乱舞する深紅のラブシック 3

 口に、なにか触れてる。とろりとした羊水のような眠りのなか、意識をゆらゆらとただよわせながら、義一はぼんやりと思った。
 覚醒しきらないままに感じるなにかは、やわらかい。やわらかくて温かい、なにか。それと……気持ち、いい? これはなんだろう。
 チュッ、チュッと、小さな音がする。なにかが触れるたびに。
 ときどき、鼻先にもチョンとなにかが触れてくる。口よりはもっと軽く、そっとなにかが押し当てられては、離れていく。これは、なに? わからない。嫌な感じはしないけれど、かすかに背中がゾワゾワとする。
 なぜだか、いつもよりやけに布団のなかも温かい。春とはいえ、四月はじめの今はまだ、早朝は冷えるというのに。

 小さいころに、母さんや姉さんが添い寝してくれたときみたいだ。でなければ……そうだ、ユキ。幼稚園のときに保護した子猫。飼い主さんが、翌日にならないとどうしても迎えに行けないと言うから、一晩だけ一緒に寝よと抱っこして眠ったっけ。

 フワフワのやわらかい毛と、ホコホコの温もり。チロッと舐めてくる舌がくすぐったくて。そういえば、ユキも義一の鼻にチョンっと自分の小さな鼻を押し付けてきたものだ。浅い眠りのなかで、義一はフフッと懐かしさに笑った。
 あれ以来、猫どころか動物にはまったく縁がないし、もう二十歳になろうかというのに、姉や母と一緒に眠ることなどない。なのに、なんでこんなに温かいんだろう。
 ふと思った瞬間、義一の意識が、眠りの底から急速に浮上した。パッと開いた目に映ったのは、最初はぼやけてよく見えなかった。近すぎて。
 チュ。と、音を立てて、唇がごく軽く吸われたのがわかった。
 あぁ、キスされたのか。思った瞬間、まだぼんやりとしていた義一は、今度こそはっきりと目覚めて、ふにゅわっ! と叫び声を上げた。自分にのしかかっている大きな影を、反射的に押しやる。

 ふにゅわ、って、なんだ。ここは、やめろとか、せめてギャーとかじゃないのか? あまりにも思いがけないと、ドラマみたいな悲鳴って上げられないもんなんだな。

 なんだか的はずれなことを考えつつも、心臓は痛いぐらいに騒ぎ立て、体は緊張と恐怖に知らず硬直していた。だって、眠っているうちにキスされるなんてありえない。ファーストキスなのに、こんなのひどい。
 とっさに突き飛ばそうとしたなにかは、それでもまだ義一の上にいる。寝起きとはいえ渾身の力を込めたつもりだったのに、びくともしないなんて。怯えがさらに義一の四肢を凍りつかせた。
 と、大きな影が少しだけ距離をとった。
「おはよう、義一! 突き飛ばそうとするとはひどいな!」
 快活な声は大きすぎて、義一は思わずギュッと目をつぶった。すぐに開けた目を、光が突き刺してくる。眩しい。
 カーテンの隙間から差し込む朝日を弾いて、キラキラと金と赤の輝きが乱舞してる。義一を見下ろしてくる男の顔は影になって暗いのに、やけに眩しくて、義一はパチパチとまばたきを繰り返した。
「また寝ぼけているな! 愛い」
 いかにも楽しげな笑い声とともに落ちてきた影を、義一は避けられなかった。チュッと唇を吸われ、鼻先を軽くこすり合わされる。またキスされた。わかったのはそれだけ。
「……とうじゅろ?」
 無意識に義一がつぶやくと、影が破顔した。
「うむ! ようやく目が覚めてきたか?」
 言いながらギュッと抱きしめてくる腕が、ちょっと苦しい。でも、嫌じゃない。ドキドキするし緊張もするけど。恐怖や不安はもうどこにもなかった。

