流れ星 後編

 冨岡が作った紙は二枚あった。お揃いだと言われ、煉獄はいつでも隊服の胸に忍ばせている。今日もそうだ、心臓の上に冨岡の心尽くしはあった。冨岡の心そのものだと思ったアヤメの花びら。嘘ばかりだと、腰を乱暴に振り立てながら煉獄は胸中で吐き捨てる。
 思い出は色鮮やかだ。悲しく腹立たしいほどに。ザリザリと心が削られる心地がしても、どんなに胸の奥が軋んでも、薄っぺらな紙切れ一枚、捨てされぬほどに。
 過去にすがるなどみっともないことこの上ない。しかも思い出の日々は、砂上の楼閣でしかなかったともう知っているのに。
 もはやすがる価値などなかろうに、今も毎日、並んだアヤメを漉き込んだ紙を、守り刀かのように懐に忍ばせている。なんて無様な男だろうか。
 内ポケットの紙切れを、ひどく重く感じ、煉獄はさらに激しく腰を突き入れた。打ち付ける肉がパンッと高い音を立て、悲鳴が上がる。白いアヤメの花びらが脳裏にちらつくのを振り払いたくて、腰の動きが激しさを増していく。

 花とつくからには姉が花柱だった胡蝶なら知っているだろうかと安直に考え、花言葉とはなんだろうかと蝶屋敷へと煉獄がたずねに行ったのは、押し花を貰った翌日だ。花言葉というものがなんなのかを知りたい、白いアヤメにはなにか恥じらうような意味でもあるのだろうかと聞いた煉獄に、胡蝶は、なんだか生ぬるい笑みを浮かべて一冊の洋装の本を貸してくれた。
 無自覚な惚気はお腹いっぱいですとの、意味のわからない言葉とともに。
 借りた本によると、花にはそれぞれ象徴的な意味があるらしい。それが花言葉だ。花の色によっても意味合いが異なるものがあり、煉獄が贈ったアヤメは、よい便りだとか、希望という意味を持っていた。自分を卑下しがちな冨岡が、もっと希望にあふれた顔をしてくれればいいなと思っていた煉獄にしてみれば、それなりに満足のいく花言葉だ。
 次に花を贈るときは、花言葉も調べてからにしようかと思いつつ頁をめくった煉獄の目が、大きく見開かれたのは、しかたのないことだったろう。顔だって見る間に真っ赤に染まった。
 その日から花屋とみれば白いその花を探し求めたのは言うまでもなく、次に冨岡に出逢えたときにも、往来だというのに思い切り冨岡を抱きしめ煉獄は叫んだものだ。

『俺も君に白いアヤメを贈りたい! だが、花の盛りを過ぎてしまった上に、白いものは希少らしく見つからないのだ! 本当にすまない! だが俺の気持ちを疑わないでくれっ、俺も君を大事にしたいと思っている!』

 呆気にとられてポカンとした冨岡の顔が、たちまち赤く染まったその様も。すねた顔でなんで調べたんだ、馬鹿、と甘くなじるその声も。その日の、腕のなかでいつもよりも甘く乱れた、艶やかなアヤメにも負けぬ姿態も。全部、全部、煉獄はハッキリと覚えている。
 あなたを大事にしますという意味を持つ花を、冨岡が贈ってくれた意味。好きだと一度も口にはしてくれない冨岡が、どんな顔をしてアヤメの花びらを押し花にしたのか。どれだけの想いを込めて贈ってくれたのか。思えば歓喜と誇らしさは溢れ出してやまず、なだれ込むように入った蕎麦屋の二階で、何度も、何度も、好きだとささやいた。
 大事にする。やさしくする。君を守り抜いてみせる。誓いの言葉を口にしながら腰を揺らめかせるたびに、冨岡の開かれたままの唇からは、甘い蜜めいた喘ぎがこぼれ落ちて、蕩けた瞳からはポロポロと星のような涙も流れ落ちていた。しまいにはいい加減にしろ恥ずかしいと、ポカリと頭を叩かれたことすらが、甘く煉獄の胸をうずかせる。
 そんな愛おしい日々の思い出は、ひとかけらすら消えることなく胸に刻み込まれているのに、同じ胸が今、ひどく乾いている。

