にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 3

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 決意も新たに寄り添い入った美術館は暖かい。ほぅっと息をつく義勇を横目に認め、杏寿郎こそホッとする。
 今日は晴れているしまだ日も高いとはいえ、真冬であるのに変わりはない。しかもここは高原だ。同じ県内でも義勇が住む街にくらべれば標高が上がるぶん、気温はだいぶ低い。
 駐車場から美術館まで大した距離でもなかったが、寒がりな義勇は、歩いてくるあいだじゅういかにも寒そうに首をすくめていた。それでも、迷わず手を繋いでくれたのは寒さばかりが理由ではないはずだ。わかるから杏寿郎は幸せを噛みしめる。
 とはいえ、さすがに館内でも手を繋いだままは、恥ずかしくて嫌なんだろう。そろっと離れていった義勇の手がちょっと残念だけれども、義勇が嫌がることなどしたくないからしょうがない。

「美術館というのは、なかなかおもしろいものだな」
「そうだな」

 少し顔を寄せてかわす会話は声量控えめだ。レストランの予約は十八時半。現在の時刻は二時半を過ぎたばかりで、まだまだ時間には余裕がある。
 杏寿郎は、傍らに立つ義勇を視線だけでうかがった。
 義勇の眼差しはまっすぐ展示物に注がれている。相槌こそそっけないが義勇も楽しんでいるのが見て取れ、杏寿郎はこっそり胸をなでおろした。
 今後のデートは美術館を選択肢に入れてもいいかもしれない。そんなことを考える杏寿郎の唇には、知らず穏やかな笑みが浮かんでいた。

 楽しんでくれているようだし、義勇は寒がりだから、散策するよりもここで時間をつぶすほうがいいだろうか。温泉に入ってもいいが、湯冷めしては大変だ。それはもっと暖かい時期にするべきだろう。

 熱心に作品を見るふうを装っていても、杏寿郎の思考はすぐに義勇で占められてしまう。
 美術関連に造詣の深い宇髄とは違い、杏寿郎には彫刻の良し悪しなどよくわからない。義勇だって同様だ。
 せっかく遠出したのだし無料ならばと美術館の展示も見ることにしたのはいいけれど、本音を言えば杏寿郎は少々不安だった。彫刻を見ても理解できるかあやしいものだし、デートだというのに盛り下がっては元も子もない。
 だが杏寿郎の不安など杞憂にすぎず、義勇は杏寿郎の解説などはなから期待していなかったとみえる。作品を見る義勇の表情は無愛想ながらもやわらかいが、杏寿郎に質問する気はさらさらないようで、入り口でもらったリーフにたびたび目を落としていた。
 義勇に解説を求められても、わからんとしか返せないのだから、いいんだけれど。杏寿郎にも説明してくれる気遣いが、うれしくもあるのだけれども。でもやっぱり、ちょっとばかり悔しい。
 こんなことで悔しがること自体が、まだまだ子供だという証明なんだろう。思えば焦りと苛立ちも少し。大人の男への道は険しい。

 常設されている作家の作品は、主に木彫りの像だった。
 ぬくもりを感じる作風の像が並ぶ空間は、清々しい木の香りがしている。デフォルメされたフォルムの動物や子供の像はもちろんのこと、鬼の像でさえ思わず笑みが浮かぶほどには愛らしい。審美眼などなくとも、見ているだけで癒やされる心地がする作品ばかりだ。
 それでも杏寿郎の視線は、作品群ではなくそれを鑑賞する義勇のやわらいだ横顔へと、知らず識らず向かってしまう。癒やされるという意味では義勇以上のものなど存在しないので、杏寿郎にとっては至極当然な帰結だ。

 ゆったりとした歩みで一つひとつ作品を見ていく。駐車場は満車に近かったが、美術館にはそれほど客が多くないのがありがたい。
 杏寿郎だって人が多い場所より開放的な空間を好んでいるが、義勇は杏寿郎以上に人混みが苦手なのだ。
 本音を言えば、金銭面だけでなく人出の多さも杏寿郎にとっては懸案だった。義勇を疲れさせてしまってはクリスマスデートも台無しではないか。
 ならばイルミネーションなど見たがるなと不死川あたりには睨まれそうだが、それはそれ、これはこれだ。だってクリスマスだし。だって、恋人なんだし。義勇に楽しんでもらえれば結果オーライだ。
 なにせクリスマスといえば、恋人たちにとっては一大イベントである。だというのに、去年は千寿郎に慰められつつ泣く泣く家で過ごさざるを得なかったのだから、多少は浮かれても許されると思うのだ。
 当然のことながらインフルエンザになった義勇を責める気は微塵もない。離れて暮らさねばならない自分の年齢こそを杏寿郎は呪いたくなったものだ。今年は絶対に思い出に残る一日にしたい。
 もちろん、義勇と過ごせるなら家で卵かけご飯のクリスマスになろうとも、杏寿郎にとって思い出の一日になるのは確実だけれども。

