第10話
ひとしきり千寿郎を抱きしめて泣いたあと、義勇はようやく顔をあげ、杏寿郎に向かって少しバツ悪げに笑ってくれた。
どうしようとうろたえていた千寿郎には悪いが、義勇が微笑んでくれたことに、杏寿郎は胸をなでおろす。義勇の心を救えたのは千寿郎だったかとの、ほんのちょっぴりのヤキモチは、決して口にはしないまま。
さすがに狭量がすぎるとの自戒と気恥ずかしさは、義勇以上にバツが悪い。千寿郎に対しても申し訳ないにもほどがある。
三人ともずぶ濡れで、肌に貼りつく衣服は不快ではあるけれども、海の家でシャワーを借りようにも着替えなどない。父が車で迎えにくる際に、着替えを持ってきてくれることを期待するしかなさそうだ。
精神的にも体力的にも疲れはピークだが、ただぼんやりとシートに座って待つのも、なんとなく手持ち無沙汰で落ち着かない。話をしているだけでも楽しいことは確かだ。とはいえ動いていないと眠ってしまいそうでもある。千寿郎にいたっては、早くもこくりこくりと舟をこぎ出していた。
迎えがくるまで石を拾っていようか。提案は義勇から。
いつだって受け身の受け答えばかりだった義勇が、初めて自分からそんなことを言い出したのに、杏寿郎はパァッと顔を輝かせた。
それはささやかすぎるほどの変化だけれど、杏寿郎にとっては、義勇の自責の念が少しだけ薄れてくれた証のようで、うなずきも思わず激しくなる。
「うむ! 標本にするにはもっといろんな種類があったほうがいいしな!」
大きな声にビクンと千寿郎の小さな体が跳ねて、キョロキョロと辺りを見まわすのに、思わず義勇と顔を見あわせクスリと笑いあう。
九死に一生を得たと言っても過言ではない体験から、まだ一時間と経ってはいないのに、三人を包みこむ空気は穏やかだ。義勇との距離も、グンと近くなった気がする。
なくしてしまった麦わら帽子の代わりにタオルを頭にかぶった千寿郎は、またまぶたが下がりかけていたけれど、石を拾いに行けるかと聞けばうれしそうにうなずいた。
波音とアオバトの群れの鳴き声がひびくなか、またそろってしゃがみ込み石を拾う。
今度は、明るい声を立ててはしゃぎあいながら。
義勇はやっぱり無口なままで、自ら話しかけてくることはなかったけれども、杏寿郎たちが話しかければ、やわらかな口調で応えてくれる。
「あ」
「お?」
義勇と杏寿郎が上げた声は同時。つまみ上げた小さな石を見せる仕草もシンクロした。まるで鏡写しだ。思わずお互いパチリとまばたきする。それもまた一緒で、なんだか照れくさい。
「これも石だろうか。やけに赤いし、ほかの石と違って透明感があるのだが」
「俺のは青だ。シーグラスだな」
見せあった石は、強い陽射しを反射してキラリと光っている。自然の石の色味とは異なる鮮やかな色合いの石の表面は、フロスト加工したようにザラリとしているが、それでも透明感があり、なんとはなし上等の菓子のようにも見えた。
「シーグラス? めずらしい石ですか? きれいな色の氷砂糖みたいですね、兄上」
弾む千寿郎の声に、義勇がこくりとうなずいた。
「ガラスが波や砂利で削られた漂流物だから、厳密には石じゃない。でもパワーストーンとしても知られている」
「パワーストーン?」
聞き慣れない言葉に杏寿郎も小首をかしげた。言葉だけ聞くとなんだかすごい石に思える。
「身につけてるといろんな効果があるって信じられてる石だ。俺も、ひとつ持ってる。姉さんが、お守りにって、ラピスラズリって石をくれたから。俺の目の色だって、言って、逆境を乗り越えて、人生を切り開く、石だから、って」
途切れ途切れの声。波打つ胸。息は浅く忙しなかった。
迷わず杏寿郎は義勇の手を握った。
「うん。聞いてるから。ゆっくりでいい、義勇。全部ちゃんと聞く」
泣きだしそうに揺れた青。この青と同じ色の石があるのか。不思議な感慨を覚えながらまっすぐに見つめた義勇の瞳は、ゆらゆらと揺らめいていたけれど、涙はそれでも浮かんではこなかった。
