乱舞する深紅のラブシック 1

 とうとう買ってしまった……。というか、届いてしまった。
 宅配の配達員が浮かべる笑みを見返せず、うつむいたまま無言で受け取りにサインする義一の手は、隠しきれぬほど震えていた。ほぼ仕送りに頼っている義一にとっては、分不相応すぎる高額商品だ。なにせ三十万を超えている。商品を購入したときも、マウスをクリックする手がブルブルと震えたけれど、実際に届いてしまうと、とんでもないことをしてしまったと怯えが高まるばかりだ。
 宝くじの当選金など、しょせんはあぶく銭。懐が痛むわけではない。偶然『彼』を知った直後の当選に、運命を感じたのも実際に購入手続きをしてしまったのも自分自身ではある。だが、一生秘密にしなければならない買い物だ。友人など、大学に入ってから一年が経とうという今になっても、一人もいない生活だけれど、これでいよいよ誰も部屋には呼べなくなった。

 あぁ、もう後戻りできない。

 六畳ワンルームの真ん中にドンと鎮座する段ボールを見つめ、義一はゴクリと喉を鳴らした。
 品名に『家具』と書かれた伝票に、ちょっとだけ乾いた笑みがもれる。

 玩具じゃないんだな……。

 ふと思ったそばから、それじゃストレートすぎるかと、浮かんだ疑問を否定する。一七七センチにもなる玩具なんて、そうそう思いつかない。おまけに受取人は明らかに男性だとわかる自分の『冨岡義一』名だ。玩具など違和感しか感じない。というか、たぶん異様なんじゃなかろうか。だからこそ、こういうごまかしも必要なのだろう。
 それに、家具というのもおかしな話だが、置物には違いない……ような気がする。
 家具だろうと玩具だろうと、なんとなくしっくりこないのは、『物』だと言いたくないからだろうか。
 馬鹿なことをと、義一の笑みが自嘲に歪んだ。いずれにせよ、傍目にはしょせん『物』でしかない。たとえ自分にとって、大切な人となりえても。

 フッと一つ息を吐き、義一は用意していたカッターを手にとった。
 万が一にも彼を傷つけてはいけない。短めに出した刃を恐る恐るガムテープに当てる。慎重に手を動かし切り開いていくのにあわせ、心臓が痛いくらい大きな鼓動を刻んだ。
 震える手で、おっかなびっくり段ボールを開く。緩衝材を取り除いた瞬間、現れた『それ』に、ビクンと肩が跳ねた。
 相まみえたのは、男性の裸体としかいいようがない。だがギョッとした点は、そこではない。覆面よろしく緩衝材にくるまれている頭部に、一瞬心臓が止まるかと思った。実際、一秒ぐらいは停止したかもしれない。
 プロレスラーのマスクのような見た目ではあるが、マスクと違うのは、目や口の部分も覆われている点である。真っ先に思い浮かんだのは拷問を受ける捕虜だとか、遺体という言葉だ。上半身の質感が見た目には人と変わらぬだけに、いっそうそんな印象が強まる。
 息などしないとわかっているつもりだったのに、とっさに「このままでは彼が死んでしまうっ」と焦りが湧いて、義一はあわてて顔の緩衝材に刃を当てた。
 周章狼狽しつつも、彼の顔に傷をつけるなどもってのほかだ。慎重に慎重を重ねて、薄いシート状の緩衝材を取り除くと、人工物だとは思えぬ瞳と目があった。
 ドクン、と、ひときわ大きく心臓が音を立てる。今度こそ確実に、鼓動が止まった。