 観光客の多くはスポーツや温泉を楽しんでいるんだろう。人気の少ない美術館は、場所柄もあってかチラホラと見かける来館者たちの話し声も囁きばかりで、ずいぶんと静かだ。自然と杏寿郎の声も密やかになる。
 会話は内緒話のように顔を寄せ合ってとなり、杏寿郎の機嫌はうなぎ登りだ。義勇だって人前でのこの距離を咎めてこない。映画館とは違って、ずっと話していたって誰の迷惑にもならずにすむから、義勇に怒られることもない。

 美術館バンザイ。うむ。今後のデートはやっぱり美術館を視野に入れよう。

 穏やかながらもウキウキしつつ、ゆっくり見てまわったはずだったが、最後の展示にたどり着くまで一時間もかからなかった。少々残念だがひそひそ話の距離感は終了だ。
「夕飯まで時間はまだまだあるが、そろそろ水族館に行ってみようか」
「そうだな」
 杏寿郎にとってここでのお目当てはあくまでも金魚――というか、愛のパワースポットだ。
 なんで金魚が? と首をひねりたくなる眉唾加減だが、まぁいい。金魚を見ながら愛を語らいあえば水の精霊の恩恵が受けられるという謳い文句が気に入った。商魂たくましいとも思うが、そこは大人の事情というやつだろう。
 もっと信憑性に富んだパワースポットだって探せばいろいろあるだろうが、正直なところ興味はない。水の精霊というワードがなければ、ここにだって関心を持つことはなかっただろう。
 恋愛にかぎらず、神頼みは杏寿郎の性に合わない。神にすがるより己の力を振り絞るほうが、どんな結果になろうとも後悔は少ないはずだ。
 それでも義勇と来たかった理由なんて単純明快、義勇はなんとはなし水を思わせるのだ。澄んだ青い瞳のせいかもしれない。
 凪いできらめく南国の海のようでもあり、静謐で神秘的な深海の色を見せることもある、義勇の瞳。それは穏やかなばかりではなく、ときに荒波の強さを見せることもある。さまざまな表情を見せるその瞳は、いつでも豊かな海に似た輝きを放ち杏寿郎を魅了する。本当に水の精霊とやらがいるとしたら、義勇にどこか似ているに違いないと思わせるほどに。
 
 ときどき杏寿郎は義勇の瞳を見つめながら、スモモはいいなと思うことがある。この瞳の海で一生泳げるのなら、自分も魚になりたい。そんなことをわりと本気で考える。今もふと頭に浮かんだのは、家の池で今ごろ我が物顔で泳いでいるはずの、もはや鯉じゃないかという金魚の姿だ。

 スモモは金魚だから、海では泳げないだろうが……いや、そうでもないか。スモモなら海でも平然と生きていける気がしないでもない。うむ、それはもう金魚じゃないな。金魚じゃないなら鯉か。鯉も淡水魚だが、スモモならばおそらく問題ないだろう。なんなら大海の主にもなれるかもしれん。

 うんうんと杏寿郎が無意識にうなずいていると、義勇がキョトンと首をかしげた。
「行かないのか?」
「いやっ、その、夕飯までの時間を考えていた!」
 気恥ずかしくなってついいつものトーンで言ったら、コラッと控えめなお叱りが飛んできて、唇をちょんと指先で抑えられた。
「こういう場所で大きな声は駄目だ」
「……ごめん」
 小さい子にするような仕草と上目遣いに、悔しいやらときめくやら。
 すぐに離れていった指先を、パクリと食んでしまいたい。チュッと吸い付き舌でなぶれば甘く息を震わせる義勇の姿を、杏寿郎はもう知っているのだ。
 ゾクリと背筋を走る震えに、自分の意思ではままならない部位が「出番ですか?」と頭をもたげかける。

 まだ早い! おとなしくしてろ!

 胸中でわめきたてつつも、杏寿郎はことさら明るく笑ってみせた。
「水族館にも彫刻の展示があるみたいだ。先にそっちを見てみないか?」
 今すぐ愛の語らいというのは、ちょっとマズイ気がする。義勇の瞳が甘く揺らめくのを見たりしたら、時と場所も考えずにキスしてしまいそうだ。今年の正月に食らった平手は痛かった。あれはもう勘弁願いたいと、杏寿郎はブルリと背を震わせた。
「じゃあ、そうするか」
 幸いなことに、義勇は杏寿郎の焦りには気づかなかったらしい。こともなげにうなずき、出口に向かって歩きだしている。
「杏寿郎?」
 五歩ばかり進んだところで、義勇が振り向いた。歩きださない杏寿郎をいかにも不思議そうに眺め、コテンと首をかしげるのがかわいい。
「あ、いや、その……」
 とっさに歩きだせなかった理由など言えるわけもなく言いよどめば、ふと義勇の顔にやわらかな笑みが浮かんだ。

