流れ星 後編

 東の空がうっすらと白みだした枯野を、煉獄と冨岡は手をつなぎ歩く。
 もう誰もいない枯れた草原を照らすのは、それでもまだ月明かりだ。虫の声が涼やかにひびいている。自然、常には大きな声で話す煉獄の声音も静かなものとなっていた。快活で朗らかな声は、こんな星月夜には似合わない。

「……そういえば、さっきの隊士には悪いことをした」
「さっき? あぁ、佐分利隊士か。君はなにもしていないだろう?」
 唐突な冨岡の発言は、いかにも申しわけなさげで、少しだけ煉獄はふてくされた気分になる。二人きり手をつなぎ、甘い余韻を抱いて歩いているのに、恋人に秋波を送る者の話などしたくはない。
「いや……思い出したが、彼女には少しばかり借りがある」
「借り? いったいなんの?」
 冨岡が誰かに借りを作るなど、すぐには信じられない。ましてや相手は接点などまるでないだろう新任隊士だ。なにがあったのかと眉を寄せた煉獄に、冨岡からわずかに言いよどむ空気が感じられた。
「義勇?」
「……名前を呼ぶのは、蕎麦屋で逢うときだけにしようと決めただろう」
「ふむ、たしかに約束したな。俺としてはいつでも君に名前で呼ばれたいが」
「思い出すから駄目だ」
 夜目にも赤らんだ頬をして、冨岡は煉獄以上にすねた様子を見せるから、煉獄はつい苦笑してしまう。甘ったれな子供めいた自分を見せることを認めはしたが、冨岡の生粋の弟気質には負ける。長男の自分はどうしたって甘やかしてしまう側なのだと、へそを曲げてしまったらしい冨岡を見つめながら実感してしまう。
「だが、いつかは許してくれるだろう? それを楽しみにするとしよう。で? 佐分利隊士となにがあった?」
 ごまかされないぞと、じっと見つめれば、圧に負けたか冨岡は小さな声でせわしなく言った。
「蝶屋敷に傷薬の補充に行ったときに、あの隊士がほかの者達と話しているところに出くわした。ボッカチオという浅草オペラを見たとかなんとか話をしていて、恋しい人と聞きたいと歌いだしたんだが……その、それが気になって、声をかけた。俺は覚えていなかったが、救援に向かった際に助けたことがあるらしい。今の歌を教えて欲しいと頼んだら、礼にだろうが快く歌ってくれた。……煉獄? あの、やはりこういうのはよくなかっただろうか。柱の威を振りかざしたようなものかもしれないが、彼女もなんだかうれしそうだったから……つい、これぐらいは大丈夫だろうと思ってしまった」
 ムゥッと不機嫌さをあらわにしてしまった煉獄に、冨岡がしょんぼりと肩を落とす。いかんと内心慌てもしたが、どうにも先までのわがままな自分を抑えきれない。とはいえ、冨岡には自分が彼女から好意をもたれている自覚などないのだから、責めるのは酷というものだ。
 小さく溜息をつけば、冨岡は首をすくめて煉獄の様子を上目遣いにうかがってくる。
「冨岡、どんな曲なんだ?」
 努めて穏やかに笑いかければ、冨岡は幾分ホッとした様子で、それでもなんだかまだ逡巡しているようだ。
「冨岡?」
 ん? と顔を覗き込んで促せば、冨岡も溜息をもらし、いかにも不承不承につぶやいた。
「その……『恋はやさし野辺の花よ』とかいう曲で、聞いたとき、なんとなく煉獄を思い出して……」
「俺を?」
 曲名からして恋歌のようだが、それを聞いて思い出すのが自分だとは。不機嫌さなど吹き飛んで、思わず声を弾ませた煉獄に、冨岡は羞恥をにじませコクンと幼い仕草でうなずいた。
「我が心の……ただ一人、と……」
 冨岡の頬の赤みは、もはや首筋にまでおよんでいる。歓喜と衝撃が胸を貫いて、煉獄の顔も冨岡に負けず劣らず熱い。
「……いい曲だったのか?」
「そうだな……いつか、煉獄と舞台を見に行けたらいいと思った」
 少しだけ頬を緩めて言う冨岡の雰囲気は、落ち込みが消えホワリとしている。はっきりとした笑みこそ浮かべぬものの、なんだかうれしそうだ。
「いいなっ。いつか必ず行こう。だが、その前に君が歌ってみてくれないか? 君の好きな歌を知りたいと言ったことがあっただろう? ちょうどいい機会だ」
 ピッと肩を跳ね上げて、とたんにブンブンと首を振る冨岡に、煉獄は稚気を抑えられずに、笑って冨岡の顔をなおも覗き込む。駄目か? と視線でねだれば、諦めたのか冨岡は下手だぞと言いおき、小さく口ずさみだした。

