にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 4の2

 いつものことながら、受け入れる準備をするのは、落ち着かない。屈辱とは言わないが、不自然な行為なんだと思い知らされるようで、少し切なくなりもした。
 だけどそんなのは今さらだ。生殖を伴わない行為だろうと、後ろめたさを抱く必要なんてない。同性だろうとも、杏寿郎と自分は番だ。二人一緒にいるのが当たり前の生き物。だから、これも自然なこと。

 一緒に暮らすときには、多少懐が厳しくともウォシュレット付きの部屋にしよう。水音を聞きながら、義勇は文明の利器の恩恵を噛みしめる。こんなに手早く準備できたのは初めてだ。
「六畳ワンルームでもいいが、トイレは絶対にウォシュレット付きだな」
 無意識の独り言に、うんうんとうなずきさえしてしまう。
 義勇が待てと言えば杏寿郎はちゃんと待つし、駄目だと言えばキュゥーンと悲しげにすねても、我慢する。……大概は。
 まぁ、アレだ。おねだりの視線に勝てないのは義勇なので、そこは責められない。ともかく、杏寿郎は若くて健康な男子としては相応に、性欲だって旺盛だから、今と同じく月イチでは絶対に納得しないだろう。

 うん、ウォシュレットは、欲しい。理由は不動産屋には言えないだろうけど。というか、絶対に言いたくない。

 尾籠ながらも幸せな未来予想図に思いを馳せつつ、湯気のこもった浴室に足を踏み入れる。久々の広い風呂だ。知らず口角があがり、義勇がシャワーのコックをひねったのと同時に、磨りガラスの向こうから声がかけられた。
「義勇、俺も入っていいか?」
 もう十分経っていたか。準備は手早く済んだが、脱衣所がなくて戸惑ってしまったせいかもしれない。思ったよりも時間を食ったようだ。
 杏寿郎の声は、隠しようなく弾んでいた。思わず苦笑がもれる。
「あぁ」
 風呂に一緒に入るのも、久しぶりだ。義勇の声も、心なし浮かれたひびきになった。
 中学時分までは、義勇が恥ずかしがった一時期を除けばいつも一緒だったし、高校に上がってからも、瑠火から、千寿郎も一緒にと三人そろって風呂に追い立てられることは多かった。だから、風呂に一緒に入るぐらい、今さら恥ずかしがるようなことではない。だいいち、男同士だ。おかしなことなどなにもない。はたから見ると違うらしいけど。
 中学のときにみんなで行ったキャンプだって、ドラム缶風呂に二人で浸かった。狭くて難儀したのはともかく、不死川と伊黒がチベスナ化したのが今もって不思議ではある。高校の卒業旅行で温泉に行ったときも、広い浴槽で向かい合って座る二人に、宇髄までもが乾いた笑みを浮かべていたが、やっぱりなんでだろうと二人で首をひねったものだ。
 卒業旅行だというのに、とっくに卒業している宇髄が同行するのを誰も疑問に思わなかったことのほうが、むしろ不思議だ。
 まだ一年生だった杏寿郎については、言わずもがな。だって、義勇が行くのだから。杏寿郎が一緒じゃないはずがないのだ。

「体はもう洗ったか?」
「いや、まだ」
 一糸まとわず堂々と入ってきた杏寿郎に、義勇も照れることなく応じる。なにしろ、長いこと一緒に風呂に入って、一緒の布団で眠っての月日を過ごしてきたのだ。お互い、初めて下の毛が生えたのが何歳かだって知っている。
 というか。
「洗ってやろうか」
「背中と髪だけ。また引き抜かれたらたまったもんじゃない」
「それは初めて見たときだけだろう? 小六と小四だぞ。義勇だって、おあいこだと俺の毛を抜いたくせに」
 ふてくされた声はそれでも明るい。ぼやく口調ではあるが、杏寿郎にとっても楽しい思い出の一つであるのに違いはないのだろう。