「ひっ! ん、ぅあ! 煉獄、いや……あぁっ!」
 あがる声には、甘さなどまるでない。冨岡の悲鳴に驚いたか、近くに潜んでいた獣や鳥はみな周囲から消えたようだった。隊士たちがやってくる気配もない。甘い丁子油の香りと汗の匂いが、獣のように交わる二人を包んでいる。グチュグチュという水音や肉を打つ音は、淫猥極まりなく、差し込んだ月明かりの清かさにはどうにも不似合いだ。
 突き刺すように犯してから、どれぐらい経っただろう。月の位置は西にかたむきだしている。夜明けまでは二時間もないだろう。
 冨岡は、快感よりもまだ、痛みを強く感じているようだ。常ならばどんなに切羽詰まっていても、じっくりと慣らし愛おしさを込めた愛撫を尽くしてから、ようやく挿入に至るのだ。慣らしもせずにこじ挿れたうえ、馴染むのを待たずに抽挿を開始されるなど、冨岡にしてみれば、裂けずにいるだけマシというところだろう。悦楽からはきっとほど遠い。
 それでも慣れた体はだんだんと、痛みのなかから快感を拾い上げていく。丁子油の刺激も、痛みからむず痒さへと代わっているのだろう。萎えてくたりと揺れていた花芽が、芯を持ち頭をもたげていた。
「こんなやりかたでも感じるんだな。言ってくれればお望みどおりの抱き方をしてやったのに、水臭い。あぁ、俺に本心を語る気など、はなからなかったからか。君にとって、俺の価値などこれぐらいなんだろう? それならなおさら、言ってほしかったものだな」
 大事にするとの意味を持つ花を贈られようと、それが冨岡の本心だったとは、今はどうしても信じられない。だって、冨岡はなにも言ってくれなかった。
 冨岡の首が打ち振られ、漆黒の髪が揺れた。嘲弄する言葉と、激しさを増した抽挿の、どちらへの反応だろう。どちらにせよ、煉獄の動きが止まることはなかった。
「違う……あぁっ! ふぅ、んんっ! 違う、あっ! 嫌だ、それ深い……駄目だ、れんご、くっ! それ、嫌だぁ!」
「なにがだ? なにが違うと言うんだ! 君が鬼を見逃しかばったことも、自分の命を鬼に賭けたことも事実だろう!」
 やめろと幼い自分が泣く。癇症に、地団駄を踏んで泣きわめく。違う、冨岡が信じたのなら、それなりの理由があったんだと、幼い自分は声を張り上げ泣いていた。大好きならひどいことをするなと、頭のなかの天秤に、せっせと恋しさを積み上げながら。それでも怒りの焔はおさまる気配などまるでなく、胸のなかで凶暴な獣が吠え立てる声で、小さな煉獄の声はかき消される。
 だって、冨岡は詫びると言った。詫びねばならぬことをしてきたからだろう。煉獄を騙していた。裏切っていた。
 壊してしまえ。穢してしまえ。獣が吠える。冨岡の呼吸は乱れている。塞がりかけていた首筋の傷が、呼吸を保てなくなり開いたようだ。見え隠れする白い首筋が血で汚れていた。
 もう体を支えるのもつらかろうに、冨岡はどうにかくずおれるのをこらえている。理性はまだかすかに残っているのに違いない。風変わりな半身違いの羽織が、姉と親友の形見だと聞いたのは、まだ恋仲になったばかりのころだった。淫猥な吐瀉物などで汚したくはないのだろう。挿入したときにも、まず羽織を気にしていた。
 苦鳴を上げ、痛みに耐えながらも、羽織と口走るからなんだか煉獄は可笑しくなった。それでも羽織をさらにまくりあげてやったのは、鬼の犠牲者となった者たちへの誠意を忘れてはいけないと、こんなときでも思ったからだ。冨岡への気遣いではない。
 そんな理由をつけたところで、自分でも言い訳でしかないと、自分でもわかっていた。傷つけたいと唸るのと同時に、大事にしたい愛おしさもまた、どうしたって消えやしないのだ。どれだけ否定しようと、恋しさは消えない。消えないから、なお苦しくなる。怒りが燃える。
 腹が立つのも狂おしいのも、好きだからなのだ。心の底から愛おしいからだ。恋しくてたまらないからだ。
 なのに。

「なぜ、鬼などに自分の命を賭けた! なんで、俺に一言も言ってくれなかったんだ!」

 わかっている。幼い自分が言うまでもなく、冨岡が決めたからにはそれなりの理由はあったのだろう。けれども許せなかった。
 冨岡が鬼殺隊を裏切ったとは思わない。鴉が告げた報告を聞いたときには、まさかと笑いたくもなった。事実だと知ってもなお、なにか理由があったのだろうと思ってもいる。
 だが、冨岡の育手の手紙を読み上げられたとき、煉獄が感じたのは、どうしようもなく狂って噛み合わなくなった歯車の軋みだ。
 告白し、受け入れられたあのときも、初めて繋がりあえた、そのときも。二人積み重ねた時間のすべてが、誰かの――滅殺すべき鬼の手のひらにあった。煉獄の腕のなかになど、冨岡の命は一瞬たりとあってはくれなかった。愛おしくてならない、どの瞬間にも。
 人の命をなんとも思わぬ悪逆非道の鬼が、こちらの事情などくみするものか。畢竟ひっきょう、鬼とは己の欲だけで生きている。そして鬼殺隊は、そんな鬼どもを決して許しはしない。
 鬼の手にかかって命を落とす覚悟は、いつだってできている。自身のものでも、冨岡のものでも。任務の末に冨岡の訃報が届けられたのなら、胸を張って逝けたのなら、冨岡を誇り彼を愛した自分をも誇れただろう。
 けれど、これは違うと思った。
 なぜ、そんなことを冨岡が決断したのか、わからない。冨岡は柱だ。今、鬼殺隊を支える柱は文字どおり九人すべてそろっている。だが煉獄が柱となる前には、空席が目立った。失われたからすぐに埋めるというわけにはいかないのだ。
 なのに、なぜそんな軽々に鬼に自分の命を賭けられる。柱の空席が、どれだけの被害者を生むと思っているのか。煉獄には信じられない。
 手紙では、二年以上とあった。冨岡が柱となった時期と重なる。最初からだ。最初から水柱、冨岡義勇の命は、鬼などに委ねていたということではないか。
 裏切られていたと、煉獄が初めて感じたのは、そのときだ。