 あぁ、あの人だ。本当に、あの人によく似ている。

 知らず詰めた息をそろりと吐く。段ボールのなかからまっすぐに義一を見つめてくる目は大きい。その目を縁取る睫毛は長く、眉は男らしくキリリとしている。唇は小さく弧を描き笑んでいた。
 サイトにあったほかの『商品』たちは、どちらかといえば憂い顔に見えたのに、彼だけは笑みだった。だから余計にあの人に見えたのだと思っていたが、実際に目にすると、やはりあの人と寸分変わらなく思える。
 とくにそっくりなのは、瞳だ。金と赤の風変わりな目の色。深まる秋を彩る紅葉……いや、焔だ。凍える人を暖める焚き火、一切の不浄を浄化する清めの火。頭部はつるりとなだらかな坊主頭だ。髪は付属のウィッグだからしかたがないが、法師のようで、よけいに清めなどという言葉が浮かぶのかもしれない。
 馬鹿な、と、また義一は思う。自嘲はますます深まった。この『製品』の存在理由は真逆だろうに。いや、欲を昇華するという点だけ見れば。
「そうでも、ないか」
 無意識に口をついた独り言が、やけに大きくひびいた気がして、ソワリと背を震わせる。
 ともかく、このままにしておくわけにはいかない。顔から視線を外せば否応なく目に入る人工の肉体は、いかにも目の毒だ。
 健康的な肌の艶や、盛り上がる男らしい胸筋や腹筋。人により近い見た目のほうがいいと、悩みに悩んでカスタマイズ依頼した乳首だけが、肌のなかで色味が濃い。ピンクはどうかと思ってブラウンを選んだのだが、なんだかやけにこう、いやらしげに見えるような……。
 男性の胸部などべつに意識するようなものではないはずなのに、なんだか見てはいけないものを見ている気分だ。変なこだわりなど持たねばよかった。生きているかのような肌艶も相まって、いたたまれなさが半端ない。
 同じく熟考のうえ植毛してもらった股間には、もさりとした下生えがあった。ウィッグと同じ金色に赤毛の混じった毛まで生えていると、本当に人のようにも見えるのに、その下にはポカリと穴が空いている。
 男性型の象徴であるものは着脱式で、自分で差し込まねばならないからだろう。人ではないのだと知らしめる光景に、なんとはなしホッとする。なまじあの人とそっくりなだけに、罪悪感で死にたくなりそうだ。
 人らしくなくていっそ助かる。思いながら、義一は箱のなかから彼をそろりと抱き上げた。重い。身長は義一と一センチ高いが、体重はだいぶ軽いはずだ。それでも抱きかかえるとズシリとした重みを感じる。

 あの人は、どうなのだろう。もっとずっと重いのだろうか。それとも重さなど感じられぬほどに軽いのだろうか。

 ともあれ、素っ裸のままではどうにも落ち着かない。あわてて下着を履かせようとした手が、ハタと止まる。
「つ……つけてからの、ほうが、いいのか……?」
 段ボールに残された緩衝材の包みに、我知らず視線が向かう。なんとなく開く勇気がわかず、見ぬふりをしていたけれども、つけぬままにするのも申し訳ない気がしないでもない。
 あの人が大人の男性であるのは間違いない。それでも『人』ではないのだろう。あの人と心のなかで呼びはしても、人の形をしているだけで人ではない。それはとっくに理解している。
 けれども、つるんとした股間は、これはただの人工物だと突きつけてくるようで、それはそれでなんだか悲しいし、どこかしら悔しくもある。
 これはあの人ではなく、ただの代替品だと理解している。それでも自分はきっと、日々『彼』に話しかけるだろう。あの人に話しかけてみたかったという切願と、日々募るばかりの寂寥を、『彼』で埋めるために。
 声は返ってこなくとも、あの人と一緒に暮らしていると思うだけで、満たされる心地がするに違いない。部屋に帰るたび、あの人と同じ笑みが迎えてくれる。それはどれだけ癒やされることだろう。物扱いなどできるわけもない。毎日ただいまと微笑みかける自分の姿は、予想ではなく確信だ。
 数秒考え、義一は、よしっと意を決し緩衝材の包みを手にとった。
 厳重に包まれているからだろうと思っていた大きさは、いざ開いてみれば、なんの誇張もなかった。

「デ、デカい……いやっ、デカすぎないか!?」

 また口をついた独り言は、今回ばかりは致し方なかろう。成人前とはいえ、義一だって日本人の平均身長を超えている男だ。手だって身長に見合う大きさである。むしろ指は長いほうだと思う。
 なのに、現れた物はそんな義一の両手で握っても、わずかばかり手に余るほどに巨大だ。義一のものとくらべたって、かなり大きい。
 タラリと冷や汗が背を伝った。これでは下着にすらおさまらないのではなかろうか。
 こんなイチモツを女性は受け入れられるのか……? いやっ、自分には関係ないけれども! そういう目的で購入する人は多かろうが、自分は彼にそばにいてほしいだけで、そんなことはちっとも考えてない!
 胸中でわめきたて、誰にともなく言い訳などしてしまう。
 だいいち、経験などまるっきりないのだ。キスだってしたことがない。いくらあの人そっくりだからって、これは人形だ。処女喪失――男性でもそういうのかは知らないけれど――の相手が人形というのは、いかがなものか。
 義一の顔に、ふと虚無感が漂った。スッと冷めた脳裏は、至極冷静に現状を整理しだしている。
 一人でなにをうろたえているのだか。使用することなどないとはいえ、人として接したいなら迷う必要などなかろう。とにもかくにも、部屋にいてもらうなら、それ相応な姿になってもらうのが先決だ。つまりは、服を着せる。これ以上に重要なことなどない。
 無の境地で義一は淡々と作業を開始した。そう、作業だ。ちゃんと服を着せ終えるまではただの作業。
 自分に言い聞かせつつ、着脱式の性器を取り付け、苦心して下着を履かせる。関節は可動式で様々なポージングが可能とあったが、けっこう固い。肌自体はやけに高性能で、筋肉質な男性らしい感触なものだから、なんだか整体師にでもなった気分だ。デニムとシャツの組み合わせは失敗したかもしれない。もっと着せやすい服にすればよかった。

