にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 3

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎が初めて義勇の前で泣きに泣きわめいたのは、義勇がランドセルを見せてくれたときだ。暦の上では早春でも、まだ真冬の寒さ厳しい二月のことだった。
 春になったら小学校に行くんだよ、おねえちゃんの社長さんたちが買ってくれたんだぁとうれしそうに笑う義勇に、最初は杏寿郎も笑っていた。大きなランドセルを背負う義勇は、いつもよりもっとお兄ちゃんに見えたけれども、とてもかわいかったので。
 だけれども、俺のランドセルはいつ買うのですかと母と父に聞いたら、おまえはまだ小学校には行けないと言われ、その笑みもたちまち曇った。
「なんで、ぎゆうといっちょではだめなのですか?」
「だっておまえはまだ四歳だろう。義勇はもう六歳になったんだぞ。二つ上だ。おまえが小学校に行くのは、二年あとだ」
 ショックなんてものではなかった。この世の終りが来るとしたら、まさに今このときだとさえ言えただろう。

「ぎゆうは六しゃいになったけど、おれだって五月になったら五しゃいです! いっこちかちがわないのに、なんでですかっ!」
「そりゃ、おまえ……義勇は早生まれだからな」

 なんということだ。早生まれとやらが義勇と自分を引き離してしまう。これまでずっと、幼稚園に行くのも帰るのも一緒だったのに。
 母を急かして早く早くと待ち合わせ場所に向かい「ぎゆうっ、おはよう!」と声をかければ、「おはよう、杏寿郎」と明るくかわいい笑顔で義勇は駆けてきてくれた。
 いつだってどこに行くのだって一緒だし、いつでも手を繋いで歩いた。幼稚園でも義勇の組にばっかり行きたがる杏寿郎に根負けした先生たちが、一緒にいるのを特別に許してくれたではないか。お昼寝もお遊戯も全部義勇と一緒だったではないか。
 帰りも当然一緒で、ほぼ毎日、杏寿郎の家でともに食事や入浴するのが当たり前だった。義勇と一緒をみんな許してくれたし、杏寿郎が義勇のナイトでいるのを認めてくれていたはずだ。なぜ今更そんな仕打ちをうけるのかがわからない。納得できるはずがなかった。

 大きな涙の粒が見る間に浮かんで、うっと言葉に詰まった杏寿郎は、オロオロとする義勇を見てとうとう大きな声をあげて泣き出した。
「いやでしゅっ! ぎゆうといっちょがいい! ぎゆうといっちょに、しょおがっこおにいきましゅ! おれもぎゆうといっちょにいくっ!」
 嫌だ嫌だ離れるものか。義勇にしがみつき着ていたトレーナーを涙と鼻水でぐしょぐしょにするほど、杏寿郎はわんわんと泣き続けた。頑張って改めてきた舌足らずだって完全復活する勢いでひたすら泣いた。
 しまいには、義勇までもが「ごめんね。一緒にいられなくてごめんね。俺がランドセル持ってきたせいだよね。ごめんね杏寿郎」と、謝る必要もないのにしくしく泣き出す始末。めでたいはずのランドセルのお披露目は、まさに愁嘆場と成り果てた。

 ちなみに、杏寿郎が義勇に初めてプロポーズしたのもまた、その日である。

 あの日の話になるたび、、泣きながら「大きくなったらお嫁さんになってずっと一緒にいてくれる?」と聞いた杏寿郎のことを、ちゃっかりしすぎだろうといまだに父はちょっと遠い目をして言う。「うん、いいよ」と義勇が答えてくれるまで、さらに泣くぞと言わんばかりに凝視していたうえ、義勇に指切りさせてやっと泣き止んだと青筋を浮かべて言われれば、自分でもたしかにと思わなくもない。だが、それでこそ小さくとも俺だと褒めたくもなるのだから、筋金入りの義勇馬鹿は今後もますます強固になっていくことだろう。

