とっても長い夜が明けて、森の動物たちを震え上がらせていた『災い』の首魁である鬼舞辻無惨が塵になって消えてから、五日も経つのに炭治郎は眠ったままでした。
一度だけぼんやりと目を覚ましたのですけれども、どうにも眠くて眠くて。起きた炭治郎を抱きしめて泣いてしまった義勇が泣きやんでくれたのに加えて、禰豆子たちの無事を聞いたらとても安心してしまったものだから、炭治郎はまた眠ってしまったのです。
それからさらに三日間、また炭治郎は昏々と眠り続けていたそうです。だから炭治郎は、眠る炭治郎の頭を義勇が毎日撫でてくれていたことも、おでこにキスしてくれたことも知りませんでした。
ときどき蟲柱様に見られては「まだ所有印付けたりないんですか? あんまり束縛が強い男性は嫌われますよ? あ、冨岡さんはもう嫌われてましたね」なんて言われていたことも、もちろん炭治郎は知りません。
ご来光が無惨を塵に変えたあと、義勇の腕のなかに倒れこんだ炭治郎の小さな体は、たくさん、たくさん、傷ついていてました。自慢のしっぽもボサボサで、焦げ跡だらけになっていましたし、目を開けていられないぐらい疲れ果ててもいました。なによりもお腹が空いて空いて、動くこともできなかったのです。
だからそのまま眠ってしまったのですけれども、炭治郎の体は、炭治郎自身が思うよりもずっと大変なことになっていたようでした。
それを炭治郎が知ったのは、二度目に目覚めたあとのこと。炭治郎が負った大きないくつかの傷から、いっぱい血が流れてしまって、なけなしの神気も抜け出てしまっていたのだと、蟲柱様が教えてくださいました。
「お腹が空いたように感じたのは、神気を使い果たしていたからですよ。神気というのは神にとっては力の源、力の核です。神気が失われると神は動けなくなりますから、お腹が空いたという感想は、あながち間違ってはいませんね。炭治郎くんは神の力が目覚めたばかりですから、神様としての魂が安定していないんです。体もまだ普通の狐の子と大差はありません。だから自分で神気が抜け出るのを抑えることができなかったんですよ。あのまま神気が抜け続けていたら、神の力を失って、普通の狐の子と同じように死んでいたかもしれません。妹さんやお友達に感謝しないといけませんね」
それを聞いた炭治郎は、禰豆子たちが大泣きしていたのはそのせいだったのかと、なんだか申し訳なくなったものです。
炭治郎が二度目に目覚めたとき、真っ先に見たのは、心配そうな禰豆子や善逸、伊之助の顔でした。
なにがそんなにつらいんだろう。慰めてやらなくちゃ。ぼんやり考えながら禰豆子の頭に手を伸ばそうとするより早く、炭治郎は、ワッと泣き出した禰豆子たちにしがみつかれて、目を白黒させてしまいました。なにしろ炭治郎は、自分がずっと眠っていたなんて知りませんでしたし、お腹が空いて倒れただけだと思っていたのです。禰豆子たちが、よかった目を覚ましたと、大きな声でわんわんと泣く理由なんて、よくわからなかったのです。
力いっぱい三人から抱きしめられて苦しいやら、泣かれて心配やらで、炭治郎が困っていると、蟲柱様がやってきて、禰豆子たちをやさしく諫めてくれました。
ついでに、黙ってその光景を見つめていた義勇に「案山子じゃないんですから黙って見てるのはやめていただけますか、冨岡さん?」なんてお小言を蟲柱様が言うまで、炭治郎は義勇が部屋にいたことに気づかなくてビックリもしたのですが、それはともかく。
「炭治郎くんには安静が必要なんですよ。検診が終わって、お話しても大丈夫と私が許可するまでは、少し我慢してください」
蟲柱様にやさしく言われた禰豆子たちは、それでもまだ心配そうでした。何度も振り返りながら部屋を出て行く三人に、炭治郎はちょっと申し訳なくなりましたし、大丈夫だから泣かなくていいよと言ってやりたかったのに、声も碌に出なくて、少し不安にもなりました。
