第2話
その朝、杏寿郎は目覚まし時計が鳴るより先に、パチリと目を覚ました。
意識が覚醒したとたんに、ぶわりと体中に歓喜がわき上がる。跳ねるように飛び起きた杏寿郎は、急いでカーテンを開けた。
いつでもスッキリと目覚める杏寿郎だが、今日は特別だ。寝起きから気力が満ちみちている。
勢いよくカーテンを開けた瞬間に、眩しい朝の陽射しが部屋中を照らす。今日もいい天気だ。庭木の緑は朝露に濡れてキラキラと光り、風に揺れている。まだ控えめな蝉の声にまじり、雀の愛らしいさえずりも聞こえてきた。絵に描いたように爽やかな夏の朝だった。
「うん! いい朝だ!」
窓を開けてみれば、日中よりもいくぶん涼しい風が吹き込んで、春先よりも少し伸びた杏寿郎の髪を揺らした。
今日は夏休み初日。義勇がうちにやってくる!
短縮授業期間に入る前日に義勇に切り出した共同で行う自由研究を、今日から開始する。学年が違うから錆兎は不参加だ。義勇と二人で研究テーマを決めて、二人で調べものをしたりレポートをまとめたりする。
義勇と二人きりでなにかを成すなど、初めてのことだ。杏寿郎の胸は期待にはちきれそうだった。
以前より会話してくれるようになったとはいえ、教室での義勇は、あまり変化がない。少しだけ豊かになった表情も、ちょっぴり多くなった言葉数も、おおむね昼休み限定である。
だというのに、夏休みに入る少し前から学校は短縮授業になり、そんなうれしい休み時間も夏休み明けまでお預けだ。だから杏寿郎は、どうしてもその前に、義勇と逢う約束がしたかった。
自由研究の共同発表という絶好の口実を与えてくれたクラスメイトには、感謝せねば。もちろん、申し出にうなずいてくれた義勇にも。
義勇はかなり面食らっていたようだが、それでも、やっぱりやめるなんて言わないでくれた。昼休みに錆兎に「夏休みは一緒に自由研究をするのだ」と報告したときも、義勇は、決定済みとばかりにうなずいただけだ。昼を一緒に食べるのでさえ錆兎に相談してからだったというのに、思えばかなりの進歩である。
仲間に入れてもらえなかった錆兎はといえば、少し驚いた顔をしたが、反対などせず「なにか手伝いがいるようなら言えよ」と笑っていた。
ありがたくはあるが、できることなら錆兎の手を借りず、義勇と二人だけで頑張りたいものだ。
そうして迎えた今日は、とうとう夏休み初日だ。
『まずは俺の家で、研究テーマの相談をしないか?』
そう杏寿郎が持ちかけたのは、昨日のこと。いずれは義勇の家にも遊びに行きたいものだが、それはまだ早計だろうと杏寿郎は考えている。
義勇は錆兎の家に世話になっている身だ。いわゆる居候である。とはいえ親戚なのだし、錆兎とは大の仲良しだ。肩身の狭い思いはしていないだろう。
それでもやはり、遠慮はそれなりにあるに違いない。杏寿郎のほうも、まずは自分の家族に義勇を紹介したい気持ちがあった。
小学生のころに初めて逢ったときから、杏寿郎は何度も義勇の話を家族にしてきた。中学で再会してからはなおのこと、義勇の話題を口にしなかった日など一日たりとない。
おかげで千寿郎は、義勇には一度も逢ったことがないのに、すっかり大好きになっているぐらいだ。義勇がうちにくるぞと教えたら、ずいぶんとはしゃいでいた。
『義勇さんは千のことも好きになってくれるでしょうか』
ちょっぴり不安げに言う千寿郎の頭をなでて、もちろんだと杏寿郎が断言したのは言うまでもない。だって千寿郎は贔屓目抜きにとてもいい子だし、義勇だって小さい子を無下にする人ではない。うれしそうにはにかむ千寿郎を見て、杏寿郎も癒やされる心地がしたものだ。
母も、義勇がくるとの報告に微笑み、よければ夕飯もご一緒にとお誘いしておきなさいと言ってくれた。義勇が了承してくれるかはわからないが、うなずいてくれるといいと思う。ときどき交換する弁当のおかずを義勇もうまいと言ってくれているから、母の手料理を義勇も気に入ることだろう。
残念ながら、父には直接の報告はかなわなかった。だがきっと、口うるさいことは言うまい。父にも義勇の話はしている。杏寿郎の口から語られる義勇のことを、父もいつだって楽しそうに聞いてくれているから、なにも心配はいらないはずだ。
