真白の雲と君との奇跡(加筆修正済みまとめ読みバージョン)

第1話

 梅雨が明け、七月も半ば近くともなると、照りつける陽射しも強くなり暑さが増した。すっかり季節は夏だ。六月にはまだ出番が多かった長袖のシャツやベストも、七月に入ってからは目にするだけで暑さが増す感がある。
 公私ともに服装はめっきり夏仕様となったが、薄着になろうと暑いことに変わりはない。制服のネクタイをゆるめ、襟を広げただらしのない格好になっている生徒も、それなりに見かける。校則違反に違いはないが、先生もそこは承知しているんだろう。ネクタイさえつけていればおとがめなしだ。
 杏寿郎はといえば、制服を着崩したりせず、いつでもピシリとネクタイを結んでいる。隣の席では義勇がお手本のように制服を着こんでいるのだ。杏寿郎がだらしのない格好などできるわけもなかった。みっともない姿を見せて、軽蔑されてはかなわない。
 それに煉獄家ではあまりエアコンを使用しないので、全教室にエアコン完備の学校のほうが、よっぽど過ごしやすいのだ。視線を少し移せば義勇の真面目な姿が目に入る喜びからすれば、ネクタイの窮屈さなどたいした苦でもなかった。

 とはいえ、一歩外に出てしまえば暑さが堪えることに変わりはない。昼休みに校庭ではしゃぐ生徒もめっきり減った。今日もグラウンドには、蝉の声ばかりがひびいている。
 初等部なら、この気温にも負けず、外で遊ぶ子らもいるだろう。だが初等部の生徒には専用グラウンドがあり、こちらに来るのは合同式典や中高等部主催の碧落祭へきらくさい――三日間にわたって行なわれる文化祭と体育祭――ぐらいなものだ。ここ最近、昼休みのグラウンドは、寂しいほどに人影がなかった。
 小学校までは、暑かろうと寒かろうと杏寿郎は、休み時間のたび友達と一緒に校庭を駆けまわっていた。だが、今は違う。中学に上がって以降は、休み時間に教室を出ることは稀だ。春からこっち、昼休みには教室でおとなしく……というよりも、「待て」と言われた犬のようにソワソワとしながら、教室の入口を凝視しているのが常態となっていた。迂闊に席を離れて、戻ってきた義勇とすれ違ってしまったらと思うと、教室を出るなどできようもない。
 だがそれも、今はまた変化している。杏寿郎の昼休みの過ごし方は、七月も半ばの現在と六月まででは、様子を変えていた。それもたいへんうれしい方向にだ。

「義勇、今日も非常口か?」
 四時限目終了を告げるチャイムが鳴り、先生が教室を出た途端に教室はざわめきだしている。杏寿郎が弁当を手にウキウキと声をかければ、隣の席で同じく弁当を取り出した義勇は、こくりとうなずいてくれた。毎日のことながら、杏寿郎はやっぱりうれしくなってしまう。
「じゃあ、急ごう!」
 立ち上がった義勇と、肩を並べて騒がしい教室を出る。廊下はすでに、一足早く教室を出た生徒であふれていた。
 窓越しの直射日光を受けつづける廊下は、エアコンの利いた室内よりずっと、熱気がこもっている。だが廊下や階段はまだマシだ。下駄箱までくると、人気ひとけはなくとも気温がグッと上がる。
 靴を履き替え、よく晴れた空の下に一歩踏み出せば、夏の陽射しがジリジリと身を焼いた。
 薄暗い下駄箱から一転した眩しさに、思わず杏寿郎は眼前に手をかざし、目をすがめた。身を包む熱気は、校舎内とはくらべものにならない。すぐに汗がにじみだしてくる。
 こめかみを伝った汗を、グイッと大雑把な仕草でぬぐって、杏寿郎は、少し後ろに立つ義勇へと視線を向けた。