 もう少し蛇足を続けるなら、父だって自分が義勇のランドセルを買えなかったことを今もって悔しがるのだから、じゅうぶん義勇馬鹿だと思う。
 蔦子の嫁入りにしても、我が家で式を挙げるのだから諸費用もうちが持つ、花嫁衣装と場所の提供は譲っただろうが食事や引き出物はこっちが出すと、運送会社の社長と張り合っていたのは記憶に新しい。
 父も社長も十二分に尊敬に値する人物ではあるが、あれはつくづく大人げなかった。
 ちなみに「青二才が生意気な!」「やかましいわクソ爺!」だのなんのと言い出したあたりで妻たちに雷を落とされるまでがワンセット。蔦子の成人式や義勇の入学卒業などでも見られた光景である。
 冨岡姉弟にめでたいことがあるたび二人は勇んで盛大に祝おうと張り合い、仲良く妻に叱られるのを繰り返しているのだ。本当に、大人げないことこの上ない。
 そんな悪友ライバル同士のじゃれあいはともかく、冨岡姉弟はことほど左様に周囲の大人たちから愛されまくっている。杏寿郎だって、こと義勇への愛情は、父にも社長にも負ける気などさらさらない。いずれ三つ巴の攻防戦になること必至である。杏寿郎の一人勝ちになればいいが、こればかりは予断を許さない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 そんなこんなのプロポーズで終わった初の大泣きに続き、二度目の涙は静かなうれし泣きであったけれども、三度目となると誰にも語りたくはない。杏寿郎と義勇だけの、秘密の夜での出来事だ。
 あの夜の涙だけは、義勇以外に知られたくはない。
 恥ずかしくて、ちょっと不甲斐なさも感じて、それでも一生忘れられない、思い出の涙。義勇にも忘れないでいてほしいと杏寿郎は願っている。
 いつか二人とも年をとったら、のんびりと茶でもすすりながら、あんなこともあったねとひとつ屋根の下で笑いあうのだ。そのころにはきっと、義勇も子供扱いなどしないでくれているはずだ。

 いや、弟扱いを思い出して甘やかそうとしてくるか? まぁ、いい。どうせ二人とも白髪頭でしわくちゃな顔をしているはずだ。久しぶりの子供扱いも楽しかろう。

 とにもかくにも、四度目の涙がこれではあんまりだ。あまりにもむごい。宇髄と不死川に爆笑され、伊黒には「なんでおまえの知能は冨岡が関係すると地を這うんだ」とため息をつかれることだろう。チベスナ化は確実だ。

 内心冷や汗が止まらない杏寿郎だったが、義勇はそれ以上たしなめてはこず、帰ろうとも言い出さないでくれた。
「彫刻、先に見るんだろう?」
 そう言って、ほのかに笑ってもくれる。
「う、うむ! あ、すまないっ。小さな声で、だな」
「うん。子供がビックリしてるからな」
 笑みまじりに言われ見回してみれば、なるほど、周囲の視線が集まっている。やたらと衆目を集めてしまうのは慣れっこだが、デートでこれはいただけない。
 思わず頭をかき、杏寿郎は照れ隠しに笑ってみせた。
「静かにまわろう」
「そうしてくれ」
 若干からかいめいた声音にちょっとだけ唇をとがらせ、杏寿郎は意趣返しとばかりに義勇の顔を覗き込んだ。
「義勇も、似合う。初めて見る服ばかりだな」
 もしかしてこの日のために誂えてくれたのかと期待したのだが、答えはつい目が据わるものだった。
「あぁ、コートとニットは錆兎が借してくれた」
「……へぇ、それは錆兎さんの服だったのか」
 ゆとりのあるサイズなのはそのせいか。心ならずも低くなった声に、義勇がぎょっとしたように目を見開いた。
「新しい服を買う予算はないと言ってるのに、真菰が錆兎のを貸すからオシャレしろと聞かなかったんだ。でも、スニーカーやズボンは自分で買ったっ」
 いかに恋愛ごとに疎い義勇でも、恋人がほかの男の服を着ているなんておもしろくない事態だというのは理解できたらしい。おまえとだって服の貸し借りはするだろう? と、不思議そうな顔で言い出されないだけマシか。
 真菰への感謝や錆兎をいい人だと思うのにだって、変わりはないのだ。
 まぁ、それぞれが独り身でいたのなら、嫉妬はもっと深かったかもしれないが。紹介されたときに恋人同士だと聞き、こっそりと胸を撫でおろしたのは内緒にしておきたい。
 義勇に紹介されて逢った二人は、仲睦まじいカップルだ。自分も義勇とこんなふうになりたいと思えるお手本でもある。義勇と杏寿郎の仲だって、おせっかいに咎めだてるどころか祝福してくれた。あからさまな悋気を見せれば狭量がすぎる。