 自分に陰毛が生えていることに気づいたのすら、お互い指摘されてだ。義勇、父上みたいに毛が生えてるぞと驚く声で言われて気づき、ポッと頬を染めながらもうれしくなったのを覚えている。
「保健体育で習った。体が大人になってきた証拠なんだって」
 恥ずかしさもあったけど、義勇の声は弾んでいた。
「杏寿郎ももっと大きくなったら生えてくるよ」
 俺はお兄ちゃんだから杏寿郎より先と、ちょっぴり鼻高々だったりもしたかもしれない。ふぅん、と、少し唇をとがらせた杏寿郎が、指先で摘んだ短い毛をツンッと引っ張ったとたんに、それはスルンと抜けてしまって。あ、と見交わした顔はお互い呆然としていたものだった。
「俺の大人の毛、杏寿郎が抜いたぁ!」
 思わずワンワンと泣いたのは、義勇にとっては黒歴史だ。ごめんなさいと素っ裸のまま土下座した杏寿郎も、涙こそ落とさなかったものの盛大に顔を歪めていた。
 なにを騒いでいるのですと入ってきた瑠火には、恥ずかしすぎて説明ができず。なんとなく察したらしい瑠火に呼ばれてやってきた槇寿郎から、杏寿郎に生えたら義勇も抜いてやれ、それでおあいこだと笑われてようやく治まった騒動は、翌日出された赤飯で締めくくられた。
 ちなみに杏寿郎のときも、赤飯は出た。きっと千寿郎にも出るだろう。いや、千寿郎はもう一人で入っているだろうから、わからないか。

 感謝は尽きないし、実の両親のように慕ってもいるが、あの習慣だけはやめてもらえないものだろうか。
 スンッと表情を消して虚空を見つめた義勇の背中を、杏寿郎がゴシゴシとこすっている。不埒な動きは一切なかった。風呂を出ればわずかに見える義勇の素肌にさえ生唾を飲み、荒くなる息を必死に隠そうとするくせに、こういうときは子供に戻るのがちょっとおかしい。
 意図的な動きなどされても困るから、まぁ、いいけれど。

 お互いに体を洗い終え、髪も洗いあったら、マットが敷いてある湯船に、そろって足を踏み入れる。風呂に入るときはいつだって、腰を下ろすのは向かいあってだ。
 タオルでクラゲを作ったり、手で水鉄砲を飛ばしあってキャッキャとはしゃぎながら入っていたころから、こうだった。歳を重ねても習慣は変わりそうにない。
 伸ばした足で互いの腰を挟むようにして座ると目に入る光景は、いろいろと子供のころとは変わったけれども。ゆらゆらと湯のなかで揺れる毛だって、ちょろりと一本きりなんてもんじゃなくなったし。お互い成長著しいなと、感慨深くもなる。
 浴槽のへりに腕を乗せて向かいあえば、あー、と我知らず二人そろって低い声が出る。部屋のエアコンも効いてきていたし、車中も温かかったけれど、知らぬうちに寒さで体がこわばっていたんだろう。シャワーでは伝わりきらない温もりが、芯までじんわり染み渡る。なんとも色気のないことだが、自然な反応はしょうがない。
 クスリと笑った杏寿郎の、濡れた手が伸ばされ、義勇の前髪をかきあげた。杏寿郎の前髪はしっとりとおろされたままだ。毛先からポタンとしずくが伝い落ちる。いつもとは逆になった互いの顔に、知らず微笑みが浮かんだ。
「ブロアバス、試してみるか?」
「そういえば、ブロアってなんだ?」
 光る風呂というのもやっぱり気になる。ウォシュレットや広い浴室は、いつか日常的に使える日もくるだろうが、光るというのはたぶん、こういう場面でもなきゃありえない。
「泡が出るとかなんとか書いてあったが」
「ジャグジーとは違うのか?」
「うぅむ、よくわからん。まぁ、試してみればわかるだろう!」
 ハハハと快活に笑う杏寿郎に、義勇も小さく笑って素直にコクンとうなずいた。
 義勇を抱き込むようにして、杏寿郎が、壁に据え付けられたテレビ付きの操作盤に手を伸ばす。壊すなよとささやきながら、迫った胸に唇を寄せて、義勇はたくましい背に腕を回してみる。
 ん? と一つまばたきしゆるりと細まった目と、弧を描く唇を見上げて、義勇も薄く笑ってみせた。
 手のひらでそっと撫でるピンと張った肌は、みずみずしくて張りがある。余計な脂肪などない、筋肉に覆われた体に、クラリと目がくらみそうだ。
 目前に迫った太い首だって、大人のものになって久しい。背を辿る手にあわせて、尖った喉仏が上下する。義勇の笑みが満足気に深まった。
 悪戯心を刺激されて、くっきりとした陰影を作り出す鎖骨に、義勇は迷わず唇で触れる。
 カリッと甘噛みしたのと同時に、クッと息を詰める気配がした。腰の下に敷かれたマットから、ぶわりと細かな水泡が湧き上がってくる。
「コラ……あんまり煽らないでくれと言っただろ?」
「我慢しなくていいと、言ったはずだが?」
 チュッと一度吸い付き、浮き上がった骨のラインを舌で辿る。うなじから腰へとゆるゆると撫でおろす手に、ビクリ、ビクリと、震えが伝わってくるのが楽しい。
 のしかかられて片腕で抱きすくめられたままの体を、小さな泡がくすぐって、なんだか気持ちがいい。たぶん、開発者の意図は別にあるのだろうけれど、こういったホテルにあるのも納得の設備だと、少し笑いたくなった。
 吹き出す泡は強めに設定されているらしい。杏寿郎に暴かれることに慣れた場所を、否応なく刺激してくる。杏寿郎の腰を挟んでいるから、足を閉じることはかなわずに、尻のあわいがうずいても、膝をこすり合わせて耐えることもできない。
 義勇のささやかな愛撫に、杏寿郎の唇から湯気よりも熱い吐息がもれて、義勇の額をくすぐる。と、室内が唐突に暗くなり、代わりにお湯が水色の光を放って揺らめいた。
 浴槽に仕込まれたライトは、ゆっくりと色を変えていく。思わずキョトンとして手を止めると、杏寿郎もようやく身を起こした。
「きれいかもしれないが……これ、なにか意味があるのか?」
 イルミネーションならば見て楽しいというのはわかるけれども、風呂が光っても楽しいとは思えないのだが。
「ふむ。ライトよりも義勇のほうがきれいだということしか、さっぱりわからんな!」
 こういう言葉も、慣れっこといえば慣れっこだ。杏寿郎は、ことあるごとに義勇を褒めそやすから。
 むくれたり恥ずかしがったりするには、あまりにも杏寿郎の顔や声音は素直すぎて、なにか言い返すのも馬鹿らしい。なんせ杏寿郎は、口説き文句やらご機嫌取りを口にしているわけではないのだ。掛け値なしの本音だから、なんのてらいもなく口にしている。わかっているから、はいはいと流すよりほかに、義勇が気恥ずかしさをこらえるすべはない。
 たまに、こらえきれずに馬鹿となじってしまったりもするけれど、たいてい杏寿郎は喜びニンマリ笑うだけだから、どちらにせよやめさせる手立てなどないのだ。

