午後7時のルイスリンプ 3

 睡眠不足の重い頭にため息をつきつつカーテンを開けば、眩しい朝の陽射しが義勇の目を刺した。デート日和、と言っていいのだろうか。見上げる空には雲ひとつない。
 約束の時間は午前九時。アラームは七時にセットしていたが、一時間も早く目が覚めてしまった。
 爽やかな朝の空気とは裏腹に、結局昨夜もろくに眠れなかった義勇の気分は晴れない。デートのプランや服装は、真菰の助言でどうにか決まりはしたものの、昨日は準備に追われ、小説はやっぱりまったく進んでいなかった。
 いや、それは正しくないだろう。買い物やらなんやらに時間を取られたのは事実だが、パソコンに向かう余裕は十分にあったのだ。
 寝起きということを抜きにしても、あまり食欲はない。だが、デート中に腹の虫が鳴くのはまずいだろう。それぐらいは、真菰先生の指導がなくとも義勇にだってわかる。
 とりあえず食卓に向かった義勇は、居間の卓袱台に置かれたままのパソコンを目にするなり、憮然と顔をしかめた。
 電源を入れなくても、昨夜パソコンに向かっているあいだにズラリと増えた検索履歴は、義勇の目に焼き付いている。
 勿論、今日の行き先の予備知識を得ようともしたのだ。だが、気がつけば履歴には『キス ムード』だの『キス テクニック』だのが並んでいた。なんならいくつかはブックマークもしている。
 ワードを開くより先に、人に見られたら軽く死ねそうな検索ばかりしていた自分が、情けないやら不甲斐ないやら。我に返ったとき義勇が真っ先に思い浮かべたのは、誰か俺を殺してくれ、だった。炭治郎に知られでもしたら、切腹したくなるに違いない。
 朝っぱらから深いため息をついて、モソモソとトーストを食べつつ義勇が思うのは、今日のデートで炭治郎はどこまで関係が進むと考えているのかだ。
 初デートとは言え、義勇と炭治郎が恋人になってから、そろそろ四ヶ月にもなる。告白の際にキスだってしているのだ。デートという雰囲気ではなかったが、この家にも炭治郎は何度も訪れているし、そろそろ進展してもいい頃合いだろう。むしろ、遅すぎるくらいだと思われているかもしれない。
 覚悟を決めたつもりでも、やっぱり義勇には自信がない。恋愛偏差値なんてものがあるとしたら、自分はきっとかなりの劣等生だろうとの自覚もある。
 セックスの経験が多くても、恋愛なんて、切ない片想い以外は絵空事でしかなかった。炭治郎はそれすらないのは明白である。初心者同士、初々しく健全なおつきあいをするのも悪くはないはずだ。けれど、年上であり職も得ている自分がそんな提案をすれば、炭治郎は子ども扱いとしょげ返りそうだとも、義勇は思う。

 子ども扱いどころか……。
 今どきの高校生のほうが、自分よりよっぽど恋愛の経験値は高いだろうなと、義勇は食べることすら忘れ遠い目をしてしまう。

 だが、鬱々と悩んでばかりもいられない。折角、禰豆子たちがお膳立てしてくれたのだ――それも不甲斐ないことに違いはないが――炭治郎を楽しませてやらなければならないのに、暗い顔などしていられないではないか。
 それに、義勇にしても楽しみなことに違いはないのだ。
 不安要素は多くあるけれど、真菰の提案してくれたプランなら、義勇自身も気負わず楽しめる気もする。少しだけ心が浮上して、義勇は、昨夜頭に叩き込んだデートプランを思い浮かべた。

