真白の雲と君との奇跡(加筆修正済みまとめ読みバージョン)

第5話

 夏休みに入って最初の土曜日も、朝からよく晴れていた。
 まだ午前中だというのに陽射しはすでに強く、うだるような暑さだ。気温だけで言えば、絶好の海水浴日和といったところだろう。だが、雲の流れはかなり早かった。風が強いぶん、多少なりと過ごしやすいかもしれない。
 出がけに見た天気予報では、早くも台風発生を告げていた。とはいえ、杏寿郎たちの今日の目的は、海は海でも海岸での石拾いだ。台風も今のところ天気が崩れるほどの距離にはないから、さほど問題はないだろう。

「強風波浪注意報は出ていなかったが……この風だ、万が一があるからな。海辺に行くならしっかり気をつけるんだぞ、杏寿郎、千寿郎」

 駅まで送ってくれた父の言葉に、千寿郎が「はい!」と手を挙げいい子のお返事をする。微笑ましく思いながら、杏寿郎も元気に了承の意を示した。
「はい! 危険のないよう気をつけます!」
 しかつめらしい顔をして、重々しく父がうなずき返す。厳格な父親らしく振る舞おうとしているが、その実、父が並外れて子煩悩なことぐらい、誰の目にも明らかだ。杏寿郎たちの返事にきっとまた内心で、本当にいい子すぎるっ、俺の息子たちかわいすぎだろ! などと考えているに違いない。口の端が隠しきれずぬ笑みに震えていた。
 だが上機嫌な様子は、長くはつづかなかった。待ち合わせ場所にまだ義勇が到着していないのを知ると、途端に父は、見るからにしょんぼりと眉を下げた。

「なんだ、やっと義勇くんに逢えると思ったのに」
「父上、約束の時間までまだニ十分もあるのです。俺たちが早すぎたのだから、義勇は悪くありません!」
 わずかにでも義勇を責められるのは勘弁願いたい。杏寿郎が声を張り上げると、父は顔をしかめて耳をふさいだ。
「べつに責めてないだろうが……そんなににらむな」
 どうも声が大きすぎたらしい。千寿郎もちょっぴり目を白黒とさせている。通りを行く歩行者まで、なにごとかと視線を向けてきていた。だが杏寿郎の大声に慣れっこなふたりは、他人の目など気にならないようだ。
「時間まで間があるなら、そこのコンビニでおやつでも買っておくか?」
「ちゃんと持ってきました。母上がお弁当も持たせてくれました」
 ニコニコとリュックを見せる千寿郎に、おそらく他意はない。大義名分を封じられた格好の父は、ますます眉を下げ、いかにもガッカリとした風情だ。
「父上、俺たちは大丈夫ですから。送っていただき、ありがとうございました! 母上が待っています、うちにお帰りください!」
「ありがとうございました!」
 杏寿郎に倣って千寿郎にまで言われてしまえば、居残ると言い張るわけにもいかなかったのだろう。後ろ髪を引かれる様子で帰っていった父に、杏寿郎はわずかに苦笑した。
 父にも早く義勇を紹介したい気持ちは、杏寿郎とてある。義勇に逢った父が、どんな感想を持つのか楽しみでもあった。けれども出がけに母から
「父上はなんだかんだと言い訳して一緒に行きたがりそうですから、早く帰らせるように」
 と言い含められているのだ。申し訳ないがしかたがない。