「おいで」

 やさしい声と微笑みで差し伸べる誘いの手は、愛しい恋人に向けたものなのか、それとも愛すべき弟に対してのものなのか。
 いずれにせよ、悔しさもうれしさも、同じだけ杏寿郎の胸をキュッと締めつける。
 無言で歩み寄り、杏寿郎は義勇の手をとった。指を絡め恋人繋ぎにしたのは、悔しさのほうがほんの少し大きかったからかもしれない。
 パチリと一つまばたいた義勇は、ちょっぴり頬を染めマフラーに顔をうずめはしたが、手を離そうとはしなかった。だから杏寿郎の胸はまた、あふれかえる愛おしさと少しの切なさに、トクリと音を立てる。

 ほら、ちゃんと恋人だ。

「行こう」
 穏やかにうながせば、コクンとうなずいてくれるから、杏寿郎も微笑み歩きだした。
 エスコートを務めなければならないのに、またもや不甲斐ないところを見せてしまった。頼りがいのある恋人になるというのは本当にむずかしい。年上の恋人を持つ先輩諸氏は、どうやってこの難題を乗り越えてきたのだろう。
 だがむずかしいからこそ、やりがいもある。努力なくして道は拓けない。
 義勇に楽しい一日だったと笑ってもらい、杏寿郎と一緒に暮らしたいと思わせる。それが本日の目標だ。前者はともかく後者のハードルは高そうだが、負けるものか。
 知らず力のこもった杏寿郎の手を、義勇もそっと握り返してくれた。道は険しいが、暗くはない。はずだ。
 期待とときめきはいや増すが、どうにかやんちゃ坊主はおとなしくしてくれたようである。杏寿郎は安堵のため息を内緒で飲み込んだ。
 バッグに潜ませてきた小さな箱の出番には、まだまだ時間が早すぎる。盛り上がる前に終了は勘弁してほしいものだ。

 美術館を出てほんの三メートルも歩めば、巨大な温室めいた水族館に着く。なかにはショップやカフェもあるからか、美術館よりも来館者は多かった。
 日本最大級が売りだけあって、リゾート内でもイルミネーションと並ぶ見どころなのだろう。親子向けのワークショップなども開催されていて、こちらのメインターゲットは家族連れだと知れる。美術館の静謐さと比べ、子供たちの明るい声が響きにきやかだ。
 壁が全面ガラス製な建物だからか、それとも人が多いせいなのか、館内は先よりずっと暖かい。マフラーとコート姿のままでは杏寿郎には暑いぐらいだ。
 けれどもコートを脱ぐなら、義勇の手を離すことになる。これだけ人目があると、一度離してしまったが最後、恥ずかしがりやな義勇は少なくとも館内ではもう手を繋ごうとはしないだろう。
 ためらう杏寿郎の心中などおかまいなしに……というか、むしろお見通しだったんだろう。義勇の秀麗な顔にわずかばかりの苦笑が浮かび、指がほどけた。
「また外に出たとき、よけいに寒くなるから」
 言いながら離れていった手に、杏寿郎も渋々ながらうなずいた。
 手を繋いでいたくないわけじゃない。言葉の裏に感じるなだめるひびきは、やっぱりどことなし子供扱いめいている。

 いや、汗をかいたまま外に出れば風邪を引くかもしれないという、気遣いだ。義勇のやさしさだ。不満げにしては罰が当たる。

 吐息とともに小さな不満を捨て去り、杏寿郎はするりとマフラーを外した。義勇がくれた大事なマフラーだけれど、首周りの温度が下がっただけでも少しホッとする。ニットがVネックなのが正直ありがたい。
 派手に熱い男だってのに本人が暑がりとはねぇと、宇髄にはケラケラと笑われるが、体質はどうにもならない。どんなに暑かろうと義勇を抱きしめて眠る根性だけあればいいのだ。こんなところで我慢する必要はなかろう。
「すまん、ちょっと持っててくれ」
 コートも脱ごうと義勇にマフラーを差し出したが、返事がない。ん? と視線を向ければ、なぜだか義勇は杏寿郎の襟元を凝視していた。
「義勇?」
「あ、あぁ。悪い」
 なぜか慌ててマフラーを受け取り、そそくさと視線を外すから、杏寿郎の疑問は深まるばかりだ。体調不良には見えないが顔が赤い。
「……全部宇髄か?」
「ん? あぁ、服の話か。そうだが……なにかおかしいところがあるか?」
 大人っぽくという杏寿郎のリクエストに応え、派手好みの宇髄にしてはおとなしめなコーディネートだ。母や千寿郎にも似合うと太鼓判を押してもらった。
 とはいえ、義勇に気に入られなければ意味はない。少し不安になって問えば、義勇はフルフルと首を振った。
「いや、似合う」
「それならいいが……大丈夫か? 顔が赤い」
「へ、平気だっ。俺もちょっと暑くなっただけだ」
 額に触れようとした手を避けられ、杏寿郎の眉がちょっぴり下がる。顔だってそむけられたままだ。けれども問い詰めればきっと義勇はへそを曲げるだけだろう。
「一度外に出たぶん、温度差も激しく感じるのかもしれないな」
「……そうだな」
 笑いかけ、この話はおしまいとコートに手をかける。……なんだかやけに義勇の視線を感じるけれども、気のせい……では、ないような。
 顔をそらせたくせに、義勇は横目でチラチラとうかがってくる。いったいなんなんだろう。だが、不快げな感じはまったくしない。
「俺も脱ぐ」
 コートを小脇に抱えたと同時につぶやいた義勇のセリフに、ドキリとする。