「陽射しがキツイな。義勇、大丈夫か?」

 暑苦しさを増長させる蝉の声も、教室で聞いていたよりも、一段と大きくひびいている。だが、振り向き見た義勇の顔は、うっすらと汗をかいていても、なんとはなし涼やかだ。
 ぼんやりとして見えがちだが、義勇の立ち居振る舞いは、折り目正しく清々しい。服装と同じく、所作にもだらしなさなどまるでない。
 義勇も少しだけ目を細め、小さくうなずくと、すっと手の甲でひたいをぬぐった。自分と同じような仕草なのに、義勇だと、どことなく涼を感じるのはなぜだろう。
 杏寿郎は義勇を見ていると、遠い異国の海を連想することがある。義勇の瞳の色のせいだろうか。
 青く澄みわたった海は、静かにさざ波を立てている。海はどこまで青く、波は白く、陽射しを弾いてキラキラときらめく。そんな光景が、杏寿郎の脳裏には思い浮かぶのだ。
 今もそうだ。義勇の仕草の一つひとつを見ているだけで、杏寿郎の心はソワソワと浮き立って、ぼうっと夢見心地になることも少なくはない。

「今日は学習相談だな! うちは母上がくる。義勇と逢えたらご挨拶したいと言っているのだが、義勇の都合はどうだろうか」

 我知らず弾む心のままに、明るい声で杏寿郎は義勇に問いかけた。
 この学校は二学期制なので、通信簿は夏休み明けにわたされる。そのため、夏休みに入る前に三者面談による学習相談の日が設けられていた。面談がある週は部活も休みだ。中学一年の杏寿郎にとっては、初めての三者面談である。母や父に恥をかかせるような振舞いをした覚えはないが、少しばかり落ち着かぬ心地がしなくもない。
「うちは、おばさんが来てくれる。……俺と逢っても、杏寿郎のお母さんはべつに楽しくないだろう?」
「そんなことはないぞ! いつだって母は、俺が義勇の話をするのをとても楽しそうに聞いてくれている! ぜひ逢ってみたいと言っていた!」
 思わずブンと振った手を、義勇の視線が追う。正しくは、杏寿郎が持っている弁当箱を。
「おっと、しまった。あまり振りまわすものではないな」
 母が早起きして作ってくれているのだ。ぐちゃぐちゃにしてしまっては申し訳ない。ちょっぴりあわてもしたが、それでも、杏寿郎の顔は笑み崩れてしまう。
 きっと杏寿郎と同じ理由で、義勇も、弁当が崩れるのを心配してくれたに違いない。生真面目でやさしい義勇らしい思いやりだ。義勇のわかりにくいやさしさに気づくたび、杏寿郎はすこぶる上機嫌になる。
「とはいえ、義勇のほうが順番が早いし、俺が終わるまで待たせてしまうことになるからな。無理にとは言わん。だが、母も義勇と逢いたがっていることは覚えておいてくれ。それと、父と千寿郎もだ!」
「……なんで?」
 呆気にとられた様子でポカンと口を開く義勇に、杏寿郎はますます笑みを明るくした。
 義勇は、前よりも少しだけ表情が豊かになった。少なくとも、杏寿郎に対してはこんなふうに、感情がうかがえる顔をしてくれる。会話もちょっと増えた。
 とはいえ、義勇は今でも口数は多くないし、基本的に無表情ではある。それでも、杏寿郎のどんな誘いにも応えてくれなかったころにくらべたら、格段の進歩だ。一緒に昼ご飯を食べようとの誘いも、以前のようににべもなく断られることはなくなった。
 今では当たり前のように連れだち教室を出て、外で一緒に食べてくれるのだ。義勇とともに過ごせるのなら、うんざりするほど熱をおびた風や、痛いぐらいに照りつける陽射しだって気にならない。うるさい蝉の合唱さえ、祝福の鐘めいて感じる。義勇と並んで歩く杏寿郎の胸は、歓喜に浮き立つばかりだ。

 ふたりきりでないのは、ほんのちょっぴり残念な気がしないでもないけれども。

「遅いぞ、義勇、杏寿郎」
「ごめん」
「すまない、錆兎。数学の先生のお話が長引いたのだ!」
 校舎の裏手にある非常口で、宍色の髪の男子生徒が手を振ってにらんでいる。怒ったフリなのはすぐに笑みに細められた目で知れるが、暑いなか待たせたことに違いはない。その姿が目に入ったと同時に、義勇と杏寿郎はそろって足を速めた。弁当を揺らすわけにはいかないので、あくまでも速歩きだ。そんな杏寿郎と義勇に、男子生徒――錆兎は、どこか愉快げに見える苦笑を浮かべていた。