 そうだ。昨日、桃寿郎が来たんだった。それで……。

「ごめん。えっと……俺、寝ちゃったか?」
 やっと逢えた桃寿郎をほっぽって、一人で眠ってしまうとは。申し訳ないやら、よく眠れたなと自分に呆れるやら。
 恐る恐るたずねた義一の顔を、少しだけ身を起こした桃寿郎がまっすぐ見つめてくる。
 眩しいぐらいに鮮やかな金と赤の髪。男らしい太い眉と、繊細に長いまつ毛。髪と同じ金と赤の瞳は大きく、力強く光って義一を見つめている。口角をきゅっと持ち上げて笑む男の顔は、間違いなく義一の記憶にある幼馴染の桃寿郎だ。
 でも、なぜだろう。なんだかちょっと、その表情はどこか作り物めいて感じられる。
 小さな違和感は、けれども桃寿郎の言葉でたちまちかき消えた。
「なに、気にするな! 義一の寝顔は愛らしくて見飽きんからな! 我慢しきれずつい接吻してしまった!」
「接吻……? え、それ……キス!?」

 そうだ。たしかにキスされた! 眠ってるあいだ、チュッチュと。今だって!

「真っ赤だ! うむ、初々しくて実に愛い! かわいいなぁ、義一」
 愉快そうに笑って、桃寿郎の顔が近づいてくる。
 またキスされる。思ったと同時に、義一はパッと両手で口を覆った。
「むぅ。義一、それでは接吻ができん」
「し、しなくていい! ……初めてだったのに、桃寿郎の馬鹿」
 なんてこった。ファーストキスなのに全然覚えてない。大好きな桃寿郎と、初めてキスしたのに。やわらかいなとか、温かいとか。気持ち、いい、とか。なんとなく覚えていることはあるけれど、そういうぼんやりとしたものじゃなくて、一生忘れない想い出にしたかったのに。
 恥ずかしさよりも、なんだかずっと悲しくなってきて、義一の目尻にじわりと涙が滲んだ。
「どうしたっ!? なぜ泣いているのだ、義一!」
 顔は笑ったままだけれども、桃寿郎はかなりあわてているようだ。義一の手をそっと外させてスリスリと頬をなでてくる手はやさしいし、泣かないでくれと懇願してくる声には、ちょっぴり申し訳ない気にもなる。とはいえ、義一だってこればかりは譲れない。
「ファーストキスなのに、なんにも覚えてない……」
「ファーストキス? あぁ、初めてということだな! だが、眠る前にも接吻しただろう? 初めてではないのだから、気にすることはないのではないか?」
 やっぱり笑顔のまま、桃寿郎がカクリと首をかしげた。
 なんだか仕草がやけに大雑把というか、大味というか……。それに、ずっと笑ったままだ。お面のように同じ顔というわけではないのだけれど、多少の変化はあっても、桃寿郎の顔はずっと笑んでいる。やっぱりどことなく作り物っぽく見えてしょうがない。
 なんとはなし、昔からこんなんだったっけと不思議な気がしたけれども、それよりなにより義一の思考を占めたのは、桃寿郎の一言だ。
「眠る、前?」
 そんなこと、したっけ? 眠る前に桃寿郎と、キス、したのか? なんてこった、覚えてない。だがそれが事実なら、責められるべきは俺のほうだと、義一の目にますます涙が浮かび上がった。
「ご、ごめん。俺、そんな大事なこと覚えてなくて」
 どんなふうにキスしたんだろう。なにも覚えていないなんて、なんてもったいないことをしてるんだか。いや、それどころじゃないだろ。大学に進学して一年、離ればなれだった桃寿郎とやっと再会できたのに、一人で眠ってしまうし、キスしたことも覚えていないし。こんなんじゃ、桃寿郎に呆れられて嫌われるかも。
 どんどんと不安がふくらんで、義一の目尻からポロリポロリと涙がこぼれ落ちた。
 じっと義一を見下ろしていた桃寿郎の目が、ゆっくりとたわんだ。眼差しは痛いぐらいにまっすぐ義一を見つめたままで。
「ふむ……いや! 気にすることはないぞ! 君は疲れていたのだからなっ、すぐに眠ってしまったし、覚えていなくてもしかたがない!」
 闊達な声は、有無を言わさぬ力強さだ。やさしさにトクンと胸が高まりもした。
 でも。
 そう、なのだろうか。疲れていたと言われれば、そうだったかもしれないと思いはする。けれどなぜだか、しっくりこない。
「それに、初めてだからといって、大事もなにもないのではないか? これから何度だってするんだしな! いちいち覚えている必要はあるまい!」
「は?」
 いかにも当然と言わんばかりに、あっけらかんと言い放った桃寿郎に、義一の涙が思わずピタリととまった。
「む? どうした、義一。いきなり怖い顔をして。そんなに眉間を寄せては、愛い顔にシワがついてしまうぞ?」
 コスコスと眉間をさすってくる指を、ちょっと乱暴に義一は払いのける。ん? と笑んだまま見下ろしてくる桃寿郎は、てんでわけがわかっていないようなのが、また小面憎い。
「……ファーストキス程度を、夢見てて悪かったな。桃寿郎は、俺とキスするのなんて、特別なことだと思ってなかったんだろ」
 ふてくされて言ったつもりが、義一が思うより、声はやけに悲しげになった。
 それでもしょうがないではないか。だってファーストキスだ。姉の持っていた少女漫画のヒロインじゃあるまいし、キスぐらいでと少しは思わなくもないけれど。桃寿郎が言うように、恋人になったのだから、キスだってこれから何度もするのだろうけれども。それでも、初めてのキスだったのだ。
 ずっと大好きで、思いがけず恋人になれた桃寿郎とする、ファーストキス。それなりに、夢見たっていいではないか。なにも、絶対にロマンティックな場所じゃなきゃ嫌だなんて、そこまで望んじゃいなかったけれど、ちゃんと覚えていたいに決まっている。
 きっと一生、桃寿郎とのファーストキスを思い出すたび、胸がこそばゆくなって、幸せな気持ちになれたに違いない。なのに、全部台無しだ。
 胸のうちでブチブチと愚痴っていた義一の、ギュッと寄せられていた眉が、ふと解けた。

