強引な接吻に、いつもの甘やかさはない。強く舌を吸うときでさえ、冨岡が苦しまぬようにとの気遣いを忘れたことなどなかった煉獄の、自分勝手な舌の動きに冨岡は、どうしようもなく戸惑っているようだった。
それでも慣れた体は、官能を敏感に拾い上げてしまうのだろう。いつものように煉獄の肩にすがる手には、隠しきれない甘えがにじんでいた。
この手がやがておずおずと背に回され抱きしめててくれるたび、いつだって幸せと愛おしさと、幾ばくかの優越感を煉獄はいだいていた。なのに今日は、さらなる怒りが生まれるばかりだ。
ほかには誰も知らない冨岡の姿を、煉獄だけは見てきた。柱合会議で柱たちと顔を合わせたときなどは、悲鳴嶼にさえも甘えることのない冨岡が、自分にだけは甘えてすがってくるのだという実感を、一人離れた場所でぽつねんと立っている冨岡に覚えもした。ひどい話だ。
なんだ、もとから俺は自分勝手な男だったんじゃないか。冨岡に本心からの信頼を寄せられぬのも当然だ。そんな自嘲が胸を焼く。
だというのに、怒りのままに冨岡に無体を強いろうとしているのだから、煉獄杏寿郎という男のたかも知れるというものだ。父が吐き捨てるように言う、どうせ大したものにはなれないんだという言葉は、事実なのだろう。自虐的な思考は苦すぎて、怒りに我を忘れ熱く燃え上がりそうだった煉獄の頭は逆に、冷徹に冴えていった。
息継ぎ一つ許さないとばかりに貪る口吸いに、冨岡の足がカクカクと震えだしている。すがる手に力がこもっていた。
接吻だけで震えだすいつまで経っても初心な冨岡の腰を抱き、唇を噛み合わせたままゆっくりと体を布団に横たえさせるのが、いつもの流れだ。けれども、冨岡の背を柔らかく受け止めてくれる布団は、ここにはない。
いつだって、二人の逢瀬は蕎麦屋の二階だった。同じ店はめったに使わない。冨岡が恥ずかしがるのだ。
二度目の店などは、世間的には客層が悪いと言われそうな店だったが居心地はよく、煉獄にしてみれば慌ただしい逢瀬には最良の部類に入る。居合わせた客は、下世話なからかいの言葉をかけてはきたが、男同士である二人に眉をひそめる者など店主も含め誰もいなかった。人通りの多い場所でもなく、蕎麦もそれなりにうまい。煉獄は定宿にしてもいいなと思ったのだけれど、冨岡は、一度目合った場所へ行くことを盛大に恥ずかしがり、足を向けようとはしなかった。
交合のあいだでさえ呼吸を用い、警戒を忘れぬ冨岡でも、甲高い喘ぎをもらすことはある。階下の客や往来の人にも聞こえていたかもしれないと、我に返ってから思い至るのだろう。三度目の逢瀬の折に冨岡は、白い肌を真っ赤に染めて誰も知らない場所がいいと、二度目と同じ店に向かおうとした煉獄の羽織をちょんと引き、消え入りそうな声で言ったものだ。
煉獄に否やなどあるわけもない。恥じらう冨岡の奥ゆかしさにときめきもした。煉獄だって、誰彼かまわず己の恋を公言する気はない。冨岡との仲を、恥じたり隠し立てしたりするつもりは毛頭ないが、武勇伝のように誰かに語るなどまっぴらだ。二階に上がれそうな蕎麦屋を探すのは、煉獄の日課になった。
蕎麦を食うのが事前か事後になるかは、そのとき次第だ。互いに抑えが利かずに届けられた蕎麦はそのままに盛ってしまったときなどは、初めてのときと同じように、伸びきった蕎麦を二人でモソモソとすする。それさえもが幸せで、楽しかった。
楽しいと思っていたのは、俺だけだったのだろうなと、冷めていく脳裏で煉獄は苦く思う。冨岡が人に逢瀬を知られたくないのは、恥じらいではなく、相手が煉獄だと知られるのが迷惑だっただけかもしれない。それは疑いではなく事実に思えて、煉獄の若く健康な肉体は欲情に熱くなっていくのに、怒りの冷たい炎が胸や頭を凍えさせた。
そんなことを考えること自体がありえないと、心のどこか片隅で、消え入りそうに小さな遠い声が怒鳴っている。けれども必死に叫ぶかすかな声は、胸の奥でひびく獰猛な獣の唸り声にかき消された。
やっと口を解放してやれば、冨岡は陸にあげられた魚のようにハクハクと唇をおののかせ、煉獄の目をひたりと見据えてくる。濡れた冨岡の瞳は、清かにきらめく星月夜を鏡写しにしたような瑠璃。そこに映る男の顔を見たくはなくて、煉獄は乱暴な仕草で冨岡を突き放した。
力が入らなくなっていたのだろう、煉獄の隊服を掴んでいた手が離れ、冨岡は簡単によろけた。常ならば揺るがない体躯が、自分の行動一つでたやすく足元がおぼつかなくなり、いつだって毅然としている無表情が簡単に崩れる。そこに昏い喜びを感じ取り、煉獄は、舌打ちしたい衝動をこらえると、己のベルトに手をかけた。