 炭治郎には、行先はまだ告げていない。決まったのが木曜と遅かったこともあるけれど、そこはちょっとなんて言われたら、臨機応変に対応できるかわからなかったので。

 デートひとつとっても選択肢の幅の少なさはいかんともしがたい。なんとも情けないかぎりだとの自嘲にげんなりしつつ、義勇はカップを空にすると立ち上がった。

 まだ約束の時間には早い。支度するのは八時になってからでも大丈夫だろう。少しでも気がかりを減らすべく、ちょっとは小説も進めなければ。義勇は思考を無理やり仕事モードへと切り替えた。
 せめて、書きだしてから数行で止まっている喧嘩のシーンをなんとかしよう。プロットは問題ないはずなのだ。ひとつずつクリアしていくしかないと、義勇はパソコンに向かった。
 前回の編集箇所を表示した瞬間、知らず義勇の眉間にしわが寄る。おもむろに義勇はマウスをつかみ、無言で昨夜削除し忘れた文章を消した。ついこぼれた唸り声はいかにも苦々しい。
 数千字が消え失せて、白に染まったパソコンの画面を見れば、乾いた笑いまで浮かんできた。

 いっそ官能小説に路線変更したほうがいいんじゃなかろうか。

 馬鹿馬鹿しいが、本気で考えざるを得ない気がする。義勇が今手掛けているのは、得意とする初恋話だ。なのに、昨夜書かれた文章はどぎつい濡れ場である。どうしてこうなったと自問自答する気すら、もはや起きない。
 スランプなんておこがましいと自嘲する理由はこれだ。
 書いているうちに、そんな予定じゃないのに濡れ場に突入する。ハッと気づくと、登場人物の名前すら変わっているのだから始末に負えない。官能小説と呼ぶことすら厚かましく思えてくる。自分と炭治郎の名でくんずほぐれつしている文章は、むしろエロ本の読者投稿欄ぐらいがお似合いなんじゃなかろうかと、義勇は思わず頭を抱えた。プロのプライドまで粉々に崩れそうだ。しかも実録ではなくただの妄想でしかない辺り、本気で情けない。

 欲求不満の童貞じゃあるまいし……。

 まったくもって、こんなこと誰にも言えやしない。担当のしのぶが、頻繁に進捗状況を確認するタイプでなくて幸いだ。万が一にもこの状況を知られたら、またぞろどんな毒舌にさらされるか。想像しただけで気が滅入る。
 ともあれ仕事はこなさなければと、義勇は、どうにか気持ちを奮い立たせて姿勢を正した。
 プロット通りに進めるなら、ここから勘違いによるすれ違いが起きる場面だ。結末はハッピーエンドだが、主人公には少々つらい展開になる。切ない恋心や葛藤は、義勇の得意とするところだった。
 とはいえ、義勇はあまりドロドロとした恋愛は書かない。不倫だの三角関係だの、自分の心の奥に沈めた欲望をさらけ出すようなストーリーは、頑なに敬遠している。義勇が得意としているのは、爽やかで初々しい初恋をテーマにした青春物だったり、困難を乗り越えて結ばれるような純愛物だ。
 以前は主人公やその相手は、常にどこかしら錆兎をモデルにしていた。だが今回の小説は、今まで義勇が書いたことのないタイプの少女を、主人公に据えている。恋の相手は大学時代の後輩をモデルにした。押しが強くてときどき辟易することもあるが、正義感にあふれ男らしいところが少し錆兎に似ているから、さして苦労せず人物像は決まった。以前は錆兎を思い出させるからこそ、彼とは一歩引いたつきあいをしてきた義勇だが、このごろでは誘われれば食事をともにすることもあるし、それなりに交流は深まっている。
 そんな後輩だけに限らず、炭治郎とつきあうようになって以来、交流下手でどちらかというと人見知りな義勇にも、多少なりと知己が増えた。おかげで登場人物にも少しは幅が出たようではある。太鼓判とは到底言えないが、しのぶからそこそこお褒めの言葉らしきものがもらえたぐらいだから、進歩は見られるということだろう。
 店にいると頻繁に声をかけてくるようになった禰豆子やら、その妹の花子。店主であり炭治郎の母の葵枝。炭治郎の家族はみな、義勇に対して親しみを持って接してくれる。
 とはいえ、生来の口下手や不愛想がそうそう改善されるわけでもないので、義勇自身は、話しかけられてもせいぜい相槌を打つ程度なのだけれど。