「……その、怒ってるか?」

 おずおずとした義勇の声に、杏寿郎は、浮かべかけた笑みを引っ込めた。ふむ。と、ちょっと考え、義勇の耳に顔を寄せる。
「怒ってない。でも、ちょっと悔しいから、手を繋いでもいいか?」
 駄目? と覗き込む視線で問えば、義勇の頬がパッと花の色に染まる。キョロキョロと視線をさまよわせながらも、小さくうなずいてもくれた。
 笑み崩れて手をとった杏寿郎をちょっぴり睨みつけはするが、キュッと握り返してくれた手は、恥じらいのぶんだけ平時より少し温かい。
 頭のなかで「ちゃっかりしすぎだと言ってるだろうがっ!」と、父がこめかみに青筋を浮かべたが、義勇に対してだけですとにこやかに返してお帰りいただく。楽しいデートに家族の怒り顔など無用の長物である。いやいや、ちゃんと尊敬しているとも。とりあえず、土産を奮発することにしよう。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 美術展示のエリアはさほど広くはなかった。水族館自体が美術館よりもこじんまりとしているのだから、当然かもしれない。それでも、テラコッタの作品が並ぶさまはそれなりに圧巻だ。
 というか、心なしあっけにとられる光景だった。

「カバって美術のモチーフとしては普通なのか?」
「うぅむ……それはわからないが、とりあえず、これはすごいなっ」

 デンッと鎮座している全長一メートル八十センチにもなるカバを目の前にしては、さすがに驚く。杏寿郎の身長よりも、わずかばかりとはいえ大きいではないか。しかも巨大なこのカバも素焼き製だと書いてあるのだ。いったいどうやって窯に入れたんだろう。義勇もちょっと呆然として見えた。
 この展示はカバばかりを厳選したわけではなく、製作者がカバ好きでカバの作品を多く作っているのだと、パンフレットにはあった。自らカバ製造業と名乗ってもいるらしい。思わず見合わせてしまった顔が、そろってほころんだ。

 俺が義勇馬鹿なら、この人はカバ馬鹿だな。うむ、これだけの作品を作り続ける心意気やよしっ! 俺も見習わねば!

 巨大なカバはともかく、ひしめきあう小さなカバの置物は、見ているとかわいく思えてくるのが不思議だ。杏寿郎が勝手にカバに負けん気を燃やしていることになどちっとも気づかぬ義勇は、小さめの置物をまじまじと見つめ、姉さん好きかなとつぶやいている。
「ここにも土産物は置いているようだが、どうせなら夕飯の前にほかの店も見てみよう。駐車場に一度戻って荷物を置いてから食事をして、それからイルミネーションを見に行く。そんなものでどうだろうか」
「それでいい。イルミネーション、どうせ有料のも見に行くんだろう? 全部割り勘だからな」
 機先を制されてしまった。手を握るのは許してくれても、杏寿郎にだけ散財させるのは言語道断というところだろう。
 思わず眉を下げた杏寿郎だが、負けてばかりもいられない。
「わかった。土産も全部割り勘だなっ。蔦子姉さんや錆兎さんたちへのも一緒に買おう。あぁ、車のお礼に村田さんのぶんや、書き入れ時に休んだ詫びとしてバイト先へも忘れないようにしなければな」
 パッと向けられた義勇の顔に「しまった」と書いてある。してやったりと、杏寿郎は満足気に笑った。
 義理堅い義勇は、デートとはいえこういう場所に来たなら、必ず知り合いへの土産を買い込むはずだ。痛い出費であってもバイト先のぶんなど杏寿郎に出させるわけもない。どう言いくるめようかと思っていたが、渡りに船だ。
「……ズルい」
「義勇が言い出したんだぞ? ホラ、金魚見よう」
 笑って手を引けば、少しすねた顔をしながらもうなずき、スモモに似てるのもいるかなとつぶやく。照れ隠しなのがみえみえの言葉だが、なんだかちょっぴり子供っぽいのがかわいい。
「それはどうかな。スモモに似ていたら、それはもう鯉じゃないだろうか」
「違いないな」
 フハッと笑った義勇に、杏寿郎もつられてふにゃりと笑んだ。
「金魚が大きくなってもフナに似るだけだと思うが、スモモは特別製だな」
「世界で一匹のか? それはちょっと、かわいそうだな」
 ふと寂しげになった声音と少しふせられた目に気づき、杏寿郎は握る手に力を込めた。
「それならスモモに嫁でも見つけてやろう。次の夏に帰省したら夏祭りに行って、金魚をすくえばいい。きっと千寿郎も喜ぶぞ」
「……スモモって、オス?」
「……たぶん」
 沈黙は短かった。見合わせた目が同時に細まり、そろって小さく吹き出す。
「そういえば、どちらなのか調べたことがないな」
「どっちにしても、すくった金魚じゃ小さすぎて、嫁さんや旦那になる前に餌になっちゃうんじゃないのか?」
「うぅむ……スモモは狙ってくる野良猫さえ、逆に食おうとするほどだからな。それはあまりにも酷いか。ならば嫁にするのは、大きくなるまで家のなかで育ててからだな!」
「大きくなったらお嫁さん?」
「うむ!」
 笑った顔をさらに近づけ、ささやきは内緒話のひそやかさ。吐息が耳をくすぐる距離で。