 車が走り去ってから五分もしないうちに、道の向こうに義勇の姿が見えた。今日も制服姿だ。白い半袖シャツがなんだか眩しい。
 杏寿郎も今日は、義勇に倣って制服着用である。制服とはいえ、おそろいで出かけるのには違いない。むしろ、行き交う誰も彼もが私服ななかでふたりだけ制服なのは、仲良しである証拠に見えるのではないだろうか。浮かれる心のままに、杏寿郎は声を弾ませた。
「おはよう、義勇!」
「おはようございます!」
 千寿郎と一緒に手を振ると、遠目にもちょっと驚いた顔をした義勇が、小走りにやってくる。
「おはよう。すまない、遅くなった」
 まだ午前中だが気温はすでに高い。休日の駅は、夏休みということもあってか、それなりに人出も多かった。だが、待ち合わせた場所は人の流れを妨げてはいないし、日陰だから待つのも苦ではない。それでも、杏寿郎たちより遅い到着となった義勇にしてみれば、失敗に感じるのだろう。無表情に見えても眉根がかすかによせられて、罪悪感が透けて見える。
「時間までまだ十五分もあるぞ! 俺たちが早すぎたのだ!」
「楽しみで早くきちゃいました」
「でも、暑かっただろう。ごめん」
「お帽子もかぶってるから大丈夫です」
 麦わら帽子のつばを握ってはにかみ笑う千寿郎に、相槌のように義勇がかすかにうなずいた。そのひたいには、うっすらと汗が浮かび上がっている。千寿郎を見つめる瞳は気遣わしげだ。
 無表情と無口のせいで、義勇を冷たいと敬遠する級友は、決して少なくはない。しかしそれは、誤解にすぎないことを杏寿郎は知っている。千寿郎を案じる様子一つとってみても、義勇のやさしさは伝わるのだ。見誤ることなくそれを感じ取れる自分が、杏寿郎には、なんとはなし誇らしく感じられた。

「早くに行けば、それだけたくさん石が集められるかもしれないからな! それに、俺たちが早すぎたと言っただろう? 義勇が謝ることはない!」
「……そうか」

 闊達な笑みを浮かべて言った杏寿郎に、ようやく義勇も笑った――ような気配がした。
 少しずつ感情表現は豊かになっているものの、基本的に義勇は無表情がデフォルトだ。このあいだの訪問で、また少し心の距離が近づいたと思うけれど、すっかり打ち解けたとはいい難い。おまけに今日は、まだ一度しか逢ったことのない幼児の千寿郎と、長い時間をともに過ごすのだ。緊張しているに違いない。
 それでも、幼い千寿郎にそっけない態度をとるのはためらわれるのだろう。ぎこちなさはぬぐえないが、義勇は千寿郎を気遣いながら接してくれている。義勇の慈しみ深さに、杏寿郎の秘めた憂いが晴れていく。

 電話の一件から、杏寿郎の心のなかにはずっと不可解な疑問と鬱屈が居座っていて、寝不足がつづいていた。夏休み前も、そうだった。義勇が家にやってくると思うと、杏寿郎は興奮が抑えられず、眠れなくなったものだ。
 しかし、この二晩ばかりの寝不足の理由はといえば、真逆の感情ゆえだ。鬱々とした悩みが原因である。そのせいか杏寿郎は、いつもよりも少々元気がなかった。家族を心配させるわけにもいかず、空元気を奮い立たせていたものの、熾火おきびのような不安が胸にあったのは事実だ。
 義勇と出かけられるのはどうしようもなくうれしい。楽しみにもしていた。嘘じゃない。けれども義勇に逢えば、真菰という従姉とはどれぐらい仲がいいのかと、根掘り葉掘り詮索してしまいそうな狭量な自分をも、杏寿郎は自覚している。不安にならないわけがなかった。
 家族といるときはまだよかった。義勇のことだけを考えずにすむ。けれども布団に入ってしまうともう駄目だった。問い質してしまわぬよう、考えるなと何度自分に言い聞かせても、気づくとまた考えてしまう。
 責めるように問い詰めてはいけない。義勇だって困るに決まっている。下世話な詮索好きだなどと思われるのも不本意だ。でも、知りたい。いや、知りたくない。怖い、だなんて。自分はこんなに臆病だっただろうか。
 義勇のことだけに頭も心も埋め尽くされる、眠れぬ夜。逢った途端に欲求が抑えられなくなって、義勇を問い詰めてしまったら。聞かぬように自制しても、抑えきれぬ自分の不安に義勇が気づいてしまったら。
 杏寿郎は人前で泣いたことがない。泣いたこと自体、ろくに記憶になかった。けれど、義勇に軽蔑され嫌われたら、自分は泣くかもしれないと杏寿郎は不安に眉を曇らせる。人目もはばからず大声で、駄々をこねる幼子のようになく自分は、不思議とたやすく脳裏に浮かんだ。
 それでも嫌われるだけならまだ、名誉挽回するのだと頑張れる。だが、もしも自分が狭量な嫉妬で口にした言葉が、義勇を傷つけたら。つらい思いをしてきた義勇が、自分のせいでもしもまた傷ついてしまったら……それがなによりも、杏寿郎にはつらい。だから少しだけ、義勇に逢うのが怖かった。

