乱舞する深紅のラブシック 2

 覚えているのは真っ赤な首輪。小さな金色の鈴がついた。
「どうしたの、義一」
「あのね、すごくかわいい猫の写真あるの。ホラ!」
 幼稚園からの帰り道。笑った義一が指差したほうを見て、お姉ちゃんもニコッと笑い、そしてすぐに眉を曇らせた。
「この子、迷子なんだって」
「迷子? 泣いてるの? 犬のおまわりさん、困ってる?」
 電柱に貼られた紙に書かれた文字は、漢字が多くて義一にはまだ読めない。写真のなかの真っ白な子猫が、とってもかわいいことしかわからなかった。
「おまわりさんはわかんないけど、飼い主さんはきっと困ってるし、悲しいんじゃないかな」
「……かわいそう。子猫ちゃんも、寒いよって泣いてるかもしれないよね?」
 写真の子猫と姉を交互に見比べて、ションボリと眉を下げて言った義一に、お姉ちゃんも困り顔でうなずいた。
「見つけたら、飼い主さんに教えてあげようね」
 言いながらランドセルをヨイショとおろしてノートとペンケースを取り出すと、ノートに数字を書きつけるお姉ちゃんを、義一は頼もしく見上げた。お姉ちゃんは、人見知りで恥ずかしがりの義一と違って、いつも大人の人に褒められている。とっても頭がいいしやさしい。お母さんのお手伝いだってちゃんとできるし、義一のお迎えにだって来てくれる、自慢の姉だ。
「子猫、すぐ帰れるといいね!」
「そうだね。義一も見つけたら教えてね」
「うん!」
 お姉ちゃんがいれば、大丈夫。きっと子猫だって見つかるだろう。
 明るく笑ってうなずいた義一は、お姉ちゃんの手をギュッと握って、歌いながら歩きだした。
 わんわんわわんと、お姉ちゃんと声を揃えながら。