 ……あれ? そう、だよな? 夢見てた……はずだ。うん。だって、好きだった。ずっと。恋人になんかなれるわけないって諦めていても、もしも恋人になれたならいつかって、心のどこかで願っていた……はず。
 そうだ。それは、間違いない。だけど。
 だけど、なんでだろう。なんだか、違う気がする。なにが違うのかは、よくわからないけれど。

「ふむ。人というのは不思議なものだな。初めてがそんなに大事だとは」
 どこかしみじみと、けれどもなんとはなし楽しげな声で言い、桃寿郎の手が義一の頬を包み込んだ。
「だが、君が大事だと思うものをないがしろにするようなことをして、悪かった。義一、やり直させてくれ。眠る前も、眠っているときのも、俺が勝手にしたのだから数に入れることはあるまい。今からする接吻が、君の初めてだ。それでは駄目か?」
 桃寿郎は笑っている。ちゃんと笑っているのに、ほんの少し作り物めいていた先ほどまでの笑みとは違って、その顔は自然で、とてもやさしかった。
 甘い。自分を叱咤してみるけれど。桃寿郎の声も笑みも、あんまりやさしくて、蝶を誘う蜜のように、こっちにおいでと呼びかけているようで。
「……桃寿郎も、初めてだって思ってくれるなら……あ、もしかしてほかの誰かと、もう」
 最後までは、言えなかった。気づいてしまったそれに、トクトクと高鳴りだしていた胸はヒュッと冷えて、得も言われぬ悲しさがまた襲ってきたので。
 桃寿郎はこんなにも格好いいし、義一をずっとかばって守ってくれたぐらいやさしい。モテるのは当然だ。幼馴染でずっと一緒だったから、義一に告白してくれるまで桃寿郎に恋人がいなかったことは知っているけれども、キスを大切なものだと思わないのなら、気軽に誰かとしている可能性はあるではないか。
 もちろん、そんなのは桃寿郎の自由だ。恋人ではなかったのだから、義一が責める筋合いなんてない。でも、悲しい。自分の知らないところで、桃寿郎の唇に触れた誰かがいるかもしれないことが、どうしようもなく、悲しかった。
 勝手にまた潤みだす義一の目の縁に、桃寿郎の指先がそっと触れた。
「接吻などしたのは、義一が初めてだ。ん? いや、違うな! これから、義一と初めてする。そうだろう?」

 笑んでいるのに、見つめてくる桃寿郎の瞳は、なぜだか獲物を見据える獣のようだった。やさしいのに、拒絶を許さない強さで燃える、金と赤の瞳。見つめていると、クラクラと頭の芯がかすむ。ふと、甘い香りがしたような気がした。
 なにかに操られたみたいに、知らずコクンとうなずいた義一に、桃寿郎の笑みがニィッと深まった。
「いい子だ……義一」
「ん……っ」
 ささやきとともに落ちてきた唇を、義一はゆっくりと目を閉じながら受け止めた。
 そっと触れた唇は、やっぱりやわらかくて、温かい。チュッと軽く吸われ、ブルリと腰や背が震えた。チロリと舌先で下唇を舐められたら、なおさらに。
「は……ん、ぅっ!?」
 知らず息を止めていたらしい。息苦しさについ薄く開いた義一の唇の合間から、スルッと熱いなにかが滑り込んできた。
 思わずパッと開かれた義一の目が、すぐにまたギュウッとつぶられる。

 舌! これ、桃寿郎の舌っ!? 嘘だろ!?

