真白の雲と君との奇跡(加筆修正済みまとめ読みバージョン)

第6話

 駅を出て徒歩十分ほどにある目的地、こゆるぎの浜は、海水浴客でにぎわうエリアより北側に広がっている。漁港が近く、浜辺には砂礫されきが多く岩礁がんしょうもあるせいか、海水浴客は少ない。磯遊びや釣りを楽しむ人向けな浜辺だ。
 海水浴のエリアは盛況なようだが、浜にはまばらに釣り客が見えるだけで、喧騒とはかけ離れた穏やかな光景が広がっていた。
 風が強いせいか波はいくぶん大きいが、今日は海に入るわけではない。夏の陽射しにきらめく白波は、いっそ胸躍るほどだ。

「きれいな場所だな……」

 感嘆をにじませた義勇の声に、杏寿郎は、千寿郎と顔を見あわせ歓喜の笑みを浮かべた。
 めったにこられるわけではないが、杏寿郎にとってもここはお気に入りの場所だ。千寿郎も同様だろう。そんな場所を義勇も気に入ってくれた。胸がはち切れんばかりの高揚感に、杏寿郎はもちろんのこと、千寿郎も居ても立ってもいられないようだった。
「義勇さん、あっちです! あっちに石がいっぱいあるんですよっ」
 駆けだす千寿郎に手を引かれて、杏寿郎と義勇も走り出す。
「おい、千寿郎! 先に弁当にしよう、もう昼だぞ!」
 走りつつ苦笑すると、千寿郎がピタリと止まった。同時にクゥッと小さくかわいい腹の虫が聞えてくる。
 愛らしさに思わず声をあげて笑うと、千寿郎の顔が真っ赤に染まった。
「千寿郎くん、お薦めの場所はどこだ?」
 やわらかなひびきで義勇に問われ、頬を赤らめたまま千寿郎がキョロキョロと辺りを見まわした。
「えっと、前にきたときはあっちでご飯を食べました」
「花が沢山咲いていたところだな。よく覚えていたな、千寿郎! 時期が違うから今は咲いていないようだが……義勇、あの辺りは浜昼顔が群生していて、初夏には淡い紅や紫の花で埋まるのだ。そりゃあ見事だった!」
 ふたりが視線を向けた先に自分も顔を向けた義勇が、あぁ、と少し弾んだ声でつぶやいた。
「緑が濃くて、花が咲いてなくてもきれいだな」
「よし! じゃあ、あそこで食べよう!」
 家族との思い出の場所に、義勇との思い出が重なるのか。思えば多幸感に包まれて、自然と浮かんだ杏寿郎の笑みは、とろけるようだったかもしれない。