 だが、そんな懸念は杞憂だったようだ。実際に義勇に逢えば、鬱屈はたちまち小さくなっていく。

 思っても見なかったことだが、もしかしたら自分はかなり嫉妬深いのかもしれない。杏寿郎は内心で歯がゆく唸った。
 頭では冷静でいるつもりでも、ふとした瞬間に悋気が顔を出す。もともと義勇と仲が良くつきあいも長い錆兎や真菰に義勇を取られてしまうかもと、不安に駆られているのだろう。なんとも不甲斐ないことだ。
 けれど今、義勇は杏寿郎と一緒にいる。いつでも行動をともにしている錆兎でも、幼いころから遊んでいたという真菰でもなく、杏寿郎とだ。千寿郎にだって厭うそぶりなどまるで見せずにいてくれる。義勇がまとう空気はやわらかい。

 それだけでもいいじゃないか。杏寿郎は噛みしめるように胸中でつぶやいた。
 逢えずにいた時間を思えば、こんなふうに一緒に出かけられるなど、僥倖としか言いようがない。想像することしかできなかった以前とくらべたら、贅沢すぎる悩みだ。

 うん、と、ひとつうなずくと、杏寿郎はカラリと笑ってみせた。気持ちを切り替えられた自分に少しだけホッとする。
「さぁ、行こうか! 結構長く電車に乗らねばならんからな。母がおやつも持たせてくれた」
「お弁当と水筒もです」
 ホラ、と後ろを向き背負ったリュックを見せる千寿郎に、義勇の口元に小さな笑みが浮かんだ。

 千寿郎だけは幼稚園の制服ではなく、Tシャツに短パンだ。白地にデフォルメされたライオンがプリントしてあるTシャツは、千寿郎のお気に入りである。
 ライオンさんは兄上に似てます。そんなことを言って、一番好きな動物にはいつもライオンを挙げる千寿郎が、杏寿郎にはかわいくてならない。
 麦わら帽子は、杏寿郎があげた去年の誕生日プレゼントだ。サイズは少し小さくなったようだが、千寿郎はまだ大丈夫ですと言い張って、今日もかぶってくれている。
 誇らしいけれど、杏寿郎は、千寿郎のうれしげな顔にちょっぴり申し訳ない気分にもなる。すぐにサイズがあわなくなるなんて、思ってもみなかった。自分はまだまだ配慮が足りない。来月に迫った今年の誕生日は、そのへんも考えてプレゼントを買わねばならないだろう。
 身につけるものを子供に贈るときは、成長を見越すというのは大事なのかもしれない。自分の制服と同じだ。父と母の顔を思い出し、杏寿郎はなんとなく照れくさくなる。自分のブレザーやスラックスにまだ余裕があるのについては、ちょっぴり悔しくもなるけれども。

