にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 3

「美術館というのは、なかなかおもしろいものだな」
「そうだな」
 レストランの予約は十八時半だ。現在の時刻は二時半を過ぎたばかり。まだまだ時間には余裕がある。
 杏寿郎は傍らに立つ義勇を、視線だけで窺い見た。
 義勇の眼差しはまっすぐに展示物に注がれている。相槌こそそっけないが、義勇も楽しんでくれているようだ。よかったと、杏寿郎はこっそり胸をなでおろした。
 今後のデートには、美術館を選択肢に入れてもいいかもしれない。そんなことを考え、杏寿郎の唇に笑みが浮かんだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 目当ての水族館は美術館と併設とのことだったが、建物自体は別だった。しかも美術館は無料だが、水族館には入館料がいる。リサーチ済みとはいえ、実際に目にすると世知辛さを感じなくもない。

「水族館だけ有料なんだな」

 杏寿郎がつぶやいたのは無意識だ。
 軍資金は充分に準備してきたが、案の定、義勇は割り勘だと譲らない。あまり金がかかるのは義勇の懐事情を鑑みればアウトである。映画を見るより安いとはいえ、なんとなく不安になったのはしょうがないだろう。
 ホテル代は絶対に自分が出すつもりでいるが、それ以外にも金はかかる。肝心のイルミネーションだって、杏寿郎が義勇と一緒に見たいともっとも思ったものは有料なのだ。予約してある夕食にしても、一人あたり八千四百円。一日分のバイト代が一食でふっ飛ぶ。世のなか金か。世知辛いったらありゃしない。
 あらかじめ相談していたら、義勇は絶対にうなずかなかっただろう。思わず眉間にしわも寄る。
 一旦了承したからには、義勇は決して不快な顔などしない。それはわかっているのだけれど、義勇が大学に合格したその日、毎週行くからと言い張った杏寿郎に、義勇が頑としてうなずかなかったのも事実なのだ。

 義勇の目には、俺はまだ幼い子供に見えているのかもしれない。

 常々杏寿郎が感じている不満は意外と根深い。
 ちゃんと恋人と思われているのは確かなのだが、それでも義勇にとって杏寿郎は、弟という枠に収まっている気がしてならないのだ。
 杏寿郎がちょっぴり喉を痛めただけでさえ、すわ風邪をひいたかと過保護なまでに心配してくれるのは、べつにいい。ふにゃりと笑ってしまうぐらいにはうれしい。だが、恋人になってまで、扱いが昔とまったく変わらないのはいかがなものか。
 恋人になる以前から、杏寿郎はいつだって義勇と一緒にいたかった。なのに義勇は、遠い場所へと進学先を決めてしまった。おまけに恋人になったというのに、逢いたがる杏寿郎を諌めもする。
 毎週来る? そんな無駄遣いをするな。無理をして体を壊したらどうする。眉をしかめたお叱りモードで、絶対に月に一度しか逢うのを許してくれない。それだって、試験が近ければうちにくるよりちゃんと勉強したほうがいいと必ず言うし、部を引退するまでは毎月のように、主将がこんなに休んで部員たちに嫌われないかとまで言っていた始末だ。
 なんとも心配性がすぎる話ではないか。部員たちにはむしろ、主将の稽古は厳しすぎるから休みでラッキーと思われていたらしいのに。
 いやまぁ、杏寿郎がそれを知ったのは、部を引退する日だったのだが。もっと早くから知っていたのなら、心配無用と義勇を説得できたかもしれない。かえすがえすも口惜しい。練習は大事だけれども。後輩たちには最後の稽古で、それなりに喝を入れてきたけれどもだ。
 八つ当たりではない。断じて違う。八つ当たりは十割のうちのせいぜい五分だ。……一割ぐらいはあったかもしれない。
 だからどうしておまえの度量は冨岡が絡んだとたんに針穴になるんだと、伊黒が頭のなかでため息をついた気がするが、諦めてくれとしか言えない。義勇本人に対しては、度量の広い男でいるよう努めているが、そのぶん嫉妬心やら警戒心が周囲に向かってしまうのだ。そうならざるを得なかった理由だってある。
 伊黒もそれを承知しているから、ため息と皮肉でおさめてくれているんだろう。