 軽く肩をすくめた義勇に、杏寿郎もすねることなくクスクスと笑っている。空気はひどく甘く、ちらりと視線を落とせば、杏寿郎の杏寿郎が兆しているのが見えた。元気だなと笑えば、自分にも降りかかるから、指摘はしない。
 準備は万端。このままここで受け入れてもかまわないところだったりするけれども、杏寿郎のほうに、その気がないだろう。杏寿郎は、どんなに欲に突き動かされていようと、避妊具を絶対につけるのだ。
 今だって、性的な空気をあえて変えた。勃ってるくせに。義勇の目がわずかばかり据わる。
 義勇の体を損なう可能性がある行為など、もってのほかというのが、杏寿郎の言い分である。なにしろ、避妊具だって男同士には最適だとかのブランド一択で、コンビニで買うことなどまったくない。

 今年のゴールデンウィーク後半に、杏寿郎がきたときも、そうだった。
 ゴールデンウィークの初日に、義勇は煉獄家を訪れている。四日ほどお世話になり、杏寿郎と一緒にアパートに帰ってきた。
 煉獄家の家族旅行に同行したり、宇髄ら友人たちともしっかり遊んで過ぎた、四日間。杏寿郎がずっと義勇の隣りにいたのは言うまでもない。そのうえで、戻る義勇にも杏寿郎はしっかりついてきたわけだ。
 当然のことながら、四日の間に恋人らしいふれあいなど一切なしだ。さすがに煉獄家の面々が健やかに眠る家で、そんなこと許可してたまるか。
 一緒にいられた時間は長くとも、義勇を独占できた時間は半日分にも満たない。だから絶対に行くと力説する杏寿郎を拒否する言葉など、義勇だって持ち合わせていなかった。
 アパートで過ごしたのは、三日間だ。観光に行くこともなく、二人でアパートにこもりっぱなしの三日間。
 ちなみに、両隣の部屋は帰省中なのか、旅行にでも行っていたのか、留守だった。どんな事態になったかなど、言うまでもないだろう。しかも、杏寿郎の誕生日は五月の十日だ。当日ではなくとも、一応はお誕生日様であるのに違いはなかったのだ。