「しかし、暑くなったなぁ。二年の教室で食えばいいのに。それか、俺がおまえらの教室で食ってもいいぞ?」
 錆兎の言葉に杏寿郎は、毎度のことながらわずかに動揺してしまう。
 たしかに、錆兎の言い分はもっともだ。非常口はひさしこそあるものの、この時間はまったく日陰になっちゃいない。狭い三和土たたきに三人で座るのは、たいそう窮屈だ。ぴったりくっついていないと座れないから、互いの体温も相まってじつに暑い。
 義勇はなんて答えるんだろう。杏寿郎がじっと見つめていると、義勇はふるふると首を振った。相変わらず気にした様子もなく食べつづける義勇に、錆兎が肩をすくめて苦笑する。
 二人のやり取りに杏寿郎もホッとして、知らずニンマリ笑うと玉子焼きをほおばった。今日の弁当もうまい。母に感謝だ。

 義勇を挟んで三人で食事するのも、もう何度目だろう。錆兎のこのセリフも、今日が初めてではない。それでも杏寿郎は、毎回ほのかな不安を覚えてしまうのだ。
 今回も義勇の答えが同じでなによりだ。

 義勇は四月からずっと、二年生である錆兎の教室で昼を食べていた。毎日、それが当然と言わんばかりに教室を出ていくのだ。一緒に食べようと杏寿郎が誘っても、必ず首を振るのが常だった。
 たった一つ年が違うだけとはいっても、先輩と接するのは緊張するという生徒が多いというのに、義勇は、平然と二年生たちのところへ向かうのだ。
 原級留置した義勇は一年生をやり直しているが、本来なら二年生だ。上の学年にはそれなりに顔見知りも多いのだろう。クラスメイトよりも、二年の先輩たちのほうが、義勇の事情に通じた生徒だって多いに違いない。義勇にしてみれば、錆兎のところにいるほうが、心安く過ごせるのかもしれなかった。
 そんな事情を知ったあと、杏寿郎の誘いは、俺も一緒に行ってもいいだろうかに変わった。義勇が気楽に過ごせるのなら、自分の教室でなくてもかまわない。物怖じなどしないたちだし、先輩だろうとすぐに仲良くなれる自信もある。けれど、義勇がうなずいてくれたことは一度もなかった。だからお預けを食らった犬のように、いつでも昼休みには教室の入口に義勇の姿が見えるまでじっと待つより、杏寿郎にできることなどなかったのだ。
 義勇がためらいながらもうなずいてくれたのは、六月末の定期テストが終わって、通常授業に戻った日のこと。ただし、明日からでよかったらとの条件付きだ。
 もちろん、杏寿郎に否やなどあるわけもない。勢い込んで「本当か!? 楽しみにしている!」と笑顔で迫った杏寿郎に、義勇は、ちょっぴり引いているようにも見えた。

 その日、家に帰った杏寿郎が真っ先に駆け込んだのは台所だ。ただいまの挨拶もそこそこに、明日の弁当はいつもより豪華版にしてくださいと、母に頼みこむために。
 義勇と初めて一緒に弁当を食べるのです。おかずの交換だってするかもしれません。そう機関銃のような勢いで母に懇願したあの日の自分は、我ながら必死すぎた。結果、久しぶりに正座させられたのも、もはや懐かしい。そんな些末なことで見栄を張るものではないとの説教には、伏して同意するよりない。まったくもって不甲斐ないかぎりである。