義勇は礼儀正しいし、無口で無愛想ではあるけれども、穏やかでやさしい人なのだ。麗しいという言葉がしっくりと似合う男子中学生など、杏寿郎は義勇しか知らない。義勇は姿形が美しく整っているだけでなく、心根がまっすぐだし謙虚で芯の強い人だ。麗しい人とはまさしく義勇のためにある言葉だと杏寿郎は思っている。逢えば絶対に父も感心するだろう。だって、母も麗しい人だから。父だって、母にどことなし似た雰囲気の義勇を気に入るに決まっているのだ。
だから、家族に関して杏寿郎は、心配なんてなにもしていなかった。期待はふくらむばかりだ。昨夜は布団に入ってもドキドキソワソワが治まってくれず、なかなか寝つけなかった。
寝起きの良さ同様に、杏寿郎は寝つきだってすこぶるいい。目が冴えてどうしても眠れないなど、初めての経験だ。自分の家に義勇がいるのを想像するだけで、どうしても眠れなかった。夜も遅いというのに、何度、衝動的に叫んで走り回りたくなっただろう。抑えがたい興奮が幾度もわき上がって、目をつぶっても眠気は全然やってこなかった。最後に時計を確認したときは、針は十二時を差していた。
早朝稽古があるから、杏寿郎のいつもの就寝は十時だ。睡眠時間はだいぶ減ったが、ちっとも気にならなかった。体調だって絶好調だ。眠気なんてまるで感じない。
朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んで、杏寿郎は、「よし!」と強くうなずいた。
いくら楽しみでしかたなかろうと、義勇はただ遊びにくるわけではないのだ。今日の目的は自由研究のテーマ決めである。あくまでも学業のためだ。だというのに浮かれすぎてしまっていては、義勇に幻滅されてしまうかもしれない。
虚栄心など無縁の杏寿郎だが、なぜだか義勇にだけは、少しでもいいところを見せたくなるのだ。その理由は、たびたび感じる胸の痛み同様、いまだ明確に言語化されずに杏寿郎の胸に居座っている。
義勇の言動ひとつで、杏寿郎の感情は簡単に浮き沈みしてしまうのだ。まるでシーソーみたいに、舞い上がりそうになったり動揺したり、ガタンガタンと心は揺れる。切なさに胸が苦しくなったりもする。
そんな相手は、ほかには誰もいない。義勇だけだ。義勇にだけ、杏寿郎の胸はトクトクと甘く高鳴ったり、キュウッと締めつけられたりする。
いつか理由がわかるだろうか。義勇とどんな言葉でくくられた関係になりたいのかも、いつかはわかる日がくるといい。今のところは一番大好きな友達以外に、義勇への想いに当てはめられるものはないけれど、いつかもっとふさわしい言葉が見つかるといい。思いながら杏寿郎は、道着に着替えた。
時計の針は五時を示している。特別な日だからといって稽古を休むわけにはいかない。
先輩たちや顧問の先生に熱心さが見られないから、杏寿郎も部活動は交流を楽しむことを重視している。だが、家での稽古は別だ。
幼稚園に入る前から、道場主である父の指南を受けている剣道は、杏寿郎にとって日常から切り離せないものである。
道場だけでは暮らしが立ち行かないのか、家の裏手で整体師もしている父は、昨夜は会合に行っていて帰りが遅かった。昨日稽古をつけてもらえなかったぶんも、午前の稽古は励まなければならない。
今日のことを考えると気もそぞろになりがちな杏寿郎だが、道場を前にすれば、面持ちも引き締まる。
磨きこまれた板敷きの床は、朝日を浴びて光って見える。昨日杏寿郎が生け替えた神棚の榊は、艶やかな深い緑色をしていた。
神棚の横に掲げられた額の、墨痕鮮やかに記された『精神一到』の文字が目に入り、杏寿郎の背筋が自然と伸びた。早朝のせいか、道場の空気はまだひんやりとしている。吹き込んだ風に、真白い紙垂が揺れた。
道場の、静謐で神聖さすら感じられる張りつめた空気が、杏寿郎は好きだ。
いつか義勇にも、この空気を感じてほしいものだ。清々しさに胸がすくと、義勇も思ってくれたらいい。