 今度の主人公は、高校生が主人公ということで、大まかな性格は禰豆子をモデルにした。おかげで設定を考えるのに苦労はしなかったし、われながら読者の好感を得られる少女になっていると思う。だからこそ余計に、あらぬ方向に進みかけるたび半端ない罪悪感に襲われる羽目にもなっているのだが。
 いっそ自分と炭治郎をモデルにしてしまおうか。
 何度か義勇も考えてはみたのだが、そんなことをしたが最後、それこそ低俗な実録――という名の願望白書の体を成しそうで、到底踏み切れるものではない。
 ともかく、イメージは生き生きと湧く登場人物たちなのだ。どうにかハッピーエンドまで導いてやらねば、申しわけなくてモデルと顔をあわせることすらできなくなりそうだと、義勇は、禰豆子たちの顔を思い浮かべて文章を打ち込み始めた。

 必死にキーボードを叩いているうちに、どうにか場面はプロット通りに動きだした。このところ感じることのなかった物語に入り込む感覚がよみがえってきて、義勇の指は小気味よくキーボードの上で踊りだした。
 パソコンの画面と二重写しのように見える幻の映像を、そのまま文字に起こしていくのが、集中しているときの義勇の執筆スタイルだ。動きだし語りだす人物たちを、すぐそばで見つめているような気がしてくるその感覚は、義勇の心を束の間自由にする。
 この分ならいけそうだ。どうにか次の場面転換まで進められるかもしれない。思った瞬間に、ふと画面の隅の時刻表示が目に入った。
 パソコンに示された時刻は、約束の三十分前。
「しまった!」
 思わず叫んで義勇は立ちあがった。炭治郎の家までは十五分ほどで着くとはいえ、身支度だってろくにしていない。初めてのデートに遅刻などもってのほかだ。
 部屋を飛び出しかけて、あわててパソコンの前に戻りファイルを保存し電源を落とす。
「なんでアラームぐらいセットしとかなかったんだ、畜生!」
 滅多につかぬ悪態が、つい口をついた。出だしからこのザマかと、不安ばかりがふくらんでいく。だが、落ち込む暇も反省する間もない。焦る気持ちのまま廊下を走り自室に戻ると、義勇は、真菰の指示通りに買い求めた服を慌ただしく着込んだ。
 ネイビーと白の組み合わせは鉄板との力説に、金曜に急いで買ってきた服は、白いVネックの薄手のニットに、ネイビーのジャケット。義勇はスタイルいいから絶対似合うよとの真菰の断言に背を押されて買ったスキニーとやらは、履き慣れなくて窮屈に感じる。
 店員はやたらと褒めちぎってくれたが、正直、似合っているかどうかなど義勇自身にはさっぱりわからない。客商売ゆえのお愛想はともかく、真菰の言葉を信じるしかないだろう。

『ハイネックでもいいけど、季節的に重いし、義勇は鎖骨がきれいだからVネックお薦めだよ。色は絶対に白だからねっ。爽やかだけどちょっとセクシーにも見えて、絶対にいいと思うなぁ。あ、あとね、ブラックデニムのスキニーなら、足元は黒のキャンバススニーカーでもいいけど、義勇はきれいめコーデのほうがいいと思うんだよねぇ。大人っぽさも出るし革靴かなっ。いい? あんまり光沢が強すぎるのは駄目だからね? まぁ、白いニットと合わせるから足元だけ目立っちゃうってことはないだろうけど』
  
 義勇は顔がいいから、なに着ても服に負けるってことはないと思うけど、一応ね。そう笑った真菰は、実にイキイキとしていたなと、義勇は思わず遠くを見るような目になった。
 滔々と語られた真菰の言葉が次々によみがえる。思い出しただけで、情報量のあまりの多さに眩暈がしそうだ。

