流れ星 後編

『冨岡義勇が腹を切ってお詫び致します』

 その言葉が耳に入った瞬間に、煉獄の脳裏に浮かんだ言葉は、彼はどんな顔をして聞いているのだろう、だった。
 おそらくは、常とまったく変わらぬ無表情に違いない。彼はいつだってそうだ。
 ほんの少し目線を動かせば、きっと見える。だが、確かめることはしなかった。できなかった。
 ギシギシと、胸の奥が軋んでいた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 その夜、警邏中の煉獄に届いたのは、救援を求むとの報だ。告げられた場所は、煉獄にとっては思い出深い場所だった。現在、下級隊士たちが任に当たっているその場所は、煉獄が、冨岡と初めて共闘した地である。しかも、向かう途中で飛んできた己の鴉がせわしない声で言うには、水柱も救援に向かっているとのこと。ひょんな偶然もあったものだ。
 天空に輝く更待月ふけまちづきは、煌々と白い。乾いてよく晴れた秋の夜空には、星が数多あまた輝いている。
 月の位置から察するに、おそらく夜明けまではまだ、三時間ほどもかかるだろう。煉獄の足が速まった。煉獄が巻き起こす風に、赤や黄色の落葉が舞う。晩秋の野。煉獄は夜を駆ける。

 指示された場所に到着してすぐに、煉獄の目がとらえたのは、先発の隊士たちの亡骸だ。多くは刀を握ったまま絶命している。視線だけで見まわし、煉獄は状況を確認した。駆ける足は止めない。
 死亡している隊士たちの傷は刀傷ばかりで、鬼の手によるものではなさそうだ。刀による傷がない遺体もあった。それらはそうとう苦しんで亡くなったのだろう、喉を搔きむしった痕が見て取れる。
 かろうじて生きている者もいるが、そう多くはない。救護班に先んじて煉獄は到着したらしい。清かな月明かりに照らされた枯野かれのには、今宵も苦鳴と死臭が満ちていた。
 煉獄に気づいたのだろう。一人の隊士の手が、震えながら上がった。隊士が声なく指し示した方角へと、煉獄は足を止めることなく突き進んだ。
「じき救護の者がくる! 頑張れ!」
 手当てを施すのはもとより、失った命を悼む時間すら今はない。柱たる煉獄に課せられた最優先事項は、悪鬼滅殺。鬼はすでにここにはいないのだ。気配を探りつつ、煉獄はなおも駆ける。

 ほどなくして目に入ったのは、前方でひるがえる風変わりな羽織だ。
「冨岡!」
 声をかけても彼は振り返らない。任務中だ。煉獄も落胆などしなかった。
 足を早めて傍らに並び、チラリと視線を投げる。冨岡の横顔は、いつもながら人形めいて感情が読みづらい。
「敵は?」
「逃げた」
「取り逃がすとはらしくないな。情けをかけたわけでもあるまい?」
 微量な含みに、冨岡は気がついただろうか。冨岡の気配も感情も希薄すぎて、深い仲となっても、煉獄にはいまだ読みきれぬことのほうが多い。任務中であればなおさらだ。
 冨岡は弁明しなかった。というよりも反応なしだ。
 胸の奥で、錆びて噛み合わぬ歯車が立てる不快な軋みに似た音が、かすかに聞こえた気がする。けれども煉獄は気に留めなかった。任務に集中、私事は切り捨てろ。胸中で独り|言《ご》ちると同時に、煉獄はふたたび冨岡に問いかけた。
「鴉の報告では、鬼は突然姿を消すらしいな。姿が消えてしばらくすると、隊士が突然苦しみだした挙げ句に仲間に斬りかかり、やがて亡くなると聞いた」
 今度は反応があった。うなずいた冨岡は、突然語りだした。