「君は、俺を受け入れてくれたわけではなかった……っ! なにも……なにも話してくれなかったじゃないか! あれだけ傍にいて、あれだけ想い合っているのだと信じさせておいて!」

 癇癪を起こした子供の泣き声がする。いや、これは今の自分の声か。激昂のままにあげた言葉は、子供の駄々と変わらない。わがままな八つ当たりめいている。
 煉獄は少しばかり驚き、ついでさらに眉を怒らせた。
 人の心を意のままにできるなど、思ったことはない。思っていなかったはずだ。冨岡の意思を尊重していた。我を通すことは多かったが、それでも本気で嫌がるようなことはしなかった。できなかった。
 なのに、なんなのだ。自分が思うのと同じだけ返してくれなければ嫌だと泣きわめくなど、まるで子供だ。柱が聞いて呆れる。
 自身への怒りを振り払うように、煉獄は、限界を訴える冨岡の奥へと力任せにさらに押し入った。
 常ならば、まず反省しただろう。ごめんと冨岡に謝れもしただろう。けれどもできなかった。
 我慢しているなど、思ったことはない。炎柱を継ぐことを、厭うたこともない。昔も、今も。けれどそれは、自分の思い込みだったのか。自覚もないままに、幼い自分は心を抑えてきたのだろうか。
 揺らぐ。揺らぐ。揺れて、揺れて、端からカランと崩れていく。なんて頼りないのだろう。盤石たれと願い固めた自分の土台は、こんなにも脆かったのか。確たる足場など本当はなかったのだなどと、疑うことすらが母への侮辱だと思うのに、グラグラと揺れて、定まらない。信じていたものが、ガラリ、ガラリと、崩れていく。

 冨岡の、せいだ。

 自分の選択を誰かのせいにするなど、卑怯者のすることだ。わかっている。わかっているのに。止められない。
 だって、守らせてもくれない。どれだけ隙間なく抱き合っていても、知らぬところで冨岡の命運は決まるのだ。自分の手の届かないところで。
 鬼に命運をかけるぐらいなら、俺が壊してしまってもいいじゃないか。柱としての冨岡でも、誰かの弟や親友としてでもなく、煉獄杏寿郎の恋人でしかない冨岡義勇として、終わってくれと願ってしまう。

「嫌だっ、あ、無理……煉獄、痒いっ! やぁ! もう入らな、あぁ!」
 痒いと訴え自ら腰を振出した冨岡は、それでも怯えをあらわに体をすくませ止まるを繰り返している。
「どっちなんだ。もっとこすってほしいのか、やめてほしいのか、君の言うことはサッパリわからないな」
 嘲笑う声に、なぜだかキュウッと後孔が締まった。
 強烈な快感とは裏腹に、咎められ先へと進むのを阻まれたと感じ、煉獄はなおさら奥へと淫熱をねじ挿れる。
 奥へ。もっと、奥へ。冨岡が隠していたものすべて、暴いてしまいたい。犯して、穢して、全部、俺のものに。そうすればもう、冨岡は誰にも奪われない。

 冨岡の呼吸は常中が解け、理性が崩れかけていることを煉獄に知らせる。柱でも、隊士でさえもない冨岡が、ここにいる。もう少しで、全部現れる。すべて自分のものになる。そんな気がして。誘惑は甘美で、抗いがたかった。
 たっぷりと注いだ丁子油の匂いは甘く、煉獄の雄にも刺激をもたらしている。ジンジンとした掻痒感に、矢も盾もたまらず肉筒でこすり上げるように腰を振り立てれば、固く張り詰めた欲がなお怒張を増していった。
 冨岡の言葉はもう、意味をなしていない。痒いと連呼し、もっととうわ言のようにねだったかと思えば、嫌だ無理だとわめく。赤子めいた母音ばかりの喃語は甲高い。こんなに乱れて狂乱する冨岡など、いつもならば見ることはない。当然だ。繊細で薄い玻璃に触れるかの如くに、大事に、大切に、抱いてきたのだ。やさしさと慈しみばかりを与えようとしてきた。己の欲求など二の次に、ただただ冨岡が穏やかで甘い悦びだけを感じるようにと、我欲を抑えた抱き方をしてきたのだ。
 恋しかったから。ただ愛おしかったから。ようやく手のなかに落ちてきた、ただ一つの星を、大事にしたかった。
 どれだけ寂しかろうと、心細くなろうと、もう二度と母は抱きしめてくれない。父も逝くのではないかとの不安で、胸が締め付けられる日もあった。努力を無駄だと吐き捨てられる悲しみと疑問。千寿郎の無垢な憧憬に感じる、かすかな痛み。否定したくなどないのに、千寿郎は隊士になれないと理解してしまえる自分が偽善者に思えたこともある。現実はなにもかもが本当は苦しい。頑是ない子供のままに泣いてしまいたいと思うほど。
 一つきりだったのだ。
 死んでいく仲間。いつまでもいなくならぬ鬼ども。母との約束で心に灯った火は、燃え盛りつづけ、後悔はない。それでも心は乾いていた。どれだけ抑えつけても苦しさが少しずつ積もっていくなかで、幸せだと心の底から笑えるのは、冨岡への恋だけだった。
 仲間と笑いあったり、千寿郎のうまい飯を食べたりするのも、幸せだ。けれど心はやっぱり乾いていた。熱く燃えて、カラカラと乾いていく。
 冨岡だけなのだ。乾いた心に水を与えてくれるのは。
 焦土のごとき煉獄の心に恋という名の幸せの種をまき、花咲かせてくれたのは冨岡だった。燃え盛る火のなかで、咲き誇る一輪の花。刀しか握れぬ固い手に、降りてきてくれた星。どれだけ大切にしてきたことか。どれほど慈しんできたのか。なのに、全身全霊かけて想っても、冨岡には届かない。届いていなかった。手のなかの星は、まがい物でしかなかったと、知ってしまった。