 ともあれ、昔から義勇はそんな具合で、なにかにつけて杏寿郎を弟扱いする。杏寿郎にとっては悩みの種だ。頼ってくれているようでいて、甘えきってはくれない。ついでに甘やかしてもくれない。
 いや。そうではない。ずっと幼いころには、甘えてくれたし甘やかしてもくれたのだ。たぶん、義勇にとっては年下の、かわいい弟だったから。それを思えば杏寿郎の心中は複雑だ。

 恋はきっと昔から義勇のなかにもあった。そこは杏寿郎も疑ったりしていない。お互いなにより大事な存在だと想い合っていることは、疑いようのない事実だと、杏寿郎は知っている。
 信じているのではない。知っているのだ。ともに過ごした密接な月日のなかで、積み重ねてきたものが教えてくれている。
 だけれども、いや、だからこそわかってもしまう。恋人であるのと同時に、義勇が、杏寿郎を弟扱いしていることも。
 義勇は杏寿郎の言葉にうんうんと微笑みうなずき、たいがいは素直に聞き入れてくれるのだが、線を引くべきところではきっちり引き、踏み越えようとする杏寿郎をたしなめる。顕著なのが金銭面だ。
 杏寿郎より一足先に高校生になった義勇が、レストランでバイトを始めたのも、理由の一つかもしれない。家計の足しにするためなのは明快だが、一緒に遊びに行くときには、杏寿郎のぶんも自分が出そうとする回数がちょっとだけ増えた。杏寿郎が悔しがるから、頻度はそう多くはなかったけれど。
 今日だって、自分が財布から出す分には躊躇しないくせに、杏寿郎が札を取り出すたび、眉がピクンとちょっぴり動く。
 わかるから杏寿郎も、今までは家で二人きり過ごすほうがうれしいと、観光など言い出すことはなかった。デートはもっぱら公園で散歩だ。
 だけれども、今日はクリスマスである。受験も近い。春には杏寿郎もこちらにくることになるのだ。これを機に、弟扱いではなく恋人として頼られるようになり、あわよくば同棲の約束がほしい。
 とはいえ、杏寿郎が強引に我を通そうとすれば、義勇の機嫌を損ねるのも確かである。これ以上はできるだけ金をかけぬようにしたいところだ。

 いくら楽しい一日を過ごせても、明日以降、義勇が卵かけご飯やらふりかけご飯ばかりの食事になるのは、絶対に避けねば。浪費するところなど見せては、同棲も遠のくだろうしな。

「金魚は餌を食べるから、維持費用が美術館よりかかるんだろう」
 杏寿郎の決意を知ってか知らずか、義勇が呆れたふうでもなく言った。
「ふむ、それもそうか。絵や彫刻は飯など食わないが、金魚はけっこう食い意地が張っているしな」
 言われてみればたしかにそのとおりだ。義勇は賢い。杏寿郎の顔が笑みにゆるむ。無意識の独り言に返事が返ってきたのも、杏寿郎に意識を向けてくれているからだと思えば、それもまたうれしかった。
 思わず顔をほころばせた杏寿郎だが、すぐに、自分の失態に内心ほぞを噛む。
 義勇のことばかり考えていたとはいえ、理由に思いいたらぬばかりか、ケチくさいことを言ってしまった。これでは義勇に大人の男として認めてもらうなど、まだまだ厳しい。
 知らず首をすくめてちらりと義勇を窺ったが、義勇は特段気にした様子もないようだ。
「スモモほど食べるのは、そうそういないと思う」
「うぅむ、たしかに」
 クスッと笑った顔も穏やかなものだ。杏寿郎はまた胸をなでおろす。

 クリスマスデートということで、義勇も、杏寿郎が散財することぐらい予想はついていたんだろう。高速道路で行くと言ったときだって、高速は初めてだと少し緊張はしていたが、代金は割り勘と言い張る以外、文句をつけることもなかった。内心では苦虫を噛み潰しているかといえば、きっとそんなこともない。
 義勇が嫌がるなら、杏寿郎はすぐに気がつく。義勇は口下手で言葉が足りないことが多いし、我慢しがちだから、自分が察してやらねばと気を配るうちに、義勇のことなら敏感に察するようになった。高感度冨岡センサー搭載と宇髄にからかわれるのは、伊達じゃないのだ。
 気づくからこそ、気にしているのは自分だけかと、安堵もしたが少しだけ悔しくもなった。