 パニック状態で必死に桃寿郎の背に手を回し、ポカポカと叩いてみるけれども、義一の抵抗など桃寿郎はまったく意に介した様子がない。それどころか、入り込んだ舌はますます我が物顔で、義一の口内をなぶりつくそうとしてくる。
 どうやって息継ぎしたらいいのかわからなくて苦しいし、歯の裏やら上顎やらをなめたどられたり、舌を絡め取られて吸われると、背中がゾワゾワとするし腰がじんじんとしびれるように重くなっていく。

 も、駄目。

 脳裏に浮かんだ一言と同時に、桃寿郎の顔が離れた。
「……い、いい加減にしろっ!」
「義一……乱暴すぎないか?」
 少し不満げな声ながら、やっと起き上がってくれた桃寿郎に内心ホッとしつつ、義一もハァハァと荒い息をつき身を起こした。べとべとになった口を拭おうとした自分の手が、何本もの金糸を握りしめてるのに気づき、ギョッと目を見開く。
「ずいぶん抜けたな。義一は意外と手荒なのだな! だが、そういうところも愛い! それぐらいでなければ、俺の『伴侶』は務まらんからな!」
「あ、あの、ごめんっ。痛かっただろ?」
 思い切り掴んで引っ張ったせいで、引き抜いてしまった髪は、ひとつかみと言っていいほどある。なんだか変な言葉を聞いた気もするが、それどころじゃない。
 桃寿郎がハゲたらどうしようと、義一がオロオロとしてしまうぐらいだというのに、当の桃寿郎はケロッとしたものだ。
「気にするな! これぐらいなんてことはない!」
「……どこ見てるんだ?」
 ハハハと快活に笑う桃寿郎の視線は、なんだか明後日の方向だ。目を合わせてくれないのは、本当は腹を立てているからじゃないのかと、どんどんと義一の不安が増していく。と、グリンと音がするぐらいにいきなり、桃寿郎の顔が義勇に向けられた。
「すまん! どうもまだ『馴染んで』いないようだ! とくに目が駄目だな。うぅむ、目は盲点だった。『動かせん』とは、よもやよもやだ」
 桃寿郎は笑んでいる。けれどもそれは、やっぱり能面のように作られた笑みに見えた。
「まぁいい! それよりも、続きをしようか!」
 明るい声で言ってまた顔を近づけてくる桃寿郎に、一瞬の違和感はまたかき消えて。

「やめろっ、馬鹿! つ、続きってなにをしようとしてるんだ! 朝っぱらから盛るんじゃない!」

 義一の怒鳴り声が、朝日が燦々と差し込む部屋にひびいた。
「朝は駄目なのか。ふむ。人の決まりごとというのは、いろいろと面倒なものだ。さっさと『聞き出す』べきかもしれんな」
 なにやら考え込みだす桃寿郎は、まったく堪えた様子がない。なんだというのだ、いったい。なんだか妙に聞き取りにくい変な言葉を口にするし、昔はこんなんじゃ……。

 昔は……昔は、どうだったっけ。

 想い出はちゃんと記憶のなかにある。小さいころの桃寿郎を、義一はちゃんと覚えている。なのに、よくわからない。変な気分だ。だけど。
「……朝だから、っていうより、あの……ファーストキスもだけど、いろいろ、初めて、だから……その……」
 好きな気持は、本物なのだ。
 桃寿郎の顔を見ればドキドキとする。泣きたくなるぐらい、うれしくなる。触れられることがどうしようもなく幸せで、違和感なんてどうでもよくなる。そばにいてと願ってしまう。
 恋しくて、恋しくて、お願い消えないでと、祈ってしまう。
「初めては、大事か」
「……ん。それに、ちょっと、怖いし……もっと、ゆっくりが、いい。約束したのに、ごめん」
 うまく伝わっただろうか。自分の口下手がうらめしい。約束したのに今さらなにを言っていると怒られるかも。だけど、覚悟なんてできてない。してこなかった。

