霞の空と海の青

「母上、やはり大きすぎるのではないでしょうか」
 鏡に映した自分の姿は、どうにも服に着られている感が否めない。杏寿郎は、慣れぬネクタイを気にしながら言った。
 四月初めの穏やかな午後の陽射しに照らされて、姿見に映る濃紺のブレザーにグレーのスラックスを身につけた自分は、なんだか奇妙な気がした。
 小学校の卒業式からまだひと月と経っていない。杏寿郎自身にはなにも変化はないというのに、毎日背負っていたランドセルは、この出で立ちにはひどく不似合いだろと思える。服装ひとつでくっきりとした境界線が引かれたような気がした。
 自身が成長したわけでもないのに、肩書だけが上に行くのはおかしな感じだ。体の変化はないのに、制服を着ているだけで大人へと一歩を押し出されたかのように見える。

 中学校の制服は大きめに作られていて、袖丈などはまだわずかばかり余っている。スラックスの裾も同様で、なんだか少し心配になった。
 認めるのは少しばかり口惜しいけれど、鏡に映る自分の姿は、どう見ても服に着られている。ランドセルは不似合いでも、これでは大人ぶろうと背伸びしている子供のままだ。

 声ににじんだわずかな不安を感じ取ったのだろうか、裾に待ち針を刺しながら母が微笑んだ。
「杏寿郎はもっと背が伸びるでしょうから、これぐらいでちょうどいいはずです」
「兄上、格好いいです!」
 言われ、杏寿郎はそういうものかとうなずいた。
 母の言葉はいつも正しいから、きっと気にすることはないのだろう。もっと背が伸びるというのもうれしい。
 小学校では背が高いほうだったが、父にはまだまだ追いつけないのだ。大きく強くなるのを見越してというのなら、多少の不格好は我慢しよう。千寿郎だって褒めてくれたことだし――とは言っても、お兄ちゃんっ子な千寿郎が、杏寿郎にダメ出しすることなど皆無なのだが――これしきのことで不機嫌になるほうがよほど子供じみている。

 もう中学生になるのだ。制服だけでなく、心ももっと大人にならなければ。

 気を取り直し、杏寿郎は苦笑しながら、キツめに結んだネクタイを指先でゆるめた。
「ネクタイというのはどうにも窮屈だな。これを毎朝締めるのは大変そうだ」
「すぐに慣れますよ。さぁ、明日までに裾をあげておきますから、着替えなさい」
 針に気をつけてと言う言葉にうなずいて、そろりとズボンから足を抜く。父と母が用意してくれた真新しい制服を、さっそく汚してしまっては申しわけない。
 次は千寿郎の番と微笑む母に、千寿郎がうれしげに真新しい幼稚園の制服に袖をとおすのを、部屋着に着替えながら杏寿郎も笑って見守った。

「入学式が入園式と重なってしまったのは残念でした。俺も千寿郎の入園式に出席したかった!」
「父上がビデオを撮ってくださるそうですから。それより、杏寿郎は本当に私か父上が出席しなくてよいのですか?」
「もちろんです! 俺ももう中学生です、ひとりでも問題ありません!」

 晴れの日にひとりというのは、たしかに少々寂しくはある。だが、駄々をこねるほどのことでもない。幼稚園、小学校と、杏寿郎はすでに経験しているが、千寿郎は初めてなのだ。父と母にそろって祝ってもらうべきだろう。
「千寿郎、たくさん友達ができるといいな!」
「はい、いっぱいお友達を作ります!」
 千寿郎の制服もちょっぴりダボついていて、大きくなるのを見越したサイズなのが見て取れる。

 父や母が大きめの制服を用意するのは、もっと大きく逞しく育てとの願いが込められているのかもしれない。

 ハンガーにかけられた脱いだばかりの制服をなんとはなし見つめ、杏寿郎は、ムズムズとわきあがる面映ゆさにフフッと笑った。
 この制服がぴったりになる日が待ち遠しい。自転車で通学するというのも、初めての経験だ。ひとつ年をとっただけなのに、小学校から中学校に上がるのは、なんとなく大人の入り口に立ったような気分になる。
 中学校に入ったら、新しい出逢いがたくさんあるだろう。初等部から高等部まである私立の学園には、違う学区からの入学も多いはずだ。長く友でいられる出逢いがあるといいのだが。
 思った瞬間、不意に脳裏に浮かんだ花のような笑顔に、杏寿郎の胸がトクリと音を立てた。