『折角の初デートなんだから、髪もいつもみたいにひっつめただけとか駄目だよ? ハーフアップのポニーテールなんかどうかな。普段とちょっと違う印象でドキッとしてもらうの。ん~、鱗滝さんぐらい鼻が利くんなら、コロンはやめといたほうがいいかなぁ。でも義勇のことだから、どうせ服は全部明日買うんでしょ? 柔軟剤の香りってわけにもいかないしなぁ。匂いって結構ポイント高いんだよね。義勇は体臭薄いから、余計に特別感あっていいと思うんだけど』

 もうそこら辺で勘弁してくれと、話を聞いているだけでパニックに陥りそうになったのは、義勇だけではなく。傍観者に徹していたはずの錆兎までもが、キャパオーバーな顔をしていたのは、ちょっとだけスッキリした。俺を見捨てた罰だ、とは、言わないでおくが。
 ともあれ、真菰の言葉に従い髪だけはどうにかこんなものだろうとまとめたところで、タイムアップだ。果たしてこれで本当に炭治郎が気に入ってくれるものやら、心許ないこと甚だしいが、もうどうしようもない。

 とにかく遅刻だけは避けなければと、義勇はバタバタと家を出た。我ながら落ち着きがないこと甚だしいなと、何度目かわからない自嘲に襲われる。
 錆兎に恋しているころも、ふたりで出かける日にはかなり浮かれて、落ち着かなくなっていた。けれどもここまで緊張したことはない気がする。つきあいの長さの差といえばそれまでかもしれない。けれどもそれはしかたのないことだ。義勇にしてみれば自業自得としか言いようがない。
 炭治郎と出逢ってから一年ほど。その大半は、炭治郎に対して我関せずを通してきた月日だ。

 俺はまだ、炭治郎の好きな映画も、好きな場所も、なにも知らない。

 車を走らせながら、ほんのかすかに胸を刺した痛みに、義勇は小さく眉を寄せた。
 店に通っているあいだに、耳に入る炭治郎と客の会話から知ったことはそれなりにある。炭治郎が家にやってくるようになってからも、おしゃべりな炭治郎の話に耳を傾けているだけで、家族やら友達やらの話には少しは詳しくなった。
 あくまでも周囲の者の話だ。
 炭治郎は不思議と自分のことについてはあまり語らない。家に来るときは義勇の食事を作りにという建前があるためか、炭治郎はほとんど台所にいて、義勇はその物音を聞きながら仕事しているのが常だ。会話はあまりない。
 もともと会話するのが苦手な義勇にしてみれば、炭治郎から話を振ってくれないかぎり、会話のきっかけひとつ探すのも難しい。
 錆兎や真菰にならここまで気負うことはないのに。よく知らないという事実は、意外と根深いのかもしれなかった。
 けれど――。
 義勇は、浮かんでは消える炭治郎のいくつもの笑顔に、口元を緩ませた。
 店を訪れたときに、義勇の姿を目にしたとたんに花開くようにはにかむ顔。作ってくれた食事にうまいと言えば、パッと輝くうれしげな顔。すべて鮮やかに目に焼きついている。
 人影のない階段の踊り場で好きだと告げてくれたときの、緊張をにじませた顔も、初めて家にきたときの心配げな顔も。告白した日の真っ赤に染まった顔だって、全部、全部、覚えている。
 知らないことはいくらでもある。共に過ごした時間は錆兎たちとは比べものにならぬほど短い。それでもまだこれからだ。
 つきあいだして四ヶ月ほど。世間の恋人たちにくらべたら歩みは遅いかもしれないが、一歩ずつ、少しずつ、ふたりの距離は近づいているのだろうと義勇は思う。
 不甲斐ない自分でも、炭治郎が好きだと笑ってくれるなら、奮起もするし努力しよう。
 頭をよぎる炭治郎の笑顔に、気分が向上してくるのを感じながら、義勇は、こんな悩みすら幸せだと胸の奥で面映ゆさを噛みしめた。

