にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 3

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 水族館から出ると、辺りはもう暗かった。なんだかんだとすでに時刻は五時だ。楽しい時間はすぎるのが早い。
 底面を和柄にデザインされた水槽のなかで、ひらひらと優美にヒレを揺らせて泳ぐ金魚は目に楽しく、義勇が夢中になってくれたのはありがたかった。
「クラゲや水草まで展示してあるとは思わなかった」
「まったくだ! だが、きれいだったなっ」
 コートを着込んだ義勇にマフラーを巻いてやりながら、杏寿郎が愉快な気分で笑えば、義勇はコクンとどこか幼い仕草でうなずいてくれる。ずっと上の空だが、機嫌は悪くないようだ。
 悪ふざけのつもりはなかったが、義勇をむくれさせたのは事実だ。犬と愛を語る趣味はないぐらい言われるかと思ったけれど、ご機嫌ななめのままでなくてよかったと杏寿郎は安堵する。
 それどころか、童心が蘇ったのか水槽を見つめる義勇の瞳はキラキラとして、金魚よりもよっぽど愛らしく美しかった。本当に水の精霊なんじゃないかと見紛うほどに。
 けれども、そんな無邪気な愛らしさを堪能できたのも、長くは続かなかった。

「……なぁ、スモモって、やっぱり鯉じゃないか?」
「……よもやそれはない……と、思うが、断定はできんな」

 まだ気にかかっていたか。義勇のつぶやきについつい杏寿郎は苦笑した。
 考え事に気を取られてでもいなければ、義勇はおとなしく杏寿郎にマフラーを巻かれたりしないだろう。よくよく気にかかっているらしい。

 種類豊富とはいえ、金魚だけでは場がもたなかったんだろう。水族館にはグッピーやアニメ映画でお馴染みなカクレクマノミだのもいて、クラゲのエリアにいたってはかなり広かった。カラフルにライトアップされてゆらゆらと泳ぐクラゲは、なかなかきれいでロマンチックだったけれど、デートとはいえしょせんは男同士だ。感心するより先になんでクラゲ? とそろって首をかしげたのは当然の成り行きだろう。お互い花より団子、色気より食い気な俗っ気は如何いかんともしがたい。
 なんとも懐が広いというかなんというか、ソファだって一箇所かと思いきや結構な数で、カップルがそこここに座っていたのだ。パワースポットとはいったいと、考え込まざるを得ないところだ。
 だが、それはまぁいい。百万円もする巨大なランチュウを見て、金魚に百万……一匹で食費の何日分に……と、思わず複雑な心境で目を見交わしたのも、それなりに楽しかった。撮影可の館内にこれ幸いと、水槽を覗き込む義勇をここぞとばかりに写しまくれたのも、うれしい。俺じゃなく金魚を撮れとちょっぴり頬をふくらませた顔もかわいかったから、杏寿郎としては大満足と言ってもいい。
 とはいうものの。義勇を悩ませた水槽は、問題ありだ。杏寿郎の高感度冨岡センサーでも、義勇が悶々としている真意は量り難い。

 大きな白い金魚が泳ぐ水槽を見つけ、スモモに似たのがいると大興奮で二人して覗き込んだところまでは、問題なし。義勇の様子が変わったのは、提示された説明文を読んでからだ。
 スモモみたいなその魚は、鰭長錦鯉ヒレナガニシキゴイとあった。色さえオレンジ色ならば本当にスモモにそっくりだが、鯉だ。スモモのほうが若干大きめな上、魚類らしからぬ鋭い眼光をしているけれど。
 その後、パワースポットのソファにも運良く座れたが、愛の語らいどころじゃなかった。隣に座る杏寿郎そっちのけで、義勇は真剣な顔をして「やっぱり鯉……いや、でも……」と、ブツブツつぶやいていたのだ。
 かわいかったから、いいんだけど。義勇さえ楽しかったのなら、愛を語らう本番は夜でかまわないんだけれども、だ。
 なんだかなぁと、杏寿郎の苦笑いに細まった目が虚空に向けられた。
 一応はソファにだって座れたのだし、恩恵とやらを眉唾ものと思ってもいた。文句をつけるのは大人げない。でもなんとなくおもしろくないのも事実だ。
 なんだかスモモに負けた気がする。義勇の機嫌を直してくれたのだから感謝するべきだとも思うが、魚に恋人の意識をかっさらわれるのはどうなんだ? うぅむ、と、杏寿郎もうなりたくなってくる。
「稚魚は金魚そっくりだと書いてあった」
「だが、値段が段違いだろう? 縁日の金魚に紛れ込むとは思えんが……しかし、本当に似ていたからな。そういうこともありえるかもしれん」
 とくに深く考えて言ったわけではなかった。けれども義勇は、杏寿郎の同意に安堵の笑みを浮かべた。