 彼は、杏寿郎より一学年上だった。今年は中学二年生になるはずだ。

 はにかむように笑った彼の顔は、たった一度きり逢っただけだというのに、今もまだ鮮明に思い出せる。小学一年の二月のことだった。あの日、杏寿郎が彼と出逢った商店街には、バレンタインの赤やピンクのデコレーションがあふれていた。
 迷子になって心細げな様子でいた男の子。冨岡義勇。名前だって、杏寿郎はまだちゃんと覚えている。駅の向こうにある病院に、電車に乗って見舞いに来たのだと言っていた。誕生日は二月の八日。姉と、仲良しの従弟がいる。
 杏寿郎が知っているのはそれだけだ。義勇にはそれきり逢えなかった。

 よもや同じ中学ということはあるまいが……いつか、逢えるだろうか。

 彼は――義勇は、俺のことを覚えてくれているだろうか。あのときあげた大好きのチョコは、食べてくれただろうか。今も花のように笑っているといい。
 義勇のことを思い返すと、杏寿郎の胸はいつでもトクトクと甘く高まって、ほんの少しキュウッと切なく痛む。
 脳裏に浮かぶ義勇の顔は、今でも小学二年生のままだ。中学二年生になった彼は、どんなふうなのだろう。背は高いのか、杏寿郎よりも低いのか。声はまだ幼さを残して甘いのか、それとももう声変わりもして、低い大人の声になっているだろうか。
 一所懸命想像してみるのだが、義勇の姿はどうしても幼く小さなままだ。今の姿をうまく想像できない。
 けれどもきっと、晴れた日の海のようなあの瞳は、今も澄んで煌めいているに違いない。
 杏寿郎は、そう信じている。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎の家から自転車で三十分。踏切を渡ってしばらく行った場所にある学校は、新入学生の楽しげな声があふれていた。
 昔は相当なマンモス校だったという歴史ある学校だが、少子化が進む近年は、入学者も減ってきていると聞く。それでも四クラス分の生徒が集まれば、集う人の数はそれなりに壮観だ。
 初等部から高等部までの一貫校だからか、聞こえてくる会話からも、持ちあがりのグループが多いと見受けられる。とはいえ、杏寿郎のように公立校から入学してきた生徒も、そこそこいるようだ。物慣れぬ様子でキョロキョロと辺りを見まわしている生徒や保護者は、きっと編入組だろう。
 杏寿郎も例にもれず、駐輪場や入学式が行われる講堂へ、どう行けばいいのかわからない。ほかにも自転車できている者がいるだろうから、ついて行けばいいだろう。そう思っていたのだが、どうやら考えが甘かったらしい。保護者同伴の入学式では、自転車で来たのは杏寿郎ひとりきりのようだ。
 誰かにたずねるしかないかと、杏寿郎が自転車を引きながら周囲を見回したそのとき、校門を入って来た自転車が見えた。濃紺のブレザーの裾をはためかせて走っていく自転車に乗っているのは、男子生徒だ。

 助かった。あの自転車について行けば駐輪場がわかるだろう。今日は中等部の新入生しか生徒は出席しないはずだから、今の生徒も一年生に違いない。話しかけて、一緒に講堂に行かせてもらおう。

 見失わぬよう急いでペダルをこぎ追いかければ、校舎の横に大きな桜の木が見えた。屋根付きの駐輪場はその先にあった。
 先にたどり着いていた生徒は、まるで迷う様子もなく一番奥まで自転車を進めている。もっと手前で止めれば楽だろうに、学年ごとに場所が決まっているのだろうか。保護者同伴でなく自転車ということは、きっと初等部からの持ち上がり組だろうし、彼に倣えば間違いはないだろう。
 杏寿郎も急いでそちらに向かうと、背を向けたままの彼に声をかけた。
「おはよう! 君も新入生だろうか!」
 振り返った彼の目が、まっすぐ杏寿郎に向けられた。

 桜の花が舞っている。四月のどこかおぼろに霞む青空の下、振り返った彼の瞳は空よりも青く澄んで、じっと杏寿郎を見つめてきた。

 白い肌と少し癖のある黒髪。長いまつ毛。背は杏寿郎より少しだけ高いように見えた。きちんと締められたネクタイと真っ白なシャツは、清潔感があって好ましい。スラックスの折り目もくっきりとしている。ブレザーは杏寿郎と同じく、少しだけ大きいように見えた。
 幼くまろい頬は引きしまって、記憶にあるものよりも大人びていた。それでも、見間違えるわけもない。