 どうにか彼のために買っておいた服を着せ終えるのに、十五分ほども格闘しただろうか。思わず、ハァッと達成感のこもった深いため息がもれた。
「あとは、ウィッグだな」
 ベッドに腰掛けさせた『彼』に、少し長めの金髪をかぶせる。記憶のなかのあの人と同じように、ハーフアップに結び、前髪を立てたら、いよいよ瓜二つだ。
 つくづくと見つめれば、トクトクと心臓が騒ぎ出した。

「あの……今日から、よろしく。桃寿郎……」

 人が見たら、きっと頭でもおかしくなったと思われることだろう。これはただの人形だ。命などありはしない。
 だが、義一にとっては愛おしくてたまらぬ人の代わりに、そばにいてくれる存在なのだ。生きた他人よりも、ずっと大切な『人』だ。恋人だなんて、なんとなくおこがましくて呼べやしないだろうが、家族のように暮らせたらとは思う。ならば挨拶は大事だ。一応、これが初対面となるのだから。

 家族や数少ない友人と離れ、誰も知る人のない遠い地へと来て早一年ほど。噂を知る人のない土地でなら人間関係も良好になるかと思いきや、義一にまとわりつく不穏な現象は、故郷と大差なかった。気がつけば、故郷にいたころよりも一人きりだ。
 でも、今日からは違う。声をかけたところで返事をしてくれるわけでもない人形だろうと、あの人と同じ笑みを浮かべた桃寿郎がいてくれる。大学を卒業したあとのことは、今は考えまい。桃寿郎を連れ帰るのはたぶん無理だろう。ならば故郷に戻らぬという選択もある。
 どうせ、きっとどこにいたって、自分の存在は忌まわしいものとして扱われる。それなら桃寿郎と一緒に暮らせるほうがいい。
 フッとこぼれた笑みは自嘲の色合いが深かった。それでもこの部屋に来て初めて、義一が誰かに向けて浮かべた笑みだった。

 ラブドール。桃寿郎の商標名はそうなっている。昔はダッチワイフなどと呼ばれていた、疑似セックス用の人形だ。
 そういう目的で使用する人形があることは、さすがに十九年も生きていればいかに奥手な義一とて知ってはいたが、まさか男性型まであるとは思いもしなかった。
 桃寿郎という名を持つこの人形の存在を義一が知ったのは、ひょんな偶然だ。だが、偶然だからこそ、運命的な気がした。
 もしも義一がぼっち飯を余儀なくされていなければ、たぶん、見知らぬ女生徒たちの会話を聞いてしまうこともなかっただろう。金と赤の髪に、同じ色合いの瞳をした桃寿郎という人形のことなど、知らぬまま一生を終えていたに違いない。
 人気のない非常階段脇でキャアキャアと騒ぐ声は、義一の存在にまるで気づかぬからこそあけすけに、筋肉がどうこう巨根がどうこうと、聞いている義一が真っ赤になるような会話を繰り広げていた。
 義一がその場を立ち去れなかったのは、桃寿郎なる人形の髪や瞳が、逢いたくてたまらない人を思い出させたからだ。

 名前は知らない。たぶん、いや、きっと人でさえない。幽霊なのか、それともあやかしの類なのか。ほんの幼いころに初めて見たあの人は、どれだけ歳を重ねてもいっさい変わることなく、あの森にいた。
 声を聞いたことはない。触れたことなど皆無だ。木漏れ日の下に立つその人を、ぼぅっと見つめていた義一に、彼は大きな目をパチリと一つまばたかせ、静かに笑って消えた。時期外れの杏の花の香りを残して。
 あの日からずっと、あの人に恋してる。

 あぁ、そっくりだ……。

 何度も人目を忍んで通った、入らずの森。大人の言いつけに背いてまでも、足繁く通ったのは、あの人に逢いたい一心だ。
 彼の姿を見ることはできたが、それだけだ。いつだって、声をかけようにも声は出ず、近づこうにも足は動かなかった。
 あの人も決して義一に歩み寄ってはこなくて、いつでもただ静かに義一を見つめ、笑いかけてくれるだけだった。
 水干を手に入れられたらよかったのだけれど。ごく普通の白いシャツとデニム姿の桃寿郎を見つめ、義一は口惜しさにちょっぴり眉を寄せる。
 あの人がいつも着ていたのと同じ格好をしてほしかったが、桃寿郎を迎えるだけで予算オーバーだ。とはいえ、水干など着せようものなら、倍以上の時間がかかるのは確実である。あの人そのままの姿というのも、あまりにも不遜がすぎる気がしないでもない。