 おい、まだ出番じゃない。おとなしくしてろと言ってるだろう!

 またもや反応しかけた自身を、胸中で怒鳴りつける。我ながら反応が良すぎて、思わず天を仰ぎそうになった。
 でもしょうがないだろうとわめきたくなる口を、杏寿郎はグッと引き結ぶ。何度か聞いたし杏寿郎も口にしたこの言葉は、主に義勇の狭いアパートで、そういうときに聞くものになって久しい。パブロフの犬も真っ青な条件反射だ。
「杏寿郎?」
 黙り込んだ杏寿郎を訝しんだか、今度は義勇のほうが不思議そうに呼びかけてくる。
「あぁ、すまん。ありがとう」
 差し出された自分のマフラーを幾分ぎこちなく受け取り、コートと一緒に抱える。そのあいだも、義勇が青いマフラーに手をかけるさまから目が離せない。コートを脱ぐ仕草なんていったら、もう。見続けるとマズイと思うのに、どうしても釘付けになってしまう。
 薄着になったわけでもないのに元気すぎて、我ながらあきれ返るというか、嘆きたくなるというか。同級生にエロ本を見せられたって一度も反応したことはないのに、義勇が相手だとこれだ。まったくもって自分でも現金だと言わざるを得ない。
 これは子供の証明なんだか、大人だからなのか。どっちにせよ、義勇が魅力的すぎるせいだ。

 杏寿郎と違って寒がりな義勇が着ているのは、ほのかに赤く染まった頬が映える白いタートルネックのニットだ。首周りが締めつけられているようで杏寿郎は少し苦手なのだが、義勇が着ているのはサイズが若干大きめなのかゆったりとしていて、息苦しそうな感じはない。細身のパンツとあいまって、義勇のスタイルの良さが強調されて見える服装だ。
 ボタンが大きめなコートを着ている姿はずいぶんとかわいく見えたものだけれども、脱げば脱いだで、ゆるっとした白いセーターと脚のラインが強調されて見えるパンツは、肌の露出がないぶん想像がかき立てられいっそ目の毒だ。知らずゴクリと喉も鳴る。
 偶然の一致だろうが、白のニットと黒のボトムは示し合わせたようにお揃いだ。まるでペアルックのように思えなくもない。コートだってお互い明るめのグレーで、形こそ違えどお揃いと言える。宇髄は神か。宇髄大明神と今度から呼ぼう。真菰さんにもお礼の品を買わねば。

「ありがとう。……杏寿郎、どうした? 顔が赤い。熱があるんじゃないのか?」
「いやっ、そんなことはない! 元気がありあまっているぐらいだ!」
 そりゃもう、少しはおとなしくしてくれと困り果てるレベルのやんちゃっぷりで。

 心配をそっくりそのまま返されたセリフにあわてつつマフラーを返せば、義勇の眉がまた、メッと言わんばかりにひそめられた。
「声」
「……す、すまん。つい」
 だってしょうがないだろう。心配だから帰ろうなどと言われでもしたら、人生三度目の大泣きをしそうだ。

 人前で、というか、義勇の前で杏寿郎が泣いたのは、三回きりだ。そのうちの一回は、蔦子の結婚式で二人一緒に静かに零したうれし涙だが、あとの二回の大泣きっぷりは気恥ずかしいというか、なんというか。
 泣いた理由は一見異なるが、どちらも根幹は義勇に対する多大なる恋慕と執着だ。人生初の号泣にいたっては、煉獄家と運送会社で語りぐさになっている。
 黒歴史とは言わない。だってどんなに恥ずかしい出来事であろうと、あの日の結末は杏寿郎にとってはたいへん大事で、たいそうキラキラとしているので。