にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 3

 美術展示のエリアはさほど広くはなかった。
 水族館自体が美術館よりもこじんまりとしているのだから、当然かもしれない。それでも、テラコッタの作品が並ぶさまはそれなりに圧巻だ。
 というか、心なしあっけにとられる光景だった。

「カバというのは、彫刻のモチーフとしては普通なのか?」
「うぅむ……それはわからないが、とりあえず、これはすごいなっ」

 全長一メートル八十センチにもなるカバは、さすがに驚く。杏寿郎の身長よりも、わずかばかりとはいえ大きいではないか。しかも巨大なこのカバも素焼き製だと書いてあるのだ。義勇もちょっと呆然として見えた。
 どうやらカバばかりを厳選したわけではなく、もともとカバが好きでカバをモチーフにした作品を作っているのだと、パンフレットにはあった。自らカバ製造業と名乗っている人らしい。思わず見合わせてしまった顔が、そろってほころんだ。

 俺が義勇馬鹿なら、この人はカバ馬鹿だな。うむ、これだけの作品を作り続ける心意気やよしっ! 俺も見習わねば!

 巨大なカバはともかく、ひしめきあう小さなカバの置物は、見ているとかわいく思えてくるのが不思議だ。杏寿郎が勝手にカバに負けん気を燃やしていることになど、ちっとも気づかぬ義勇は、小さめの置物をまじまじと見つめ、姉さん好きかなとつぶやいている。
「ここにも土産物は置いているようだが、どうせなら夕飯の前にほかの店も見てみよう。駐車場に一度戻って荷物を置いてから、食事をして、それからイルミネーションを見に行く。そんなものでどうだろうか」
「それでいい。イルミネーション、どうせ有料のも見に行くんだろう? 全部割り勘だからな」
 機先を制されてしまった。手を握るのは許してくれても、杏寿郎にだけ散財させるのは言語道断というところだろう。
 思わず眉を下げた杏寿郎だが、負けてばかりもいられない。
「わかった。なら、土産も全部割り勘だなっ。蔦子姉さんや錆兎さんたちへのも一緒に買おう。あぁ、車のお礼に村田さんのぶんや、書き入れ時に休んだ詫びとしてバイト先へのも忘れないようにしなければな」
 パッと向けられた義勇の顔が、しまったと書いてある。してやったりと、杏寿郎は満足気に笑った。
 義理堅い義勇は、デートとはいえこういう場所に来たなら、必ず土産を買い込むはずだ。結構な金額になるだろうに、共通の友人や家族へのものならともかく、バイト先のぶんなど杏寿郎に出させるわけもない。どう言いくるめようかと思っていたが、渡りに船だ。
「……ズルい」
「義勇が言い出したんだぞ? ホラ、金魚見よう」
 笑って手を引けば、少しすねた顔をしながらもうなずいて、スモモに似てるのもいるかなとつぶやく。照れ隠しなのがみえみえの言葉だが、なんだかちょっぴり子供っぽいのがかわいい。
「それはどうかな。スモモに似ていたら、それはもう鯉じゃないだろうか」
「違いないな」
 フハッと笑った義勇に、杏寿郎もつられてふにゃりと笑んだ。
「金魚が大きくなってもフナに似るだけだと思うが、スモモは特別製だな」
「世界で一匹のか? それはちょっと、かわいそうだな」
 ふと寂しげになった声音と、少しふせられた目に気づき、杏寿郎は握る手に力を込めた。
「それならスモモに嫁でも見つけてやろう。次の夏に帰省したら夏祭りに行って、金魚をすくえばいい。きっと千寿郎も喜ぶぞ」
「……スモモって、オス?」
「……たぶん」
 沈黙は短かった。見合わせた目が同時に細まり、そろって小さく吹き出す。
「そういえば、どちらなのか調べたことがないな」
「どっちにしても、すくった金魚をすぐに池に入れたら、嫁さんや旦那になる前に餌になっちゃうんじゃないのか?」
「うぅむ……スモモは狙ってくる野良猫さえ、逆に食いかねないほどだからな。それはあまりにもむごいか。うむ! ならば嫁にするのは、大きくなるまで家のなかで育ててからだな!」
「大きくなったらお嫁さん?」
「うむ!」
 笑った顔をさらに近づけ、ささやきは内緒話の密やかさ。耳をくすぐる距離での。

「俺も大きくなったぞ、義勇」
「……法改正はまだされてないぞ」

 だいいち、嫁になるのはおまえじゃないだろ。と、見返す目が伝えてくるが、浮かんだ笑みは消えていない。大きくなったらお嫁さんになってくれと、何度もしたプロポーズの答えなんて、いつだって同じだ。だから杏寿郎も落胆なんかしない。

