午後7時のルイスリンプ 4

 バックミラーに映る一同が消えても、車内は会話がなかった。気詰まりというほどではないが、生来口下手な義勇には、なにを話せばいいのかわからない。
 いつもなら炭治郎が率先しておしゃべりしてくるので、義勇が話題を探す必要もなかった。
 だが――。

 義勇はちらりと横目で助手席をうかがった。炭治郎はしゃちほこ張って座っているばかりで、話しかけてくるどころか、義勇のほうを見る余裕すらないようだ。義勇の視線にも気づいた様子はない。うつむき気味の顔は表情がいつになく固かった。不機嫌な感じは見受けられないのが、救いと言えば救いだ。
 顔が真っ赤に染まっている理由は、羞恥心からな気がする。炭治郎も緊張しているんだろうか。
「……仲がいいな」
「えっ? あ、はい! って、あ、ご、ごめんなさい! 俺、まだ挨拶もしてなかったっ。おはようございます!」
 どうにか会話をと思って話しかければ、かわいそうなほどにうろたえる。恋人として初めて義勇の家を訪れたときにも、炭治郎はずいぶん緊張していたけれど、これほどではなかった。禰豆子たちには申しわけないが、まだデートは早かったんじゃないだろうか。炭治郎のためと思って了承したが、義勇は早まった気がしてならない。
 けれども、義勇の胸をよぎるのは不安ばかりでもなかった。緊張は炭治郎からの好意ゆえだと思えば、こんな反応は微笑ましくもある。義勇の後悔にしても、炭治郎への愛おしさがあるからだ。世の恋人たちも初めてのデートではこんな感慨をいだくのだろうかと、義勇は少しだけ面映ゆく思う。
「いや、俺も言ってなかったな。おはよう」
「義勇さんはちゃんとあいさつしてくれてましたっ」
「あれはお母さんにだろう。今のはおまえに」
「そ、そうですか……。あ、あのっ、あんな全員勢ぞろいで、義勇さん迷惑じゃなかったですか? ごめんなさい。恥ずかしいからいいよって言ったんですけど、母さんはともかく禰豆子たちまで、義勇さんにご挨拶しなきゃって聞かなくって。昨夜からずっと、初めてのデ、デート、なんだからって、お祝いとか言い出すし義勇さんによろしくお願いしますって言わなきゃとか、俺より盛り上がっちゃって、茂や六太までわけわかんないくせに……ほんとにごめんなさいっ」
 ようやく話しだした炭治郎は、今度はいつも以上にまくしたてる。顔も赤く染まったままで、笑みはない。いっそ泣きだしそうなほどに瞳が潤んで揺れていた。心底恐縮する様に、なんだか義勇のほうがいたたまれなくなった。
「気にするな。みんなおまえのことが大好きでたまらないんだろう」
 落ち着かせてやりたくて左手を伸ばし頭を撫でてやれば、たちまち口をつぐむ。ますます頬の赤味が増した気がする。
「あの、片手運転、危ないですよ」
 恥ずかしそうにうつむいて、消え入りそうな声で言う炭治郎は、緊張しているというよりも今は照れまくっているようだ。罪悪感は薄れたのだろうか。まだ笑みを浮かべる余裕はないようだが、表情の固さはとれたように見えた。
 肩をすくませ、モジモジと落ち着かなげに指をすり合わせる仕草がかわいい。ちろりと上目遣いに向けられた瞳からも、泣きだしそうな気配が消えた。
 緊張しても恥らっていても、危ないからと生真面目に言わずにいられない。そんな炭治郎に愛しさがこみ上げ、義勇はこそばゆさを覚えた。
 やわらかな髪の手触りや、ほんのり伝わる体温は心地好く、手を離しがたい。だが、撫でつづけていれば、炭治郎はますますうろたえてしまうだろう。ポンッとひとつ軽く頭をたたいて、義勇はどうにか手をハンドルに戻した。
 炭治郎は、一瞬だけ残念そうにも見えたけれど、横目でうかがうだけではよくわからない。けれど、少しリラックスしてくれた気がする。

