第7話
困惑は杏寿郎の胸にどっかりと居座り、どうあがいても消えてくれそうにない。
どうにかなんでもないと笑ってみせたものの、あまり効果はないようだ。もともと杏寿郎はごまかしたり嘘をついたりするのが得手ではない。真っ赤に染まった顔も一向に熱が去ってはくれず、杏寿郎を見る義勇のまなざしは、いかにも心配げだった。
千寿郎も不安そうに杏寿郎と義勇を交互に見ている。石を握りしめた小さな手はわずかに震えて、千寿郎の怯えを如実に伝えてきていた。
「大丈夫か?」
義勇の顔がいきなり近づいた。石とルーペで両手がふさがっているからだろう。手の甲でヒョイと前髪をあげると、コツンとひたいをあわせてくる。
「ぎっ、義勇っ!?」
「……熱はないな。けど顔が赤い。少し休むか? それとももう帰るか?」
ビシリと硬直した杏寿郎が近すぎる義勇の顔にうろたえる間もなく、義勇の白皙はスッと離れて、そんな提案をしてくる。杏寿郎を見つめるまなざしも声も、杏寿郎への気遣いと心配がありありと表れていて、杏寿郎は思わずくしゃりと顔をゆがめた。
泣きそうになったのは一瞬。うろたえるなと胸中で自分を叱咤し、杏寿郎は、パッと笑顔を浮かべてみせた。
「いや、なんともない! 気にしないでくれ!」
でも、と異議を唱えようとする義勇に、笑みはそのままに首を振る。
君にキスしたいと思ったなどと、言えるわけもない。義勇を騙すなど論外だ。言えないのなら口をつぐむしかなかった。
「水晶だったか? 俺にも見せてくれ!」
「え? あ……たぶん。結晶が柱状になってる」
有無を言わさぬ声で言い手を差し出した杏寿郎に、義勇が石を手渡してくる。とまどいがぬぐえずにいるのはわかるけれど、なにも言ってやることはできず、杏寿郎は強いて平静を装った。
「本当だ……ちゃんと六角柱のようだし、水晶だな! 千寿郎、見てみろ! 水晶がなかにあるぞ!」
笑いかける顔も声もいつもどおりだといい。思いながら杏寿郎は、しっかりしろと自分に言い聞かせつづける。動揺は消え失せてはくれない。義勇に対する気持ちがなんなのかも、まだ自分でもわからずにいる。
それでもふたりを不安にさせるのは違う。それは絶対に嫌だ。
「このちっちゃなキラキラですか?」
「うむ! 義勇が見つけてくれてよかったな!」
明るく言ってやれば、千寿郎も安堵したのか顔を輝かせた。
「はい! 千も見つけられるでしょうか」
「よし、それじゃもっと探してみよう!」
千寿郎はすっかりいつもどおりだ。杏寿郎だってなんとかいつものように笑っている。義勇だけは物言いたげな目で杏寿郎を見ていたが、なにも言わずにいてくれた。
それからしばらくは、黙々と石を探した。ときどき話しかけてくるのは千寿郎ばかりだ。笑って相手をしてやるものの、杏寿郎は、義勇に声をかけることができなかった。
義勇もまた、千寿郎とは話しても、杏寿郎に話しかけてくることはない。なにか言いたそうなそぶりも、最初のうちだけだった。
二人に心配をかけるなんて情けないと思いはする。こんなのは自分らしくないとも。けれどどうしても、義勇のことをまともに見られそうにない。杏寿郎は石を探すそぶりで深くうつむき、唇を噛みしめた。
君にキスがしたいと思ってしまった。すまない。そう素直に謝ればいいのだろうか。
義勇は驚くだろうが、笑って言えばきっと冗談だと思ってくれるだろう。考えるそばから、それじゃ駄目だろうと杏寿郎は自分を叱り飛ばす。
冗談ごとで済ませていい話ではない。友達に対してキスがしたくなるなんて、到底まともとは思えない事態だ。そもそも杏寿郎は、どんなにかわいい女の子にだって、一度もそんな考えをいだいたことはない。