 杏寿郎が持参した小さな箱の中身は、杏寿郎が帰る日より前に空になった。正直、義勇は己が過ごしたふしだらな三日間については、一生口をつぐんでいたいと思っている。すっかり湿った布団の上で、早くと口走った義勇に、箱を振って空だと呆然としてつぶやいた杏寿郎の顔など、なるべく思い出さずにいたい。忘れたいとは言わないけれど。ちょっとおもしろかったし。
 何度振ったって空は空だし、覗き込もうと指で探ろうと、ゼロはゼロだ。なのに、足を開いたままの義勇をほっぽって往生際悪く空き箱を覗き込んでいた杏寿郎の、めったに見られぬ情けなさが天元突破している姿など、忘れられるわけもない。正直言えば、忘れるには惜しいと思っていたりもする。
 ちなみに、真夜中だというのにドラッグストアに行ってくると、飛び出しそうになるのを引き止めるのに一苦労したのも、忘れがたい。こんな時間に開いてるわけないだろ落ち着けと、鉄拳制裁したのは言うまでもない。
 だってどうしろというのだ。呆れて笑えば傷つけるだろうし、責めるのは論外だ。おまえも同罪だろうがと、頭のなかでお兄ちゃんな自分にゲンコツを落とされる。だから思い出すのは、杏寿郎の情けない顔だけでいい。世界中で義勇しか見られぬレア物だ。忘れてなど、やるものか。

 ともあれ、そんなときでさえ、杏寿郎は避妊具なしはもってのほかと、そのままでいいと義勇が言っても頑としてうなずかなかったのだ。いっそあっぱれな意思の固さではある。騒いでるあいだもギンギンなままだったくせに。
 だからきっと、避妊具の用意のない風呂で、杏寿郎が義勇を抱くことはない。挿入を伴わないのならば、そのかぎりではないが。その場合は、義勇がちょっと困るのだ。
 お互いに触れあって果てるのだって、そりゃ気持ちがいい。男なのだから、当然だ。だが、義勇は受け入れて達することにももう慣れている。むしろ、なかへの刺激がないままでは、不完全燃焼というか、なんというか。
 スッキリして、続きはベッドでと微笑む杏寿郎はいいだろうが、義勇はそういうわけにもいかないのだ。

 とっとと挿れろや。こっちは疼いてんだって言ってんだろうがァ。もったいぶってんじゃねェ!

 と、うっかり頭のなかに不死川が降臨するぐらいには、困る。
 だからまぁ、子供みたいにキャッキャとはしゃぐだけのほうが、いろいろと都合はいい。ちょっかいを出したのは自分のほうだが、いざ手を出されては困るのも自分だ。
 煽るな、だと? 存在自体に煽られっぱなしなのはこっちのほうだ。いつだって。
 杏寿郎はもう少し、自分の魅力を理解すべきだ。あまり翻弄されると、うっかりリードを離してしまいそうになるというのに。それでは困るのだ。自覚して、自重してくれと、ちょっぴりふてくされたくもなる。
 今しばらくは、自分が優位の営みでありたいと、義勇は願っている。幸せな未来予想図を夢で終わらせないようにするのは、たぶん義勇の理性次第だ。