 電車のなかでおやつは少しつまんだが、それでも千寿郎はもう腹ペコだったようだ。ビニールシートを敷いている最中から待ちきれない様子で、目がキラキラとしている。
 それぞれ弁当を取り出したところで、グゥゥッと先ほどより大きく腹の鳴る音がして、義勇と千寿郎が顔を見あわせた。千寿郎や義勇の腹の虫では、ない。
 カァッと顔を赤くした杏寿郎に、ふたりはクフフと肩を震わせ笑いだした。
「すまんっ、千寿郎より俺のほうが腹が減っていたようだ!」
 照れ笑いしながら頭をかいた杏寿郎に、アハハと声をあげて千寿郎が笑う。義勇もおかしそうに微笑んでいた。今日の義勇は、いつもの昼休みよりさらに表情豊かに感じる。
 恥ずかしさよりももっとずっと大きな幸福感に満たされて、杏寿郎も明るい声で笑った。
「さぁ、食うか! 義勇、今日もおかずを交換しよう!」
 杏寿郎がスポーツバッグから取り出した弁当は、いつも学校に持っていくものよりも大きい。母が三人分のおかずを詰めてくれたタッパーだ。
 唐揚げに玉子焼き、ぶりの照り焼きやサツマイモの天ぷら。磯辺揚げなども入った和食中心のおかずだ。色どりも兼ねてか緑鮮やかなブロッコリーや、赤く艶やかなプチトマトなども入っている。
 もうひとつのタッパーに入っていた大きなおにぎりは、杏寿郎にもちょっと多めだ。海苔で包まれたものや、とろろ昆布でつつまれたもの、はたまたごま塩がふられていたりと、見た目にも手がこんでいる。きっと具もそれぞれ違うのだろう。
 そんな弁当を見て、千寿郎が、わぁ! と声を弾ませた。杏寿郎の喉も思わずゴクリと鳴る。千寿郎のリュックに入れられたタッパーには、小さく握られた千寿郎用のおにぎりが詰められていた。
 義勇の弁当箱も大きなタッパーだ。おかずはなく、かわりに何種類ものサンドイッチが色とりどりに入っていた。
「義勇のはサンドイッチか! うまそうだ!」
「おばさんが、みんなで食べられるようにって」
「母上もそう言っておにぎりにしてくださいました」
 お互いいかにも行楽弁当らしいラインナップだ。ワクワクとした気分を抑えて、杏寿郎はまずは千寿郎の手を拭いてやる。弟の世話をするのは兄として当然のことだ。そんな杏寿郎を見つめる義勇の唇に、小さな笑みが浮かんでいた。
「杏寿郎は、いいお兄ちゃんだな」
「はい! 兄上はとってもやさしくて、強くて、かっこよくて、えっとそれから」
 目を輝かせて言いつのる千寿郎に、義勇がうんうんとうなずいているのが、なんとも気恥ずかしい。
 照れくささをごまかすように紙コップにお茶をそそぎ、杏寿郎が千寿郎と義勇に差し出すと、受け取りつつ義勇がどこか遠い目でポツリと言った。
「俺も、小さいころは姉さんに手を拭いてもらった」
 ハッと目を見開き息を飲んだ杏寿郎に気づいたか、義勇は、ためらうように一度口を開きかけ、そのままかすかにうつむいた。わずかにおののく唇から義勇の動揺が見えてしまえば、杏寿郎の胸にも不安がよぎる。
 話すのがつらいのなら、話さなくていい。そう言って義勇の手を握ってやろうと思うのだが、なぜだか杏寿郎はそうはできなかった。
 憂慮する脳裏の片隅で、チカリと光ったものはなんだろう。疑問の欠けらは、やはり捕まえる前に消えてしまって、どうにもモヤモヤとする。なにか見逃してはならないサインがあった気がするのに、とらえどころがなくて焦燥に胸がざわめいた。
「義勇?」
「食べよう。腹が減ってるんだろう?」
 ごまかされた。そう感じたけれど、千寿郎の前で追及するわけにもいかない。

 それでもはしゃぐ千寿郎の明るさに助けられ、談笑しながらの食事はなごやかだった。義勇の顔にも、先ほどかすかによぎった憂いはすでになく、穏やかな顔で黙々と食べている。
 義勇は相変わらず食べながらでは話すことができないようで、口の端につく食べかすもいつもどおりだ。杏寿郎が家で義勇の話を頻繁にするものだから、千寿郎もそんな義勇にとまどうことなく、ニコニコと笑っていた。
「義勇、なにがいい?」
 箸を手にたずねれば、モグモグと噛んでいたおにぎりを飲みこんだ義勇は「玉子焼き」とつぶやき口を開いた。杏寿郎がアーンと口に運んでやるのにすっかりなじんでいる義勇は、ためらいがない。
「我が家の玉子焼きは、錆兎の母上と違ってしょっぱいのだ。義勇はしょっぱい玉子焼きでも大丈夫か?」
 学校ではついメインだと自分が思うおかずを選んでしまうので、玉子焼きを食べてもらったのは初めてだ。家々で味付けの異なるものだけに、ちょっぴりドキドキとしながら聞けば、義勇はこくりとうなずいた。パチリとまばたいた青い目は、義勇の口がモグモグと動くたび、ゆらゆらと波ように揺らめいて見える。
 涙など浮かんでいないのに、なぜだか義勇は泣きだしそうに見えた。ドキリと杏寿郎の鼓動が跳ねる。
「……うまい」
「そ、そうか。それならよかった」
 気のせいだったのだろうか。杏寿郎に向けられた海色の瞳にはもう、先の揺らぎは消えていた。