「子供のころ、カマキリが自分から溜池に入っていくのを見たことがある」
「カマキリ?」

 また突拍子もないところからきたなと、煉獄はチラリと冨岡の横顔を窺った。当然のことながら会話のあいだも二人の速度は落ちない。
「水に入れば溺れ死ぬのは、虫にだってわかるだろう。なのにカマキリはまっすぐに水場に向かった。父に聞いたら、寄生虫に操られているのだと教えてくれた」
「……なるほど。そういう鬼というわけだ」
「推測だが。俺が到着したとたんに逃げた隊士から、かすかにだが鬼の気配がした。遠隔操作されているわけではないと思う」
「君の観察眼と洞察力は秀でているからな! 承知した!」
 とはいうものの厄介だなと、煉獄はわずかに瞳をすがめた。
 おそらくは、鬼は微細な寸法に体躯を縮められるのだろう。それこそ寄生虫のように小さな虫の如き大きさまで。耳か、それとも口からか。侵入口はわからないが、いずれにしても人の体内に入り込み、宿主とされた者を体内から操るのに違いない。
「斬れるか?」
 体内に入れるほどに小さくなるのなら、刀で頸を狩るというわけにはいくまい。操られた者を斬ったところで、鬼が斬れないのなら意味はないのだ。隊士がまだ生きている状態なら、あたら罪なき命を奪うだけとなってしまう。日輪刀が斬るものは、あくまでも鬼。人を斬る道具ではない。
 冨岡の返答は一言だった。
「追い出す」
「ふむ、それしかないだろうな」
 どうやって、とは聞くだけ無駄だろう。それしか手がないのなら、どうにかするまでだ。
 おそらく冨岡の到着は、煉獄と差がない。追いつくまでの時間を鑑みれば、十分ほど前だろうか。鬼に操られた隊士にまだ追いつけないとなると、下弦の鬼とまではいかぬまでも、そうとう人を食ってきた鬼とみえる。血鬼術を駆使する鬼はそこそこ厄介だ。鬼に操られた者は、信じられぬほど超人的な動きをすることもある。宿主の都合などお構いなしに動かされるからだろう。
 あの日と同じだなと、煉獄は思考の片隅でかすかに思った。初めて冨岡と共闘したときの動物たちもそうだった。夜目の利かぬ小鳥までもが、過たず目や眉間などの急所を狙ってきたものだ。
 だが、どれだけ素早く走ろうと、柱の足は鬼に劣るものではない。いくらも経たずに、隊士が一人立ち尽くし、ガタガタと痙攣しているのが見えた。
 操られていた憐れな隊士は、煉獄たちがたどり着く前に、ゴフリと血を吐き倒れた。長時間操ることはできないのかもしれない。そして、遺体を操ることもできない。隊士の亡骸の多さに納得がいった。
 亡くなった隊士たちは、操られた者との同士討ちがほとんどだろうが、鬼に寄生されて亡くなった者もそれなりにいたはずだ。宿主が死ぬたびに、次々に寄生されていったに違いない。
 だとしたら。

 鬼は、どこだ。

 亡骸に駆け寄りつつ気配を探す。隊士はすでに事切れている。鬼の気配は周囲にはなかった。まだ体内にいるのか。だが、このまま体内に潜み続けていれば、夜明けがきても逃げられないことぐらい、鬼も承知しているだろう。宿主は亡くなった。夜のうちに出てこなければ、消滅あるのみだ。
 双方、刀を抜き払い、隙なく亡骸を見つめる。微動だにすることなく、どれだけ待っただろう。不意に、塵ほどにも微細ななにかが、シュンッとくうを飛んだ。それは、柱である煉獄や冨岡ならばこそ気づけたほどに、小さく素早い。気づいた瞬間に冨岡は飛び退すさろうとした。だが、鬼のほうが紙一重で早かったようだ。
「……っ!」
「冨岡っ!」
 バッと首筋を押さえた冨岡を、煉獄はとっさに引き寄せた。
 冨岡は険しく眉間を寄せ、手を離すと、煉獄に見せつけるように首をかたむけた。煉獄をまっすぐ見つめてくる眼差しに、焦燥の色はない。信頼の光をその目に見て取り、煉獄はサッと冨岡の白い首筋に視線を走らせた。
 左耳のすぐ下、隊服の詰め襟からかろうじて見える首筋に、ほんの小さな赤い点があった。それはいかにもささやかで、針の先ほどの大きさもない。けれども煉獄が見逃すわけもなかった。血だ。認識した刹那、煉獄は迷わずそこに噛みついた。
「……んぅっ!」
 息を詰めてかすかにもらされた声は、とこでの声に似ていた。ギリッと強く噛みしめ、吸い上げる。口中に錆臭い血の味が広がった。無意識にだろうか、煉獄の肩を掴んだ冨岡の左手には、骨を砕かんばかりの力が込められている。その反応もまた、どこか受け入れるときに似ていた。
 けれども当然、何度も繰り返し重ねた逢瀬のなかで感じた甘やかさは、そこには微塵もない。
 食いちぎる勢いで、煉獄は冨岡の首を噛みしめ、血をすべて飲み込まんばかりに吸い上げる。血管に入り込まれてからでは遅い。いっそ、本当に噛みちぎるべきか。だがここは急所だ。血管を食いちぎりでもしたら、それが致命傷ともなりえる。
 まにあえ。脳裏にそんな文言が浮かんだのと、キュッと煉獄の眉根が寄せられたのは同時だった。

 ――来た!