「俺も、おばさんが用意してくれた」
 そう言う義勇も、先日とは違って少し荷物が多かった。肩にかけた大きめのトートバッグの中身は、杏寿郎たちと同じようなものらしい。弁当に水筒、石を入れるビニール袋とゴミ袋も。おやつも少し。
「それと……昨日、買ってきた」
 言いながら義勇がバッグから取り出して見せてくれたのは、A5サイズの本だった。
「わぁ、石の図鑑ですねっ」
「俺が買ったのとは別だな。ホラ」
 杏寿郎もスポーツバッグから新書版の図鑑を出して見せれば、義勇の海色の目がわずかに細められた。ほんのちょっぴり眉尻が下がっている。
「相談してからにすればよかった」
「そうだな、それなら一緒に買いに行けたのに残念だ」
 無念そうに告げた杏寿郎に、義勇はキョトンとまばたいて、ふっと肩の力を抜くように小さく笑った。
「……うん、残念だ」
「ん?」
 残念だというわりには、義勇はなんとはなし愉快そうだ。義勇の反応の意味がわからず、なにげなく千寿郎を見下ろせば、千寿郎も杏寿郎を見上げてきている。
 見交わした視線をそろって義勇に向けて、一緒に首をかしげたら、義勇はますますおかしそうに笑みを見せてくれた。
 義勇がどうして笑うのかはわからない。けれど、子供のころと同じ、花のように明るくやさしい笑みだ。
 一緒に本屋に行けなかったのは寂しいが、きっと義勇も、今日を楽しみにしてくれていたのだろう。杏寿郎の胸は高鳴って、深く明るい笑みが顔いっぱいに広がった。
 電話して以来胸に鬱積していた、解きがたい疑問や消えぬ不安が、小さく身をひそめていく。温かくて幸せな想いは、さざ波のようにやさしく心を揺らした。

 せっかく義勇と一緒に出かけられるのだ。鬱々と思い悩んでいるなどもったいない。今日は千寿郎だっている。千寿郎であれば、いくら義勇と一緒にいたって嫉妬することはあるまい。

 かすかに残る不安を押し殺し、浮き立つ心のままに、杏寿郎は大きく声を張り上げた。
「さぁ、行こう!」
 笑って杏寿郎は、歩きだす。義勇と千寿郎も、見合わせた顔をほころばせ、異口同音に同意の声を上げた。
「今日行く場所は、以前家族で行ったことがあるんだ。そのときは父上の車でだったが、電車でのルートも調べてある! 道案内はまかせてくれ!」
 準備は万全だ。道に迷って義勇や千寿郎に情けないところなど見せられない。
「頼もしいな」
 胸を張った杏寿郎に、義勇は、やっぱり愛らしい白い花のように、やわらかく笑った。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 さほど待つことなくやってきた電車に乗ると、幸運なことに、座席がちょうど三人分空いていた。
「風は強いが、あまり波打ち際によらなければ大丈夫だろう」
「どういうところなんだ?」
 昔は夏恒例のテレビ番組でお馴染みだったという海水浴場の近くだと、義勇には教えてある。けれども、詳しい場所までは話していない。たずねてきた義勇に杏寿郎が答えるより早く、千寿郎がパッと顔を輝かせて答えた。
「いっぱい石があるんです! 灰色の石が多いんですけど、よく見るときれいな石もいっぱいで、鳥さんが海でお水を飲んでるのも見ました!」
「鳥?」
「アオバトが群れで海水を飲みにくるんだ。そのせいか、バードウォッチングのスポットとしても知られているらしいぞ」
「鳥が潮水を飲むのか?」
「うむ。かえって喉が渇きそうなものだがな。エサが影響しているようだ」
「きれいなハトさんなんです。緑色で、とってもかわいいんですよ。羽だけ赤い子もいっぱいいました。今日もいるでしょうか、兄上」
「うぅむ、どうだろう。見られるといいな、千寿郎!」
「はい! 義勇さんにも見てもらいたいです!」
 いつもは引っこみ思案で恥ずかしがり屋な千寿郎だが、今日はやけに声も大きく、ニコニコと満面の笑みを絶やさない。義勇に向ける顔もうれしさを隠せずにいる。
 ずいぶんと義勇を気に入っているのは感じていたが、慣れぬ相手にここまで千寿郎が懐くのもめずらしい。微笑ましさに杏寿郎の頬は緩みっぱなしだ。
「……そうか。俺も見てみたい」
「きっと見られます! あ、鳥さんを見るんじゃなくて、今日は石をひろうんでした」
 はわわとあわてる千寿郎に、杏寿郎は義勇と顔を見あわせる。笑ったのは同時。
 恥ずかしそうにうつむいた頭を杏寿郎がなでると、千寿郎の顔がそろりとあげられた。杏寿郎と義勇を交互に見上げる瞳は、まだ恥じらっている。