 もっと道が空いていたらよかったのに。さもなければ車でなく電車なら。そうしたら、もっと炭治郎を長く見つめることもできただろうに。

 義勇がそんなことを考えているとは思いもしていないだろう炭治郎は、チラチラと恥ずかしそうに義勇を見ては、口を開きかけまた閉じるのを繰り返している。だが、だんまりは炭治郎も気詰まりなのだろう。ようやく意を決したのか、炭治郎のまだ赤みが残る顔が、やっと義勇に向けられた。
「えっと……義勇さん、いつもとちょっと、雰囲気が違います、ね」
「そうか?」
 あぁ、やっとまともに話しかけてくれた。安堵する間もなく、またぞろ小さな不安が義勇の胸のうちで頭をもたげる。
 花子は褒めてくれたが、炭治郎の目には今の自分はどう映っているのだろう。ファッションセンスにはとんと自信がない義勇は、思わず息をつめて炭治郎の言葉を待った。
  ショップの店員めいた褒め言葉が聞きたいわけではないけれど、なんの感想もないのは少々落ち着かない。
 炭治郎の格好はいつもと変わらぬように見える。もちろん、とてもかわいいし似合っていると思うけれど、髪型まで変えた自分と比べれば気負いがない。
 気合が入りすぎだとあきれられてないだろうか。それとも、炭治郎の好みとはかけ離れていたりとか? 考え出せば不安は尽きなかった。
 義勇の感情は、このところ乱高下が激しい。まるでジェットコースターだ。炭治郎の些細な反応の一つひとつに心揺さぶられて、期待に胸弾んだり不安に落ち込んだりを繰り返す。

 炭治郎は、とっくに成人していて、しかも恋愛小説なんて書いている俺が、デートするのも初めてだなんて、きっと思ってもみないだろうな。

 幻滅されたらどうしたらいいのか。なんだか今度は義勇のほうが泣きたくなってくる。
 けれど心配は杞憂に過ぎなかったようだ。
「かっこよすぎて……その、俺、もっと大人っぽい格好すればよかったですよね。あのっ、禰豆子と花子に聞いて、こ、好感度あげる格好ってのは意識したんですけどっ。でも、全然義勇さんとつりあってない……」
 勢い込んで話しかけてきた炭治郎の早口な言葉は、尻すぼみに小さくなった。しゅんと肩を落とした姿に、義勇の緊張がゆるみ、代わりに胸を満たしたのは愛おしさと再びの安堵だ。
「そんなことはない」
「でも」
「似合ってる。かわいい」
 横目で見やり、炭治郎の少し不安げな顔に微笑みかければ、またまろい頬が染まる。
 オーバーサイズのパーカーの袖から、ちょこんとのぞく指先が、キュッと握りしめられたのを見たら、思わずまた手が伸びた。
「……片手運転は駄目ですってば」
「もう赤になる」
 ちょうど交差点だ。信号が変わるまではいいだろうと、車に乗り込んでから初めて義勇は炭治郎に顔を向けた。
「かわいい」
 ちゃんと炭治郎の顔を見てそっと撫でながら言った言葉に、嘘やお世辞はまったくない。炭治郎らしく元気で清潔なコーディネートは、義勇の好感度を確かに上げている。あえていつもと違うところを探すなら、パーカーのサイズぐらいだろうけれど、禰豆子たちのお薦めだろうか。よくよく見れば、服も靴も初めて見るものばかりな気がする。
 禰豆子や花子に連れまわされて、目を白黒させながら言われるままに買い物する炭治郎を、義勇は思い浮かべた。ただの想像だけれど、きっと間違ってない。

 同じだ。初めてのデートに舞い上がって、緊張して、なにを着ていいのかもわからず慌てて。アドバイスにすがり、気に入ってくれるだろうかとドキドキと袖を通した、新品の服。炭治郎も、自分となにも変わらない。それがなんだか途轍もなく幸せだと義勇の胸は甘く締めつけられた。
 まるで中学生の恋みたいだと思わなくはない。けれど、それも自分たちには似合っているのかもしれない。
 恋人初心者なふたりなのだ。少しずつでいい。ゆっくり進んでいくのが、自分たちには似合っているんだろう。