 煉獄は欲求のままに、腰を大きく回した。冨岡は、これに弱い。
「ひぁ! や、それやだ! やめ、あぁっ!」
「君はいつもそうだな。ぐるぐるやだ、だったか? こうされるのを一番悦ぶくせに、口では拒む。君は本当に嘘ばかりだ」
 突き挿れたときには冨岡は萎えたままだったせいか、ぺたりと吸い付くような感触がしただけの場所は、もうコリコリと固くしこっている。指でかいてやれば冨岡が抑えきれぬ嬌声をもらす場所だ。己が灼熱で押しつぶすようにしながら腰を回すたび、いつでも首を打ち振り駄目だいやだと言いながらも、声は甘く濡れきって、必死に煉獄の首にすがってくる。本当に嫌かと甘える声音でたずねれば、子犬のような声をもらして意地が悪いと甘くなじるのだ。強固に嫌だと拒みつづけることはない。
 もうなにも信じられないと思う冨岡について、唯一まだ信じられる、ちゃんと知っていると煉獄が言えることなど、もはや体の反応ぐらいだ。
 制止の悲鳴に従う気になど、まるでなれなかった。今までならば、あんまり泣かれると煉獄こそがつらくなってしまって、頬にひたいにと唇を落とし、ごめんと謝るのが常だったのに。

 怖い、と。初めて冨岡が交合中に口走ったのと同じ体位で、抱いている。ふと思って、煉獄の昏い笑みが深まった。

 後背位が受け入れる側にはもっとも楽な体位だと知って、今日は後ろからしたいとねだったのは、冨岡がまだ受け入れることに慣れてはいないころだ。男同士で抱き合って挿入するには、冨岡に無理な体勢を強いることになる。呼吸を保っているから腰の痛みは軽減されているだろうが、苦しげなのは変わらずにいたから、少しでも楽な方法でと思った。
 いつもよりもすんなりと煉獄の熱を飲み込んだ冨岡は、痛みや息苦しさが少ないぶん、快楽を素直に享受できるらしかった。声が今までよりも甘い。様相が変わったのは、抱き合うときよりも深く受け入れ、今までは届かなかったところまで煉獄の熱が入り込んだときだ。
 とたんに背が跳ねて、海老反りになった冨岡は、咆哮するかのような官能の声をあげた。煉獄を包み込む肉壁も、ギュウッと締まり絡みついてくる。あまりにも顕著な反応に驚きつつもうれしくなって、さらなる悦楽を求めて煉獄がぐるりと腰を回してやったら、冨岡は怖いと泣き出したのだ。
 怖い。煉獄、どこ。どこ。怖い。
 子供のように泣きじゃくって、ガクリと肘を降り支えられた腰だけを高くかかげた格好のまま、必死に腕を伸ばして煉獄を探すから、快感など吹っ飛んだ。
 ここにいる、俺はここにいるから。君を抱いているのは俺だ。慌てて叫び、もがく体を抱きしめた。
 煉獄が見えないのは嫌だ。いつもみたいに抱きしめてと、子供の泣き顔で言うから、申し訳なさと言い知れぬ法悦に胸が詰まった。
 常と同じように抱き合う形で挿入しなおし、これでいいかと緩く腰を動かせば、うん、うれしいと、煉獄を見つめていとけなくうなずき首に腕を回してくる。安堵と喜悦の吐息をもらした冨岡の顔も、そのとき自分が感じた途方もない幸福感も、煉獄は覚えている。ひとかけらだって忘れてはいない。

 栗の実ほどのしこりのすぐ奥、そこがどうにも駄目らしい。快感が強烈過ぎて、呼吸を保つことすらできなくなると、身支度を終えたあとで冨岡は言った。立ち上がるのも億劫そうで、隊服を着せてやったあとでの語らいは、二人、畳に寝転がり抱きしめあってだ。
 五感のすべてが消えて快感の渦だけに飲み込まれるようで、煉獄が見えないのが怖かった。煉獄の胸に顔をうずめて言った冨岡は、常日頃の凛とした風情など見られず、幼い子供の甘えがあらわだった。
 あれ嫌いだ。煉獄が見えないの嫌だ。むずがるように言う冨岡が愛おしくてたまらず、強く抱きしめ、二度と後ろからは抱かないと約束してやれば、コクコクとうなずく。完全に冷静さが戻れば、もう甘ったれた文言など冨岡は口にはすまい。羽織を着込み刀を腰に差せば消える、今だけの幼い冨岡が、どうしようもなく可愛かった。