 デート中だろうと、義勇は相変わらず杏寿郎を弟扱いしてくる。恋人らしい夜を何度も過ごしてきたというのに、そこはちっとも変わらない。杏寿郎としては不甲斐ないばかりだし、自分の年齢がますます口惜しくもなる。
 だが、今日はなんとしても、弟分から脱却するのだ。杏寿郎の決意は固い。
 ともに過ごした年月は、杏寿郎のまだ長くもない人生でさえ三分の二以上。その間に培われた義勇の意識を改革するには、自分が頑張るしかないのだ。
 だって、この先の人生は今までよりも、もっとずっと長い。一生一緒にいたいし、絶対にそうするのだから。このままかわいがられるばかりなんて、男がすたる。

 気持ちを即座に切り替えて、さっそくと入った美術館は暖かい。ほぅっと息をついた義勇に、杏寿郎こそホッとする。
 今日は晴れているし、まだ日も高い。とはいえ真冬なうえに、高原だけあって、同じ県内でも義勇が住む街にくらべれば標高が上がるぶん、気温はぐっと低いのだ。駐車場から美術館までは大した距離でもなかったが、歩いてくるあいだ義勇はいかにも寒そうに首をすくめていた。
 さすがに館内でも手をつないだままというのは、恥ずかしくて嫌なんだろう。そろっと離れていったままの義勇の手が、ちょっと残念だけれども、義勇が嫌がることなどしたくないからしょうがない。

 楽しんでくれているようだし、義勇は寒がりだから、散策するよりもここで時間をつぶすほうがいいだろうか。温泉に入ってもいいが、湯冷めしては大変だ。それはもっと暖かい時期にするべきだろう。

 熱心に作品を見るふうを装っていても、杏寿郎の思考はすぐに義勇で占められてしまう。
 芸術関連に造詣の深い宇髄とは違い、杏寿郎には彫刻の良し悪しなどよくわからない。義勇だって同様だ。
 せっかく遠出したのだし無料ならばと、美術館の展示も見ることにしたのはいいけれど、本音を言えば杏寿郎は少々不安だった。彫刻を見ても理解できるかあやしいものだし、デートだというのに盛り下がっては元も子もない。
 だが、義勇も杏寿郎の解説などはなから期待していなかったようだ。作品を見る義勇の表情は無愛想ながらもやわらかい。杏寿郎に質問するなど頭にないらしく、入り口でもらったリーフにたびたび目を落としている。
 義勇に解説を求められても、わからんとしか返せないのだから、いいんだけれど。杏寿郎にも説明してくれる気遣いが、うれしくもあるのだけれども。でもやっぱり、ちょっとばかり悔しい。
 こんなことで悔しがること自体が、まだまだ子供の証明なんだろう。思えば焦りと苛立ちも少し。大人の男への道は険しい。

 常設されている作家の作品は、主に木彫りの像だった。ぬくもりを感じる童子や仏などの像が並ぶ空間は、清々しい木の香りがしている。デフォルメされたころんとしたフォルムの動物や子供の像はもちろんのこと、鬼の像でさえ思わず笑みが浮かぶほどには愛らしい。見ているだけで癒やされる心地がする作品ばかりだ。
 そうはいっても、杏寿郎の視線は作品群よりも、やわらいだ義勇の横顔にすぐ向かってしまう。
 癒やされるという意味では、義勇の存在以上のものなどないので、杏寿郎にとっては間違ってはいない。

 ゆったりとした歩みで一つひとつ作品を見ていく。駐車場は満車に近かったが、美術館にはそれほど客が多くないのがありがたかった。
 杏寿郎だって、人が多い場所よりも開放的な空間のほうが好ましいとは思うが、義勇は杏寿郎以上に人混みが苦手なのだ。
 クリスマス中のリゾート地など、人の群れに紛れ込むようなものである。実のところ、人出の多さも杏寿郎にとっては懸案ではあったのだ。義勇を疲れさせてしまっては、クリスマスデートも台無しではないか。
 ならばイルミネーションなど見たがるなと、不死川あたりには睨まれそうだが、だってクリスマスだし。だって、恋人になったのだし。そのぶん楽しんでもらえば、結果オーライだ。そういうことにしてほしい。
 クリスマスといえば、恋人たちにとっては一大イベントだ。だというのに去年は、千寿郎に慰められつつ、泣く泣く家で過ごさざるを得なかったのだから、多少は浮かれてもいいと思うのだ。
 もちろん、インフルエンザになった義勇を責める気など、微塵もない。義勇を責めるより、離れて暮らさねばならない自分の年齢をこそ、杏寿郎は呪いたくなったものだけれども。それはともかく。今年こそは思い出に残る一日にしたいではないか。
 まぁ、義勇と一緒ならば、家で卵かけご飯のクリスマスになろうとも、杏寿郎にとって思い出の一日になるのは確実なのだが。