 あるかなしかの違和感。感じた瞬間、煉獄は口中に溜まった血を即座に吐き出した。
 真っ赤な飛沫が地に落ちたときには、煉獄と冨岡は刀をかまえていた。
「クソッ! 鬼狩りめ、しつけぇ!」
 体外では縮んでいられないのだろうか。背を向け逃げる鬼の姿がぐんぐんと大きくなっていく。二人はそろって地を蹴った。

「水の呼吸、壱の型、水面斬り」
「炎の呼吸、弐の型、昇り炎天!」

 視線での合図すら、必要がなかった。以心伝心の体捌きに、お互いためらいなど欠片もない。
 清浄にきらめく青い刀が、水流をまとい鬼の胴を斬り払う。飛んだ上半身が悪態をつくますら与えず、煉獄の炎刀が豪火の唸りを上げて頸を刎ねた。
 白い月を背に、血飛沫が噴き上がる。白い光のなか散る鮮血が地を濡らすより早く、二人は刀を鞘に収めた。チンッ、と、小さな鍔鳴りが重なる。ドサリと、鬼の頭部が地に落ち転がった。
 視線を見交わすまもなく、煉獄は、いくつかの気配が近づいているのに気づいた。隊士たちが追いついたのだろう。
 畜生とわめく鬼の頸が、塵となりサラサラと飛んでゆく。ハッキリと足音が聞こえだしたときにはもう、鬼は消えていた。あとに残るのは、鮮血の赤と、二人を照らす白い月明かりばかりだ。

「炎柱さま!」
「水柱さま、ご無事ですか!」

 かけられた声に、煉獄は快活に笑ってみせた。
「終わったぞ。被害者は?」
「操られた隊士は、全員残念ながら……。生き残った者は応急処置を施し、蝶屋敷へと向かわせていますが……みな、傷は深いようです」
「そうか。助かるといいのだが」
 死にゆく仲間は毎夜いる。もう少し早く着いていればとの後悔もまた、慣れることなく繰り返し煉獄の胸にわいた。だが、引きずることはない。
 煉獄は、運ばれていく亡骸に向かい、静かに目を閉じた。それは、枝から落ちた葉が地に着くまでほどの、短い時間。痛みも謝罪も、そのささやかな時間で煉獄は飲み込み、昇華する。手を合わせ詫びるのは、彼らに再び会ったそのときでいい。
 日輪刀を握り滅の文字を背負った日から、市井の人々のように嘆き悲しみ、涙する時間など、隊士にはないのだ。倒れ伏し、命を散らすその瞬間まで、鬼と戦い続けるしかない。少なくとも、その覚悟があり実行できる者だけが、悪鬼滅殺の銘を刃に刻む資格を持つ。

