杏寿郎が初めて義勇の前で泣きに泣きわめいたのは、義勇がランドセルを見せてくれたときだ。
春になったら小学校に行くんだよ、おねえちゃんの社長さんたちが買ってくれたんだぁと、うれしそうに笑う義勇に、最初は杏寿郎も笑っていた。大きなランドセルを背負う義勇は、いつもよりもっとお兄ちゃんに見えたけれども、とてもかわいかったので。
だけれども、俺のランドセルはいつ買うのですかと母と父に聞いたら、おまえはまだ小学校には行けないと言われ、その笑みもたちまち曇った。
「なんで、ぎゆうといっしょではだめなのですか?」
「だっておまえはまだ四歳だろう。義勇はもう六歳なんだぞ。二つ上だ。おまえが小学校に行くのは、二年あとだ」
ショックなんてものではなかった。この世の終りが来るとしたら、まさに今このときだとさえ言えただろう。
「ぎゆうは六さいになったけど、おれだって五月になったら五さいです! いっこしかちがわないのに、なんでですかっ!」
「そりゃ、おまえ……義勇は早生まれだからな」
なんということだ。早生まれとやらが義勇と自分を引き離してしまう。これまでずっと、幼稚園に行くのも帰るのも、手を繋いで一緒だったのに。
母を急かして早く早くと義勇の家に行って、ぎゆうおはよう! と声をかければ、おはよう杏寿郎と、明るくて可愛い笑顔で義勇は駆けてきてくれた。お迎えだって蔦子が先なら一緒に母を待ったし、蔦子の仕事が遅くなるときは迎えに来た母とともに、一緒に杏寿郎の家に帰るのが当たり前だったのだ。
いつだって、どこに行くのだって一緒だし、いつでも手を繋いで歩いた。なのに、なんで別々にならなければならないのか。
幼稚園でだって、義勇の組にばっかり行きたがる杏寿郎に根負けした先生たちが特別に許してくれたから、ほとんど一緒に過ごしていたというのに、なぜそんな仕打ちをうけるのかがわからない。
大きな涙の粒が見る間に浮かんで、うっと言葉に詰まった杏寿郎は、オロオロとする義勇を見てとうとう大きな声をあげて泣き出した。
「いやですっ! ぎゆうといっしょがいい! ぎゆうといっしょにしょうがっこうにいきます! おれもぎゆうといっしょにいくっ!」
納得なんてできるはずもない。義勇にしがみついて、義勇が着ていたトレーナーを涙と鼻水でぐしょぐしょにするほど、杏寿郎はわんわんと泣き続けた。
しまいには、義勇までもが「ごめんね、一緒にいられなくてごめんね」と、謝る必要もないのにしくしく泣き出して、めでたいはずのランドセルのお披露目は、まさに愁嘆場と成り果てたものだ。
ちなみに、杏寿郎が義勇に初めてプロポーズしたのもまた、その日である。
泣きながら、大きくなったらお嫁さんになってずっと一緒にいてくれる? と聞いた杏寿郎を、いまだに父はちゃっかりしすぎだろうと、ちょっと遠い目をして言う。うん、いいよと義勇が答えてくれるまで、さらに泣くぞと言わんばかりに凝視していたうえ、義勇に指切りさせてやっと泣き止んだと青筋を浮かべて言われるたび、自分でもたしかにと思わなくもない。が、それでこそ小さくとも俺だと、褒めたくもなるのだから、筋金入りの義勇馬鹿は今後もますます強固になっていくことだろう。
もう少し蛇足を続けるなら、父だって自分が義勇のランドセルを買えなかったことをいまだに悔しがるのだから、充分義勇馬鹿だと思う。負ける気はさらさらないが。
さて、そんな初の大泣きに続いての二度目の涙はうれし泣きであったけれども、三度目となると、誰にも語りたくはない。義勇と杏寿郎だけの、秘密の夜の出来事だ。
秘密と言うには筒抜け過ぎて、不死川や伊黒には秘密の意味を調べてこいと言われそうだが、具体的なことはどんなに宇髄に事情聴取されても頑として答えていないので、間違ってない。それに、あの夜の涙を義勇以外に知られたくもなかった。