 信号が青に変わる。手をハンドルに戻した義勇は、不思議な心持でアクセルを踏んだ。
 小さな子どものようにはしゃいでしまいそうな、浮き立ち舞い上がるような楽しさや、九死に一生を得たごときの安堵。わずかに緊張も残っているし、叫んで逃げ出しそうに恥ずかしくもある。そのどれもが本心で、とりとめがない。
 けれど、どれも恋しく幸せだからこその感情だ。

 両想い。恋人なのだ、炭治郎と俺は。同じ想いを向け合っている。噛みしめるように思って、面映ゆさに知らず義勇の顔に微笑みが浮かんだ。

 もしかしたら、炭治郎も同じことを考えたのだろうか。はにかむ笑顔を浮かべ、よかったと呟いている。緊張や不安はだいぶ抜けたらしい。
「今日はどこに行くんですか?」
 聞いてくる声もいつもの朗らかさを取り戻しつつある。
 教えてやるほうがいいのか、サプライズ感を大事にすべきか。少し迷って、結局義勇は素直に口にした。
「水族館」
 サプライズを成功させられるほど、慣れちゃいないのだ。無理をすればきっと失敗する。
「水族館? 俺、遠足以外で行ったことないです」
「動物園やフラワーパークだと、匂いが気になるだろう?」

『鱗滝さんと同じ体質? 珍しいねぇ。それなら動物園やフラワーパークは却下だね。匂いで気持ち悪くなっちゃったら可哀相でしょ? 水族館もそれなりに匂うけど、フラワーパークとかよりは匂いが混ざりあってない分、いいんじゃないかな。動物園よりは大人っぽさも演出できるしね』

「なんでわかるんですか!? そうなんです、俺、動物は大好きなんですけど、前に遠足で動物園に行ったときは、匂いが多すぎて途中で気持ち悪くなっちゃって……」
 真菰のアドバイスを受けておいてよかった。内心で盛大に安堵のため息をついた義勇に、炭治郎はうれしそうに笑った。
「俺の体質のことまで考えてくれたんですね」
 幸せそうにたわめられた目に、尊敬や感謝の色を見つけてしまえば、なんだかいたたまれなくなる。炭治郎が喜ぶことを最優先に考えたとはいえ、義勇自身が思いついたわけではないのだ。真菰のアドバイスあっての選択である。さすがは恋愛小説家ですねなどと弾んだ声で言われた義勇は、罪悪感すら覚えた。
 黙り込んだ義勇を少し不思議そうに見た炭治郎が、不意に小さく鼻をうごめかせた。ギクリと義勇はかすかに肩をこわばらせる。匂いで悟られるのは勘弁願いたい。誤魔化すように義勇はまた口を開いた。
「水族館のあと、もしほかにしたいことがあれば今のうちに言え。映画とか、遊園地とか……」
「え? でも、そんなにいっぱい回るの大変じゃないですか?」
 きょとりと目をまばたかせる仕草はどこか幼い。炭治郎の物慣れない様は愛らしさと同時に、気遣いの気配がにじんでいて、かわいいと思いつつも義勇は少しだけ苦笑した。

 炭治郎は家族や友達にわがままを言ったことなど、ほとんどないのだろう。義勇に対してもまだ同様なのか、迷惑じゃないか、困らせてはいないかとまず心配してしまうようだ。
 それは少しだけ寂しい気もするが、自分の努力が足りないからでもある。これもおいおいだ。もっとわがままを言えなどと言ったところで、炭治郎は困るだけだろう。少しずつでいい。自分にだけは炭治郎がわがままや甘えを素直に口にできるようにしてやろうと、義勇は思い定めた。