「石をひろって、鳥も見よう。楽しみだな」
「……はいっ!」

 ぎこちなさの取れた自然な笑みを義勇に向けられ、千寿郎の頬が羞恥ではなく高揚に染まる。
 千寿郎を真ん中に三人並んでの道行は、周囲の人たちの微笑みをも誘っているようだ。向かいの座席のおばあさんが、ニコニコと話しかけてきた。
「ボク、お兄ちゃんたちとお出かけいいねぇ」
 知らない人に話しかけられてビックリしたのだろう。ちょっと身をすくませて、千寿郎が杏寿郎を見上げてくる。笑い返してやると、安心したのかはにかみ笑いながらも千寿郎は、しっかりとおばあさんにうなずいた。
「はいっ。兄上の宿題で、石を拾って、あと鳥さんも見るんです」
「宿題で石拾い?」
 キョトンとされるのも無理はない。苦笑しつつ杏寿郎が自由研究ですと答えると、あぁ、とおばあさんもうなずいた。
「もしかしてこゆるぎの浜かしら?」
「おぉ、ご存じですか!」
「さざれ石で有名よねぇ」
「さざれ石……国歌の?」
 パチリと目をしばたたかせて義勇が小首をかしげた。杏寿郎も浮かぶのは『君が代』だ。
「そう。あそこはねぇ、玉砂利の産地なの。『君が代』はね、川や海で削られた小さなさざれ石が、また集まって大きないわおになるまでって歌っているのよ。気が遠くなるぐらい長い年月のことだわね」
「小石が岩になるんですか?」
 驚いて目を見張った杏寿郎が義勇へ顔を向けると、義勇も、目をぱちくりとさせて杏寿郎と顔をあわせたきた。そんなふたりにおばあさんは、少女のようにウフフと笑っている。
「鎌倉の八幡様にもさざれ石の巌があるのよ」
「へぇ! それはすごい! 義勇、今度見に行ってみないか?」

 杏寿郎の嬉々とした声に、義勇もどこか楽しげにうなずいた。白い頬が少し紅潮して見えるのは気のせいだろうか。また一緒に遠出することを、義勇も楽しみにしてくれているのならうれしいのだけれど。

「お勉強の役に立てたかしら?」
「はい! いいことを教えていただきありがとうございます!」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた杏寿郎と義勇を交互に見やって、千寿郎もぴょこんと頭を下げた。
「ありがとうございますっ」
「お行儀のいいこと。お勉強頑張ってね」
 電車が止まり、おばあさんが降りていく。バイバイと手を振る千寿郎に、おばあさんもうれしそうに手を振ってくれた。旅というにはささやかな道行きだけれど、幸先のいい一期一会に杏寿郎の胸が弾む。

 心配する必要なんてなかった。あれだけ悩んだのが嘘みたいだ。勝手に不安がっていないで、義勇と一緒にいられる時間を楽しまなくては!

 興奮した様子で話しかける千寿郎に、義勇も穏やかに相槌を打っている。利発ではあっても幼子の話だ。要領を得ぬものも多いだろう。けれど義勇は眉をひそめたりはせず、真摯な瞳で千寿郎の相手をしてくれていた。生真面目で誠実な義勇の為人ひととなりが、こんなささいなことからも伝わってくる。
 今はまだ、クラスメイトたちは義勇のやさしさに触れる機会がないようだが、いずれはみなも知るのだろう。そうなれば、錆兎や真菰以外にも、杏寿郎が嫉妬する対象は増えていくに違いない。そのたび苛々したり悲しんだりしていては、いずれは杏寿郎自身が義勇を傷つけてしまうことだってあるかもしれない。そんなのはごめんだ。母の忠告はきっと正しい。狭量な嫉妬で義勇から幻滅されたり、ましてや嫌われるなんてとんでもない話だ。