 クリスマスという華やかなイベントに浮かれる人たちの多くは、運動施設や温泉などに流れているんだろう。人が少ないだけでなく、美術館という場所柄もあってか、来館者はみな静かだ。自然と杏寿郎の声も密やかになる。
 義勇の声はもともと小さいから、なんとなく会話は内緒話のように顔を寄せ合ってとなり、杏寿郎の胸は次第に悔しさも薄れウキウキと弾んだ。義勇だって人前でのこの距離を咎めてこない。映画と違って、ずっと話していたって誰の迷惑にもならずにすむから、義勇も怒らない。美術館バンザイ。うむ。デートにはやっぱり美術館を視野に入れよう。
 けれども、二百点ほどの展示物を見て回るのに、それほど時間はかからなかった。ゆっくりと見てまわったつもりでも、入ってから一時間も経っていない。

「そろそろ水族館に行ってみるか?」
「そうだな」

 杏寿郎にとって、ここでのお目当てはあくまでも金魚――というか、愛のパワースポットだ。
 金魚が? と思うと、なんとも眉唾ものだが、そこはまぁいいのだ。金魚を見ながら愛を語らい合えば水の精霊の恩恵が受けられるという、謳い文句が気に入った。商魂たくましいとも思うが、そこは大人の事情というやつだろう。うん。

 義勇は、なんとはなし水を思わせるのだ。澄んだ青い瞳のせいかもしれない。凪いできらめく南国の海のようでもあり、静謐で神秘的な深海の色を見せることもある、義勇の瞳。穏やかなばかりではなく、ときに荒波の強さを見せることもある。さまざまな表情を見せるその瞳は、いつでも豊かな海を想像させる。
 ときどき、杏寿郎は義勇の瞳を見つめながら、スモモはいいなと思うことがある。この瞳の海で一生泳げるのなら、自分も魚になりたい。そんなことをわりと本気で考える。今もふと頭に浮かんだのは、家の池で今ごろ我が物顔で泳いでいるだろう、もはや鯉じゃないかという金魚の姿だ。

 スモモは金魚だから、海では泳げないだろうが。いや、そうでもないか。スモモなら海でも平然と生きていける気がしないでもない。……うん、それはもう金魚じゃないな。金魚じゃないなら鯉か。鯉も海は駄目だが……スモモならいける気がする。

 思考がズレて、うんうんと知らずうなずいた杏寿郎に、義勇がキョトンと首をかしげた。
「行かないのか?」
「いやっ、その、夕飯までの時間を考えていた!」
 気恥ずかしくなってついいつものトーンで言ったら、コラッと控えめなお叱りが飛んできて、唇をちょんと指先で抑えられた。
「こういう場所で大きな声は駄目だ」
「……ごめん」
 小さい子にするような仕草と上目遣いに、悔しいやらときめくやら。
 すぐに離れていった指先を、パクリと食んでしまいたい。チュッと吸い付き舌でなぶれば、甘く息を震わせる義勇の姿を、杏寿郎はもう知っているのだ。
 ゾクリと背筋を走る震えに、自分の意思ではままならない部位が、出番ですか? と顔をもたげそうになる。

 まだ早い! おとなしくしてろ!

 内心でわめきたて、杏寿郎は、ことさら明るく笑ってみせた。
「水族館にも彫刻の展示があるみたいだ。先にそっちを見てみないか?」
 今すぐ愛の語らいというのは、ちょっとマズイ気がする。義勇の瞳が甘く揺らめくのを見たりしたら、時と場所を考えずにキスしてしまいそうだ。今年の正月に頬に受けた平手は痛かった。あれはもう勘弁願いたい。
「じゃあ、そうするか」
 杏寿郎の焦りに、幸いなことに義勇は気づかなかったらしい。こともなげにうなずき、出口に向かって歩きだしている。
「杏寿郎?」
 五歩ばかり進んだところで、義勇が振り向いた。歩きださない杏寿郎に、いかにも不思議そうにコテンと首をかしげるさまがかわいい。
「あ、いや、その……」
 とっさに歩きだせなかった理由など言えるわけもなく言いよどめば、ふと義勇の顔にやわらかな笑みが浮かんだ。