 湯を染める紫色のライトに照らされながら、義勇は手遊びにタオルをふくらませてなんかみる。大好きとなんの心配もなく笑いあえた、子供のころのように。
「クラゲ」
 ぷっくりとふくらんだタオルを少し沈めて、唇をそっと押し当て言ってみる。吹き出しているはずの泡は、マットからの激しい泡に紛れて見えない。残念。
「懐かしいな! 沈めてどっちが長くもつかとか、よくやったな!」
 幼いころと同じ、快活な笑い声が返る。だけれども、その声も、近づいてくる顔も、もう子供じゃない。
「でも、キスするならこっちにしてくれ」
 ささやきとともに取られた手が静かに下げられ、クラゲが沈む。遮るものがなくなれば、口づけが落ちた。
 そっと唇を吸われるだけで、こんなにも熱くなる体を、もっとちゃんと知ってほしい。だけどまだ、すべてを明け渡すこともできない。無邪気に想いあえた子供に戻りたいとは思わないし、早く大人になってほしいけど、一人で大人にならないでくれとも願う。
 我ながら勝手だなと、義勇は胸の奥で小さく笑った。
「……そろそろ、出ようか」
 わずかにかすれた杏寿郎の声は、熱を孕んで、ただよう湯気に溶ける。吹き出していた泡が途絶えた。
 義勇は無言で、濡れて濃さを増した金の髪に、そっと手を差し入れた。引き寄せれば抵抗せずに近づく唇。返事はお返しのキスで。
 久々の広い風呂だが、しょうがない。今はお湯より互いの汗に濡れたい。
 手放したタオルが、赤に染まった湯のなかに、ゆらゆらと揺れて沈んでいった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 行儀の良さが仇になるのはこういうときだなと、たぶん互いに少し思ってるだろう。濡れたままでベッドに入るなど、二人の常識のなかにはない。
 たとえ汗まみれにしてどろどろに汚す羽目になるとしても、はなから無作法に振る舞うなどもってのほか。浴室を出て体をぬぐうのももどかしく、二階へと意識が向かったとたんに、脳裏に瑠火の凛とした顔が浮かんだのは、きっと同時だっただろう。だって、ブルッと背を震わせたのは、まったく同じタイミングだった。
 アメニティのバスローブは男女共用なんだろう。高身長に分類される男二人にはちょっとばかり丈が短くて、思わず苦笑が浮かんだ。すね毛の生えたゴツい足に欲情を覚えるほどに、月日は過ぎたけれども、三つ子の魂百までも。教え込まれた習慣は相変わらずで、非日常に浸りきるのを許してはくれない。
 無言で視線を見交わして、ドライヤーを手にとったのが杏寿郎だったのは、単純に近かったから……とも、言いがたい。
「義勇、風邪を引く」
 子供のころとちっとも変わらないセリフに、義勇も逆らわない。杏寿郎の義勇最優先はいつものことだ。
 ブオォと温風を当てる手も、慣れたものだ。義勇の髪を乾かすのを、杏寿郎が気に入っているのも、昔から変わらない。いつだって楽しそうに見える。
 杏寿郎のきらめくフワフワとした髪と違って、特筆すべきこともない自分の髪など、触って楽しいものでもなかろうに。思いはすれども、杏寿郎に触れられるのが心地よいのは、髪も同様だ。バサバサとかきあげられるのも、そっと手櫛で梳かれるのも、杏寿郎の手だと安心する。
「伸びたな。ハサミを持ってくればよかった」
「そっちに行ったときでいい。こっちに戻る前に切ってくれ」
「じゃあ、三が日が過ぎたら。俺の髪も切ってくれ!」
 三が日に刃物を使うと縁が切れる。そんな縁起担ぎを意識した約束が、なんとはなし面映い。
 床屋や美容院だと、人見知りなたちの義勇は、なんとなく緊張してしまう。だからというわけでもないが、義勇の髪は、中学に入るまでは瑠火が切ってくれていた。

 瑠火が「伸びてきましたね。少し切りましょうか」と微笑むたび、杏寿郎の目はピカリと光った。
「母上! 俺がやります!」
 と、その都度、勢いよく挙手して言うのも、ずっと変わらなかった。もちろん、ハサミを持たせてもらえなどしなかったけれど。
 悔しそうに小さな拳をにぎって、瑠火が操るハサミが義勇の髪をシャキシャキと切り落としていくのを、杏寿郎はいつも正座してじっと見ていた。いつかは絶対に自分がするのだ、一つも見落とさないぞと言わんばかりに。
 ハサミは持たせてもらえなくとも、最後にブラシをかけるのは杏寿郎の役目だ。細かな毛くずのついたうなじをそっと払い、小さな手でにぎりしめたブラシで、せっせと義勇の髪をとかす杏寿郎の顔は、いつだって真剣そのものだった。義勇はどれもちゃんと覚えている。
 交代で瑠火の前に座った杏寿郎の髪が、キラキラと光りながら舞い落ちていくのを見ているのが、好きだった。最後のブラシはやっぱり義勇の役目で、義勇梳かしてくれと毎回律儀に頼んでくる杏寿郎の声も。うなじについた髪をフッと吹くと、くすぐったいと杏寿郎が首をすくめて笑うのも。
 穏やかでやさしい時間は愛おしすぎて、今も、床屋などにはなかなか足が向かわない。