 桃寿郎にはどんな服が似合うだろう。身長はほぼ変わらないから、俺の服を着てもらうのもいいかもしれない。あぁ、バイト代が入ったら桃寿郎のパジャマも買おう。シングルベッドで一緒に眠るのはキツイかもしれないけれど、腕枕……とか、してもらったり。おそろいのパジャマで。
 顔が熱くなってくるのを感じて、義一は、桃寿郎を見つめていられずもじもじとうつむいた。
 大きな桃寿郎の目は、人工物だというのになんだか圧が強い。じっと見つめられると、自分の妄想まで見抜かれているみたいで、なんとはなし恥ずかしくなる。
 触れても、いいだろうか。
 服を着せるのにさんざん触っているのに、今さらだろうと思いはする。けれども、まだ人形然としていた状態と違って、こうして腰掛けている姿はまるきり人だ。勝手に触れていいものかと躊躇してしまう。
 しばらくもじもじと悩んだが、触れたい欲がけっきょくは勝った。
 よしと一つ武者震いして、義一はそろりと桃寿郎の頬に手を伸ばした。

 やわらかい……。

 思ってふわりと浮かんだ笑みは無意識だ。温もりさえ感じる気がする。
 できるかぎり人に近づけたくて、呼吸機能やら温もり機能もつけてもらったのはやりすぎだったかと、少しばかり後悔したが、やっぱりつけて正解だ。おかげで三十万を超えてしまったが、ちっとも惜しくない。わずかに上下する胸と呼吸音や、ほのかな温もりに、すごく安心する。
 うれしくてちょっぴり大胆になり、義一は思い切って桃寿郎に抱きついてみた。
 肩口に額をうずめ、それでも控えめに背を抱いたその瞬間。
 グッと己の背に感じた強い力に、義一はパチリとまばたいた。
「え……っ?」
「やぁ、俺こそよろしく頼む!」
 耳元で聞こえた声は、いったいなんだ。誰の声なんだ? 頭のなかが真っ白になる。部屋には義一と、桃寿郎しかいない。桃寿郎には、音声機能なんてない。それなら、これは、この声は。
「君の名前は?」
 ささやく声が、息が、耳をくすぐって、義一はゾクリを背を震わせ首をすくめた。

 拘束されている。なにに? なにか温かいもので、力がひどく強い。動けない。耳に、頬にと、感じる息づかい。体を包む温もり。……そんなもの、まだ桃寿郎にあるわけがない。だって、スイッチなんて入れてない――!

 恐慌をきたし知らず上がりかけた悲鳴は、けれども、義一の口からほとばしり出ることはなかった。
「んぅっ!?」
 頭を押さえつける力。鼻先に感じる息。唇を塞ぐ、この感触と温もりは……。
 頭のなかは大混乱で、逃げ出したいのに、体はちっとも動かない。見開いたままの目に映る桃寿郎の顔は、ひどく近かった。焦点が合わず、ぼやけて見えるほどに。

 あぁ、抱きしめられて、キスされてるのか。

 気づいたとたん、義一の恐慌は頂点を極めた。ふたたび湧き上がってきた悲鳴に、図らずも唇を開いたら、待ちかねたといわんばかりにぬるりとした感触が差し込まれた。
「ふっ、ぅん!」

 舌……舌入れられてる! えっ、え!? なんで?!

 逃げなければと思うのに、なぜだか体は硬直して、桃寿郎のシャツの背を握りしめることしかできない。思わずギュッと目をつぶった。口中に入り込んだ舌は我が物顔でうごめいている。上顎を舌先でくすぐられると、ゾクゾクとした震えが背に走った。
 貪られている。まさにそうとしか言えない口づけだった。
 触れ合うだけのキスだってしたことのない義一には、あまりにも刺激が強すぎる。どうやったら息ができるのかすらわからない。吸われている舌が痛いぐらいにしびれる。苦しくて、思わず口中にあふれかえった唾液を飲み込めば、喉の奥で忍び笑うような声が聞こえた。
 間を置かず、舌がゆっくりと口から去っていく。解放された唇をあえがせ、義一は必死に酸素を吸い込んだ。
「愛いなぁ。口吸いだけでこんなに蕩けて……じつに愛い!」
 いかにも上機嫌な声とともに、あの人と同じ顔が間近で破顔した。

 夢か? 夢だな。だって、こんなのありえない。とびっきりの悪夢だ。……いや、極上、かもしれないけれど。

 スゥッと遠のいていく意識の片隅で、おい! とあわてる声が聞こえた気がするけれど、たぶん、気のせいだ。
 そういうことにしておこう。