が揺れた。見つめてくる眼差しは突き刺さるようで、泡がしみるそこ以上になんだか痛い。
 バツ悪さに義勇は少しだけ視線を横に逃したが、それでも羞恥より勝ち気さが上回り、少しだけ唇を尖らせる。
 だってこんな反応をするのは、杏寿郎がいつも触れるからで。触れられたその先の悦びも幸せも、すっかり覚え込まされているからで。
 ようは、杏寿郎のせい。
 今では肚のうちで杏寿郎を抱きしめるだけで、達することもできるし、なんなら射精すらせずに絶頂感に脳が揺すぶられたりもする。それだって全部、杏寿郎との睦み合いで覚えてきた。

 男でも射精せずに達することができると、宇髄から教わってはいたけれど、初めて経験したときにはそれなりに衝撃だった。世界がひっくり返ったみたいな恐慌。自分が全部塗り替わって、元の自分がなにもかも消えていくような不安。快感が過ぎ去れば、パニックめいた怯えが頭を占めた。未知の体験が義勇へともたらしたのは、幸せや歓喜よりもまず、変化への不安だった。

 だからといって、後悔なんか心のどこを探しても、見つかりやしないし、後悔なんて一生するわけないだろと笑えもする。
 今ではそれすら幸福だと思うから、もう怖くなんてない。

 杏寿郎を誰かに奪い去られて、ともにいられなくなること以上に、義勇には怖いことなんて、どこにも、なんにも、ないのだ。