 フッと、小さな吐息とともに開かれた煉獄の、黄金と朱に彩られた目は、すぐにまたわずかにすがめられた。
「水柱さまっ! あぁ、お怪我が……どうかお見せください! 私が手当ていたします!」
「いい。大事ない」
 隊士の一人に詰め寄られている冨岡が目に入った瞬間に、煉獄の体は動いていた。
 抑揚のない声音やいっそ冷たい無表情にもひるまずに、隊士はなおも食い下がっている。おそらくはまだ十代だろう。あどけなさが残る少女だ。
「髪に隠れた傷跡までも気がつく注意力は素晴らしいな! さらに励むといい! ……冨岡は、俺が診る。君は戻ってほかの者の手伝いを」
 隊士から奪い取るように冨岡の肩を抱き寄せ、煉獄は笑って言った。意識したつもりはないが、笑っていても、声はずいぶんと冷ややかに聞こえたらしい。煉獄からすれば頼りないほどに細い少女の首が、ビクリとすくめられた。
 だが、年若い隊士はひるみながらも「でも、炎柱さまのお手をわずらわせるわけには」などと、口ごもりつつ言い、チラチラと冨岡を窺っている。柱である煉獄に物申すとは、それなりに根性は据わっているようだ。こういう状況でなければ、さらに褒め称えてやりたいところだが、口にした文言はいただけない。
「なに、冨岡の手当がわずらわしいなどあるわけがない! 君の名は?」
「あ、あの、佐分利と申します……」
「そうか! では、佐分利隊士! 君の任務はなんだ!」
 ビクンと再度首をすくめ声を震わせながら、少女はそれでも、負傷者の保護と応急処置ですと答えた。
「ならば自分の任を果たすがいい! 冨岡の傷は、俺がつけたものだ。俺が診るのが筋だろう」
 詭弁だな。ふと自嘲の笑みが浮かびそうになったが、煉獄の唇が歪められるよりも、少女がうなずき立ち去るほうが早かった。
 滅の文字が離れていくのを見るともなしに見ていると、グイッと煉獄の腕が押された。
「おまえもいい。助かった、礼を言う」
 冨岡の声は小さい。隊士は振り向くことなく去っていく。
「それは、鬼に寄生されずに済んだことに対してか? それとも、言い寄られるのを阻止したことに?」
 いずれにせよ、礼など言われることではない。煉獄からすれば当然の行いだ。柱としても、恋人としても。
「言い寄る? 鬼を吸い出してくれたことへに決まっている」
 冨岡の怪訝そうな顔は、それ以外になにがあると言わんばかりだった。
 それなりに逢瀬を重ねたというのに、冨岡はいまだに|初心《うぶ》だ。いや、素直に鈍感だと言おうか。己に向かう秋波になど、まるで気づかない。煉獄がどれほど気を揉もうと、冨岡にはわかってもらえやしなかった。
 微笑ましくて愛おしいと思っていたその鈍さに、今はなぜだか無性に腹が立つ。言をひるがえし、わずらわしいなど思ってしまうほどに。そんな自分に、煉獄の苛立ちは心ならずもいや増した。
 離れようとする冨岡を許さず、さらに強く肩を抱き寄せる。少し慌てた気配がして、冨岡の瞳が咎めてきた。隊士はまだ数人、周囲の探査にあたっている。先の少女の姿はもうなかった。
 見られることを危惧しているのだろう。後処理に勤しむ隊士たちの動向を、冨岡が気にしているのは明白だ。そんな当然の羞恥にさえ、不思議に心がささくれていくのを煉獄は感じた。
 冨岡の黒髪から見え隠れする首筋には、赤黒く染まった歯型がくっきりと残っている。流れる血が白い肌を染め、隊服の詰め襟に染み込んでいくのが見て取れた。傷は、渾身の力で噛みしめられたことを如実に示している。しかも場所が場所だ。まかり間違えば、噛み切られた動脈からのおびただしい流血に、生死を分ける羽目になっていたかもしれない。冨岡とお近づきにという下心などない者でも、これでは放っておけぬだろう。
「……痛々しいな。礼を言われるどころか、俺こそ詫びるべきだろう」
「詫びなどいらない。当然の判断だ」
 冨岡がそう言うことはわかっていた。逆の立場であっても煉獄も同じように返すだろう。鬼に深く入り込まれるのを防ぐためならば、首を噛みちぎられようと文句などない。柱の身体能力は下級隊士とはくらべものにならないのだ。体を乗っ取られでもしたら、被害は甚大なものとなる。己が命を散らすことになろうとも、鬼に体を受け渡す事態だけは避けねばならない。
 だから、冨岡の返答は当然のものだ。わかっているのに、それでも煉獄の胸の奥では、また不快な軋みが聞こえてきた。ギシギシと、噛み合わぬ歯車のように。

 噛み合わない。わからない。うんざりだ。どうして。

 切れぎれに脳裏に浮かぶ言葉を振り払うように、煉獄は、冨岡の肩を抱いたまま歩きだした。
「煉獄?」
「行こう。……見られるのは嫌なんだろう?」
 月はまだ中空にある。日輪が野を照らすには時間があった。戸惑いがあらわな冨岡を抱き寄せたまま、煉獄は有無を言わせず足を早めていった。