「石、言葉っていうのが、あって……姉さんが、運命の出逢いを見つける効果も、あるのよって……杏寿郎と逢った、次の年の、誕生日プレゼント」
運命の出逢い。その一言に、ドキリと杏寿郎の鼓動が跳ねた。
「また、逢えるといいわね、って……杏寿郎と、また逢えるのを、願ってくれた」
「そうか……義勇の姉上に感謝しなければな! お陰で義勇とまた逢えたのだから」
胸に満ちる歓喜は果てしない。彼岸にいるその人は、義勇と同じくらいやさしい人だったのだろう。いや、違う。きっとその人がやさしかったから、義勇もやさしくなったのだ。
思えば切なさが少し。感謝は尽きぬほど。
たった一度だけ、ほんのわずか見ただけの、きれいな人。面影はぼんやりとしていて、杏寿郎にはもうよく思い出せない。けれど、駆け寄る小さな義勇に向けられた安堵の笑みは、とても美しかった気がする。義勇と同じ、麗しい人だったんだろう。
「これもパワーストーンとやらなら、石言葉があるのか?」
義勇の手を握ったのとは反対の手でシーグラスを見せると、義勇が小さくうなずいた。瞳の揺らめきがわずかに増す。まっすぐ杏寿郎を見つめてきた瞳は、苦しげな色は消えずとも、微笑んでいるように見えた。
「たしか……奇跡とか、出逢い、それから……絆」
「奇跡の、石……」
義勇の右手がゆるゆると持ち上げられて、杏寿郎の手のひらに乗ったシーグラスの隣に、ちょんと自分の石を乗せた。
「兄上と義勇さんの目みたいな石ですね」
赤い石と、青い石。仲良く並んだ奇跡の石。出逢いを約束する、絆の石。
千寿郎のうれしげな声に、胸が詰まった。
「義勇……君が見つけた青い石を、俺がもらってもいいだろうか」
義勇の目の青にくらべたら、白く曇ったその石の青は、少し淡くて。杏寿郎が見つけた赤い石も、杏寿郎の瞳よりもくすんだ赤だけれど。出逢いも、再会も、改めて思えば奇跡のようで、これから先の未来にも、絆が深まっていくことを約束してくれているように思うから。
「なら、俺は杏寿郎の石をもらう」
ささやくように言った義勇の声も、見つめてくる瞳も、ひどくやさしかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
息せき切って浜辺に現れた父は、大音声で杏寿郎たちを呼ぶと、一目散に駆け寄るなり目いっぱいの力で杏寿郎たちを抱きしめた。
杏寿郎と父に挟まれた格好になった千寿郎が、苦しいですとしょげた声をあげるまで、よかった、無事でよかったと、繰り返し涙声をあげたものだ。
「冨岡くん、ありがとう。君のお陰で千寿郎が助かったと聞いた。本当に、感謝する」
ギュッと義勇の手をとり、深く頭を下げた父の目には、涙が光っていたかもしれない。とまどってドギマギとして見える義勇にばかり目が行って、杏寿郎はよく見てはいなかったけれども。
午後も深まり、夕暮れにはまだ少し早い青空には、天を衝くよな真白く雄大な雲がわいている。その大きな入道雲を指差して、ソフトクリームみたいですねと笑った千寿郎は、車に乗るなり電池が切れたようにコトンと眠りに落ちた。
風になぶられ陽射しを浴びて乾いた服は、砂や塩の結晶がパラパラといくらでも散るありさまで、ごわついている。着替えにまで気が回らなかったらしい父は、シートが汚れると遠慮を見せた義勇に、謝るのは気が利かぬ俺のほうだろうと苦笑していた。
後部座席で千寿郎を挟んで座ったのは、行きの電車と同じだ。千寿郎はすっかり熟睡して、杏寿郎の膝に頭を預けている。義勇の目もとろりと眠気をにじませて、ぼんやりとしていた。
ゆらり、ゆらりと、義勇の頭が揺れて、トン、と杏寿郎の肩にもたれかかってきた。ちょっと生臭い潮の匂いがする。もうすっかりペパーミントの匂いはしない。自分もきっと同じ匂いがするのだろうなと、ぼんやり思ったのを最後に、杏寿郎の目も閉じられた。