願いつつ、杏寿郎は一礼すると道場に足を踏み入れた。素足で踏みしめる床板は冷たく乾いている。しばらくすれば父と杏寿郎が流す汗で滑るほどに濡れる床も、今はまだ心地よいばかりだ。
すでに素振りを開始している父に向かって、杏寿郎は元気に声をかけた。
「おはようございます、父上!」
「おぉ、おはよう杏寿郎。今朝は早いな」
素振りの手を止めて笑い返した父に、杏寿郎はパッと顔を輝かせた。
「はい! 母上から聞かれていると思いますが、今日は友人がくるのです。寝坊などするわけにはいきませんから!」
「約束は三時だと聞いているが?」
早く起きる意味がわからないと言いたげに、父が少しあきれ顔で首をひねった。
たしかに約束までかなりあるから、父の疑問はもっともだ。だが杏寿郎にしてみれば一秒だって時間を無駄にはできない。義勇がくる前に部屋を掃除して、いつも以上にきれいにしなければいけないし、買い物にも行かなければ。時間は有限なのだ。稽古だってするのだから、のんびりしている暇などない。
それに、動いていないとどうしても気がはやって、落ち着かないことこの上なかった。
「いろいろ準備がありますので! 初めて学校以外で逢うのです。みっともないところなど見せるわけにはいきません!」
「友達は課題の相談にくるんだろう? 準備なんて必要か?」
ハキハキと答えた杏寿郎に、父はかえって疑問を深めてしまったらしい。さも不思議そうに首をかしげたままだ。
「もちろんです! だって、我が家は夏場は麦茶と決まってますが、義勇はジュースのほうが好きかもしれません。茶菓子だって、どんなものが好みなのか俺はまだ知らないのです。いろいろと用意しておかないと、義勇が苦手なものだったら困ります!」
目的がなんであれ、せっかく来てくれるのだ。義勇にはくつろいでもらいたい。徹頭徹尾相談だけというのも味気ないではないか。義勇には楽しかったと思ってもらいたいのだ。
今日はまだ相談だけだが、テーマ次第では夏休み中に何度も逢うことになるだろう。義勇に次も楽しみだと思ってもらうには、初日が肝心だ。
「なんなんだ、その至れり尽くせりなおもてなし態勢は。友達にそこまで気を使ったことなどなかっただろう、おまえ。本当に友達なのか? まさか、杏寿郎、おまえ……くるのは女の子かっ! 女子を家に招いたのか!?」
怪訝な様子から一転、父はカッと目を見開いてつめ寄ってくる。今度は杏寿郎がキョトンと小首をかしげる番だ。
「いえ、義勇は男です、父上。なぜ女子だなどと?」
義勇はきれいでかわいらしいけれど、れっきとした男子だ。杏寿郎よりもちょっぴりだけれど背だって高い。本音を言えばちょっと悔しい。
だが杏寿郎だってまだまだ背は伸びるはずだ。大きめの制服がピッタリになるころには、きっと義勇を追い越してみせると、杏寿郎はひそかに決意している。だから身体検査の翌日から、毎朝牛乳を飲むようにもしているのだ。
父の勘違いへの疑問から、少しばかりズレていった杏寿郎の思考を、父の小さな唸り声が引き戻した。
「それにしては、おまえの張り切りようはなんというか、その、好きな女の子を初めて家に招くようじゃないか?」
「はい、義勇は俺の好きな子ですが? 女子ではありませんが、義勇のことが大好きです! 一番大好きな友達です!」
あまりにも当然すぎることだから、口にするのに杏寿郎はなんのためらいもなかった。父もそうかと笑ってくれると思ったのに、なぜだか腕組みするなり、父は天を仰いで目をつぶっている。
「情緒面が……いや、まだ中学一年……しかし、いくらなんでも、俺だってこの年にはもう少し……」
「父上?」
なにやらブツブツと苦悩顔で呟きだした父に、杏寿郎はますます呆気にとられた。いったいなんだというのだろう。
父を悩ませてしまうようなことを自分は言ったのだろうか。わからず杏寿郎も首をひねったが、時間が過ぎるに任せているわけにもいかない。約束した時刻は一秒ごとに近づいてきているのだ。
「父上、稽古を」
「お、おぉ。うん、まぁ、中学一年だしな。杏寿郎の初恋はまだ先になるか」
なんの気なしに呟いたのだろうが、父の一言は、杏寿郎の鼓動を大きく跳ねさせた。