「もし本当にあの鯉の仲間だったら、スモモは一匹きりじゃないんだな。よかった……」

 気になっていたのはそこか。
 静かに微笑んだ義勇の少しうつむいた顔に、杏寿郎の胸が、言いしれぬ想いでいっぱいになる。わけもなく泣きたいような、義勇を力いっぱい抱きしめ愛を叫びたいような、言葉にならない想い。切なくて、でも温かく、痛くて、でも甘い。そんな名状しがたい感情が、胸にあふれてこぼれ出しそうだ。
 この想いこそがきっと恋なのだろう。庇護欲や尊敬も、独占欲や寛容も、すべてい交ぜ詰め込んで、胸弾ませたり沈み込ませたりもする、この情動。義勇だけに向かうこれが、この唯一の心こそが、恋だ。

 抱きしめたいと腕がうずくけれど、まだ早い。きっと義勇は怒るだろう。だから杏寿郎は拳を握り我慢する。
「あとで詳しく調べてみよう。その結果、もしスモモが突然変異した金魚でしかなくとも、一匹きりなんてことはない。一緒に池のなかに住んでやることはできないが、スモモだって俺たちの家族だ。寂しいなんて思わせないでやればいい」
 スッと上げられた義勇の海色の瞳が、杏寿郎を映した。揺らめく瞳の海に、魚でなくとも義勇は杏寿郎を住まわせてくれる。魚じゃないから、抱きしめあえる。二人きり、もっと夜が更けたら。
「それに、錦鯉では手が出ない可能性も高いが、金魚ならいつかは嫁さんと暮らさせてもやれるしな!」
「うん……スモモが寂しくないなら、それでいい」
 ほのかに笑う義勇に顔を寄せ、ささやいたのは、悪戯心というには少々水分多めだ。でないとなんとなく泣いてしまいそうだったので。

「スモモは鯉じゃないかもしれないが、俺の気持ちが恋なのは、疑わずにいてくれるか?」
「うん? ……ば、バカ犬! あ、ちがっ」 

 バッと一歩飛び退り、顔の前で両腕を交差させてガードする義勇のあわてっぷりに、一瞬ポカンとした杏寿郎は、すぐにククッと体を二つに折るほど笑い出した。
 あんまりかわいくて、どうにも笑みが止められない。
 大声で笑えば人目を集めすぎる。ますます義勇はへそを曲げてしまうに違いない。なんとか声を抑えようとするのだが、あとからあとから湧き上がる笑いは、止められそうになかった。
「土産を買うんだろうっ、行くぞ!」
「悪い、置いてかないでくれ」
 笑みを消せないままとっさに腕をつかめば、振り払われるかと思いきや、義勇はちょっぴり唇をとがらせただけだった。
「涙ぐむほど笑うな」
「うん、すまない。かわいくって止められなかった」
「かわいくない。杏寿郎のほうがよっぽどかわいい」
 すねた声音だが、義勇は本気で言っている。杏寿郎の笑みが少し苦笑じみた。
 昔から義勇は、どことなく自己肯定感が薄い。蔦子に言わせると、両親が亡くなってからそんな具合らしかった。つまりは杏寿郎と出逢う少し前からだ。
 両親の事故から重なる出来事に心がついていかないのだろうと蔦子は思っていたようだが、今でも義勇は自分を卑下しがちだ。かなり根深い。
「俺をかわいいなんて言うのは、今じゃ義勇ぐらいだぞ」
「……宇髄は?」
 ちろりとねめつける視線に、杏寿郎は思わずグッと言葉に詰まる。
「あれは意味が違うんじゃないのか?」
「杏寿郎がかわいいと思われてるのに変わりはない」
 それはそうかもしれないが、宇髄の言うかわいいは多分にからかいだ。杏寿郎が恋心に翻弄され右往左往するさまに対しての、年長者の余裕である。見た目も性格も愛らしい義勇への賛辞とは、意味合いがまったく違う。
「だとしても、義勇にかわいいと言われるのは、ちょっと悔しい」
「じゃあ、もうかわいがらなくていいんだな?」
「それこそズルいだろう……」
 かわいいと子供扱いされるのは口惜しいが、おいでと甘くささやかれ抱きしめられる愉悦をまるきり捨て去ってしまうのも、それはそれで惜しい。
 恋する青少年の煩悩をなめてはいけない。だって、義勇が甘やかしまくってくれるのは、今ではそういうときだけなのだ。
 大人扱いされたいし、頼りがいのある恋人として見てもらいたい。けれど、かわいいと甘やかされるのだって、嫌いなわけじゃない。