「義勇……? 義勇かっ!?」

 長く豊かなまつ毛に縁どられた青い目を、パチリとひとつまばたかせて、彼はゆるゆると小首をかしげた。

 あぁ、義勇は俺を覚えていないのか。

 杏寿郎の胸にわきあがった途轍もない歓喜が、少しだけしぼむ。だが、それもしかたのないことだと思い直した。
 なにしろ逢ったのはたった一度きり。ほんの十数分の出来事だ。しかも、もう五年も前のことなのだ。覚えていなくても当然だろう。
 だが、杏寿郎の落胆は、風にさらわれそうな小さな一言によって、たちまち晴れた。

「杏寿郎……?」

 記憶にある声よりも、その声はいくぶん低い。そしてずいぶんと小さな声だ。けれども杏寿郎の耳は、一音たりと聞き逃すことがなかった。
 だってずっと、ずっと、もう一度聞きたいと思っていた声だ。もう一度その声で、名を呼んでほしいと願っていたのだ。
 身の内でふくれ上がりはち切れそうな喜悦や、抑えようのない高揚感に、杏寿郎の顔には見る間に笑みが広がった。
 思わず駆け寄った杏寿郎の背後で、ガシャンと音を立てて自転車が倒れる。けれど、そんな大きな音も、杏寿郎の耳には入らなかった。
 自分の名を綴ったほんの小さな声ばかり、耳にこだましていたので。

「義勇! 逢いたかった! よもや君もこの中学だとは思わなかった! あぁ、でも従弟がこちらに通っているんだったなっ。それで義勇も中学からこちらに来たのか? 今も仲良しなんだな! だがこれからは俺も同じ学校だっ、ぜひ俺とも仲良くしてくれ!」

 あんまりうれしくて、義勇の手をガシリと握り子供のようにブンブンと振った杏寿郎は、自分の言葉に、ん? とまばたきすると動きを止めた。
「今日は、新入生しか登校しないのではなかったか? 義勇、君は俺よりもひとつ年上だと思っていたのだが……俺の記憶違いだっただろうか」
 今ここにいるということは、義勇も杏寿郎と同じく中学一年生ということになる。
 思い出は美化されるそうだが、もしかして自分も、あの日の記憶を勝手に改ざんしていたんだろうか。思いも寄らない事態に、杏寿郎の背を冷や汗が伝った。
 あのときのことはなにひとつ忘れていないと思っていたのに、なんと不甲斐ない。義勇のことをきちんと覚えていられなかったなんて、いささかショックだ。義勇も勝手な思い違いをされて、さぞかし不快な思いをしていることだろう。

 嫌われたらどうしよう。らしくもない弱気の虫がムクリと頭をもたげた。

 再会できればすぐにでも友だちになれると思い込んでいたけれども、喜んでいるのは自分だけで、義勇からうれしそうな気配は感じられない。あのときの花のような笑みすら、記憶違いだったのかと思えるほどの無表情っぷりだ。
 けれども、仲良くなりたい気持ちは、ちっとも減らないのだ。逢えてうれしい想いと、これから義勇と過ごせる学校生活への期待には、なんの変わりもない。
 もしも義勇が自分ほどにはこの再会を喜んでいないのだとしても、これから仲良くなればいいだけだ。間違っていたことを謝って、それから、改めて友だちになってほしいと言おう。
 決意して、杏寿郎が口を開きかけたとき、義勇のほうが一瞬早く言葉を紡いだ。

「……間違ってない。でも、一年だ」
「え?」
「原級留置したから」

 義勇の眼差しが杏寿郎から外れた。耳慣れない言葉を問い返す前に、義勇の手が引くそぶりをみせる。思わず力をゆるめた杏寿郎の手から、義勇の手が離れていった。
 杏寿郎が着ていたブルゾンのポケットから、ためらいもなくするりと抜け出ていった、あの日のように。

「講堂はあっちだ」

 白い指先が駐輪場とは逆方向を指した。そのまま杏寿郎の傍らを通り抜けようとするから、杏寿郎はあわてて声をかけた。
「どこに行くんだ?」
「……教室」
「なぜ? 入学式が始まってしまうぞ?」
「二度目だから……式には出ない」
 義勇の言うことはよくわからない。
 杏寿郎の記憶に間違いはなく、ひとつ年上だと認めたのに、同じ一年生だと義勇は言う。聞き慣れない言葉の意味もわからず、ニコリともしない義勇の顔に、息苦しささえ覚えた。