 心配しすぎもよくないな。義勇のこととなるとどうにも考えすぎてしまう。

 胸中だけで苦笑した杏寿郎に、ん、と義勇が手にしたサンドイッチを差し出してきた。キョトンと目をしばたたかせたら、「アボカドとエビ」と淡々と言い、義勇はコテンと小首をかしげて見つめてくる。
 違うもののほうがいいかとの確認のつもりなのだろう。ときおり見せるこの仕草は、義勇のほうが年上なのだということを忘れさせるほどいとけなく見えて、いつだってなんとも言えない陶酔感に杏寿郎は満たされる。
「うまそうだなっ、いただこう!」
 アーンと大きく開いた杏寿郎の口に、義勇はやはり逡巡することなく、サンドイッチを手ずから差し入れてくれた。箸で食べさせてもらうことはもはや日常茶飯事だが、義勇の手から直にというのは初めての体験だ。なんだかすごく胸が高鳴って、とろけるような幸せを感じる。
 さすがに一口で食べることはできず、ぱくりと半分ほどをかじり取った杏寿郎をじっと見つめ、義勇はサンドイッチをつかんだ手もそのままに杏寿郎の言葉を待っている。
「うまい! 我が家ではサンドイッチといえばハムやチーズなんかのシンプルなものだが、錆兎の母上は、なんというかずいぶんとオシャレなものを作るのだな。初めて食べたがじつにうまい!」
 緑のアボカドディップはとろりとして、マヨネーズの酸味がちょうどいい。朱色のエビとの色合いも美しく、プリプリとした触感のエビの甘みとよく合っていた。
「そうか。なら、よかった」
 先ほどの杏寿郎と同じく言うと、義勇はうっすらと微笑んだ。義勇も杏寿郎が気にいるか少し不安だったのかもしれない。もっと食べろとでも言うように、ん、とサンドイッチの残りをなおも差し出してくるから、杏寿郎も遠慮なくかぶりつく。

 唇に、指先が触れた。

 ピクリとかすかに震えた指先と小さく見開かれた瞳に知らず見入って、杏寿郎の頬に熱が集まる。つられるように義勇の頬にも淡い朱が散った。
 赤面したまま見つめあい、杏寿郎は無心で口のなかのサンドイッチを咀嚼しつづける。美味だと思ったディップもエビも、もう味なんてわからない。ほんのりとバラ色に染まった義勇の頬と、遠い異国の海のように青く澄んだ瞳から、目が離せなかった。
「せ、千寿郎も」
 見つめあう視線を先にそらせたのは義勇だった。声は常になく上ずり、杏寿郎の食べかけのサンドイッチだということすら忘れているのか、千寿郎に手を差し向けるさまには動揺があらわだ。
 気にした様子もなくうれしげに千寿郎がアーンと口を開ける。杏寿郎にしたように手ずから食べさせる義勇を、杏寿郎はぼんやりと見ていた。破裂しそうなほどに速まる鼓動は、いっこうに静まる気配がない。
「とってもおいしいです!」
「従姉の真菰のお気に入りなんだ。千寿郎も気に入ったのならよかった」
 サンドイッチの残りをすべてたいらげてあどけなく笑う千寿郎に、義勇もようやく落ち着いたか、小さく微笑んでいる。一瞬チクリと胸を刺した痛みが消え去るより早く、目にしたその光景に、杏寿郎は大きな声で叫んでいた。

「あぁっ!」

 唐突な叫び声にビクンと義勇の肩が跳ねる。千寿郎もびっくり眼で杏寿郎を振り仰いでいるが、杏寿郎の目はふたり以上に大きく見開かれ義勇を凝視したままだ。
「杏寿郎?」
「あ、その、すまん……」
 訝しげに呼びかけられてどうにか謝りはしたものの、叫んだ理由なんて口にはしづらい。

 千寿郎の唇についたディップを拭った指先をぺろりと舐めとる義勇の仕草に、なんでこんなにもショックを受けたのか、杏寿郎にだってよくわからないのだ。

「は、早く食べてしまおう! そろそろ石を拾わないと遅くなってしまうからな!」
 先ほどまでとは異なる鼓動の速さは、焦燥とも苛立ちともつかぬままに、杏寿郎の胸でひたすらに気づけ、気づけと、訴えかけている気がする。けれどもいったいなににと自問自答しても、答えは見えてこない。
 べつになにもおかしくない仕草だった。杏寿郎だってよくやる行為だ。なのになんでこれほどまでに胸がざわついて、真菰への嫉妬を掻き消すほどの衝撃を覚えたのか。
 理由は至極単純明快であるような気もするけれど、そこに思い至ることはなかなかできない。
 母の心尽くしを味わうことすらできぬままに、ガツガツとせわしなく食べだした杏寿郎に、義勇と千寿郎は不思議そうに顔を見あわせたけれど、問い質してはこなかった。聞かれなくて幸いだ。杏寿郎にだって、叫んでしまった理由も、それに触れられたくない理由も、説明などできないのだから。