 やわらかな声と、やさしく撫でてくれる手。いい子、杏寿郎かわいいと、悦楽にかすれる声で笑いかけてくるささやきは、蜜のなかで溺れるごとくに甘い。
 あれを全部なくす? それは……ちょっと。だってああいうときの義勇の色っぽさは、たぶん、杏寿郎がリードして優位に立っての行為で見せてくれるはずのものとは、また一味違う気がしてしまうのだ。まだ見たことがないから、わからないけれども。
 ついでに、杏寿郎のほうこそがリード手綱を握られ躾けられている気もちょっとばかりしないでもないけれど、そこは杏寿郎の努力如何で改善可能と期待したいところだ。

 へにゃりと眉を下げ情けない声で杏寿郎がボヤくと、義勇の機嫌が浮上する気配がした。きっと頭に思い浮かべた言葉は、ちょっぴり呆れまじりの「かわいい」だ。どうやら義勇のなかでは『どちらがかわいいか合戦』の勝敗は決まったとみえる。
「買い物するんだろう? 千寿郎へのクリスマスプレゼントも買おうか。もう買ってあるか?」
「いや。一緒に選んで買おう。割り勘って約束だからな」
「クリスマスプレゼントだぞ」
「でも土産だろう?」
 じっと見つめれば、肩をすくめ義勇が苦笑する。よかった。ここだけは勝てたらしい。杏寿郎の顔にも少しだけ情けなさの余韻がにじむ笑みがのぼる。
 視線を義勇の手にちろっと落とすと、フゥッとかすかなため息が聞こえた。
「……お手」
 ぶっきらぼうな声で言い、手を伸ばしてくれるから、杏寿郎の笑みが朗らかなものに変わる。
「ワン!」
 声を弾ませ手をとれば、義勇の頬がほんのりと赤らみ、やさしくたわんだ目が杏寿郎に向けられた。
 大人の男としてエスコートするという目標を軌道修正する気はないけれど、こういうやり取りだって、結局のところ杏寿郎は好きなのだ。
 義勇のそばにいて、義勇が笑っていれば、杏寿郎は天下無敵だ。誰にも負けないし、誰にも義勇を傷つけさせない。姫を守るナイトでも、ご主人さまを守り抜く忠犬でも、なんとでも呼んでくれってなものだ。とどのつまり、義勇を守りきれるならなんだってかまわないのである。
「さぁ、行こうか」

 それでも、せめて仔犬ではないと思ってもらいたいものだ。

 杏寿郎がそっと指を絡めても、義勇が振りほどくことはなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ショップが並ぶ棟はそれなりに広い。すでにイルミネーションが点灯されているせいか、人気はまばらだ。
 観光地特有の地名入りキーホルダーや絵葉書、どこでも買えそうな幼児向けの玩具なども並んでいるが、メインの商品は食べ物らしい。観光地だけあって値段はそれなり。手痛い出費に違いはないけれども、どうにか予算は超えずに済みそうだ。
 手にとった瓶詰めのケチャップをしげしげと眺めている義勇の横顔を、さりげなくうかがいつつ、杏寿郎はさもたった今思いついたふりで話しかけた。
「義勇、土産を買い終えたら、明日の朝飯用にパンも買っていかないか?」
「めずらしいな、和食じゃなくてもいいなんて。俺のことなら気にしなくていいぞ。なんなら土産とはべつにさっきの金山寺味噌を朝飯用に買ってもいいが?」
「いや、石窯アンパンとやらが有名らしいんだ。かなり大きいらしいぞ。食べてみたくてなっ」
 ふぅん、ととくに気にした様子もなく義勇がうなずいた。杏寿郎は胸中で小さくガッツポーズする。これで明日の朝食を確保できる。
 今夜はきっといつもより無理をさせてしまうだろうし、朝はできるだけ上げ膳据え膳で過ごしてほしい。だがホテルのルームサービスやダイナーで食べるのは無理だ。義勇が嫌がるに決まっている。そもそも大食漢の杏寿郎が満足できる量とも思えない。予算オーバーして義勇に出してもらうのは絶対に避けたい。
 かといって、コンビニ弁当では特別な夜を過ごした翌朝には味気ないし、なにより杏寿郎はレンジが扱えない。そのまま食べられるパンが最適解だろう。