「俺も大きくなったぞ、義勇」
「……法改正はまだされてないぞ」

 だいいち嫁になるのはおまえじゃないだろと、見返す目が伝えてくるが、浮かんだ笑みは消えていない。大きくなったらお嫁さんになってくれと何度もしたプロポーズの答えなんて、いつだって同じだ。だから杏寿郎も落胆なんかしない。

 いいよ。

 それ以外の言葉が返ってきたことなど、一度もないのだ。
 男同士では結婚できないとお互い理解する年になっても、杏寿郎は義勇とずっと一緒にいると口にし、義勇の答えも変わらなかった。恋と知らずにいたころでさえ。
 恋だと知って、恋だと確認しあった今も、これから先も、きっと変わらない。
 大事なのは婚姻という契約ではなく、愛し愛され生涯をともにする約束そのものだと、お互いわかっている。だからこそ悲壮感など微塵もなく、嫁だなんだとの軽口も叩けるのだ。

 胸をジンと熱くさせる甘やかな喜びに、杏寿郎の顔はとろけんばかりとなる。
「法律が許さなくても、父上たちや蔦子姉さんは絶対に許してくれるぞ。宇髄たちもだ」
「知ってる」
 吐息だけで笑った義勇が、唐突に杏寿郎の鼻先をピンッと指で弾いた。
「痛っ」
「体が大きくなっただけじゃ駄目だろ。一緒に暮らすのはまだ早い」
「……大学生になってもか? 俺だってもう十八だぞ」
 体だけでなく、世間から大人と呼ばれるのも近い。
「それに、錆兎さんたちだってほぼ同棲してるようなものだと、義勇も言っていたじゃないか」
 不満を悟られぬよう抑えたつもりでも、声は我ながらふてくされて聞こえた。義勇の笑みが苦笑に変わる。
「よそはよそ、うちはうちと、瑠火さんも言ってるが?」
「むぅ、母上を持ち出すのはズルいだろう。だが……」
 フフッと面映ゆさをこらえきれずに杏寿郎が笑ったのに、義勇が、ん? と首をかしげた。