 ともあれ、たくさんあった弁当も、杏寿郎が一心不乱に食べ続けたおかげで、ほどなく空っぽになった。
 チラチラと義勇と千寿郎は気遣わしげな視線を投げてはきたが、それでも杏寿郎が「さぁ、石を探そうか!」と笑うと、安堵したように笑い返してくれた。
 シートはそのままにして荷物置き場にすると、三人また手をつないで砂礫が広がる場所へと移動する。
 一面に転がる小石は、一見するとどれも同じように見え、地味で灰色のおもしろみのない石ばかりだ。だが、しゃがみこみ一つひとつコロコロと転がし見れば、様々な模様の石が見つかる。色だってじつは千差万別だ。
 きれいな縞模様、淡く青みがかったチャート(岩石)、オレンジ色の小さな瑪瑙めのう。見つけるたびに、歓声をあげて見せあった石は、杏寿郎が持つビニール袋に少しづつ溜まって、ジャラジャラと音を立てた。
 ジリジリと首筋を焼く夏の日光は、焦げつきそうに熱い。そんな陽射しに照らされ続けている石もかなり熱をおびていて、火傷しないよう紙コップで海水を振りかけると、ジュッと音を立てたりもする。そのたび、乾いたときとは違う顔をのぞかせる石にまたはしゃいで、時間が過ぎていく。
 強い海風は街なかよりも涼しいが、それでも照りつける陽射しの暑さに変わりはない。ポタリと石に落ちる汗が増えてきた。水分補給はマメにしているが、このぶんでは日焼けが心配だ。出がけに千寿郎には日焼け止めを塗ったけれど、もう一度塗ってやったほうがいいかもしれない。杏寿郎がちらりと千寿郎をながめやったとき、義勇が「あっ」と小さな声をあげた。

「杏寿郎、これ石英かも」

 少し興奮した声で言う義勇に、どれどれと顔を寄せて見ると、手の平に乗せられたコロリとした丸っこく白い石は、たしかに図鑑にある石英の写真と同じくポコポコと小さな穴がある。
「うぅむ、よくわからないな」
「待って。これで見たら結晶が見えるかも」
 ゴソゴソとポケットを探った義勇が取り出したのはルーペだ。
「準備がいいな!」
「石を採取するなら持ってくといいって錆兎が」
 なにげない、いつもと変わらぬ淡々とした声なのに、どこか誇らしげに聞こえるのは自分の狭量さゆえだろうか。杏寿郎は口惜しさに少し唇を噛む。
 けれどもすぐに、さすがだなとカラリと笑ってみせた。
 嫉妬してしまうのはしかたないかもしれないが、態度に出すのは駄目だ。そんな男らしくないことをしていては、いつまで経っても義勇に頼られるようにはなれない。
 思ったそのとき、ハタと杏寿郎は先ほどの衝撃の理由に思い至り、息を飲んだ。

 俺は、さっき千寿郎に嫉妬したのか……? 千寿郎の唇に触れた指を、義勇が舐めたから?

 よもや千寿郎にまで嫉妬するなんて。自分で自分が信じられず、杏寿郎は、ルーペをのぞきこむ義勇の横顔を呆然と見つめた。視線は自然と唇に向かい、知らずゴクリと喉が鳴る。
 義勇の口は小ぶりで、唇も薄い。けれども艶やかにほんのりと赤く、杏寿郎はなんとはなし弁当のなかで光っていたプチトマトを思い浮かべた。

 あの唇は、トマトよりも瑞々しく甘いのかもしれない。

 ふとそんなことを考えたら、全身に火がついたようにカッと身のうちが熱くなった。
「やっぱり石英だ。結晶が見える。水晶かも……杏寿郎?」
 黙りこんで真っ赤な顔をしている杏寿郎を、不思議そうな目で義勇が見つめてくるが、なんでもないとごまかす余裕さえなかった。
 触れたい、なんて。なんで自分はそんなことを思ったのだろう。友達の唇に触れる? そんなの一度も思ったことなどない。誓ってもいい。どんなに大好きだろうと、義勇に対して一回だって、そんな不埒な考えが浮かんだことなどなかったのに。
 自分の名を呼ぶその唇に、触れたいのは指先だけじゃない。あの唇に、唇で触れたい、だなんて。そんなの、友人同士ですることじゃない。
 だって、それは。
 だって、それじゃ。

 唇同士での触れ合いを、なんと呼ぶのかぐらい、杏寿郎だって知っている。
 キスがしたいと、自分は考えた。いちばん大好きで大切な、友達の義勇に。

 遠く聞こえる海水浴客たちの喧騒。風が強く吹きつけ髪をなぶる。ひびく潮騒は、騒ぎたてる心の音のようにも聞こえた。