本気なのかと訴える眼差しにいや増す苛立ちのなかにも、薄暗い歓喜があった。どれだけ強く舌を吸い上げ、あふれる唾液をすすろうとも、心で怒りは燃え上がり、乾いていた。
「煉獄……」
短い呼びかけが伝えてくる困惑と焦燥に、煉獄は唇を嘲笑に歪めた。
ポツリ、ポツリと、心に落ちてくる雨粒はすぐさま怒りの炎で蒸発し、煉獄を潤すことはない。駄目だ、逃すな。あれがほしいんだと、求めてやまないものなどあれ一つきりなのだと、叫ぶ声を心の果てで聞く。乾いていた、ひどく。なのに唯一潤いを与えてくれるはずの水を、煉獄のなかの獣は拒む。
やさしくしたいんだ。大切にするんだ。叫ぶ声を獣は嘲笑う。やさしくしていただろう? 大切にしてた。裏切ったのは冨岡のほうだ。どれだけやさしく、大事に、大切にしたところで、冨岡は自分の手になどいてくれなかった。いつも、どの瞬間にも。求めあう心が重なって、歯車がピタリと噛み合ったと感じたその瞬間でさえ、本当は噛み合ってなどいなかったのだ。勝手にそう思い込んでいただけ。
壊してしまえ。穢してしまえ。獣は唸る。歯車が軋む。噛み合うことができぬまま、ギシギシと。
炎と水の柱はどの時代にも常に同時に存在する。まるで対の存在かのように。自分と冨岡も、一対として生まれたのだと、いつからか煉獄は信じていた。
一心同体。一枚の紙の裏表。けっして引き剥がせぬ対として自分と冨岡は顕現しているに違いない。寡黙で声の小さな冨岡を補うようにと、自分は大きな声で快活に話すようになっていたのだろう。争うことが嫌いで玩具の鉄砲を人に向けることすら厭う冨岡は、もしかしたら鬼狩りにならずに大きくなっていたかもしれない。だから、冨岡を守るべく自分は鬼殺の家に生まれ、物心ついたときから竹刀を握っていた。きっとそうだ。出逢う前からそうあるべきと、なにかに導かれるように知らず生きてきた。今の自分を作り上げてきた。冨岡の対としてあるために、冨岡を守り抜くために、冨岡を知るより前からずっと。
星のまたたく夜空のような冨岡の瞳と、夜明けに似た黄金と朱に彩られた自分の瞳。ほら、瞳でさえも対の存在としてあるべく生まれ落ちたようじゃないかと、己のこれまでの生き方も姿にも、誇らしさすら感じていた。
馬鹿だ。姉を亡くした冨岡と、千寿郎がいてくれる自分。こんなことまでもが、まるで鏡写しのようだなとさえ思っていただなんて、単純すぎるにもほどがある。こじつけもいいところだ。一心同体でなどあるわけがなかった。
引き剥がせないどころか、冨岡は最初から一瞬だって、俺のものであってくれたことなどないというのに。思い知らされてなお、信じたがる自分は、本当に……馬鹿で馬鹿でしょうがない。
ベルトを外した煉獄を、冨岡は息を詰めただ見ていた。いや、それは正しくないだろう。見ていることしかできなかったに違いない。洋袴の前立てを外すに至っても、まだ煉獄の行動が信じられずにいる。判断力に優れた冨岡らしくもない失態だ。嫌なら逃げればいい。やめろと怒鳴ればいいのだ。動かずなにも言わぬのならば、それは了承と同義だろう。
勝手なことを抜かすな、冨岡を傷つける者は自分自身であろうが許さないと、叫ぶ声は遠く掠れて、乾いた心で獣が上げる咆哮にかき消えた。
冨岡は、煉獄が腕を引き跪かせても、なにも言わなかった。困惑と悲嘆で瞳を染め抜いているくせに、たやすく膝を折った冨岡に、煉獄は冷たく笑って言い捨てた。
「俺のものでは物足りないかもしれないが、張り型よりはいいだろう? いつものように好きなだけかき混ぜてやるから、勃たせてくれ」
見開かれた瞳に、獰猛で冷淡な獣が映し出されている。あれは、なんだろう。誰なんだ。冷たい目をした獣のような男が、冨岡の瞳のなかで煉獄を見つめ返している。
いつだって冨岡が見つめてくれるそのときに、瑠璃色の鏡に映る男は幸せそうに笑っていた。姿形は同じでも、まったく違う。こんな男を、煉獄は知らない。知らなかった。冨岡を冷酷無情な目で見据えて嘲笑う獣が自分のなかにいることなど、知りたくもなかった。
思いやりなど欠片も見せぬ仕草で冨岡の髪を掴み、兆しを見せぬ己へと麗しいその顔を押し付ける。そんな暴挙に出る男など、断じて許しはしなかったものを。愕然と見開かれた瞳は、月明かりもまばらな木立のなかでは暗く、黒く見える。そこに映る冨岡を愚弄する獣は、それでも煉獄杏寿郎の顔をしていた。