 ――恋はやさしい 野辺の花よ 夏の日のもとに 朽ちぬ花よ

 初めて聞く冨岡の歌声は小さく、ためらいがちではあったが、やわらかくやさしい。
 夜明けの近づく星月夜に流れる恋のうた。やさしく甘い冨岡の声。歩みは止めぬままに。

 ――熱い思いを 胸にこめて 疑いの霜を 冬にもおかせぬ

 満たされていく心には、疑いはもう欠片もなく。ただ甘やかな愛おしさが募る。
 冨岡という水を注がれて、恋の花が匂い立ち咲き誇る。
 
 ――わが心の ただひとりよ

「……おしまいだ。二番は、あの隊士もまだ覚えていないと言うから、俺も知らない」
 歌いやみ、照れ隠しにか少しばかりそっけなく冨岡は言う。
 なんだか胸が詰まって、煉獄はすぐには返事ができなかった。甘い恋の歌だ。たった一人を想う曲。それを聞いて冨岡は、自分を思い浮かべてくれたのだ。幸せの波にさらわれて、また煉獄の瞳に涙が浮かびそうになる。
「……いつか、一緒に舞台を見に行ったときに、覚えればいい。レコードが出ていたら、それも買おう。君と聞きたい。そうだ。歌舞伎に興味はないか? いつか、二人で観に行けたらと思っていたんだ」
「……うん。歌舞伎もオペラも、煉獄となら楽しいと思う。いつか行こう。約束だ」
「あぁ」
 次に逢うときには、冨岡は笑ってくれる。いつか、冨岡にコマ回しやメンコを教えてももらうのだ。名前で呼びあう日だっていつかくる。押し花だって作るのだ。いくつもの約束は、いつと定かにはできずとも、冨岡は必ず叶えてくれるだろう。
 二人、しわだらけになり、刀を握ることもできなくなってからになったとしても。
 たとえ、死は常に互いの傍らにあり、もしかしたら果たされぬまま終わるとしても。
 いつかと、煉獄も冨岡も、はたから見ればくだらなく他愛ない約束を何度も口にする。

 けれど。

「なぁ、冨岡……」
 ふと足を止め、静かに呼びかけた煉獄に、冨岡がコトリと小首をかしげる。幼い仕草が愛おしかった。
 言うべきではないことなのかもしれない。それでも、煉獄はやさしく冨岡を見つめたまま、握った手に少しだけ力を込めた。

「もし俺が先に死ぬことがあっても、君はまた恋をしてくれ。幸せだと笑える恋をしてくれ。一途に思われればそれは俺にとっては誇らしく幸せなことだが、どうにも心配でならぬのでな。……いや、すまん。少し嘘だ。君が幸せであることが、俺にとってはこの上ない幸せなのだ。俺とでなくてもいい。君には幸せな恋をしてほしい。これからも、俺がいなくなっても、ずっと」

 大きく見開かれた冨岡の瞳に、わずかに切なく煉獄は苦笑する。
「……なんで」
 ただ一人と、歌に込めた想いを聞いてなぜ、そんなことを口にするのか。冨岡の瞳が雄弁に語りかけてくる。
 煉獄とて、こんなことをかねてから思っていたわけではない。けれども、ふと思ってしまったのだ。もしも自分が先に逝くことになったのなら、冨岡はまた、誰とも関わるまいとするのではないかと不安になった。
 ゆめゆめ鬼に後れをとるつもりはない。けれども鬼との戦いに絶対はない。
「俺もそうする。もしも君に先立たれることがあったとしても、悲しみ続けたりはしないと約束する。君を想うことはやめられないだろう。君への恋を抱いたままでいることを許してくれる人でもなければ、きっと恋仲になどなってはくれないだろうな。それでも、俺はちゃんとまた恋をすると約束する。神様だからじゃないぞ? 君に、笑っていてほしいからだ。俺が鬱々と嘆き悲しんで暮せば、君は自分が先に死んだからだと、彼岸でも自分を卑下して過ごしてしまいそうだからなっ。それは俺も悲しい!」
 笑う煉獄に、冨岡は悲しげに眉を寄せたが、それでもやがてそっとうなずいた。
「よし! それじゃこの話はおしまいだ! ……あぁ、夜が明けるな」
 気がつけば東の空が赤らんでいる。冨岡の瞳を思わせる夜空と、煉獄の瞳に似た朝日が、溶け合い混じり合う時刻だ。
 また、命を賭けた一日が始まる。

 しばらく二人無言で昇る朝日を見つめていた。フッと息をついたのは、どちらが先だっただろう。
「冨岡は一休みしたらまた警邏か?」
「あぁ……煉獄は?」
「俺はお館様に呼ばれている。夜が明けたら屋敷にとの仰せだ。新しい任務だろう」
 煉獄の口調は何気なかったが、冨岡の表情はてきめんに険しさをたたえた。
「……上弦か?」
「かもしれん」
 お館様直々の命であれば、上弦ならずともそれなりに厄介な鬼であるのに違いはなかろう。冨岡の手にも力がこもって、言葉もなくどちらともなく二人は向き合った。
 ゆっくりと閉じられていくまぶたに合わせて、顔を近づけあう。接吻は、ほんの一瞬の触れ合いだった。
「では、またな!」
「あぁ……また」
 恋人同士の甘さをその場に残し、タンッと同時に地を蹴った二人は、別方向へと走り出す。
 また、と、いつものように次を約束する言葉をかわして。