恥ずかしくて、ちょっと不甲斐なくも思えたけれど、それでも一生忘れられない思い出だ。義勇にも忘れないでいてほしいと思う。
いつか二人とも年をとったら、のんびりと茶でもすすりながら、あんなこともあったねとひとつ屋根の下で笑いあうのだ。そのころにはきっと、義勇も子供扱いなどしないでくれているはずだ。
……いや、弟扱いを思い出して甘やかそうとしてくるか? まぁ、いい。どうせ二人とも白髪頭でしわくちゃな顔をしているはずだ。久しぶりの子供扱いも楽しかろう。
とにもかくにも、四度目がこれではあんまりだ。あまりにも酷い話ではないか。宇髄と不死川は大笑いするだろうが、伊黒には、だからなんでおまえの知能は冨岡が関係すると地を這うのかと、冷ややかな目で見られることだろう。義勇馬鹿じゃなくただの馬鹿者だろうがと、チベットスナギツネな顔をされるのは間違いなしである。
内心冷や汗が止まらない杏寿郎だったが、義勇はそれ以上たしなめてはこず、帰ろうとも言い出さないでくれた。
「彫刻、先に見るんだろう?」
そう言って、ほのかに笑ってもくれる。
「う、うむ! あ、すまないっ。小さな声で、だな」
「うん。子供がビックリしてるからな」
クスッと笑みまじりに言われて周りを見れば、なるほど、周囲の視線が集まっている。やたらと衆目を集めてしまうのは慣れっこだが、デートでこれはいただけない。
思わず頭をかき、杏寿郎は照れ隠しに笑ってみせた。
「静かにまわろう」
「そうしてくれ」
苦笑というよりは若干からかいめいた声音に、ちょっとだけ唇をとがらせて、杏寿郎は意趣返しとばかりに義勇の顔を覗き込んだ。
「義勇も、似合う。初めて見る服ばかりだな」
もしかしてこの日のために誂えてくれたのかと、期待して聞いたのだが、答えはつい目が据わるものだった。
「いや、コートとニットは錆兎に借りた」
「……へぇ、それは錆兎さんの服だったのか」
ゆとりのあるサイズなのはそのせいか。心ならずも低くなった声に、義勇がぎょっとしたように目を見開いた。
「新しい服を買う予算はないと言ってるのに、真菰が錆兎のを貸すからオシャレしろと聞かなかったんだ。でも、スニーカーやズボンは自分で買ったっ」
いかに恋愛ごとに疎い義勇でも、恋人がほかの男の服を着ているなんておもしろくないことぐらいは、わかるのだろう。おまえとだって服の貸し借りはするだろう? と、不思議そうな顔で言い出されないだけマシか。
真菰への感謝や、錆兎をいい人だと思うのにだって、変わりはないのだ。まぁ、それぞれが独り身でいたのなら、嫉妬はもっと深かったかもしれないが。
義勇に紹介されて逢った二人は、仲睦まじいカップルだ。自分も義勇とこんなふうになりたいと思えるお手本でもある。義勇と杏寿郎の仲だって、おせっかいに咎めだてるどころか、祝福してくれた。あからさまな悋気を見せれば狭量がすぎる。
「……その、怒ってるか?」
オズオズとした声に、杏寿郎は、浮かべかけた笑みを引っ込めた。ふむ。と、ちょっと考え、義勇の耳に顔を寄せる。
「怒ってない。でも、ちょっと悔しいから、手を繋いでもいいか?」
駄目? と覗き込む視線で問えば、義勇はパッと頬を染め、キョロキョロと視線をさまよわせたが、小さくうなずいてくれた。
笑み崩れて手をとった杏寿郎を、ちょっぴり睨みつけはしても、キュッと握り返してもくれる。
頭のなかでは、ちゃっかりしすぎだと言ってるだろうがと、父がこめかみに青筋を浮かべているが、義勇に対してだけですとにこやかに返してお帰りいただく。楽しいデートに家族の怒り顔など無用の長物である。いやいや、ちゃんと尊敬しているけども。とりあえず、土産を奮発することにしよう、うん。