 さて。万事おっとりとして、人見知り。恥ずかしがり屋でちょっと口下手な義一だが、来年には小学生になるのだし、お使いぐらいは一人でもできる。家からさほど遠くない、商店街にだけならば。
 お姉ちゃんやお母さんと一緒に行くから、商店街の人達には顔を覚えられている。道はまっすぐだから、迷うこともない。だから、お母さんが「あら、人参買い忘れちゃった」と言ったとき、行ってくると手をあげ笑ったのは、めずらしいことではなかった。
 お姉ちゃんはグループ学習の相談とやらで友達の家に行っていたし、お母さんは宅配便がくるから家を出られない。義一からすれば当然、自分が行かなくちゃと張り切る場面だ。
 雪が降るかもしれないから、絶対に寄り道しないのよ? 言いつけに、うん、と元気よく返事して。白い息を弾ませて商店街に着いたのは、いつもと同じだ。無事に買えた人参と、お店のおじさんから「はい、オマケ」ともらった真っ赤なトマトを入れたバッグを手に、まっすぐおうちに帰ろうとしたのも。
 いつもと違ったのは、十字路で小さな声を聞いたことだ。
 みぃみぃとか細くてかわいらしい声に、きょろきょろとあたりを見まわした義一が見つけたのは、小さくて真っ白な子猫だ。首には真っ赤な首輪。
「迷子の子猫ちゃん?」
 コテリと首をかしげてたずねても、子猫はくぁっとあくびして顔を洗うばかりで、答えなんか返ってこない。でも、幼稚園の行き帰りに何度も見た写真と、子猫の姿はそっくりだ。真っ赤な首輪も金の鈴も一緒。
「あのね、おうちの人が探してるよ?」
「にぁ」
「あ、待って!」
 義一が一歩近づいたとたんに、ぴょんと飛び跳ねた子猫は、トタタタタッと義一の家とは別の方向へと走っていってしまう。
 あわてて追いかけた義一の頭には、子猫をお家に帰してあげることしかなかった。寄り道しちゃ駄目よというお母さんの言葉は、そのときにはまったく思い浮かびもしなかったのだ。
 とことこ走って横道に入り、義一がふぅふぅと息を切らしだしたころ、子猫がふと立ち止まった。きょろりと周囲を見回して、ふたたび走って入り込んでいったのは、深い森のなかだ。
「……どうしよう」
 そこは小さな鎮守の森だ。義一は一度も入ったことがない。お父さんやお母さんにも、幼稚園の先生たちにも、森のなかに入ってはいけませんと言われている。
 奥に小さなお社があるという話だが、そこは入らずの森とも呼ばれていて、お正月にだってお参りに行く人はいない。
 あたりには、誰もいない。子猫は少し先で立ち止まり、義一を振り返り見ている。義一はギュッと小さな拳を握りしめた。
 追いかけないと、子猫はお家に帰れない。でも、森に入ったらきっと叱られる。それに、ちょっと怖い。だけど、お外はこんなにも寒いのだ。雪が降ってくるかもしれない。お家に帰れなかったら、小さな子猫はどれだけ心細いことだろう。悲しくて怖い思いをするのだろう。
 森は暗くて、やっぱり怖い。でも、少しだけなら。ちょっとだけなら、すぐ戻れる。
 ブルッと一つ震えた義一は、思い切ってえいっと森に足を踏み入れた。
「子猫ちゃん、待って」
「みぃ」
 ふたたびぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして、子猫は森の奥へ奥へと走っていく。
 地面は真っ赤な葉っぱで埋まっていた。踏むたびカサカサと落ち葉が音を立てる。チリンチリンと鈴が鳴る。
 ようやく子猫が止まったのは、少し開けた場所だった。
「捕まえたっ」
 子猫は存外簡単に、義一の腕に抱え上げられた。
 義一を見上げてみぃっと鳴く顔は、とてもかわいい。ちっちゃな舌が義一の指をちろっと舐めた。
「くすぐったいよ」
 クフフと笑って抱きしめた子猫はあたたかい。一緒に帰ればお姉ちゃんが、子猫の飼い主さんのお家を教えてくれるだろう。
「一緒に行こ」
 歩き出そうとした義一は、漂ってきた匂いに気づき、顔を上げた。かすかに香る甘い匂い。春におばあちゃんの家で、嗅いだことがある。
「アンズ?」
 ぽつんとつぶやいたそのとき、冷たい風が頬をなでて、義一は思わずギュッと目をつぶった。甘い杏の匂いが深まる。
 そろっと目を開けたら、雲が晴れたのか木漏れ日が差していた。
「あ……」
 義一は突然に現れた光景に、パチリとまばたいた。目を閉じたのは一瞬だ。だというのに、それまで誰もいなかったはずの目の前に、大きな男の人が立っていた。
 真っ赤な絨毯を敷き詰めたような落ち葉の上に立つその人は、七五三参りで見た神主さんのような着物を着ていた。キラキラと光る髪は、子猫の鈴みたいな金色で、首輪と同じ深紅にところどころ染まっている。
 男の人は、じっと光り差す空を見上げていた。端正な横顔が義一へと向けられることはない。
 なぜだろう。胸がドキドキとする。不思議と怖くはなかった。木漏れ日に光るその人の髪が、あんまりきれいだったからかもしれない。
 どれだけ見つめていただろう。不意に腕のなかの子猫が、みぃっと鳴いた。
 ゆっくりと、その人が義一へと顔を向けた。
 その人の瞳は、髪と同じく金と深紅にきらめいていた。大きな目がまっすぐに義一を見つめてくる。あまりにも強い眼差しに、義一の体がブルッと震えた。
 どうしよう。こんにちはって、言わなきゃ。ちゃんとごあいさつしないと。思うけれども、声は出なかった。
 逃げ出したいような、ずっと見ていたいような、不思議な気持ち。ドキドキと騒ぐ心臓がうるさくて、ちょっと胸が痛い。
 ふと、その人の目が静かに細まって、唇が笑みの形を作った。あ、と思ったときには、光に溶けるようにその人の姿は消えていき、あとにはかすかにただよう杏の香りだけが残されていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「おまえも…………だろ」
「……とっとと連れて……」
「そう言うな…………だからなっ」
 なんだ? 人の声がする。二人、いや、三人。男の声。せっかくあの人の夢が見られたのに、静かにしてくれないかな。
「ま、いいけどよ。派手に頑張れや」
「あんまり振り回してやんなよォ」
「うむ! 大事に愛でるつもりでいるぞ!」
 声、大きい。うるさい。人が寝てるのに大きな声で話さないでほしい。

