煉獄は知っている。冨岡の言葉足らずには、悪意や傲慢さなど、みじんもないことを。わかっていると、冨岡自身に告げてもきた。わかる自分が誇らしかった。
そんな、名誉とさえ思い得意げになっていた自分を、煉獄は胸中で嘲笑う。思い上がっていただけだ、愚か者めと吐き捨てる。
無理に開かせた小ぶりな口のなかで、赤い舌が震えていた。真珠の粒のような白い歯に己の舌を這わせ、甘い舌を味わい尽くしたい。いつだって、冨岡の震える舌を目にするたび、全身に巻き起こるそんな渇望に逆らうことなく、煉獄は唇を重ねてきた。
けれど今宵の煉獄の脳裏は冷えている。怒りの焔は胸で燃えているが、体は凍てつくように寒かった。
いつものように抱きしめるでも、接吻してくるでもない煉獄に、冨岡は戸惑っているようだ。それでも覚悟は決まっていると言いたげに、眼差しはそらさない。怯えたように早くも涙の膜を張らせているくせに、煉獄の手に逆らわぬ冨岡が、煉獄の怒りをかき立てる。
怒ればいい。なぜそんなことを言うと、責めればいいのだ。男に二言なしと言ったその口で、恋人になれてうれしいと甘く微笑んだその口で、今までの関係を切り捨てるようなことを言うなと、なじればいい。心のどこか遠くで煉獄は願う。けれども冨岡は、従順なまでに煉獄からの沙汰を待っている。胸の奥で獣が唸っていた。
思えば喧嘩一つ、冨岡とはしてこなかった。言い合いになることがなかったとは言わないが、言葉の応酬はいつだって、睦言めいた甘美さをまとっていた。楽しかったのだ。うれしくてしょうがなかった。ろくに会話すらしてくれなかった冨岡が、自分にだけは声を荒げたりふてくされたりしてくれることが。
隊員同士の喧嘩はご法度だ。けれども煉獄と冨岡は、ただの仲間ではない。恋仲なのだ。恋人同士だ。傷つけるのはまっぴらだが、本音でぶつかり合い絆をさらに深めあうことができるなら、喧嘩の一つもしておけばよかった。
今となっては虚しいばかりの戯言だと、煉獄は口中に溜まっていく苦さを無理にも飲み込む。
いつだってせわしなかった逢瀬に、腹を割って深く語り合う時間などなかった。求め合い与え合うのに必死で、がむしゃらに抱き合う逢瀬は、いつだって互いに余裕などない。体を重ねることに慣れてからはなおさらに。ことが済んだあとには、愛おしさを甘受しあうことに夢中で、不穏な影などひとひらほども欲しくはなかった。
「口も聞きたくないのなら、それでもいい。で、君はなにをぼんやりしてるんだ? 突っ立っているだけで詫びもないものだな」
飲み込みきれなかった苦さを吐き出すように、煉獄は言った。冨岡の肩がビクリと震えた。
「あ……すまない。夜が明けたら改めておまえの屋敷に」
「詫びと言う割には、休息の時間を奪うことになんの躊躇もないんだな」
あからさまにうろたえた冨岡を、滑稽だと思う。一度だって、冨岡を馬鹿にしたことなぞなかったというのに。
いつだって冨岡は、煉獄の目に眩しく映った。凛として雄々しい柱としての冨岡も、子供のようにあどけなく煉獄の手に頬を擦り寄せる冨岡も。甘く掠れた声を上げて、乱れてみせるときでさえ、冨岡はどこか清涼で、ひどく眩しく見えていたのに。
滑稽で愚かなのは自分もか。冨岡よりもよっぽど惨めで愚かなのは俺のほうだと、煉獄は冷めた目で冨岡を見つめながら思う。休息の時間などよくもまぁ言ったものだ。冨岡にひと目逢うため、夜を徹して戦ったあとでさえ、せっせと冨岡の担当する地まで足を運んでいたのは自分だろうに。寝るまを惜しんでの冨岡詣では、さぞや滑稽だったことだろう。
どこか冷静に思いつつ煉獄が見つめる先で、唇を噛みしめ、冨岡は逡巡している。だがそれも数瞬だ。冨岡は、意を決したように歩きだした。相変わらず判断を下すのが早い。
「……わかった。行こう」
「どこへ?」
にべもない煉獄の声に、冨岡の足が止まる。振り返った冨岡の夜目にも白い頬が、ヒクリとこわばった。またわずかにうつむき、恥を忍ぶかのように声を落として言う。
「どこか、蕎麦屋を探して……」
冨岡の言葉をさえぎり、煉獄の笑い声が夜の|静寂《しじま》にひびく。鳥が羽ばたく音がした。眠りを妨げてしまったようだ。申し訳ないことをしたと、どこか他人事のように考える自分さえもが、可笑しかった。
「君は本当に世間知らずだな。こんな真夜中に開いている蕎麦屋もあるまい」
失血で少しばかり白さを増していた冨岡の顔に、サッと朱が走る。恥じらいと困惑に彩られた瞳が、煉獄に向けられた。
「じゃあ……どこで」
「ここでいいだろう? 布団はないが、なに、どうにでもなる」
「は……?」
冨岡の丸く見開かれた目は、|悉皆《しっかい》その言葉の意味など理解できていないことを告げている。
「そんなに驚くことでもないだろう? どこでだろうと、することは変わらないのだからな。俺の魔羅を君の菊門にこじ挿れるだけだ。いつもしていただろう? それとも、久しぶりで忘れてしまったか? ……あぁ、むしろ君は、忘れたくて俺を避けていたのか」
「な、にを……」
うっそりと笑ってみせた煉獄に、冨岡の顔から憐れなほどに血の気が引く。冨岡の表情は感情が読み取りにくいが、これはさすがに俺でなくともわかるなと、煉獄の笑みにわずかばかりの苦笑がまじった。愕然としている。煉獄がそんなことを言うなんて信じられないと、墨でくっきりと書いてあるようにさえ思える、その顔。こわばった秀麗な顔には、驚愕と憤りと悲しさが|綯《ない》まじっていた。
「詫びをと言いながら、君は本心ではやはり、俺にこそ謝れと思っているようだな。だが、もういい。怒るのも馬鹿らしい。どうせ……君の言葉は嘘ばかりだ。することだって変わらん」
「嘘……?」
頼りなげにかすかに振られる首に流れていた血は、止まっていた。柱としての習性は、こんな場にあっても発揮されている。それを責めるつもりはない。むしろどことなし煉獄は安堵した。
少なくとも、戦闘不能にならぬよう務める心構えは、冨岡とて揺らいでいないのだ。
鬼を庇い、斬り捨てるどころか、育手のもとで保護させるような真似をしていたとしても。
「待て……待ってくれっ、煉獄! おまえに嘘なんか」
「もういいと言っただろう。詫びだのなんだのという誤魔化しも、やめようじゃないか。なぁ、冨岡。お互い自分で抜くよりいいのはわかってるんだ、せいぜい楽しもう。いつも、そうしていただろう?」
手を伸ばし、煉獄は今宵初めて、冨岡の頬に触れた。
いつだって、どんなに薄い玻璃に触れるよりも慎重に、やさしく触れてきた指先は冷え切って、我ながら凍りつくようだった。
煉獄の指が頬に触れたとたん、冨岡の顔から、スッと表情が抜け落ちた。
人形めいた無機質な顔を、ポロリと落ちた涙が伝う。無性に見たくなくて、煉獄は視界を閉ざすため、乱暴に唇を重ねた。いつだって天上の甘露のように煉獄を酔わせた甘い舌は、なぜだかひどく苦かった。