 獣の交尾と同じ形で、交わっている。二度としないと約束した口で、冨岡をなじる言葉を吐きながら。冨岡が怯える体位を取らせ、遠慮会釈なく熱棒を突き入れかき混ぜている。
 俺も、嘘つきだ。煉獄の昏い笑みが嘲りに歪む。
 嘘つき同士、お似合いじゃないか。俺だけでいいだろう。鬼などにくれてやるぐらいなら、俺にくれたっていいじゃないか。俺ほど冨岡を懸命に求めているものなどいやしない。俺だけだ。俺だけがこれほど必死に求めている。なのに、君は返してくれない。手のなかにいてくれない。
 憤怒なのか悲嘆なのか、もう煉獄自身にもわからない。闇雲に腰を振りたくり、無遠慮に大きく回す。あがる悲鳴に胸がすいた。

「いやっ! そこ、いやだぁ! やめ、こない、で! 怖いっ! 怖い、からぁ! 煉獄! 煉獄っ、どこ……助け、てっ!」
「よく、そんなことが言えるものだ……守らせてくれなかったのは君だろう! 俺にすがりついているときですら、預かり知らぬところで死を宣告されてかまわないと、君は思っていたんだろう!? 俺なんか、頼る価値もないと思っていたんだろう!? なにも言ってくれなかったじゃないか!」
 あの日のように助けを求める冨岡は、もうなにもわかっていないに違いない。苛烈な快感に我を忘れ、けれども素直に身を委ねることもできずに、怖いと泣いている。柱の尊厳などどこにもない。情などどこにも見えぬ交合は、獣の交尾よりむしろ、滑稽な見世物めいて見えることだろう。
 あぁ、本当に滑稽だ。馬鹿馬鹿しすぎていっそ憐れだ。自分を犯す男に助けにきてと懇願する冨岡も、冨岡に名を呼ばれ求められる『煉獄』に嫉妬を覚える自分も。
 冨岡が求めてやまないのは、いつでも冨岡にやさしくて、甘える素振りで甘やかし尽くす、なにも知らずに笑っていた炎柱である『煉獄』なのだ。子供のように駄々をこね地団駄を踏み、怒る獣の咆哮をあげ冨岡を焼き尽くそうとする自分など、冨岡の眼中にはない。それがこんなにも腹立たしく、悲しい。

 守ることは、強く生まれた者の責務。わかっている。けれど、母上。守らせてくれない人を、どうすれば守れるのですか。同じ強さを持ったその人を、守りたいと思うことは、愚かな思い上がりでしかなかったのでしょうか。

 守りたい。守り抜く。誓いはもはや煉獄にとって本能と言っていい。揺るがぬ確固たる土台骨だ。なのに、ただ一つの恋が、唯一の幸せが、それを崩そうとしている。抑えつけ、押し殺してきた、わがままに甘えたがる子供の自分をさらけ出させる。
 胸の凶悪な獣も愚かな子供も、卑小な自分の本性なのだろう。|箍《たが》が外れれば、愛しくてならぬ人にこんな無体を強いてしまえるぐらいだ。本当の自分はきっと、下衆な小物でしかない。煉獄は己を嘲笑いながら、冨岡の腰を掴む手にさらに力を込めた。
 大したものになどなれない。父はきっと正しい。そのとおりだ。努力など、なんの役にも立たなかった。だから父は酒に溺れ、千寿郎だって隊士にはなれない。そして、自分は恋を失うのだ。きらめく星は紛い物で、恋の花は烈火にしおれ枯れていく。ただ一つきりの幸せは、もう、どこにもない。

 ならば、いっそ、この手で殺してしまおうか。

 そんな言葉が、なぜ思い浮かんだのか、煉獄にもわからない。否定する暇などなかった。
 冨岡が嫌がる、しこりの奥のそのまた奥。強く冨岡の腰を引き寄せるのと同時に、煉獄は鋭く腰を突き出した。パンッとひときわ高く鳴った肉を打ち合わせる音とともに、もうこれ以上は進めないと思われた壁がこじ開けられたのを感じた。
 悲鳴すらあげることなく、冨岡の背も首も思い切り仰け反り、ガクガクと痙攣している。カハッと、息の塊が音になったかのうような声がもれ聞こえた。敏感な先端がうねる肉壁に包まれたかと思った瞬間に、痛みさえ生じる強さで締めつけてきて、煉獄の口からも思わず呻き声がこぼれる。激しすぎる快感に、視界が白く弾けた。
 達したのはおそらく同時だ。パタパタとかすかに聞こえた音は、勢いよく吐き出された冨岡の淫液が、枯れ葉に散った音だろう。酩酊に似た恍惚感のなかでそれを聞いた煉獄は、ついで聞こえた声に、目を見開いた。