なのにほかでもない義勇にあんな衝動を覚えるとは、いったい自分になにが起きたのだろう。
ちらりと義勇を盗み見る。義勇はいつもの無表情のままうつむき、石を探していた。涼しげな顔にはそれでも汗が光り、頬を伝った雫がぽたりと落ちるのが見える。長いまつ毛は少し伏せられて、瞳が沈鬱さをたたえている気がした。
楽しい一日にすると決めていたのに、なんという為体だ。杏寿郎はこっそりと歯噛みする。
せめてあの衝動の理由が知りたい。それが一番重要なことのように思える。わからないままでは、また同じ失敗を繰り返してしまうかもしれないではないか。
「あっ、兄上、ハトさんがきました! ホラ、義勇さん、あのハトさんです!」
鬱々とした焦燥に駆られていた杏寿郎の思考を、千寿郎の明るい声が引き戻した。
「あれがアオバト?」
「あ、あぁ」
岩礁に降り立った鳥の群れを指差し問いかけてきた義勇の声は、いつもと変わりない。
「千寿郎の言うとおり、かわいいな」
ほのかに笑った顔は、少しだけぎこちない。きっと義勇も元の空気に戻そうと、気を使ってくれているのだろう。ギュッと胸を鷲掴みにされたような痛みに、杏寿郎はまた、強く唇を噛んだ。
「そばに行ってみようか」
笑い返した顔は、杏寿郎もぎこちなかったかもしれない。うれしそうにうなずく千寿郎の手を取り、杏寿郎は、義勇に向かって手を差し伸べた。
「行こう、義勇」
わずかなとまどいを見せつつも、義勇がそっと手を取ってくれたのに、深く安堵する。握った手は少しだけ冷たい。けれどもそれはお互い様だ。きっと今義勇の手が冷えているのは、緊張からなのだろう。杏寿郎の手がかすかに震えていることに、義勇も気づいたかもしれなかった。
風は強さを増してきている。着いたころよりも波が高い。海水浴客に注意を呼び掛ける放送が遠くで聞こえていた。
ザザン、ザザザンと、潮騒がひびく浜辺は、それでも穏やかさを失ってはいない。夏の陽射しは焼きつくように熱く、杏寿郎は眩しさに目を細めた。
遠く大きく入道雲が見える。真っ青な空にわき立つ雲は、どこまでも真白い。けれどもあれは雷雲だ。激しい雷雨の先触れである。
今、杏寿郎の胸に吹き荒れる嵐のように、雄大で穢れない白のなかにも、嵐がある。
「兄上、もう少し近くで見てきてもいいですか?」
「あぁ。だが波が高くなってきているからな。波打ち際には近づくんじゃないぞ」
「はい!」
ソワソワと聞いてくる千寿郎にうなずいて、手を離してやれば、小さな体が楽しげに駆けてゆく。
一緒に行かなくていいのかと言いたげな義勇の視線を、横顔に感じた。大好きな義勇を不安がらせたままでいていいわけがない。覚悟を決めろ。
決意し杏寿郎は、一つ大きく息を吸いこむと、義勇の瞳をまっすぐに見つめた。
悩んでいたところで答えは出ない。それでもこのままごまかしつづけたり、ましてや義勇との関係が壊れるのはごめんだ。
「義勇、少し話をしてもいいか?」
静かな訴えに、義勇は小さく息を飲み、こくりとうなずいてくれた。
乾いた砂に腰を下ろす。手はつないだままだ。
「まずは、変な態度を取ったことを謝りたい。すまなかった」
「……話したくないことなら、話さなくてもいい」
そう言う義勇の声はどこか固い。うつむいた顔には陰りがあった。
「いや、聞いてほしい。その、聞いて楽しい話でもないだろうし、もしかしたら君に嫌われてしまうかもしれないが……」
あの真白い雲のように、雄大な心を持ちたい。どんなに胸のなかは嵐が吹き荒れようとも。義勇に対しては、誰よりも真摯で、誠実でありたい。嘘をついてごまかすのは嫌だ。だから隠すのはやめよう。
決意はそれでも揺らぎかけそうになる。こんなにも自分が臆病だなんて知らなかった。