 動じぬ大きな男になるのだ。義勇を守れるぐらいに。うじうじ気に病むぐらいなら、度量の広い男となるべく己を磨くことに邁進するほうが、よっぽどいい。千寿郎にとっても恥じることない兄でいるためにも。

「兄上は誰がいちばん好きですか?」
「義勇」
「……え?」

 胸中での決意にふけって、杏寿郎はふたりの会話をまったく聞いていなかった。誰が好きかと問われたから、反射的に頭に浮かんだ名前を口にしただけだ。
 おかしなことを言ったつもりはなかったが、即答した杏寿郎に、ふたりはなぜだかポカンと目を見開いている。 
「ん? あぁ、千寿郎や父上と母上もいちばん好きだぞ! みんないちばんだ!」
「……登場人物の話だ」
 ふいっと視線を外し早口で言った義勇の目元が赤い。耳も淡いバラ色に染まっている。
「義勇さんのご本に出てる人です、兄上」
「お、おぉ、そうだったか。すまん、聞いてなかったっ!」
 どうやら義勇と千寿郎の会話は、いつのまにか借りている本の話になっていたようだ。 
 照れ笑いする杏寿郎をちろりと横目で見やる義勇の瞳が、少しとがめる色をおびている。けれどもそれは、義勇も照れていることを知らせてもいた。
「そうだなぁ……千寿郎は誰がいちばん好きなんだ?」
 問いかけながらも、杏寿郎は心中でわずかな焦りを覚えていた。義勇は杏寿郎が本の感想を告げたときにも静かに聞いてくれていたけれど、話を聞くだけでも本当はつらいのかもしれない。
 だが、義勇の様子には動揺や耐える気配は感じられなかった。
「千はネメチェックが好きです! 小さくていちばん弱いのに、赤シャツ団にいじめられても負けませんでした!」
 興奮した声音が、千寿郎があの本を本当に気に入ってくれたことを伝えている。
 義勇から渡された古い文庫本――『パール街の少年たち』は、モルナールというハンガリーの作家が書いた、首都ブタペストを舞台とした小説だ。ネメチェックは病弱で痩せっぽちな主人公の少年である。
 信望の厚いリーダーであるボカによって、軍隊のごとく統率された少年団。そのなかでネメチェックは、ただひとり階級を持たぬ一兵卒だ。
 ストーリーは、いかにも少年向けといった戦争ごっこに近い。遊び場である原っぱを巡って敵対する隣町の少年団との、戦いの物語だった。
 千寿郎は争いごとを好まぬ穏やかな性質だが、それでも、男の子らしいワクワクとした高揚感を覚えたとみえる。それは杏寿郎も同様だ。
 戦争ごっことはいえ、人間模様や待ちかまえる悲しい現実は、子供だましなどではない。忠義や裏切り、大人の社会でもきっと起こりうる理不尽な現実。魅力的な登場人物たちだって、全員が好ましいわけではなかった。ボカに嫉妬し少年団を裏切ったゲレーブが、敵の赤シャツ団のアジトでネメチェックが水につけられるのを笑ったシーンなどは、本気で怒りがわきもした。
 義勇から借りるまで杏寿郎は、本のタイトルも作家名も知らなかった。現在ではあまり知られていない作品なのかもしれない。だが、名作と呼ぶにふさわしいと杏寿郎は思ったし、義勇があの本選んでくれたのを感謝してもいる。義勇が幼いころから読んできた本を、自分も好きだと思えたことが、誇らしくもうれしかった。
 千寿郎も気に入ってくれたことに、杏寿郎としては微笑ましさを感じるけれど、この会話には一抹の不安もある。

 あの本は、義勇にとっては姉の形見とも言える本だ。読み返すことすらできなくなった、つらい思い出となってしまった本でもある。こんな話を聞いていて、義勇は大丈夫なんだろうか。