 いいよ。

 それ以外の言葉が返ってきたことなど、一度もないのだ。
 男同士では結婚できないことぐらい、お互い理解する年になっても、杏寿郎は義勇とずっと一緒にいると口にし、義勇の答えも変わらなかった。恋だと知らずにいたころでさえ。
 恋だと知って、恋だと告げられた今も、これから先も、きっと変わらない。
 胸をジンと熱くさせる甘やかな喜びに、杏寿郎の顔はとろけんばかりとなる。
「法律が許さなくても、父上たちや蔦子姉さんは絶対に許してくれるぞ。宇髄たちもだ」
「知ってる」
 吐息だけで笑った義勇が、唐突に杏寿郎の鼻先をピンッと指で弾いた。
「痛っ」
「体が大きくなっただけじゃ駄目だろ。一緒に暮らすのはまだ早い」
「……大学生になってもか? 錆兎さんたちだってほぼ同棲してるようなものだと、義勇も言っていたじゃないか」
 不満を見せぬよう抑えたつもりでも、声は我ながらふてくされて聞こえた。義勇の笑みが苦笑に変わる。
「よそはよそ、うちはうちと、瑠火さんが言ってるのを聞いたことがあるが?」
「むぅ、母上を持ち出すのはズルいだろう。だが……」
 フフッと面映ゆさをこらえきれずに杏寿郎が笑ったのに、義勇が、ん? と首をかしげた。

「まだ早いと言うなら、いつかは必ず俺の嫁になってくれるってことだからな。うれしい」

 予想外の返しだったんだろう。義勇の顔がポケッとあどけなくなり、たちまち赤く染まる。
「何度も言わなくていい。あれだけ大泣きで約束しろと迫られたら、守らないわけにはいかないだろう?」
 視線を少しそらせて口早に言った義勇に、今度は杏寿郎のほうが、うぐっと絶句する番だ。ボンッと顔だって赤くなる。
 義勇の目が、どことなし遠くを見るように細まった。幼子を見るような風情なのが、悔しさをかき立てる。
「あれを持ち出すのも、ズルいぞっ。忘れてくれとは言わんが」
「忘れなくていいのか?」
 からかうような口調だが、寄り添う距離は変わらず、繋ぎあった手もそのままだ。
「いいんだ。義勇といつか笑って話し合う日が楽しみだからな。だが、今は勘弁してくれ。恥ずかしくてたまらん」
「……うん。それは、楽しみだ。今日のことも、いつかたくさん話せるといいな」
 微笑みはやさしくて、手の届かない星を見上げるようだった。
 なんでだろう。義勇は笑っているのに、ソワリと胸の奥を、冷えた手で撫でられたような心持ちになる。
「義勇……」
 理由もわからず浮かび上がった不安に、自然と出た呼びかけは、少し弾んだ義勇の声に抑え込まれた。
「きれいだな。イルミネーションの前哨戦って感じだ」
 気がつけば金魚のエリアの入り口に立っていた。な? と同意を求めてくる義勇の眼差しは、もういつもどおりだ。
 見回したエリアは黒い衝立に囲まれている。いたるところに置かれた丸い水槽には、すべて金魚が泳いでいるんだろう。衝立にも円形の水槽が埋め込まれていて、色とりどりの光を発していた。じつにカラフルでどことなく幻想的だ。
「ソファは奥か?」
「あ、あぁ……そうみたいだな」
「そうか。まずはこのエリアを見てまわってからだな。時間は大丈夫か?」
 誤魔化しているような感じはしない。義勇の声は少し弾んでいる。笑う顔はちょっとあどけなかった。
「ホテルまで五分もかからないし、買い物によほど時間を取られなければ大丈夫だろう」
「……パワースポットに時間をとられなければの間違いじゃなくて?」
 返された言葉は今度こそからかいめいている。杏寿郎は思わず軽く目を見張った。

 浮かれてる。義勇が。まるであの事件が起きる前の、義勇みたいに。

 少しの不安は、沸き立つ歓喜に鳴りを潜めていく。だいいち、心配することなどなにもない。
 毎日交わすメッセージでも、週末の電話でも、義勇はなにも変わりなかった。今日だって変わった様子は見られない。
 なにかあれば必ず教えてくれと、錆兎たちにもこっそり頼み込んでいるが、誰からも連絡はなかった。
 宇髄たちにだって、義勇が相談している気配はない。もししているとしても、杏寿郎に言うまでもないと判断される程度のものだろう。でなければ、どんなに義勇が杏寿郎には内緒にと言ったところで、彼らは絶対に杏寿郎に伝えてくれるはずだ。義勇の身に危険が及ぶことならば、杏寿郎に告げぬという選択肢はない。
 というよりも、義勇だけでことにあたろうとするのにこそ、危惧も大きくなるのだろう。末っ子扱いは健在だ。義勇本人の認識はともかく、杏寿郎は義勇の保護者というのは、周囲の人々の共通認識なのだ。
 心配はいらないかと、小さく苦笑すれば、義勇の浮かれた調子に杏寿郎だってつられる。
「ゆっくりと愛を語らうなら、二人きりでがいい。本番は夜に」
 からかいなど一切ない声音でささやけば、一瞬の絶句のあと、ドンッと足を踏みつけてくる。意趣返しにしては手荒すぎないだろうか。
「痛いぞ」
「変なこと言うからだ。バカ犬っ」
 ツンとそっぽを向く横顔に、クスリと笑う。
 義勇はたまに杏寿郎を犬扱いする。仔犬にさえちょっぴり怯える義勇が、杏寿郎なら撫でられるからうれしいと言うのなら、杏寿郎に文句なんてない。義勇こそ、気まぐれで寂しがり屋な猫みたいだろうなんて、言わずにおく。
 さっと見回した周囲に、人気はなかった。ショップやカフェにみないるんだろう。
「ワンッ」
 小さく吠えてペロリと頬を舐めてやったら、義勇の海の瞳が、水槽よりもまあるくなった。そこに映る自分の顔は、杏寿郎自身の目にも幸せだと書いてある気がした。