「杏寿郎の唐揚げ、うまそうだな」
「うむ! 母の料理はなんでもうまいが、とくに唐揚げは絶品だ! 一番うまいのはサツマイモのみそ汁だがな!」
 両側で会話する杏寿郎と錆兎に挟まれて、義勇は黙々と弁当を食べている。食事中に義勇が話しをすることは皆無だ。もともと無口なのに輪をかけて、まったくしゃべろうとしてくれない。
 最初は、やっぱり錆兎と二人のほうがよかったのだろうかと、ちょっと落ち込みかけた杏寿郎だったが、あにはからんや。苦笑した錆兎が言うことには、義勇は食べながらでは話せないらしい。

「またご飯粒ついてるぞ、義勇」

 モグモグと食べ続ける義勇の頬についた飯粒を、ヒョイとつまんで食べた錆兎に、杏寿郎は毎度のことながらピシリと固まった。だが、義勇はまったく動じた様子がない。義勇にしてみれば錆兎の行動は当たり前になっているんだろうが、杏寿郎は何度見てもこの光景には慣れやしなかった。
「いつまで経っても食べるの下手だよなぁ、義勇は」
「……ほかの人に見られるわけじゃないから、べつにいい」
 こんなとき、なんとはなし杏寿郎は少しだけいたたまれないような、苛立つような、不思議な胸の痛みを感じる。こういうことはたびたびあって、そのたび杏寿郎は義勇と錆兎の親密さに、羨望を覚えた。
 従兄弟同士な二人の仲の良さは、杏寿郎だって嫌というほど知っている。にもかかわらず、なんでいつでもチクリと胸が痛むのか。杏寿郎にはよくわからない。

「杏寿郎ならいいんだ?」

 からかいめいた錆兎の言葉に、杏寿郎はまた硬直した。義勇にも聞こえてしまわないだろうかと不安になるほど、ドクドクと鼓動がうるさい。
 こくりと小さくうなずいた義勇に「杏寿郎はやさしいから怒らない」なんて言われてしまえば、なおさらだ。うれしさが体中を駆け巡って、じっとしていられない。
 抑えきれない高揚感に逆らうことなく、杏寿郎は強くうなずき返した。
「もちろん、怒ったりしないとも! だが、不思議だな。義勇は箸づかいもきれいだと思うのだが、なんでいつもご飯粒がついてしまうのだろう?」
「それ、俺も不思議。義勇のほっぺって、ご飯粒だのパンくずだのを引き寄せる磁力でもあるんじゃないかってぐらいだもんな」
「……そんなものあるわけない」
 少しばかり機嫌をそこねたんだろう。義勇はちょっぴり唇を尖らせてむくれている。入学した当初には、こんな表情を見られるとは思わなかった。
 錆兎と一緒だと義勇も表情豊かになるのだなと思えば、いささか切なく悔しい心持ちもする。それでも、一緒にいられる時間が増えただけで幸せなのに違いはない。
「はいはい、ふてくされんな。ほら、急いで食わないと休み時間終わるぞ」
 楽しげに笑う錆兎は、すでに食べ終えている。杏寿郎も残るのは唐揚げが一つきりだ。義勇は杏寿郎たちよりも食べるのがちょっと遅い。いつも錆兎と二人で義勇が食べ終わるのを待つのが、当たり前の光景になっている。