「そうか、ネメチェックはとても勇敢で献身的だったものな」
 言いながら義勇の様子をうかがえば、義勇と目があった。
 杏寿郎の危惧を悟ったのだろう。義勇の深い海の色をした瞳がかすかに揺れて、苦笑とも落胆ともつかぬ色を浮かべて伏せられた。
 とっさに、杏寿郎の視線は、膝に置かれた義勇の手に向かう。義勇の白い手は、梅雨のあの日と違って震えてはいないようだ。
 安堵したものの心配なのに変わりはない。物言いたげに見つめた杏寿郎に、義勇は今度ははっきりとした苦笑を浮かべた。
「杏寿郎は?」
 問う声も震えてはいない。息苦しさも感じられず、義勇はどこまでも穏やかだ。
 白く整った顔には、淡い笑みがある。その笑みは、義勇が初めて家にきた日に、義勇の両親を褒めた母に対して浮かべたものとよく似ていた。

 そわりと杏寿郎の胸の奥でなにかがうごめいて、見逃すなと警告を発した気がした。

 なにか大事なことがこの笑みには隠されていると感じる。けれども直観は一瞬のきらめきでしかなく、杏寿郎がとらえる前に、義勇のちょっとしたからかいめいた一言に霧散して消えた。
「登場人物で」
「むぅ……あれも本心だったのだが。いや、すまん。俺はネメチェックの勇気や献身的な行動も素晴らしいと思うが、赤シャツ団リーダーのアーツがいちばん好きかもしれん。敵味方関係なく、人として尊敬に値する者を認める気概と正義感には、心打たれた。ずぶ濡れでも胸を張り去って行くネメチェックに、団員全員に敬礼を命じ自らも敬意を表したシーンが、俺はいちばん好きだ! 人の上に立つ者のあるべき姿がアーツにはあると思う!」
「……そうか。杏寿郎とアーツは、どこか似てるな」
 つぶやくように言った義勇の声にはもう、からかうひびきは見つけられない。同時に、痛みをこらえるような苦しさもまた、感じられなかった。
 それに安堵した杏寿郎は思い切って、義勇は? と、聞いてみようとしたが、聞くことはかなわなかった。心配よりも、もっと即物的な理由によってである。
「あっ、兄上! 着きました! ここですよね?」
「おぉ、そうだ。千寿郎、よく覚えていたな」
 車内アナウンスにも気づかぬほどに話しこんでいたらしい。千寿郎の弾んだ声に視線を窓に向ければ、スピードを落とした電車の窓に流れた駅名標には、本日の目的地が書かれている。
 悠長に会話をつづける時間はなく、あわてて荷物を手に立ちあがり、三人は電車を降りた。

 海水浴に行くのだろう、杏寿郎たちとともに下車する乗客は、それなりに多かった。
 千寿郎と同じ年ごろくらいの子らが、改札を出た途端にキャッキャとはしゃいだ声を立てて走っていく。親御さんだろうか「走っちゃ駄目って言ってるでしょ!」と注意する声が聞こえてくる。大学生らしきグループも、弾んだ声で海水浴の話題に興じているようだ。いかにも夏休みの行楽地らしい光景である。

「みな泳ぎにきたようだな。石を拾いに行く人は少ないかもしれん」
「俺たちだけかもしれない」
 クスリと苦笑しあって、杏寿郎は千寿郎の手を取った。
「はぐれないように手をつないでいこう!」
「はい。義勇さんも」
 笑って差し伸べた千寿郎の手を、義勇の手がそっと握った。千寿郎を真ん中に三人並んで、地図を確かめながら海岸へと向かう。義勇と手をつなげないのはちょっぴり残念な気がしないでもないけれど、こういうのも悪くない。いや、むしろ幸せだ。
 夏の空はかぎりなく青く澄んで、遠く真白い入道雲が見える。

 いつまで経っても、思い出しては楽しかったと笑いあえるような日にするのだ。杏寿郎の胸は決意と期待に満ちて、寝不足なんて感じさせぬほど足取りも軽い。
 快晴の空に負けぬ晴れがましさを胸に笑う杏寿郎に、千寿郎はもちろん、義勇もどこかうれしげだ。
 仲良く手をつなぎ歩く三人を、まばゆい陽射しが照らしていた。