 煉獄がようやく足を止めたのは、差し込む月明かりもまばらな森林のなかだ。
 よもやついてくる者もいまいが。思いながらも気配を探るが、暗い木立のなかには、冬を前に獣の気配すら希薄だ。鬼はもちろん、隊士が近づいてくる様子もない。
「煉獄」
「君は、言葉をつむげば遠回り過ぎることが多いが、今のは足りなすぎだな。名を呼ばれただけでは、君がなにを言いたいのかわからない」
 嘘だ。もうわかる。冨岡が煉獄の名を口にするとき、それが咎めるものなのか、甘えるものなのか、煉獄にはもうわかっている。今、冨岡は困惑していて、煉獄に少しすねてみせた。声のひびきが、眼差しが、煉獄に教えている。それぐらいには、時間も心も、重ねてきた。そして、体も。
 けれど、いつものように笑って抱きしめ、甘やかしてやる気にはなれなかった。
 まさか煉獄がこんなことを言うとは、冨岡だって思ってもみなかったのだろう。うろたえたように息を呑んだ冨岡は、わずかに視線を落とした。
「……なぜ、こんなところへ?」
「君は人に見られたくないようだからな。困るんだろう? 俺との仲を知られるのは」
 意地の悪いことを言っている自覚はあった。だが、止められなかった。
 冨岡と言葉をかわすのは、ずいぶんと久しぶりだ。逢えなかったとは言わない。今までどおり、煉獄は、冨岡と逢うために冨岡の管轄へとたびたび足を運んでいる。それでも会話すらままならなかった理由など、一つきりだ。
 冨岡は、煉獄を避けていた。それはもう、あからさまなほどに。

 鬼連れの隊士への処罰を決める、あの柱合会議以来、ずっと。

 冨岡の顔が、ふと幼い子供のような素の表情を見せる。煉獄にとってはもう見慣れた、泣き出しかけた幼子みたいに頼りなげな顔だ。この表情を見るたびに、煉獄はしゃにむに抱きしめ、泣かないでくれと甘やかしつくしたくなる。いつだってそうだった。
 だが、冨岡の揺れる瞳を見ても、煉獄の胸には甘やかな愛おしさは湧き上がってこなかった。代わりに、ひどく胸の奥が軋む。いっそ残酷と言っていい苛立ちが、胸にくすぶり、後先考えることなく燃え上がらせろと訴えている気がする。
「……まだ、止まっていないな」
 冷えた声で言いながら、煉獄は、先ほどと同じように冨岡の首筋に顔をうずめた。
「煉獄っ!」
「俺が診ると言っただろう?」
 今度は噛みつくのではなく、傷をそっと舌でたどり、流れる血を舐め取る。冨岡の肩や首筋が震え、腕が煉獄を押しやろうとしてきた。胸の奥で、憤懣の火がメラリと揺れた。
「なぜ拒むんだ?」
「……これぐらい、放っておいても大丈夫だ。礼も手当も無用だ」
 押しやる腕に逆らわず、煉獄は素直に冨岡から身を離した。冨岡は、ほんのわずかに安堵の気配をにじませたが、そこにはなにがなし当惑も感じられた。
 それも道理だろう。こういうとき、煉獄が引くことなど滅多にない。冨岡を甘やかしはしても、煉獄が我を通すことは多い。多くなった。
 年下然とした甘え顔でねだられるのに、存外、冨岡は弱い。それを悟ったときから、煉獄は大人の態度で引くのをやめた。甘えられることに慣れぬ冨岡は、憮然とした顔をしつつもどこかうれしげだから、煉獄はわかりやすく甘えてみせる。男としての矜持なんて言葉は、しかたないなとせいぜい年上ぶる冨岡の前では、塵ほどの価値もない。
「俺からの礼や手当など、君には不要か」
「っ! なんでそうなるっ」
 驚き。困惑。それから、わずかな怒り。少し寄せられた冨岡の眉根に見えるそれらの感情に、煉獄はうっそりと笑ってみせた。瑠璃の瞳にのぞく悲しみには、あえて目をそらして。
「俺を避けていただろう? もう話もしたくないと思ってたんじゃないのか?」
 息を呑み青ざめる様が、いっそ小気味よかった。胸の奥で歯車が軋みを大きくする。頭上に広がる星月夜よりもなお美しい、瑠璃の瞳が悲しみに揺れていた。さらに寄せられた眉根と下がる眉尻。もう悲しいという感情しか、冨岡の秀麗な顔には現れていない。それを喜ぶ自分など、知りたくなかった。