「水族館と同じ場所に映画館も併設してる。三十分もかからないところに屋内型だが遊園地もある。あぁ、観覧車ぐらいなら乗れるか」
「そんなにいっぱい!? え、あの、どこ行くんですか?」
 想像もつかないのだろう。炭治郎は呆然としてすら見えた。平静を装ってはいるが、その気持ちは義勇にもよくわかる。真菰に提案されたときの義勇の反応は、炭治郎と大差なかったのだから。
「品川プリンスホテル」
「へぇ、ホテルに水族館なんてあるんです、ね……って、ホッ、ホテル!?」
 すっとんきょうな声で叫んだ炭治郎の顔が、再び火がついたように真っ赤に染まった。あわあわと視線をさまよわせる様子に、思わず義勇もうろたえてしまう。
 ホテルという言葉だけでこの反応とは。思春期らしいと言えなくもないが、こんな態度をとられるとまた不埒な想像が浮かんできて、困る。
 意味なく空咳なぞして、義勇は胸のうちで落ち着けと自分に言い聞かせた。
 赤面しにくい質だからよかったものの、そうでなければ自分の顔もみっともないほど赤くなっていたに違いない。自分の体質にちょっとだけ感謝しつつ、義勇は、炭治郎に気づかれぬよう小さく深呼吸なんかしてみる。
「変な想像をするな。ホテルのなかに水族館や映画館もあるんだ」
「へ? あ、そう、なんです、か……」
「おまえが高校を卒業するまでは健全なつきあいと言っただろう」
「そう、ですね」
 焦りが声に出ぬよう気をつけたら、義勇が自分で思う以上に、炭治郎には冷たく聞こえたらしい。炭治郎はまたしょんぼりとしてしまった。
 どうにもうまくいかない。
 デートするにも才能がいるのだとしたら、自分はきっと才能ゼロな気がすると、義勇はうなりたくなるのをどうにか抑えた。慣れぬ委員会の疲れを労わって、楽しい一日を過ごさせてやりたいのに、このザマだ。
「葵枝さんたちの顔を見たあとでベッドに連れ込めるほど図太くない」
 自嘲と言い訳がないまじって、つい口をついた言葉は、我ながら情けない。だが、それが功を奏したようだ。
「それもそうですね。俺も、もし経験あっても無理かも」
 ようやく少し笑ってくれたのにホッとする。もしかしたら気を遣わせたのかもしれないが。
「でも、本当にすごいですね。ホテルに水族館や映画館があるなんて。義勇さん、小説家だから色々よく知ってるんですか?」
 ずいぶんと買いかぶってくれるものだ。義勇は思わず苦笑しそうになる。いたたまれなさも少々。なにしろ、義勇がそれを知ったのは真菰のレクチャーによってだし、下調べに昨日慌てて行ってみただけで、それまではまったく興味すらなかったのだ。
「……まぁ。取材で調べに行くこともある」
 わざわざ恥をさらすこともあるまいと、当たり障りのない答えでお茶を濁せば、炭治郎は感心しきった顔でほわりと笑った。
「そっかぁ。そうやっていっぱい頑張ってるから、あんなに素敵なお話が書けるんですねっ」
 素直な称賛はなんだかこそばゆい。頑張ればいい話が書けるというものでもないが、炭治郎にそんなことを言う必要もないだろう。仕事の愚痴を恋人に聞かせるなど、男らしくない。錆兎だってきっと真菰にそんなことはしないだろう。義勇は錆兎の口癖を思い浮かべ、少しばかり気を引き締めた。
 どうせなら、頑張ってる分、素敵なデートだったと思ってほしいものだ。
 義勇が胸中で割と本気で願っていることなど露知らず、炭治郎は楽しそうに真滝勇兎の小説のここが素敵だった、あそこが好きだと、話しだしている。やっといつものペースを取り戻してくれたとみえる。
 気恥ずかしくはあるが、炭治郎が笑ってくれるのなら、それでいい。今のところ共通の話題は『真滝勇兎』ぐらいしかないのだ。炭治郎の言葉に甘え、恋人らしい努力を怠ってきたツケだと、甘んじて羞恥に耐えるしかない。
 どれだけ照れくさかろうと、炭治郎の楽しげな笑みには代えられないのだから。