 桃寿郎が義一と暮らせる日がきたら。恋人になった日に、約束したのに。全部、桃寿郎のものになるって。

 大事な約束のはずなのに、それはいきなり降って湧いたようで、どうしても実感がわかなかった。
 恋人になってすぐ離ればなれになり、一度も恋人らしい時間を過ごしていないからかもしれない。たくさん一緒に遊んで、ともに時を過ごしてきたのに、覚悟を決めるにはまだ時間が全然足りない気がした。
 好きって気持ちはたくさん心に詰まっている。だけど、まだ足りない。自分は桃寿郎のことをまだまったく知らないでいるような、そんな気がして。すべてを任せてしまうのが、なんだか妙に怖くて、それ以上に悲しい。
 男同士でという困惑はなかった。自然の摂理からすれば不自然な行為かもしれないけれど、恋人同士にとっては自然なことだ。
 そう、恋人同士なら。
 だけど、まだ、恋人だという実感が足りない。だから、怖い。それじゃ嫌だと、思ってしまう。

 約束が違うと、桃寿郎は腹をたてるだろうか。それなら別れようと、言われてしまうだろうか。
 それもまた怖いけれども、だけど、桃寿郎の言うがままに自分の意志を捨て去る関係じゃ、駄目だとも思うのだ。そんなの恋人じゃない。そんなの、支配と隷属でしかないじゃないか。

 ゴクリと息を飲んで桃寿郎の言葉を待つ義一を、桃寿郎は笑んだまま、不思議そうに見つめていた。その瞳が、じわりと愉快げに細まっていく。
「なるほど。では、義一がいいと言うまで待つことにしよう! 待たされたとしても、せいぜい十年、二十年だろうしな。あぁ、もちろん義一が手に入るなら百年でもかまわないぞ!」
「ひゃっ、百年!? い、いやっ、そんなには、待たせないと……ていうか、それじゃ死んでるだろっ」
「んん? では何年だ?」
 答えてくれと雄弁に語る眼差しは、射抜くようにまっすぐだ。真正面から見つめられると、桃寿郎の視線の圧はやたらと強い。知らず義一は逃れるように顔をそらせた。
「え……っと、あの……つ、次の誕生日、とか……」
 とくに理由があって言ったわけではなかったが、考えてみれば来年、義一は二十歳になる。区切りとしてはいいかもしれない。
「おぉ! では来年の二月だな! 心得た! うむ、実に楽しみだ!」
「いや、だからどこ見てるんだ?」
 明るい日差しよりもなお、晴れやかな声で笑う桃寿郎は、視線がちょっとズレている。
 義一の胸に湧いたのは、今度は違和感ではなく、ほのかな含羞とやわらかな歓喜だった。
 二人で暮らす十ヶ月のあいだに、きっともっと、桃寿郎を好きになる。そうして、その日がきたら、今度こそ。

 ん? 二人で、暮らす……?

「あ」
「ん? どうした、義一」
 クキッと首をかしげる桃寿郎に、義一はあわててブンブンと首を振った。
「なっ、なんでもない! あのっ、それより桃寿郎の荷物、昨日しまったっけ?」
 そうだ。すっかり忘れかけていたけれど、桃寿郎がここにいるということは、これから一緒に住むということではないか。この部屋で。この狭い六畳ワンルームで! ベッドだってこの狭いシングルベッドしかないのに!

 来年まで……清いままでいられるのかな……。

 ちょっと遠くなりかけた義一の意識は、ケロリと桃寿郎が口にした一言で、パッと引き戻された。
「荷物はないぞ、身一つだ!」
「は?」

 ……まずは、暮らす準備が必要らしい。
 来週から桃寿郎だって大学生だというのに、いいんだろうか。でもまぁ、いいか。フッと肩の力が抜けて、義一はクスリと笑った。
 想い出のなかの桃寿郎じゃなくって、ここから一から知っていくのだ。なにもかも、まっさらというのも、いいかもしれない。
 とりあえず。同居一日目の今日は、桃寿郎と買い物に行こう。恋人になって初めてのデートだと思えば、買い物だって楽しいはずだ。たぶん。きっと。