「おいで」

 やさしい声で微笑み手を差し伸べるさまは、愛しい恋人に向けたものなのか、それとも愛すべき弟に対してのものなのか。
 いずれにしても、悔しさもうれしさも、同じだけ杏寿郎の胸をキュッと締めつける。
 無言で歩み寄り、杏寿郎は義勇の手をとった。指を絡めて、いわゆる恋人繋ぎにしたのは、やっぱり悔しさのほうが少しばかり大きかったからかもしれない。パチリと一つまばたいた義勇は、ちょっぴり頬を染めマフラーに顔をうずめはしたが、手を離そうとはしなかった。
 ほら、ちゃんと恋人だ。
「行こう」
 穏やかにうながせば、コクンとうなずいてくれるから、杏寿郎も微笑んで歩きだした。
 エスコートを務めなければならないのに、またもや不甲斐ないところを見せてしまった。まったくもって、頼りがいのある恋人になるというのはむずかしいものだ。年上の恋人を持つ先輩諸氏は、どうやってこの難題を乗り越えてきたのだろう。
 だがむずかしいからこそ、やりがいもある。努力なくして道は拓けない。
 義勇に楽しい一日だったと笑ってもらい、杏寿郎と一緒に暮らしたいと思わせる。それが本日の目標だ。前者はともかく後者のハードルは高そうだが、負けるものか。
 知らず力のこもった杏寿郎の手を、義勇もそっと握り返してくれた。道は険しいが、暗くはない。はずだ。
 期待とときめきはいや増すが、どうにかやんちゃ坊主はおとなしくしてくれたようである。杏寿郎は安堵のため息を内緒で飲み込んだ。
 バッグに潜ませてきた小さな箱の出番には、まだまだ時間が早すぎる。盛り上がる前に終了は勘弁してほしいものだ。

 石造りの美術館を出て、ほんの三メートルも歩めば、巨大な温室めいたガラスに囲まれた水族館に着く。なかにはショップやカフェもあり、こちらのほうが来館者は多かった。とくに家族連れが目立つ。
 公式サイトでもこちらがメインのような扱いだったし、親子向けのワークショップもあるらしいから、さもありなん。
 壁が一面のガラス製な建物だからか、それとも人が多いせいなのか、館内は美術館より暖かい。マフラーとコート姿のままでは、杏寿郎には暑いぐらいだ。
 けれどもコートを脱ぐなら、義勇の手を離すことになる。これだけ人目があると、一度離してしまったが最後、義勇はもう館内では手をつないでくれないだろう。
 ためらう杏寿郎の心中などお構いなしに……というか、むしろお見通しだったんだろう。義勇の顔にわずかな苦笑が浮かび、指が解けた。
「また外に出たとき、よけいに寒くなるから」
 言いながら離れていった手に、杏寿郎も渋々ながらうなずいた。
 手を繋いでいたくないわけじゃない。言葉の裏には、なだめるひびきが感じ取れ、やっぱりどことなし子供扱いめいている。
 汗をかいたまま外に出れば、風邪を引くかもしれないという、気遣いだ。義勇のやさしさである。不満げにしては罰が当たる。
 フッと吐息とともに小さな不満を捨て去って、杏寿郎はするりとマフラーを外した。義勇がくれた大事なマフラーだけれど、首周りの温度が下がっただけでも少しホッとする。Vネックのニットなのが正直ありがたい。
 派手に熱い男だってのに本人が暑がりとはねぇと、宇髄にはケラケラと笑われるが、体質はどうにもならない。どんなに暑かろうと義勇を抱きしめて眠る根性だけあればいいのだ。こんなところで我慢する必要はなかろう。
「すまん、ちょっと持っててくれ」
 コートも脱ごうと義勇にマフラーを差し出したが、返事がない。ん? と義勇に視線を向ければ、なぜだか義勇が凝視してきていた。
「義勇?」
「あ、あぁ。悪い」
 ちょっとあわてたふうにマフラーを受け取り、そそくさと視線を外すから、杏寿郎の疑問は深まるばかりだ。具合が悪くなったようには思えないが、なんだか顔も赤い気がする。
「……服、全部宇髄が選んだのか?」
「ん? そうだが……なにかおかしいところがあるか?」
 大人に見られる服という杏寿郎のリクエストに応え、派手好みの宇髄にしてはおとなしめなコーディネートだと思うのだが。母や千寿郎にも似合うと太鼓判を押してもらった。
 とはいえ、義勇に気に入られなければ意味はない。少し不安になって問えば、義勇はフルフルと首を振った。
「いや、似合う」
「それならいいが……大丈夫か? 顔が赤い」
「へ、平気だっ。俺もちょっと暑くなっただけだ」
 額に触れようとした手を避けられ、杏寿郎の眉がちょっぴり下がる。顔だってそむけられたままだ。けれども問い詰めたところで、義勇がへそを曲げるだけだろう。
「一度外に出たぶん、温度差も激しく感じるのかもしれないな」
「……そうだな」
 笑いかけ、この話はおしまいとコートに手をかける。……なんだかやけに義勇の視線を感じるけれども、気のせい……では、ないような。
 顔をそらせたくせに、義勇は横目でちらちらと窺ってきている。いったいなんなんだろう。だが、不快そうな感じはまったくしない。
「俺も脱ぐ」
 コートを小脇に抱えたと同時につぶやいた義勇のセリフに、ドキリとする。