「初恋……ですか?」
なぜだろう、胸が騒いでしかたがない。思わず聞き返せば、父は苦笑し、ポンポンと杏寿郎の頭を軽くたたいた。
「なに、おまえの様子が、初恋の子に気に入られようと必死になって、ちょっと空回りしているようにも見えてな。友達でこの浮かれっぷりじゃ、恋をしたらおまえはどうなるんだろうな」
ハハハと快活に笑って、父は、さて稽古するかとすぐに気持ちを切り替えたらしい。けれども杏寿郎はそうもいかない。
恋? 恋とはどういうことだ? いや、意味はわかる。わかるけれども、恋がいったいどういうものなのかは、本当はよくわからない。
動揺する自分が不思議だ。けれども父の言葉は、杏寿郎をうろたえさせるのには充分すぎた。
杏寿郎にとって恋という言葉は、現状、ドラマやマンガのなかにあるものでしかない。ドキドキするとかその人のことばかり考えてしまうと聞いても、あまりピンとこないのだ。
だってそれが確かならば、初めて義勇と出逢ったときから、ずっと義勇に対して感じてきたのと同じではないか。昔から常に心に居座っている感情だ。
いつだって笑っていてほしいし、悲しい思いをしてほしくない人。いつでも一緒にいたい人。家族を除けば、杏寿郎にとってそれは義勇だ。一番大好きで、誰よりも大切な友達だ。
そして義勇は、男だ。杏寿郎と同じ中学男子である。
男でも男に恋する人たちがいるのは、杏寿郎だって知っている。そういう人たちへの偏見もない。人が人を好きになるのに性別は関係ないはずだ。個人の自由だし、同性だろうと人を好きになるのはきっと素敵なことに違いない。
けれども、自分が同じ性指向かと問われれば、杏寿郎には、違うとしか答えようがなかった。
だって、クラスの男子にドキドキとしたり、男の人にうっとりと見惚れてしまったりしたことなんて、一度もないのだ。女の子にだって、今のところそんな経験はないのだけれど。
いずれにせよ、杏寿郎がドキドキしたり見惚れたりするのは、義勇のほかには誰もいない。
よく、わからない。俺は義勇のことを、どう思っているんだろう。義勇のことが大好きでたまらないこの気持ちは、やっぱり友達に対するものとは違うんだろうか。
胸の奥がザワザワとする。
竹刀を握ればいつだって、杏寿郎は余計な考えごとなど吹き飛んでしまう。なのに、なぜだか困惑は杏寿郎の胸にどしりと腰を据え、立ち去ってくれず……結果、朝の稽古は少しだけ上の空になってしまった。
気を逸らすなと父に叱られ、不甲斐なしと杏寿郎が反省したのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
杏寿郎がどんなにとまどっても、時間は止まってなどくれない。じっと考え込む暇もなかった。
思いがけぬ動揺と歓喜にふくらむ期待とが、交互に満ちて落ち着かず、杏寿郎は掃除や買い物にと動きまわった。
三度も部屋に掃除機をかけた杏寿郎に、最初のうち母はあきれ顔だった。無菌室にでもするつもりですかと苦笑されたけれども、どうにもじっとしてなどいられなかったのだ。
学校じゃなくても義勇に逢えるうれしさは、混乱しながらも消えやしない。幸せで、うれしくて、とうてい落ち着けるものではなかった。
杏寿郎の自室で笑う義勇を想像するだけで、もう駄目だ。ジタバタと床を転げまわりたくなるほど興奮するし、ぼぅっと呆けてしまいそうにもなる。
義勇のことになると、信じられないほど感情が揺れ動く。それは杏寿郎にとって、あまりにもなじみすぎた日常で、特別なことだなんて考えてもみなかった。
とにもかくにも、自分の想いの所以がなんであれ、義勇を不快にさせるなど論外である。消えない困惑をかかえつつも、準備だって滞りなく済ませた。
ウキウキと義勇を迎えに待ち合わせ場所へ向かった杏寿郎だったが、遠目に見えた義勇の出で立ちに、ちょっぴり肩を落とすこととなった。
初めて逢った商店街の入り口で、義勇は、いつもと変わらぬ姿ですでに杏寿郎を待っていた。
そう、いつもとなんにも変わらない。見慣れた制服姿だ。真っ白な半袖シャツに、グレーのスラックス。濃紺と臙脂のストライプのネクタイだって、ちゃんと締めている。