 たいへん無念ではあるが、コーヒーもペットボトルか缶で我慢だ。もちろん持ち込みで。部屋で販売しているものは高いらしいし、備え付けのポットは……たぶん、壊す。
 サイトの写真で見るかぎり部屋はダイニングキッチン付きではあるけれども、IHヒーターだったし……うん駄目だ。無謀な挑戦はすまい。とりあえず、今回は避けるにかぎる。
 ディナーや土産を割り勘にしても、今日のデートで飛んでいく額は毎月の義勇詣でにかかる費用の三倍以上。春からの新生活のための貯金も考えれば、弁償するほどの金はない。というか、万が一壊した場合、同棲がまたはるか先に遠のく。かもしれない。

「おまえのとこと、姉さんのとこ。バイト先や社長たちへのぶんに宇髄たちのもよし。錆兎と真菰へは一緒でいいから……こんなものか。あとは千寿郎へのプレゼントだな。食い物よりも雑貨のほうがいいだろ?」
「ん? あ、あぁ、そうだなっ。プレゼントが消え物では味気ないし、雑貨のコーナーに行くかっ」
 リゾート名が印刷された紙袋を互いに持って、手を繋いだまま雑貨ブランドのコーナーに向かう。主力商品は木製の置物らしい。デフォルメされた愛らしい動物がいろいろと並んでいる。時節柄サンタや雪だるまに天使など、クリスマスらしいものも多かった。
 手作業で作られたナチュラル志向の木彫りの置物は、ほとんどが白木に墨の着色で、パッと見は地味だ。だが、手書きゆえかどれも少しずつ表情が違って、素朴な温かみを感じるものばかりだった。
 千寿郎が喜びそうだなと、杏寿郎の頬が緩む。義勇も、祈るようなポーズをしたウサギを見つめ、はんなりとした笑みを浮かべていた。
「これなら、千寿郎も気に入りそうだな」
「うむ! きっと喜んでくれるだろう。どれにしようか。千寿郎が一番好きな動物はライオンだが……お、あるぞ。これにするか?」
「おまえに似てるから、だったか。俺は、あんまり似てないと思うが……」
 百獣の王に例えられるのは少々照れるが、似ていないと断じられるのも、どことなし憮然としてしまう。ついつい眉尻だって下がろうものだ。
「俺は犬か?」
「うん。……あぁ、これ。ゴールデンレトリバーがあればピッタリだったけど、ラブラドールもちょっと似てる」
 のほほんとした顔の犬の置物を前に、義勇はいかにもうれしげに笑っている。
 犬は嫌いではないし、このデザインではライオンだってのんきな顔をした愛らしいものではあるが、せめてもうちょっと格好いい動物にしてほしい。
「むぅ……あ、こっちはどうだ。狼だ!」
 こちらもしょせんは愛らしいの域を出ないが、遠吠えする姿はまだしも精悍と言えないこともない。そんなに格好いいものかと笑われるとしても、それで話が盛り上がるのならそれもまた楽しめるだろう。
 けれども義勇は、笑ってくれるどころか、なぜだか杏寿郎が指さした狼を凝視している。笑みはスッと消え、小さく唇まで噛んでいる始末だ。
「義勇?」
「……似てない。杏寿郎は犬でいい」
 犬だ、ではなく、犬でいい。些細なことだ。意味などないかもしれない。だけど、やけに気にかかる。
 それでも、なぜ? と問うには、義勇の様子は聞く耳など持ってなさげだ。ふいっとそっぽを向いたと思ったら、繋いだ手をほどき離れていこうとさえする。
 突然の変化に戸惑って動けない杏寿郎を、不意に義勇は振り返り見た。
「おまえは犬だよ。やさしい犬。おっかない狼なんかじゃない。ホラ、それより金魚があった。千寿郎への土産、これにしないか?」
 義勇は笑っていた。ぎこちなさなんてどこにもない、自然な笑みで。
 なのになぜだろう。うなじがチリチリとする。

 あぁ。そうか。あのときに似ている。あの事件のころ……心配させまいと隠し事をしていた、あのころの義勇に似ているんだ。

 思った瞬間、記憶のなかに沈めた腹立たしい出来事が、まるで今まさに起きているかのような激怒をともない、呼び覚まされた。
 浮かび上がり、脳裏を占めるのは、怒り。いっそ憎しみと言ってもいい。だって、あれは『敵』だ。なにをおいても、なにを捨てても、排除せねばならない、敵。思い出すだけで激昂に総毛立つほどに、許されざるべき者ども。

 グルッと、喉の奥で唸りがあがる。こめかみがひきつる。ギリッと奥歯を噛みしめた。いま目の前にいるのは義勇だけなのに、怒りがおさまらない。

 と、不意に温もりが杏寿郎の頬を包んだ。反射的に睨みつけても、義勇の手は離れていかない。そればかりか、そのまま杏寿郎の頬をそっとやさしく撫でてくる。
 一瞬にして燃え上がった憤懣が、小さく鎮まっていくのを感じた。代わりに杏寿郎の胸にわきたったのは、不安だ。
「……義勇は、怖いから狼が嫌いなのか?」
「嫌いじゃない」
 声をかすれさせ聞いた杏寿郎に、即座に返った義勇の答えは強かった。
 それ以上は、問えなかった。だって、なんと聞けばいいのかわからない。

 本当は、俺のことを怖いと思ってるか? 怖い俺は……嫌い?