「義勇、交換しよう」

 残った唐揚げをつまんだ箸を、杏寿郎は迷わず義勇に差し向けた。キョトンとまばたきしつつも、義勇は素直に口を開けてくれる。先ほどまでの胸の痛みはたちまち薄れ、今度は甘い疼きを伴って杏寿郎の鼓動が速まった。
 モグモグと無言で唐揚げを噛みしめる義勇は、頬がわずかにふくらんで、なんだか愛くるしい小動物みたいだ。
 微笑ましく眺めていると、義勇は無言で咀嚼しながらも、玉子焼きをつまんだ箸を杏寿郎に向けてきた。即座に杏寿郎もアーンと大きく口を開ける。こんなやり取りももう慣れっこだが、いまだに杏寿郎は、花が咲き乱れるかのような多幸感に包まれてしまう。
 錆兎の母が作る玉子焼きは、煉獄家とは違って甘い。玉子焼きはしょっぱいものだと杏寿郎は思っていたけれど、慣れぬ味も、義勇に食べさせてもらうと至極美味に感じた。
「うまい! 錆兎の母上も料理上手だな!」
「……唐揚げ、うまかった」
「仲良しだな」
 蝉の大合唱のなか、クスクスと笑う錆兎の声が、杏寿郎の耳を心地好くくすぐる。義勇と錆兎の仲の良さは疑う余地もないが、錆兎から見ても、自分と義勇は仲良しに見えるのだ。それがうれしい。こくんとうなずく義勇もまた、仲がいいと認めてくれているのがわかって、杏寿郎の胸に歓喜が満ちる。たかがそれしきのことが、ただただうれしかった。
 狭い三和土はやはり暑くて、絶えず流れる汗がシャツを濡らす。陽射しは眩しすぎ、蝉の声もやかましいぐらいだ。それでもここは、杏寿郎にとって楽園だった。
 エアコンの利いた教室や食堂では、こんなふうに肩を触れあわせて座れない。けれどここでなら、義勇と肩や膝を触れあわせて座り、不躾な視線に義勇を晒すことなくお互いの弁当を分けあえもする。
 汗の匂いに混じって、爽やかなペパーミントの匂いがときどき香ってくる。義勇が使っているシャンプーかもしれない。感じ取るたび杏寿郎は喜びを噛みしめる。
 なんて幸せなんだろう。同じ匂いが錆兎からもするけれども、それでも杏寿郎にとっては至福の時間だ。こんな時間が過ごせるなら、ずっとここで食べられたらいいなと杏寿郎は思う。

 中学に入って初めての夏は、ちょっとの胸の痛みとはしゃぎまわりたくなるよな幸せとともに、始まったばかりだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 さて、そんな幸せな毎日も、夏休みに入れば一時中断となる。教室は夏休みの話題で持ちきりだ。クラスメイトたちはいかにも楽しげに、旅行の予定だのを話している。だけれども、杏寿郎だけはちょっぴり憂鬱だった。
 だって、夏休みには登校日しか学校にこない。義勇に逢えないということだ。
 遊びに行こうと杏寿郎が誘えば、今の義勇ならばきっとうなずいてくれるだろう。まったく逢えないなんてことはないはずだ。
 だけれども、なにをしたら義勇が楽しんでくれるのかが、杏寿郎にはさっぱりわからないのだ。
 登校すれば逢える今までと違って、夏休みに逢うなら約束が必要だ。何度逢えるかはわからないけれども、できれば毎回笑ってほしい。杏寿郎と一緒にいるのは楽しいと言ってくれたら、どんなに幸せだろう。
 小学校までの杏寿郎が友達と遊ぶといえば、たいがいは公園ではしゃぎまわるのが常だった。だが杏寿郎ももう中学生だ。義勇も公園で走り回るタイプではないと思う。遊ぼうと誘ったはいいものの、なにをしたらいいかわからないというのでは、なんとなく不甲斐ないような気がする。
 もしも父がこんな悩みを聞いたのなら、デートか! とうとう杏寿郎もデートに悩む年になったのか! と興奮して、母に赤飯を炊けと言い出すだろう。だが、今のところは杏寿郎の胸のうちだけでの話なので、母に正座させられた父が説教を受ける日は、きっとまだまだ先だ。
 当然のことながら、デートなんていう言葉は杏寿郎の頭のなかにもない。義勇は誰よりも一等大好きな友達だ。たぶん。それ以外ないはずだけれども、しっくりとこないのはなぜだろう。
 それでも、友達以外に義勇と自分を言い表す言葉など、杏寿郎には思い浮かばなかった。
 友達だけでは足りないと、焦燥に駆られることはたびたびある。けれどその理由となると、まるで思いつかない。
 わからないことばかりが積もって、なんだか胸の奥がザワザワとする。義勇のことでなければこんなふうに悩むこともないし、はっきりしないままなんて性に合わないのは確かだ。
 ほかの誰かなら、杏寿郎は悩んだりせず、当の相手に面と向かって「俺たちは本当に友達なんだろうか」と聞いただろう。当たり前だと答えられたのなら、それならいいんだと笑っただろうし、違うよと言われれば、それならちゃんと友達になろうと張り切ったに違いない。
 義勇からは、どちらの答えも聞きたくない気がする。答えがどちらでも悲しくなる予感がするのだ。友達じゃないと言われれば悲しい。友達だと言われても足りない。きっとどちらでも自分はガッカリする気がした。
 義勇とどんな関係になれたら、俺は満足できるんだろう。自分のことなのに、杏寿郎には、自分がなにを望んでいるのかがよくわからない。こんなことは十三年生きてきて初めてだ。
 大好きな気持ちはなに一つ変わらないのに、ちょっとずつなにかが変わっていく日々。ゆるやかな変化は、今のところいい方向に向かっているんだろう。それがぐるりと真逆に進んでしまうかもしれないと思うと、不安が胸いっぱいに広がって、杏寿郎はガラにもないため息をついてしまいそうになる。