「まだ早いと言うなら、いつかは必ず俺の嫁になってくれるってことだからな。うれしい」

 予想外の返しだったんだろう。義勇の顔がポケッとあどけなくなり、たちまち赤く染まる。
「何度も言わなくていい。あれだけ大泣きで約束しろと迫られたら、守らないわけにはいかないだろ」
 視線を少しそらせて口早に言った義勇に、今度は杏寿郎のほうが絶句する番だ。ボンッと音を立てる勢いで顔だって赤くなる。
 義勇の目が、どことなし遠くを見るように細まった。幼子を見るような風情なのが、悔しさをかき立てる。
「あれを持ち出すのもズルいぞっ。忘れてくれとは言わんが」
「忘れなくていいのか?」
 からかうような口調だが、寄り添う距離は変わらず、繋ぎあった手もそのままだ。
「いいんだ。義勇といつか笑って思い出話をする日が楽しみだからな。だが、今は勘弁してくれ。恥ずかしくてたまらん」
「……うん。それは、楽しみだ。今日のことも、いつかたくさん話せるといいな」
 微笑みはやさしくて、手の届かない星を見上げるようだった。
 なんでだろう。義勇は笑っているのに、胸の奥を冷えた手でソワリと撫でられたような心持ちになる。
「義勇……」
 理由もわからず浮かび上がった不安に自然と出た呼びかけは、少し弾んだ義勇の声に抑え込まれた。

「きれいだな。イルミネーションの前哨戦って感じだ」

 気がつけば金魚のエリアの入り口に立っていた。な? と同意を求めてくる義勇の眼差しは、もういつもどおりだ。
 見回したエリアは黒い衝立に囲まれている。いたるところに置かれた丸い水槽には、すべて金魚が泳いでいるんだろう。衝立にも円形の水槽が埋め込まれていて、色とりどりの光を発していた。じつにカラフルでどことなく幻想的だ。
「ソファは奥か?」
「あ、あぁ……そうみたいだな」
「そうか。まずはこのエリアを見てまわってからだな。時間は大丈夫か?」
 ごまかしている感じはしない。義勇の声は少し弾んでいる。笑う顔はどこかあどけなかった。
「ホテルまで五分もかからないし、買い物によほど時間を取られなければ大丈夫だろう」
「……パワースポットに時間をとられなければ、じゃないのか?」
 返された言葉は今度こそからかいめいている。杏寿郎は思わず軽く目を見張った。

 浮かれてる。義勇が。まるであの事件が起きる前の、義勇みたいに。

 瞬間ヒヤリと背を撫でた少しの不安は、沸き立つ歓喜に鳴りを潜めていく。だいいち、心配することなどなにもない。
 毎日交わすメッセージでも、週末の電話でも、義勇はなにも変わりなかった。今日だって変わった様子は見られない。錆兎たちだってなにも言ってこないし、宇髄や不死川も同様だ。
 義勇になにごとかあれば、彼らは必ず杏寿郎に報告してくれる。どんなに義勇が杏寿郎には内緒でと相談したところで、義勇の身に危険が及ぶことならば杏寿郎に告げぬはずがなかった。
 伊黒にいたっては秋口からかなり多忙らしく、よっぽど余裕がないのか杏寿郎の誘いでさえけんもほろろに断られている。遠慮がちな義勇が相談事を持ち込むとは考えにくい。
 成人が近い年齢になろうと義勇が末っ子扱いなのは健在だ。義勇は異議を唱えたいだろうが、杏寿郎は義勇の保護者というのはみなの共通認識なのだ。誰も杏寿郎に言ってこないのなら、不穏な出来事は起きていないということだろう。
 心配はいらないかと小さく苦笑すれば、義勇の浮かれた調子に杏寿郎だってつられる。

「ゆっくりと愛を語らうなら、二人きりでがいい。本番は夜に」

 からかいなど一切ない声音でささやけば、義勇は一瞬の絶句のあと、ドンッと足を踏みつけてきた。意趣返しにしては手荒すぎないだろうか。
「痛いぞ」
「変なこと言うからだ。バカ犬っ」
 ツンとそっぽを向く様が気位の高い猫を思わせる横顔に、クスリと笑う。
 義勇はたまに杏寿郎を犬扱いする。仔犬にさえちょっぴり怯える義勇が、杏寿郎なら撫でられるからうれしいと言うのなら、杏寿郎に文句なんてない。義勇こそ気まぐれで寂しがり屋な猫みたいだろうとは、言わずにおく。
 さっと見回した周囲に人気はなかった。ほかの客はショップやカフェに流れたんだろう。
「ワンッ」
 小さく吠えてペロリと頬を舐めてやったら、義勇の海の瞳が、水槽よりもまあるくなった。そこに映る自分の顔は、杏寿郎自身の目にも幸せだと書いてあるように見えた。