「し、ぬ……しんじゃ、う」

 言葉が耳に届いた瞬間に、ドサッと冨岡の頭が地に落ちた。腰はいまだ煉獄が掴みしめている。力の抜けた腕の支えを失い、冨岡の胸から上は枯れ葉の上に乗っていた。乾いた葉が割れるカシャリという音は少なかった。湿った音がする。吐き出された胃液混じりの精で濡れた葉だまりに、冨岡の顔は落ちたらしい。
 煉獄はそれを止めることができなかった。冨岡が大切な人達の形見である羽織を大事にしていることは、知っているのに。
 頭から冷水を被せられたようだった。衝撃は一瞬で煉獄を凍りつかせた。呆然と見下ろす瞳は限界まで見開かれ、清純な白い首筋を汚す赤から離れない。
 獣の唸り声も、子供の泣き声も、もう聞こえない。ギシギシと鳴る胸の軋みすら。静寂だけがあった。

「冨岡……?」

 かすかに聞こえた寄る辺ない声は、自分のものだろうか。声は小さく、震えていた。
 今、自分はなにをしたのだろう。なにをしていたんだ。冨岡に、なにを――!
 不安は恐慌となって煉獄を襲った。冨岡の息は聞こえてこない。
 勝手に震えだす体を、おそるおそる引く。ズルリと抜き出された肉棒の先端は、白い糸で冨岡の開いたままの後孔と繋がっていた。粘着質な糸が伸びるその様は淫猥の一言だ。性的な興奮はけれどもまるでなかった。
 煉獄は胃の腑からこみ上げる嘔吐感をおぼえ、とっさに己の口を覆った。
 冨岡の腰を掴んでいる手も震えて、力が入らない。プツリと糸が切れても、圧迫を失った冨岡の赤く腫れた肉襞は開かれたまま、クプクプと泡立つ白濁を吐き出していた。
 いつかは――鬼が途絶えた平穏な夜がきたなら、冨岡の肚に己の精を放ってみたい。願っていたのは事実だ。なのに、望んだはずの淫靡な光景が煉獄にもたらしたものは、恐怖でしかなかった。

「冨岡……」

 自分のものとも思えぬ涙声に、答える声はない。たまらず煉獄は叫び、冨岡を抱き起こした。
「冨岡!」
 腕のなかの冨岡は温かい。ちゃんと息がある。けれどそれは生命としてのものでしかなく、柱ならば意識がなかろうと決して止めぬ『呼吸』ではなかった。
 浮かんだ安堵は一瞬でかき消えて、煉獄の胸を悲嘆と憤怒がえぐる。かき消えた怒りの焔が、ふたたび音立てて燃え上がる。今度は、煉獄をこそ焼き尽くそうとするかのように。
 
 絶望というものを、煉獄は感じたことがなかった。母がなくなったその日でさえ。冨岡に裏切られたと思ってしまったときですら。悲しくとも、つらくとも、心にある決意の焔は燃えていて、死んでしまいたいと感じたことなど、一度としてなかったのに。
 なのに今、煉獄の身は、生まれて初めて途方もない絶望に覆い尽くされていた。

 鬼殺隊士のほとんどは、絶望のなかから立ち上がった者たちだ。家族や愛する人を理不尽に奪われ打ちのめされてなお、もう二度と同じ悲劇は繰り返させないと、胸に決意と覚悟の焔を宿し、立ち上がった人達。冨岡も、同じだ。はなから用意された柱に続く道を歩いてきた者など、煉獄以外誰もいない。
 絶望を知らず、挫折を自身に許さず、煉獄は生きてきた。だというのに、冨岡を掻き抱く腕はまだ震えがやまない。どんどんと震えは大きくなっていく。母を失った深い喪失感や、育手の……父親としての責任ですら放棄した父の態度にさえ、煉獄を打ちのめすことがなかった絶望が、総身を包み込んでいた。
 母の言葉は、煉獄のまだ幼い心に絶えることない火を燃やし、絶望を与えなかった。鬼への怒りが煉獄が生き抜く原動力だと言ってもいい。
 今も、溶岩を思わせる焦熱の怒りは、煉獄自身を焼き尽くさんばかりに噴き上がっている。だが、煉獄は絶望していた。極寒の地にいるかのようにガタガタと体が震える。
 なぜ、おまえが生きている。そんな文言が、押しつぶされそうな喉の奥でわだかまり、息を塞いでいた。

 なぜ、おまえが生きている。なぜ、隊士として立派に戦い死んでいった仲間ではなく、卑小で卑怯なおまえが生き残っている。
 冨岡にこんなことをしたおまえを、決して許さない。おまえ如きが柱を名乗るなど許さない。
 許されては、いけない。

 自分自身への怒りが、煉獄を燃やしつくそうとしていた。治まらぬ嘔吐感は、浅ましく卑小な自分をこそすべて吐き出してしまいたいがゆえかもしれない。
 目をそらし見ぬようにしてきただけで、自分はきっと誰よりも怯懦で無知なのに違いない。疑惑ではなく事実として、煉獄はそれを無理にも飲み下す。
 自己否定の落胆に嘆く暇はなかった。腕のなかの冨岡は温かい。けれどもまだ目を開けてはくれなかった。
 いっそ殺してしまおうか、だと? よくもまぁそんなことを思い浮かべられたものだ。いっそ殺してしまえと言われるべきは自分だろうが。なにが鬼殺隊。なにが柱。そんな資格が、冨岡をこんな目にあわせた自分にあるものか。煉獄は己をなじる。怒りはひたすらに燃え上がり、それを凌駕する恐怖が、体を震わせる。