小刻みに震える杏寿郎の手が、キュッと強く握られた。梅雨のあの日とは逆だ。杏寿郎を励まし勇気づけるように、義勇の手には力がこめられている。
その手に導かれるように、杏寿郎の口から言葉が押し出された。
「……さっき、俺は君に不埒な衝動を覚えた。理由はわからない。なぜ自分があんなことを思ってしまったのか、今もどうして消えてくれないのか、自分でもわからないんだ」
「不埒……?」
こてんと小首をかしげる義勇に、一つ小さく苦笑して、杏寿郎はまた大きく深呼吸した。
勇気を出せと自分を奮い立たせ、まっすぐ義勇を見つめる。
「義勇、君とキスがしたい」
あまりにも予想外すぎたのだろう。ポカンと目を見開き、義勇は呆気にとられている。
義勇のそんな様子に、杏寿郎は、鋭い刃で突き刺されたような痛みを胸に感じた。けれどもショックを受ける資格なんてないんだろう。泣きだしそうになるのをこらえ、杏寿郎はごめんとつぶやき頭を下げた。
「君が驚くのは当然だ。俺もなぜ自分がそんなことを考えたのか、本当にわからないのだ。けれど、君のことを侮辱しているわけじゃない。それだけは信じてくれ」
そう、義勇を女の子扱いしているわけじゃない。義勇は義勇だ。大好きな友達だ。けれども、自分はきっと、それだけでは足りないと思っている。
その理由は、まだわからないけれど。
「気持ちが悪いと思われてもしかたがない。責めは甘んじて受けよう。だが、俺はずっと君と一緒にいたい。誰よりも君のことが好きだ。だから、君の意思を無視して行為に移すようなことは、決してしない。それだけは天地神明にかけて誓う」
義勇のとまどいが握りあう手から伝わってくる。けれど、それでも義勇は、杏寿郎の手を振り払うことはなかった。
「……気持ち悪くは、ない。でも、キスは……その、困る」
「だよな! うむ、それは当然だ!」
ハハハと笑った杏寿郎の声は、我ながら上滑りだ。刹那胸を刺した痛みは、苦しいぐらいの悲しさを胸に満ちあふれさせる。キスできないのが悲しいなんて、やっぱり自分はちょっとおかしくなっているのかもしれない。
「友達とキスなんて、おかしな話だ! どうか気にしないでくれ!」
自分だって変だと思うのだ。嫌悪されなかっただけでも重畳。感謝すべきだろう。
「違う……」
ポツリと言った義勇の、うつむいた顔が赤らんでいる。パチパチとせわしなくまばたきするたび、長いまつ毛が揺れて、陽射しにキラキラと光って見えた。
「違う?」
「……杏寿郎は、好きだ。でも友達だから、キスはできない。本当は、友達にだって、なっちゃいけないのに、笑ってくれて、話しかけてくれて、うれしかった」
苦しげに声がかすれだした義勇に、杏寿郎は息を飲んだ。握っている義勇の手から、スゥッと体温が引いていくのを感じる。
もういい。話したくないのなら話さなくてもいいのだ。止めようとした杏寿郎の声は、喉の奥で留まり、言葉にはならなかった。
義勇は、必死に言葉をつむごうとしている。懸命に、声を押し出している。
脳裏でチカリとなにかが光って、パズルのピースがぴったりとはまるように、杏寿郎のなかでパチンとかみあうものがあった。
思い浮かぶのは淡い笑み。なにかを押し殺すような、切なげで、はかないその笑みの答えが、きっと今ここにある。
杏寿郎は、義勇の手を握る手に力をこめた。
「なんで友達になったらいけないなんて思うんだ?」
「だ、って……」
おののく小さな唇からも、血の気が引きだしている。義勇の手はもう凍りつきそうに冷たい。反対の手は、シャツの胸元を強くにぎりしめていた。
「ゆっくりでいい。全部聞く。義勇」
恐る恐る上げられた義勇の顔は、出逢ったときの不安げな迷子の顔だった。