 初めて杏寿郎が義勇の髪を切ってくれたのは、杏寿郎が小五になった春だった。つまりは、義勇が中学に上がった年だ。
 入学式の前日に、いつもと同じく遊びに行ったら、杏寿郎はめずらしく少しふてくされた顔をした。理由なんて簡単すぎて、誰の顔にも苦笑が浮かんでいたものだ。
「杏寿郎、髪、切って」
 明日からはもう、中学校と小学校に別れてしまう。卒業式も複雑そうに眉を下げつつ無理やり笑みを浮かべていたものだけれども、いよいよ同じ学校ではないのだと実感してしまったのだろう。入学式という言葉が出るたびに、杏寿郎の唇はグッと噛みしめられていた。
「いいのか?」
「うん。杏寿郎が切って。これから、ずっと」
 笑って言った義勇に、杏寿郎の瞳が輝いて、わずかに頬が紅潮したのだって、義勇は忘れていない。杏寿郎と共有する思い出には、なにひとつ、忘れたいものなどないのだ。
 ハラハラと見守る槇寿郎や千寿郎の視線のなかで、瑠火に言われるままに慎重にハサミを当てる杏寿郎の手は、まだ幼かったけれど。心配なんて、義勇はまったくしていなかった。もしも失敗して珍妙な髪型にされたところで、べつにかまわないのだ。杏寿郎がそれで少しでも安心してくれるなら。
 別々になったって、義勇は、髪が伸びたら必ず杏寿郎に「髪を切って」と頼むのだ。
 その日から、杏寿郎は義勇の専属理髪師だ。義勇も、同じこと。杏寿郎が「俺のも切ってくれ!」と、義勇に言うことだって、当然誰もが予想していたのだから。

 だから、義勇が大学に入って以来、義勇と杏寿郎の髪は少々伸び気味だ。
 杏寿郎の滞在は、たいがい土曜の午前中から日曜の夜まで。どうにか三ヶ月に一度は切るようにしているけれど、ついつい忘れがちになるのはしょうがない。だって、恋人たちにとっては一日半だけの逢瀬では、時間が足りない。いろいろと。

 義勇の髪の指通りを確かめて満足したのか、ドライヤーのスイッチを切った杏寿郎に、手を伸ばす。
「交代」
「頼む」
 しっとりと濡れた杏寿郎の髪は、色味が濃く、落ち着きのある輝きになっている。乾いていくにしたがって、フワフワと揺れ、キラキラとした金と朱にきらめくのだ。髪の毛一つとっても鮮やかな印象の杏寿郎が、誇らしくて愛しくて。髪を乾かしてやるのが好きなのは、やっぱり義勇も同様だ。杏寿郎の髪を乾かす役目を、誰にも譲りたくない。
「義勇に乾かしてもらうと、気持ちよくて眠くなるのが困るな」
 小さな苦笑に、ムクリと頭を持ち上げたのは悪戯心。スイッチを切ったドライヤーを洗面台に置いて、うなじにかかる杏寿郎の髪をそっと梳く。
「眠くなるなら、触れないほうがいいか?」
 指先でうなじをくすぐって、耳に唇を寄せ言えば、思ったとおり体が浮き上がった。
 姫なんてガラではないが、抱き上げられるのはもう慣れた。最初は、男としてだの年上だののプライドが邪魔をして、降ろせとわめきもしたけれど。
 チュッと音を立てて耳たぶにキスする。甘く歯を当てたら、抱きしめる腕に力がこもった。
「……気持ちいい? 眠くなったら寝てもいいけど、どうする?」
「本当に、義勇は俺を煽るのがうまいな」
 うなるように言うから、義勇は杏寿郎の首にしがみつきつつ、ニッと笑う。
「おかげさまで。対杏寿郎限定の特技だからな。もっと腕を磨くつもりだから、覚悟しとけ」
 してやられてばかりは性に合わない。かわされ続けても、おとなしく降参する気はてんでない。流されがちな悪い癖も、杏寿郎相手なら鳴りを潜める。勝ち気な笑みだって浮かぶというものだ。
「猫耳毛布、着てほしいんだろ。早く行け。……ただし、汚すなよ?」
「仰せのままに。汚さずにいられるかはわからんが……善処する」
 返事は歩き出しながら。急く足が早まっても、義勇を抱く腕は揺らがない。落とされそうで怖いなんて不安は、ちっともなかった。だから杏寿郎の胸に頬を寄せた義勇の顔から、笑みが消えることもない。
 万が一、月が落ちてくることがあったとしても、杏寿郎が義勇を落とすことなど、あるわけがないのだから。