 やっぱり再会を喜んでいるのは俺だけなのだろうか。

 図らずも情けなく眉を下げてしまった杏寿郎に、義勇は初めて、わずかに逡巡の気配をみせた。けれどもやはりなにも言わず、倒れたままの自転車に歩み寄ると、無言のまま起こしてくれた。
「あ、あぁ、すまん!」
「一年は奥だ」
 親切にしてくれたと喜ぶには、義勇の声も態度もそっけない。幼いころの、花開くようなはにかんだ笑みなど、白く整った顔にはちらりとも浮かばなかった。
 言葉をかけあぐねた杏寿郎がハンドルを握ったのと同時に、義勇は、にべもなく立ち去っていった。杏寿郎になど、もうまるっきり興味などないと言わんばかりだ。
 それでも、焦りつつ自転車を留める杏寿郎を一度だけ振り返り見た瞳は、昔と同じ、澄んだ海の色をしていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 式の間中、杏寿郎の心を占めていたのは義勇のことばかりだった。校長先生の挨拶も、教師たちの紹介も、聞こえているけれどもまるで意識に留まることがない。
 晴れがましい式典だというのに気もそぞろでいるなど、学費を出してくれている父や母に申しわけない。ぼんやりしている自分に気づくたび、反省するのだが、すぐにまた義勇のことばかり考えてしまう。そして何度も同じ問いを、頭のなかで繰り返す。

 義勇はなぜ、俺と同じ一年になったのだろう。

 疑問は、背後から聞えてきたクラスメイトの私語で知れた。
「なぁ、冨岡先輩、俺らと同じクラスなんだってさ」
「マジで? えー、前ならともかく、今のあの人と一緒じゃ気を使うよなぁ。ただでさえ留年した先輩なんて、声かけづらいのに」
 思わずガタリと立ちあがって、杏寿郎は後ろに座るクラスメイトへと振り返った。
「君! 冨岡先輩とは冨岡義勇のことだろうか!」
「そこ! 式の最中ですよ! 着席!」
 キーンと耳に痛いハウリングとともに響いた怒鳴り声に、杏寿郎はパチリとまばたいた。声をかけられたふたりはびっくりまなこをして固まっている。
「すみません!」
 マイクをとおすよりよっぽど大きな声で謝罪し椅子に座り直した杏寿郎に、あちらこちらで忍び笑いが起きる。集まる視線も好奇心を隠さない。けれどもそんなものはちっとも気にならなかった。
 早く式が終わらないだろうか。後ろの者たちは義勇が同じクラスだと言っていた。ならば杏寿郎ともクラスメイトということだ。これから毎日、教室に行けば義勇に逢える。
 うれしさに胸がはち切れそうなほどだけれど、気を使うとはどういうことだろう。
 義勇は教室にいると言っていた。今、義勇はひとりでなにをしているのだろうか。誰もいない教室で、ひとり、なにを思っているのだろう。
 わからないことばかりだ。だがそれでも、ひとつだけはっきりしていることがある。

 五年経った今も、やっぱり義勇はかわいらしくて、杏寿郎の胸にある義勇のことが大好きな気持ちも、素っ気ない態度をとられたってちっとも減りはしない。

「新入生、起立!」
 響いた号令に、胸を張って杏寿郎は立ち上がる。今日から中学生。今日から、義勇のクラスメイト。
 わからないことはいくらでもあって、義勇はあのころと違ってそっけない。
 それでも。

 列をなし講堂から出た杏寿郎の目の前で、桜が舞う。空は淡くかすんで、温かな風が吹いていた。いい日和だ。今ごろ千寿郎も、晴れがましく式に臨んでいることだろう。杏寿郎は頬をゆるませた。
 堂々と歩く杏寿郎が纏う制服は、少し大きくて、傍目には不格好かもしれない。だけどいつかは窮屈に感じるぐらい、大きくなる予定だ。慣れないネクタイだって、そう遠くないうちに簡単に結べるようになるだろう。
 変わらない気持ちを抱えたまま、変わっていく日々。そのなかに、これからは、義勇がいる。それだけで晴れがましい気持ちはふくれて、ふくれて、破裂しそうなほど杏寿郎の体中に歓喜を駆け巡らせるのだ。
 見上げれば霞の空は晴れ渡り、杏寿郎は、青い青い海の瞳を思い浮かべる。花のように愛らしい笑みで、あの青い瞳が杏寿郎を映してくれることを願う。
 今はまだなにもわからずとも、すべては始まったばかり。
 落胆し、諦めるなんて早すぎる。
 
 まずは、教室でひとり座っているだろう義勇に、どんな理由からだろうとクラスメイトになれてうれしいと言ってみようか。そばにいられる時間がたくさんあることが、俺にとってはただうれしいのだと、笑ってやろう。
 義勇は、どんな顔をするだろう。杏寿郎が想像した義勇の顔は幼い子供のものではなく、先ほど見た、中学生になった義勇の少し大人びた顔だった。