くうくう、すうすうと聞こえだした、小さな寝息の合唱に、父が苦笑したのには気づかぬまま。ほかの石とは別にポケットに入れた小さなガラスでできた石を、杏寿郎は無意識に握りしめた。
ゆるりと落ちていった眠りのなか。杏寿郎は、やさしい笑みを浮かべたきれいな女の人の夢を見た。
青と赤のキラキラとした石を杏寿郎に手渡して、義勇をよろしくねと笑ったその人を、目覚めたとき杏寿郎はもう覚えていなかったけれど。それでも、なんだかとても幸せな夢を見た気がすると笑った杏寿郎に、義勇が俺もと小さく笑い返してくれたことは、きっと忘れないだろうと思った。
一生忘れられない、夏の日の思い出とともに。
家に帰った杏寿郎と千寿郎を待ち受けていたのは、母の抱擁だった。一人待つ間、気丈な母も不安だったのだろう。義勇の目の前で母に抱きしめられるのは、ちょっぴり恥ずかしかったけれども、腕の震えに気づいてしまえば、離してくださいとは言えない。少し頬を赤くしてちらりと横目で義勇を見やると、義勇はいつもの無表情で、でもとてもやさしい目をして杏寿郎たちを見ていた。
父と同じくひとしきり二人を抱きしめた母が、やはり同じように深く頭を下げて礼を述べたのには、またもやドギマギとして杏寿郎にすがる視線を投げてくる。なんだかとてもうれしくて助け舟を出すことなく杏寿郎は笑ってみていたけれど、義勇は、少しだけうらめしげな顔はしても、自分は疫病神だからなんて言葉を口にすることはなかった。
義勇の自責の念も苦しさも、きっと消えてはいないだろう。ただ一度の感謝で消えるほど、義勇の悲しみは軽くはない。だがそれでも、ほんの少しでも悲しみの大岩が削り取られてくれたのならいいと、とまどう義勇を笑って見つめながら、杏寿郎は思う。
時間がかかるのは承知の上だ。一生かかってもすべて消え去ることなどないのかもしれない。それでもいい。一生かけて義勇を支える覚悟なんて、とっくにできている。
雄大な入道雲のなかは嵐なのだという。海辺で見たあの雲のように大きく、度量の広い男となれる日がきても、嫉妬や悲しみの嵐が心に吹き荒れることはあるだろう。今はまだ、友達だけでは足りないと願ってしまう理由も、定かではない。
けれどそれもまた、ともに過ごす時間のなかで、わかる日がいつかくるかもしれない。キスがしたいと思ってしまった理由だって、いつかはきっと。
風呂だ夕食だと歓待しきりの両親に目を白黒をさせていた義勇を思いだしながら、布団に入った杏寿郎は、枕元に置いた青いシーグラスを見つめてクスリと笑った。
父と一緒に義勇を送っていった杏寿郎に、別れ際義勇がそっと言ってくれた言葉が、胸に熱くよみがえる。
また、話、聞いてほしい。いっぱい、杏寿郎に。
内緒話のような小声は、ちょっとだけ恥ずかしそうで、でも真摯なひびきをしていた。
友達になったらいけないなんて、きっと義勇はもう二度と言わないでくれる。だから時間はたっぷりある。奇跡の石が、出逢いの石が、一生そばにいることを約束してくれているようで、幸せが体中を包んでいるような気がした。
友達だから、キスはできない。
幸せのなかで眠りに落ちかけた杏寿郎の耳に、ふとよみがえったのは、義勇の苦しげな声。
ん? と、杏寿郎は眠りに落ちかけた目をパチリと開いた。
友達だから? ならば、友達でなければ? んん?
なにかが意識の隅に引っかかって、布団のなかで首をひねる。
キスは、困る。そうだ。たしかに義勇はそう言った。男とキスなんて嫌だとは、言わなかった。
大好きだけど、友達だから、キスはできない。
キスはしたくない、ではなくて……。
え?
んんん?
「よもやっ!!」
大きな声をあげて思わず飛び起きた杏寿郎の、ゆで上がったかのように真っ赤に染まった顔を、何時だと思っていると叱りにきた父が目を丸くして見るまで、あと少し。
杏寿郎の寝不足は、今晩もつづく。