 おい、まだ出番じゃない。待機命令っ、おとなしくしてろ!

 反応しかけた自身を、胸中で怒鳴りつける。ごく普通のセリフだというのに、我ながら反応が良すぎるだろう。思わず天を仰ぎそうになった。
 でもしょうがないだろうと、わめきたくもなる。なにしろ、何度か聞いたし杏寿郎も口にしたこの言葉は、主に義勇の狭いアパートで、そういうときに聞くものになって久しいのだから。
「杏寿郎?」
 黙り込んだ杏寿郎を訝しんだか、今度は義勇のほうが不思議そうに呼びかけてくる。
「あぁ、すまん。ありがとう」
 差し出された自分のマフラーを受け取り、コートと一緒に抱える。義勇が青いマフラーに手をかけるさまから、目が離せない。コートを脱ぐ仕草なんていったら、もう。見続けるとマズイと思うのに、どうしても釘付けになってしまう。
 薄着になったわけでもないのに、元気すぎるだろう、我ながら。これは子供の証明なんだか、大人だからなのか。どっちにせよ、義勇が魅力的すぎるのが悪い。
 杏寿郎と違って寒がりな義勇が着ているのは、ほのかに赤く染まった頬が映える白いタートルネックのニットだ。杏寿郎は首周りが締め付けられているようで少し苦手なのだが、義勇が着ているのはサイズが若干大きめなのか、ゆったりとしていて息苦しそうな感じはない。細身のパンツとあいまって、義勇のスタイルの良さが強調されて見える。
 ボタンが大きめなコートを着ている姿は、ずいぶんとかわいく見えたものだけれども、脱げば脱いだで、ゆるっとした白いセーターと脚のラインが強調されて見えるパンツは、いっそ目の毒だ。知らずゴクリと喉も鳴る。
 どういう服装で行くと相談はしていないから、偶然の一致だろうが、色合いが示し合わせたようにお揃いだ。まるでペアルックのように思えなくもない。コートだってお互い明るめのグレーで、形こそ違えどお揃いと言える。宇髄は神か。宇髄大明神と今度から呼ぼう。真菰さんにもお礼の品を買わねば。

「ありがとう。……杏寿郎、どうした? 顔が赤い。熱があるんじゃないのか?」
「いやっ、そんなことはない! 元気がありあまっているぐらいだ!」
 そりゃもう、少しはおとなしくしてくれと、自分でも困っているぐらいのやんちゃっぷりで。
 心配をそっくり返されたセリフにあわてて言いつつ、マフラーを返せば、義勇の眉がまた、メッと言わんばかりにしかめられた。
「声」
「……す、すまん。つい」
 だってしょうがないだろう。心配だから帰ろうなどと言われでもしたら、人生三度目の大泣きをしそうだ。
 人前で、というか、義勇の前で杏寿郎が泣いたのは、三回きりだ。そのうちの一回は、二人一緒に静かにうれし泣きした蔦子の結婚式だが、あとの二回は気恥ずかしいというか、なんというか。
 黒歴史とは、言わないけれども。だって、義勇との思い出はすべて、過ぎてみればどんなに恥ずかしいものだろうとも、杏寿郎にとってはキラキラとしているので。