 夏休みも義勇は、どこに行くのもなにをするのも、錆兎とずっと一緒なんだろうか。同じ家に住んでるだけじゃなく、いつも、いつでも、一緒にいるんだろうか。

 義勇との距離は、杏寿郎だって近くなっている。それでも、錆兎には敵わない。そんな気がする。
 しかたのないことではあるが、義勇が一番苦しくつらいときに一緒にいてやれたのは、杏寿郎ではなく錆兎だ。杏寿郎はまだ、義勇がなにをしたら喜ぶのか、どんな遊びが好きなのかさえ、知らない。
 錆兎なら、こんなことで悩んだりしないんだろうな。思えばまた胸の奥がチクリと痛んで、ジリッと焦げつくような心持がした。
 それでも鬱々としてばかりもいられない。悩みあぐねているのはどうにも性分に合わず、落ち着かないことこの上なかった。

 とにかく、夏休みだって逢いたいとだけでも、伝えておかねば。グズグズしていたら夏休みに入ってしまう。

 さほど熱心に活動していないとはいえ、杏寿郎が在籍する剣道部にだって夏休み中の稽古は多少なりとあるのだ。お盆ともなれば、来客が多くて大忙しな母の手伝いだってしなければならない。中学に上がってかまってやれる時間が減ってしまったぶん、千寿郎とだって遊んでやりたいところだ。
 そもそも義勇にも都合があるだろう。義勇は部活に入っていないが、錆兎とスケジュールを合わせるなら暇な時間はきっと少ない。なにしろ剣道部と違って水泳部は全国的にも強豪扱いだ。夏休みだろうと、盆休みの三日間以外は練習がある。義勇も錆兎と一緒に毎日登校するかもしれない。合宿にだってついていく可能性もある。
 出遅れた感はあるけれども、とにもかくにも、夏休み中も逢いたいと義勇に告げておかなければ。このままでは夏休み中一度も逢えないおそれすらある。
 でもなんと言って誘おう。はっきりとした目的がなければ、義勇は、なんで? と首をかしげて断ってきそうな気がする。
 焦る杏寿郎に天啓をもたらしたのは、ふと聞えてきたクラスメイトの一言だった。

「なぁ、自由研究どうする? グループ発表でもいいって先生言ってたし、一緒にやんない?」
「それだっ!」

 突然大きな声で叫んで立ちあがった杏寿郎に、クラス中がビクンと肩を跳ねさせたが知ったこっちゃない。隣の席の義勇が一番驚いているようではあったけれども、そんなことにすら杏寿郎は気づかなかった。とにかくもう、興奮しきっていたので。

「義勇っ、一緒に自由研究をやろう!」

 ガシリと手を取り高揚した笑顔で言った杏寿郎に、義勇は何秒間か固まっていたけれど、コクンとうなずいてくれた。ロボットのようにぎこちない動きを見るに、もしかしたら、杏寿郎の勢いに押されただけかもしれない。
 でも、そんなのささいなことだ。嫌がられていないのならそれでいい。最終的に楽しかったと言ってもらえればいいのだ。
 手を握ったままで喜色を示す杏寿郎を、義勇はされるがままに見ている。
 パチパチとせわしなくまばたく目はまん丸で、きれいな青いっぱいに杏寿郎の顔が映っていた。