 竈門ベーカリーが見えてきた。
 住宅街にある店は、もとはレストランだったのを脱サラした父親が居抜きで買ったのだと知ったのは、いつだったろう。たぶん、炭治郎との会話で知ったのではない。おそらくは客の会話から察した話だ。
 職住隣接の竈門ベーカリーは、店の二階が住居部分になっている。店の奥にドアがあり、居住スペースへ向かう階段と繋がっているそうだ。そのため、店にもたまに幼い子どもが顔を出すことがある。
 言い含められているのか、まだ小さい三男や末っ子が店にくるのは少ない。それでもまったくないわけではないから、義勇も一、二度は顔をあわせていた。
 物怖じしない三男や、人見知りがちらしい末っ子とはまだ話したことはないが、ときどき店の手伝いをしている中学生の次男や次女は、もう義勇とも顔見知りだ。禰豆子にいたっては言うまでもない。店主である母親の葵枝だって、よく声をかけてくれる。

 だが、これはどういう事態なんだ?

 見えてきた光景に、義勇は思わず緊張に体をこわばらせた。
 店の前の駐車場に見える人影はひとつじゃない。
 減速したのは停車するためばかりでもなく、なんとなく近づきたくない気が少々する。なぜ家族勢ぞろい? と、義勇の心中は冷や汗ものだ。
 遠目に見える炭治郎は、困り顔ながらも笑っている。禰豆子にひっくり返ったパーカーを直されて照れ笑いする様は楽しそうだ。足に抱きついている末っ子の六太の頭をなでてやる顔は、長男らしい慈愛に満ちていた。
 明るくやさしい家族の光景に、義勇は、喉の奥に苦い塊を詰めこまれたような苦しさを、わずかに感じた。
 義勇の車が近づいたのに気づいたのか、竹雄が炭治郎の肩を叩くのが見える。振り返った炭治郎の笑顔が目に入り、息苦しさもその理由も、明確に言語化される前に消えた。
 店の前に車を止めたときにはもう、義勇の胸を騒がせるのは度し難い緊張と戸惑いばかりだ。
 ともかく葵枝に挨拶しなければならないだろう。落ち着けと胸中で言い聞かせつつ義勇は車を降りた。
「おはようございます」
 軽く頭を下げながら言った声は、上ずってはいなかっただろうか。挙動不審になっていないといいのだが。
 義勇が生きた心地がしないでいることなど、まるで気づいていないのだろう。すでに仕事着に着替えている葵枝は、にこやかに微笑んでくれた。
「おはようございます、冨岡さん。今日は炭治郎をよろしくお願いします」
 眉をひそめられないのには安堵したが、それでも当惑や緊張が消え失せたわけではない。
 葵枝は純粋に挨拶をと思っただけに見えるけれど、母親にまで見送られるデートは、初心者にはハードルが高い気がする。心臓はかなりアップテンポで鼓動を刻んでいるが、それでもたぶん顔には出ていないはずだ。義勇は自分の滅多に働かない表情筋に感謝した。
 少々心配なのは炭治郎の鼻だが……。からかうなよと牽制するつもりで炭治郎をうかがい見た義勇は、その目を怪訝にまばたかせた。
 真っ赤な顔で炭治郎はカチンと固まり、ポカンと口を開いたまま義勇を凝視していた。
 どうしたんだろうとわずかに不安をおぼえつつ、義勇もまじまじと炭治郎を見つめる。
 ネイビーのパーカーに、白と緑のボーダーのTシャツ。ベージュのチノパン。ハイカットのスニーカー。肩にはトートバッグ。なるほど、真菰の言葉に虚偽はなかった。ネイビーに白は確かに鉄板の組み合わせなのだろう。爽やかで高校生らしい格好で、好感が持てる。けれども気負った感じはせず、普段見ている服装と大差なくも感じられた。

 かわいいけれど、俺ばかり張り切ってるみたいな気がするな。

 若干の気恥ずかしさは、硬直したまま身じろぎすらしない炭治郎によって、焦りに取って代わった。
 もしかしたら、自分の服装や髪があまりにも似合っていなくて、絶句してるんだろうか。真菰の太鼓判を貰ったコーディネートとはいえ、実際に見てもらったわけじゃないのだ。一般的には合格ラインのファッションでも、自分がそれに当てはまっているとは限らないじゃないか。そんな不安が義勇の胸にふくれ上がっていく。