 そんなこと、どう聞けばいい。もしも答えがイエスなら、自分がどうなってしまうか杏寿郎にもわからない。ゾクリと背を走ったのは、怯えだ。
 杏寿郎は小さいころからおばけだって怖くなかったし、転んでも自分で立ち上がり、泣いたりしない。心配そうな義勇に、痛くない平気だと笑ってもみせた。怖いものなんて、ないのだ。痛いと泣いたりなんかしない。
 だけど、義勇に嫌われるのだけは、どうしようもなく、怖い。考えただけで、胸が痛くて痛くて、心臓を切り刻まれているような気がしてくる。
「……杏寿郎、変なこと言い出して悪かった。ホラ、これを買ったら買い物は終わりだ。レストラン行くんだろう? クリスマスディナー、楽しみだな」
 穏やかな声でうながされても、杏寿郎の体は動いてくれそうになかった。つま先からじわりと凍りついていくようだ。勝手に手足が震えだすのを気づかれぬようにすることすらできない。なんて不甲斐ないんだろう。でも、怖いのだ。
「言っただろう? おまえはやさしい犬だって。怖くなんてないし、嫌いになんかならない」
「うん……」
 義勇はやさしく笑っている。笑ってくれる。だけど不安は消えない。怯えは、義勇に嫌われるかもという焦燥だけではないのだ。杏寿郎は恐る恐る口を開いた。
「義勇……なにも、ないか?」
「なにもって、なんだ?」
 からかうようなひびきに、ムッと口をへの字に曲げる。義勇の瞳に映るその顔は、我ながら癇の強い子供のようだ。扱いにくく生意気だと思われそうな顔をしている。だけどここは引けない。
「ごまかさないでくれ。中三のときみたいに、隠してるんじゃないのか?」
「もしそうなら、錆兎たちがとっくにおまえに言ってる。隠そうとしたって、錆兎や真菰にはバレるに決まってるしな。どうせ頼み込んでるんだろう? 俺になにかあったら、すぐに連絡してくれって」
 義勇はいかにも苦笑いだ。
「授業はほとんど錆兎たちとかぶってるし、バイト先でも村田がフォローしてくれてる。いつも信頼できる誰かしらと一緒にいるんだ。おまえが心配するようなことは起きてない」
「……本当か? それならいいが、なにかあったらすぐに言ってくれ」
「ん……。大丈夫だ。怖いことなんて起こらない。きっと。だから、ホラ、笑え」
「……ひひゅう、いひゃい」
 荷物を床に置き、杏寿郎の頬を両手でむにっとつまんで引っ張る義勇は、ご満悦といった体だ。クフクフと笑っている。
「子供のころと違って、あんまり伸びないな。餅みたいにやわらかかったのに」
 むにむにと頬を上げ下げさせるのはやめてほしいのだが。地味に痛い。
 お返しとばかりに、杏寿郎も義勇の頬を両手でグッと挟む。むにゅっとつぶれた頬とタコみたいに突き出された唇に、知らず杏寿郎の目がたわんだ。ブサイクな顔だ。でも、かわいい。

 どうしようもなく。途方もなく。どんな顔になっても、義勇は、誰よりもかわいい。たとえ顔中しわくちゃになり、頭なんてツルツルになったとしても、絶対に義勇はいつまでだって、杏寿郎にとって誰よりも愛おしくかわいいままだ。

 キュウッと眉を寄せ、義勇はますます杏寿郎の頬を引っ張ってくる。杏寿郎も義勇の頬をぐりぐりと手のひらでこねる。いったいなにをしてるんだか。互いに呆れが目に浮かんで、ククッと肩が震えたのは同時。手を離したタイミングも一緒で、フハッとそろって小さく吹き出した。
 人気は少ないとはいっても、無人じゃない。チラチラと視線が注がれているのには気づいたが、ちっとも気にならなかった。だって義勇が笑っている。これ以上に大事なことなんて、杏寿郎にあるわけがない。

 不安はいつのまにか消えていた。