 え? あれ? なんで? テレビつけっぱなしだったっけ? それに。

 ぼんやりと頭に浮かぶ疑問。なぜ、人の声がするんだ? 体を包み込んでいる、この温もりは……なに?
 急速に浮上した意識に、義一はパッと目を開いた。
「おぉ、目が覚めたか!」
「え……?」
 大きな声は、すぐ近くで聞こえた。いや、近いなんてもんじゃない。近すぎだ。
 パチパチとまばたく目を刺すような、金色のきらめき。これは、なに?
「一人で寝てしまうから、寂しかったぞ! とても愛い寝顔だったがな!」
 フフッと笑う声と、キラキラした光。
「……誰」
 義一のかすれた声は、寝起きであるのを除いても、呆然としていた。
「ひどいな! 寝ぼけているのか?」
 目の前で笑う顔が眩しい。比喩的な意味だけでなく。キラキラと目前で光る金の髪が、ちょっと目に痛い。
「ここ……」
「ん? 君の部屋に決まっているだろう?」
 ですよね。大学とバイト先の倉庫しか、行くところなんてない。自分の部屋以外でこんなふうに寝入るなど、義一の生活ではありえない事態だ。
 でも。
「な、なんで」
「ふむ。本格的に寝ぼけているな」
 苦笑する声はやさしい。でも、ちょっと、離れてほしい。近すぎる。っていうか。

 まだ頭がぼんやりしてる。状況がよくわからない。眠っていたのは確かだろうが、その前は? なにをしていたっけ。それに、この人は……。いや、それよりもまず、なんで抱きしめられてるんだ?

「大丈夫か? 名前を言えるかな?」
 じっと見つめてくる大きな目の圧がすごい。声は静かなのに、なぜだか逆らえない気がした。
「……冨岡、義一」
「歳は?」
「十九。来週から、大学二年生」
 なんでこんな素直に答えてるんだろう。わからない。でも、逆らうすべも見つからない。
 ニッコリと笑う顔に、ドキンと心臓が大きな音を立てた。髪と同じ金と赤の瞳が、じっと見つめてくる。
「じゃあ、俺の名前は?」
 名前。この人の? 知らない。だって、名前なんて聞いたこと……。少し混乱した頭のなかに、ポンッと浮かんだその名を、義一は知らず口にしていた。
「煉獄、桃寿郎」
 そうだ。なんで知らないなんて思ったんだろう。よく知ってるのに、忘れるなんて。
「うむ! では、俺の歳は?」
「……十八」
「五月には君と同い年になるがな! 最後の質問だ。俺は、君のなんだ?」

 俺の……桃寿郎は、俺の……。

「……幼馴染」
「それだけか?」
 目。金と深紅の、目が。心の奥底まで覗き込んでくるみたいな、桃寿郎の目が、見てる。
「あの……こ、恋人」

 なんで、こんな大事なことを忘れたんだろう。恋人になれて、あんなにうれしかったのに。やっと一緒に暮らせるのに。

 薄情な自分を、桃寿郎はどう思っただろう。不安が湧き上がって、義一の瞳が小さく揺れた。けれど桃寿郎は、ちっとも気にした様子などなかった。
 桃寿郎が破顔したのと同時に、視線の圧が解ける。義一は思わずハッと小さく息を吐きだした。気づかぬうちに呼吸が浅くなっていたらしい。少し息が楽になる。
 よくできましたと言うように、チュッと音を立てて額にキスが落ちてくる。ビクンと肩をすくめた義一に、桃寿郎はいかにも上機嫌に笑っていた。義一を腕に抱え込んだまま。
「ようやく目が覚めてきたようだな! よもや忘れられてしまったかと、焦ったぞ!」
「ごめん……」
「なに、責めているわけではない! 寝ぼける義一も愛らしいからな!」
 愛らしいって。しかも、キス、されるし。申し訳なさとはにかみに、もぞりと義一は桃寿郎の胸に顔をうずめた。恥ずかしくって顔をあげられない。
 あたたかくて固い、桃寿郎の胸。とくとくと鼓動が聞こえる。生きてる。なぜだかそんな安堵が胸を満たした。
「義一、恥ずかしがる君もとても愛いが、顔が見たい。見せてくれ。ホラ、顔を上げて。でないと接吻もできないぞ」
「せっ!? む、無理っ」
 そんなことを言われてしまったら、ますます顔をあげられなくなるだけだ。接吻。って、キスだよな。桃寿郎の語彙はなんかちょっと古めかしい。
 そう……だっけ? いや、うん、そうだ。だから錆兎や真菰にも、ときどきからかわれて……だよな? なんだろう。記憶がぼんやりして、よく思い出せない。
 ハハハと快活に笑う桃寿郎の胸が上下する。いっそう強く抱きしめられて、鼻を甘い香りがくすぐった。
 なんだっけ、この匂い。思い出せない。
「君は本当に初心だな! だが、今日から一緒に住むんだぞ? 慣れてくれなくては、君の顔をちっとも見られなくなってしまう! それに……閨でそんなふうに恥じらわれては、我慢できるものもできなくなりそうだ」
「一緒に……?」
「まだ寝ぼけてるのか? ……君が高校を卒業するときに、俺が告白したのは、ちゃんと覚えているか?」
 告白!? そんなものされた覚えは……。思った瞬間、鼻の奥に甘い香りが流れ込んで、頭の奥がしびれた。