 写真を真菰に送ってチェックしてもらえばよかった。店員の褒め言葉なんてあてにならないと思ってたくせに、詰めが甘かった。いや、そもそも慣れないことなどしなければよかったのかもしれない。

 幻滅されただろうか。一緒に歩くのすら恥ずかしいと思われていたらどうしようと、内心ひどくうろたえていた義勇の耳に、「わぁ!」という華やいだ女の子の声が飛び込んできた。あわてて視線を向ければ、花子が目を輝かせている。
「義勇さん、カッコイイ! モデルみたい!」
「おい、冨岡さんだろ?」
「あ、そっか。お兄ちゃんがいつも義勇さんって呼ぶから、移っちゃった」
 竹雄に小さく小突かれて、ペロッと舌を出して肩をすくめるやりとりが、微笑ましい。禰豆子ほどには馴染んでいないが、中学生のふたりは店の手伝いにもくるので、それなりに義勇とも接している。
「義勇でかまわない」
 花子の言葉に、あきれられるほどひどくはなかったかと安堵しつつ、できるだけやさしく聞こえるよう義勇が言うと、ふたりの顔がパッと明るくなった。
「やった。お客さんだけど、義勇さんは特別だもんね。他人行儀にしたくなかったの」
 しっかり者だと評判らしいが、やっぱり中学生だ。うれしそうに笑う花子はあどけない。 
「ぎゆさん?」
 炭治郎の足に半ば隠れて、ソロッと顔を出し言う六太に、小さくうなずいてみせる。
 威圧的にでも見えるのか、自分が子どもに好かれることが少ないことは、義勇も自覚している。嫌われるのは困るなと、義勇は、少し緊張しつつ六太の反応を待った。
 今後を考えれば、家族に好かれることは重要課題だ。ただでさえハードルの高い恋愛である。家族の理解を得られるのに越したことはない。
 義勇の不安を払しょくするかのように、六太の稚い顔がはにかみを露わに笑んだ。どうやら嫌われはしなかったらしい。
「ほらっ、お兄ちゃん。見惚れてないでっ」
 パンッと禰豆子に背中を叩かれ、炭治郎が前のめりによろけた。危ないっ、と、つい手を伸ばし抱き留めれば、胸におさまった炭治郎が赤い顔のまま見上げてくる。ぼんやりとして見えたのは数秒、すぐに我に返ったらしい炭治郎は「ごごごごめんなさい!」と叫ぶなり飛びのいてしまった。

 かまわないのに。むしろ、離れられて残念だ。

 そんな義勇の心境を見透かしたわけでもないだろうが、茂が「ラブラブだぁ!」とはしゃいだ声をあげ、思わず義勇は硬直した。
「こ、こらっ! 茂!」
「朝からさわがしくてごめんなさいね、冨岡さん。この子たち、大好きなお兄ちゃんにつられて浮足立っちゃってるみたいで」
 苦笑する葵枝に、義勇は胸の奥がまた小さく痛んだのを感じた。ささやかだけれど、その痛みは針を刺したようにツキリと鋭い。
「いえ……気にしません。みんないい子ですから」
 いたたまれなさに声はいくぶん早口になった。
 義勇が痛みの理由を探るより早く、弟妹に急かされた炭治郎が近づいてきて、よろしくお願いしますと頭を下げた。
 いつまでもここで家族の笑顔に囲まれているのは、なんだか息苦しい。そんなふうに感じる自分に罪悪感を覚えつつ、逃げるように義勇は助手席のドアを開けた。視線で促せば、どこかぎこちない動きで炭治郎が車に乗り込む。
「それでは、炭治郎くんをお借りします。遅くならないうちに帰りますので」
「遅くてもいいですよ~」
「兄ちゃん、ドジんなよ」
「お兄ちゃん、頑張ってねっ」
「炭治郎、冨岡さんにご迷惑おかけしないようにね」
 にぎやかな声で見送られながら、義勇は静かに車を発進させた。