私服姿を見られると思ったのにと、少し残念な気がしたが、落胆してばかりもいられない。
気を取り直して急いで駆け寄れば、義勇も杏寿郎に気づいたようだ。まっすぐに杏寿郎に向けられた瞳が、わずかに微笑んだ気がする。
「義勇! すまない、待たせてしまったか?」
ふるりと小さく首を振った義勇のひたいには、小さな汗の粒が光っている。今日も暑い。商店街のアーケードは直射日光を防いでくれているとはいえ、早朝とは違って風も熱をおびている。
待ちあわせは屋内にすべきだった。考えが足りずに、暑いなか義勇を待たせてしまうとは、未熟すぎる。
しょんぼりとしかけた杏寿郎だったが、フッと笑いの気配をにじませた義勇に、落胆はたちまちかき消えた。
「……杏寿郎は、オレンジ色が好きなのか?」
「ん? そうだな。オレンジや赤は好きだ」
突然なんだろうと杏寿郎が首をかしげれば、義勇の顔に、傍目にはわからぬぐらいの微笑みが浮かんだ。
「初めて逢ったときも、オレンジ色の上着だった」
ささやかな義勇の笑みとやわらかな声に、杏寿郎の胸がドキリと音を立てる。杏寿郎は、出逢った日に自分が着ていた服なんて覚えていない。義勇が紺のダッフルコートを着ていたのは、覚えているけれど。
ほんの短い時間の、たった一度きりの邂逅を、義勇もちゃんと覚えていてくれたのだと実感する。杏寿郎の服装までも、義勇は忘れずにいてくれたのだ。杏寿郎が、あの日の義勇の服や初めてつないだ手の冷たさも、はにかむ笑みや恥ずかしそうにうつむいた顔も、すべてはっきりと覚えているように。
ふくれ上がる歓喜は面映ゆく、杏寿郎は、自分が着ているTシャツを意味なくちょっと引っ張ってみた。
淡いグレーの地に赤とオレンジの鮮やかなラインが入ったTシャツに、とくに思い入れはなかった。お気に入りというほどでもなく、千寿郎や母が似合うと言ってくれたから選んだけで、杏寿郎にとっては意味なんてないセレクトだ。
でも、もしかして義勇も気に入ってくれたのだとしたら。似合うと思ってくれたのなら。もしそうなら、これを着てよかった。この服を選んだ朝の自分を褒めたくなる。
「義勇は、その、制服なんだな」
「校則だから」
気恥ずかしさを誤魔化し言った杏寿郎に返された義勇の言葉には、ちょっとだけ、言いよどむ気配がした。
「錆兎やおばさんにも、気にすることないって言われた。でも、生徒手帳には制服で行動するようにって書いてあるから。校則違反で杏寿郎まで叱られたら困る」
常にはない早口で、義勇は少しうつむいたまま言う。そろりと上げられた上目遣いの瞳は、ちょっぴり不安そうに見えた。
「……やっぱり、制服じゃおかしかったか?」
「そんなことはないぞ、校則を守るのは当然だ! 本音を言えば、義勇の普段の服も見てみたかった。だが、真面目な義勇らしいし、義勇は制服が似合うからな。俺はまったく気にしない!」
実際、白い清潔なシャツやきちんと締められたネクタイは、義勇によく似合うのだ。
今度は俺もちゃんと制服を着ることにすると笑えば、義勇もホッとしたように頬をゆるめた。
「……中学に入ってから、友達の家に行くの、初めてだ」
「俺が初めてなのかっ。それはうれしい! 俺も友人を家に招くのは、中学に入ってからは義勇が初めてだ!」
お互いの初めてを共有できた喜びに、ますます杏寿郎の胸は高揚する。興奮を抑えて、杏寿郎は義勇に手を差し伸べた。
「行こう! 母や千寿郎も義勇がきてくれるのを待ちわびている!」
とまどう青い瞳が、杏寿郎の手を映している。
小学生ではないのだから、手を繋いでいくのはおかしいだろうか。
ハタと気づいて、伸ばした手をぎこちなく杏寿郎が引っこめようとしたそのとき。そっと義勇の手が杏寿郎の手に触れた。
「はぐれないように?」
「……うむっ! 義勇は初めて我が家にくるのだからな! はぐれないように手を繋いでいこう!」
こくんとうなずいてくれた義勇の手を、ギュッと握る。義勇の手は少しだけ汗ばんで、梅雨のあの日の冷たさは、どこにも感じられなかった。