 鬼は群れない。だからもうここに鬼はいない。詭弁だ。例外はいくらでもある。群れずとも獲物を巡って鬼が集まることがあるぐらい、知っている。分身を使役する鬼だって多く、増殖していく鬼に何人もの仲間が殺された。
 どれだけ慣れようと、男同士の交合が自然なわけはない。ましてやこれほど激しく犯し呼吸さえ止めさせた。常に冷静な冨岡の剣も、この状態では万全とはいかないだろう。それでも自分さえいれば大丈夫だと思っていた。鬼を恐れはしない。冨岡を守り抜いてみせる。その自信と自負があった。上弦の鬼に遭遇したためしなどない。いや、たとえ上弦からだろうと守れる。今の自分ならばきっと。
 馬鹿な。鬼はこちらの事情など与しない。先人たちは百年に渡り上弦に破れてきた。守れるなどどれだけ思い上がっているのか。
 もしも、今、複数の鬼が現れたら。
 もしも、現れるのが上弦の鬼だったら。
 冨岡が、もしも、鬼の手にかかったら――。

 冨岡を殺すのは、鬼ではない。俺だ――。

 守るために強く生まれたのではなかったのか。守ることこそが己の責務であり、生きる意味だろう。なのに俺はなにをしている。いったいなにをした。冨岡に……心の底から、魂の奥から、恋しくて愛おしくてならない、冨岡に!
 裏切られたと怒りに身を焼いても恋しさが消えぬ人に、唯一の幸せをくれる人に、こんな狼藉を働いた自分にこそ、煉獄は絶望していた。激昂が過ぎ去れば、後悔なんて言葉では済まされない絶望だけが襲いくる。
 守れない。では自分に生きる価値などないだろう。父もそうだったのだろうか。母を奪う病に抗うすべもなく、なにもできなかった自分に絶望したのだろうか。苦しくて、つらくて、虚しくて……暗い闇の底にぽつんと一人取り残されたと、感じてしまったのだろうか。自分と千寿郎がいてでさえ。
 渦巻く怒りと絶望のなか、思考は答えを導かず、いつものように考えまいとすることさえできなかった。

 腕に抱く冨岡の顔は、吐瀉物や欲液で汚れている。今さらのように気づき、煉獄は慌てて、冨岡の夜目にも白い顔を震える指で拭った。冨岡のまぶたがピクリと震えた。
 息を詰めて煉獄が見つめるなか、長い睫毛がさわりとかすかに揺れて、ゆっくりと冨岡の目が開かれる。
 月明かりが差して、瑠璃の瞳が白い光を弾く。瑠璃色の鏡面の如き瞳に映っていたのは、頼りなく泣き出しそうな煉獄の顔だ。これだけ深い悲嘆のなかにあってさえ、冨岡の瞳のなかにいる男の目に、涙はなかった。
 一つ、二つと、緩慢にまばたきする冨岡は、まだハッキリと意識が覚醒していないように見受けられる。目を開いてくれたと湧き上がった歓喜や安堵も、束の間だ。ただぼんやりと見るともなしに煉獄を見上げているだけの瞳に、煉獄の胸をまた不安が覆い尽くしていく。絶望はどしりと心に根を生やし、二度と消えぬ気すらする。
 謝罪しなければ。頭の片隅で思うけれども、煉獄の喉は震えるばかりで声にはならない。
 一心に見つめつづけるだけの煉獄になにを思ったのか、冨岡の唇が静かに開いた。

「泣くな……」

 ゆっくりと冨岡の腕が上がる。煉獄の首に回された腕は、存外力強かった。呼吸が戻っている。気づき安堵したことに、また煉獄は悔恨と苛立ちを覚えた。自分がしでかした暴挙でもって常中さえとめさせておいて、呼吸を取り戻した冨岡に安心するなど愚行が過ぎる。
「……泣いて、ない。涙が、出ないんだ」
 ようやく煉獄の口がつむげた言葉は、謝罪ですらない。予想外な冨岡の言葉への弁明でも、叱られた子供の強がりでもなく、ただの弱音だ。
 こんなときに口にするのがそれか。自身への怒りがさらに燃える。怒りは煉獄の絶望をなおも深めていった。
「でも、泣いてる」
 起き上がり煉獄に抱きついて言う冨岡の声は、やさしい。けれど、冨岡の背を支える腕に力を込めることは、煉獄にはできなかった。どの面下げて抱きしめられるというのか。
 恋仲であろうと許されぬことをした。先の行為は、幾度もの逢瀬とは、ぜんぜん違う。
「煉獄、すまなかった。もう、謝っても遅いだろうが」
 耳元に落ちた冨岡の声に、愕然とした。聞こえた文言が信じられず煉獄は目を見張る。
「なんで……」
 ポツリと知らずこぼれた声は、どうしようもなく掠れていた。
 どうして冨岡が謝るのか、まったくわからなかった。だって自分は冨岡を犯したのだ。目合ったのではない。ただ犯した。柱としてどころか、男として、人として、許されぬことをしたのはほかでもない自分だ。
「なぜ君が謝るんだ! 謝るべきは俺だろう!」
 煉獄は思わず声を荒らげた。とたんにまた、後悔に打ちのめされる。
 自分自身がままならない。怒れる立場かと自分を叱り飛ばし、悄然と肩を落としても、時が戻ってくれることはなく、忸怩とした思いが積もる。感情の浮き沈みが激しくなるのは、冨岡に恋して以来、煉獄にとっては馴染んだ感覚ではあったが、これほどまでに負の感情だけに占められることなどなかった。
 激昂は瞬間的で、怒鳴ったことを謝ろうとするのだが、やはり謝罪は口にできなかった。
 そんな煉獄に冨岡はなにを思うのか、離れようとはしてこない。それどころか、耳元に落ちた声はどこかやさしくすらあった。