 胸にひびく不快な音は、獰猛な獣の唸りにも聞こえた。

「なんでそんな顔をするんだ。君はもう俺のことなどどうでもいいんだろうと、俺は思っていたんだがな。飽きられるのは意外と早かった」
「違う!」
 即座に叫んだ冨岡に、煉獄の胸で喜びよりも怒りが燃えた。
 煉獄はなおも笑った。伸ばした手で冨岡の後頭部を掴み寄せ、鼻先を触れ合わせた煉獄の唇が、ゆうるりと弧を描く。
「なら、いつものように過ごそうか。礼も手当もいらないんだろう? あぁ、詫びなら受け取ってもらえるだろうか」
 いつもという言葉を、煉獄は知らず強く口にしていた。いつも、いつも、薄汚れた蕎麦屋の二階で初めて抱き合った日からずっと、繰り返してきた逢瀬。あの柱合会議から途絶えたままの。

 いつまでもと思っていたのは俺だけなんだろう?

 浮かべたくもない思いが言語化されて脳裏を占めるのに、怒りの焔が勢いを増した。悲鳴のような軋みが、凶暴な獣の唸りが、胸のなかで大きくひびく。
「そうだな、それがいい。ぜひ詫びを受け入れてくれ。……ずいぶん、抱き合っていない。溜まっているだろう?」
 さすがにこれは冨岡でも怒るだろうか。いっそ怒ってほしい。軋む胸中で、わずかに頭をもたげた懇願は、怒りのなかでも消えぬ恋しさをたたえていた。
 けれども煉獄の意に反し、絶句した冨岡は、怒りだすどころかますます泣き出しそうに瞳を揺らした。あまつさえ、小さく唇を噛みうなずきさえする。
「詫びるのは……俺のほうだろう。煉獄の好きにしていい」
 ハッ、と、煉獄の口から、知らず険のある笑い声が吐き出された。
「なぜ君が謝るんだ。詫びる理由がないだろう?」
 煉獄の顔には笑みがある。意識したわけではなくとも、勝手に顔は笑っていた。常の闊達な笑みとは雲泥の、冷淡な嘲笑である自覚はあるが、取り繕う気も起きない。冨岡に対して、こんなにも獰猛で冷ややかな感情を覚えるなど、数ヶ月前の自分ならば信じやしないだろう。
 冨岡はわずかに顔をうつむけたまま、口を開こうとしない。弁明することすら無駄だとでも思っているのだろうか。煉獄になにを言おうと無駄なのだと、諦めている。そんな気がしてしかたがない。
 なぜそのようなことを考えるのだろう。煉獄は冨岡の|為人《ひととなり》を知っている。冷淡に見られがちな無表情に隠された、思いやり深さも、暖かな眼差しも、ちゃんと知っているのだ。
 だというのに、穿った見方で勝手に責めるなど、愚考としか言いようがない。馬鹿げている。
 下衆の勘繰りはやめろと思う端から、本当に? と、頭の片隅で誰かが嘲笑う声がした。
 知っているなんて、それこそ勝手な思い込みだろうと、誰かが笑う。否定しようとしても疑う余地もない。煉獄自身の声だった。
 煉獄の手が後頭部からゆるりと滑り降ろされる。いつもなら、まず冨岡の頬にやさしく触れる指先は、常にはないそっけない仕草で冨岡の顎先に当てられた。うつむく顔を上向かせ、親指で冨岡の薄い唇を静かに撫でる。グッと引き結ばれた唇は、震えてはいない。けれども、頬に触れたときのような、接吻を待ちわびる色もない。
 ほんのわずか血の気の失せた唇は、流した血のせいなのか、それともこれから受ける仕打ちへの怯えなのか。後者はあるまいと、煉獄は、冷ややかな笑みはそのままに冨岡の口を押し開かせた。
「冨岡、ちゃんと言わなければわからない。君にしてみれば、俺やほかの柱など言葉を尽くしてやる価値などないのかもしれないが、かりにも同僚だ。そういう態度はいただけないな」
 信じられないと言いたげに、愕然と見開かれた目が、震えるまつ毛が、いっそ痛快ですらあった。