 告白……された。そうだ。卒業式のあとで、桃寿郎から。俺は、進学で家を出るから。

 離れてしまう前に恋人になりたいと、好きだって言われて……。ずっと、俺も好きだったから、うれしいってうなずいて……その日から、幼馴染だけじゃなく、恋人になった。
 だよな? 間違ってない、よな?
「お、覚えてる」
「じゃあ、約束は?」
 少し面白がっているような笑みまじりの声なのに、ささやかれる言葉は強く、なぜだか逆らいがたい畏怖を感じる。
 知らず震えかけた義一の背を、あたたかくて大きな手が撫でた。
「義一、答えてくれ」
「桃寿郎が、同じ大学に入ったら……一緒に住む」
 だから一人でも頑張るって、そうだ、約束した。桃寿郎と。一緒に暮らすまでは清い関係でいようって、言われて……二人で暮らせるようになったら。
「あ……」
「思い出したか? ホラ、ちゃんと言ってくれ」
「やだっ。桃寿郎、意地悪だ」
 クツクツと喉の奥で忍び笑われて、ますます恥ずかしくなった。桃寿郎のシャツにしがみついて、ぐりぐりと頭をたくましい胸板にこすりつけたら、よしよしと背を叩かれる。
「悪かった。義一、顔をあげてくれ。君の愛らしい顔が見たい」
「恥ずかしいこと、言うなっ」
 小さな声で異議申し立てして、それでも義一はそろりと顔をあげた。消えてなくなりたいぐらい恥ずかしいけれど、桃寿郎の顔が見たいのは、義一だって同じだ。顔が見たいし、声が聞きたい。
 だって、ずっと逢いたかった。小さいころからずっと、話しかけることもできなくて、声が聞きたくて、でも一度も……。

 あれ? なに考えてるんだろう、俺。桃寿郎はずっと一緒だったのに。だって幼馴染で、いじめられがちな俺をいつだって守ってくれたのは、桃寿郎なのに。声が聞けなかったのは、あの人のほうだ。

 あの人って……誰だ?

「やっと顔を見せてくれた。だが、まだ寝ぼけてるみたいだな。もう少し眠るといい。起きたら、『記憶』もはっきりとするだろう」
 甘い匂いがする。なんだっけ、この匂い、知ってる。でも、思い出せない。
 なぜだかまぶたがとろりと重くなる。頭がぼんやりしてくる。
 眠い。むしょうに眠くて、目が開けていられない。

「おやすみ、義一。起きたらなにもかもちゃんと『覚えてる』から大丈夫だ」

 起きたら。起きたら、どうしよう。あぁ、そうだ。段ボール片付けないと。明日は資源ごみの日だから、今日届けてもらうように指定したんだった。
 段ボール? なにを、届けてもらったんだっけ。わからない。覚えてない。
 でも、きっと明日になったらはっきりするんだろう。
 目を開けても桃寿郎がそばにいてくれたら、きっと。

 明かり消して。どうにかそれだけポツリと言って、義一は眠りの底に落ちていく。

 あぁ、愛いなぁ。やっと君を手に入れられる。

 そんな上機嫌な声が、聞こえた気がした。なぜだか、ゴロゴロと喉を鳴らす猫を思い出させる声だった。