「一度だけ、錆兎と喧嘩したことがある」

 冨岡の唐突な切り出しはいつものことだ。もはや慣れっこなはずだが、煉獄は知らずグッと眉根を寄せた。
 錆兎という男は、冨岡にとっては親友だとわかっている。だが今は、煉獄にとっては一番聞きたくない名だ。恋愛感情があるわけではないと知っていても、錆兎と口にする冨岡の声音には、かぎりない信頼があった。
「喧嘩をした原因は覚えていないが、意地を張って謝れずにいたら……次第に怖くなった」
「怖い……?」
 問い返す自分の声が、どうにも弱々しいことに気づき、煉獄はさらに眉間のしわを深くした。煉獄に抱きついているから、冨岡は煉獄の表情を見ることはない。それでも声の頼りなさゆえだろう、煉獄の髪をそっと撫でてきた。
「錆兎もなにも言ってくれなかったし、目があっても顔をそらされた。だから、嫌われたんだと思った。謝ってももう遅いんだと。もう友達じゃないと言われるだろうと思いこんで、怖くてたまらなかった。そのせいで、なおさら謝ることができなくなった」
 冨岡の手はやさしく動きつづける。泣く子を宥める手付きだった。
「長い間ではなかった。せいぜい三日ほどだったと思うが……二人そろって先生にゲンコツを落とされて、謝ることができぬほどの意気地無しが、鬼など倒せるかと叱られた。お互い痛い思いをしてお互い謝って、それで|終《しま》いだと言って……俺たちが、先を争って謝りだしたのに笑ってた」
 フッと声音に笑みがまじる気配がして、冨岡にとってそれが幸せな記憶なのだと知らせる。いまだ笑顔を見せてはくれぬ冨岡は、育手や錆兎には笑っていたんだろうか。思った刹那、強い悋気が頭をもたげ、煉獄は唇をきつく噛みしめた。
 嫉妬などする資格はもう自分にはないだろうに。謝ることすらできぬ意気地なしとは、まさしく自分のことだ。絶望のなかですらヤキモチだけは立派に妬くとはどこまでも身勝手な男だと、自分への失望が煉獄の胸にわだかまっていく。
 冨岡は、そんな煉獄の鬱屈に気づいた様子もなく、なおもあやす手付きで髪を撫でていた。
「俺が悪い、いや俺のほうが悪かったと、今度は自分こそがいけなかったんだと譲らない俺たちに、先生はちょっとあきれていたと思う。喧嘩両成敗。謝ったのならそれで終いだと言っただろうとあきれ声で言って、喧嘩のあとで仲直りできるのも信頼と好意あってこそだ、仲良しだなと……笑ってくれた」
 信頼と、好意。冨岡のなかに自分へと向かうそれは、あとどれほどあるのだろう。少なくとももう、恋心はないのに違いない。それは煉獄にとってもはや確定事項だ。好かれ信頼される資格など、粉々に砕けた。自分の手で壊してしまった。腕のなかの冨岡を抱きしめる資格すら、もうありはしない。だから煉獄の手は、冨岡の背を支えるにとどまっている。抱きしめられない。
 抱き返されないことを、冨岡はどう思っているのだろう。またいつものように誤解しているかもしれない。煉獄の不安を裏付けるように、冨岡の声が少し沈んだ。
「すぐに謝れなくて、ごめん。謝ったところで、許せるものではないとわかっている。判断が遅いと先生に叱り飛ばされるだろうが……怖くて、おまえを避けた。話せばおまえは理解してくれるとわかっていたけれど、それでも……別れ話を切り出されるのが怖くて、先延ばしにしたいと逃げてしまった」
「なん、で……別れたいなど、俺が言うはずがない! 俺なら理解してくれると思ったんだろうっ? なのになぜ俺が別れ話などすると思うんだ!」
 あぁ、また声を荒げてしまった。煉獄の胸にまた後悔が一つ。別れに怯えているのは自分のほうだというのに、冨岡が恋を終わらせたくないとすがってくれているようで、喜びすら心の隅に湧いている。身勝手すぎて反吐が出そうだと、煉獄は喉の奥で唸った。
 こんな自分になぜ、冨岡の手も声音もやさしいのだろうか。

「だって、おまえが好いてくれているのは、水柱だろう……? 俺じゃない」