そんな炭治郎に蟲柱様が教えてくれたのが、先のお言葉だったのです。
「禰豆子たちが俺を助けてくれたんですか?」
蟲柱様からいただいた薬湯を飲んで、ようやく声が出せるようになって真っ先に炭治郎が聞いたのは、禰豆子たちのことです。
「あのとき、お前の魂は不安定に揺れていて、俺たちの神気を与えればかえって魂を損ないかねなかった。禰豆子たちがいなければどうなっていたかわからない……神だというのに、なにもできずにいてすまない」
「義勇さんが謝ることないですっ! 俺のほうこそ心配かけてごめんなさい」
心底悔やんでいるのがありありとわかる義勇の声と表情に、炭治郎は慌ててしまいました。怠い体を無理にも起こして義勇の胸元にすがって言うと、義勇はますます悲しげに眉尻を下げてしまって、炭治郎も悲しくなってしまいます。
もしかしたら、俺が不甲斐なかったせいで、義勇さんはたくさん泣いたのかもしれないぞ。どうしよう、義勇さんを泣かせちゃった。
悲しくて寂しい匂いを消してあげたいとずっと思っていたのに、自分が義勇を悲しくさせてしまったのかもしれないと思ったら、炭治郎も胸が苦しくなってしまいます。
「炭治郎くんが謝る必要もありませんよ。あなたはとても頑張ってくれました。炭治郎くんたちが頑張ってくれたから無惨を倒せたんですからね」
やさしく笑った蟲柱様に促されてベッドにまた横になった炭治郎に、義勇もうなずき、そっと頭を撫でてくれました。
そうして二人が話してくれたのは、炭治郎が倒れたときのこと。どれだけ禰豆子や善逸、伊之助が、頑張ってくれたかでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「炭治郎っ! 大丈夫かっ、炭治郎! 目を覚ましてくれ……頼む、炭治郎……っ!」
腕のなかで意識を失った炭治郎に、義勇は悲痛な声で呼びかけ続けていました。
柱たちも次々に駆け寄り、困惑した顔を見合わせました。
炭治郎は神としての力に目覚め神の一員になったはずなのに、小さい体からはどんどん血が流れて、一緒に神気も漏れ出していきます。血の気が引いていく炭治郎の顔に命が失われていく様を見て取り、炭治郎のことをとても気に入った霞柱や恋柱などは、泣き出しそうになったほどです。
炎柱も、いつもの快活さなど微塵もない沈痛な面持ちで、炭治郎を気遣わしく見つめていました。炭治郎を慈しんできた義勇は言うまでもありません。
お館様の元に集い、会議を行うときですら、柱としての自信が持てなかった義勇は、ほかの柱たちともろくに会話をしたことがありませんでした。『災い』から救った動物たちにも、自分の姿を覚えられぬようにしてきたものだから、ほかの柱たちからは変わり者だと思われています。柱の責任をわかっていないと責めるものもいて、周りの者達とあまり馴染めていなかったのです。
だから柱たちは、義勇がこんなにも取り乱し表情を崩すのを、初めて見ました。
炭治郎がお遣いに来たときに、義勇が強い加護を炭治郎に与えていることに、気づいてはいました。眷属を一人も迎えてこなかった義勇が、こんな幼い子に加護を与えるとはと、みな一様に驚いてもいました。ですが、まさか誰ともかかわろうとしてこなかった義勇が、こんなにも炭治郎に執着しているとは、誰も思わなかったのです。
戦いの最中で炭治郎が参戦したことで、日の神の力を持つ天狐の末裔なのだと悟り、義勇が炭治郎を気にかけている理由はこれかと柱はみな思いました。
けれど、目の前の義勇の様子を見れば、炭治郎が天狐の末裔だからというだけで義勇が加護を与えたのだとは、到底思えません。音柱や岩柱、それに蟲柱などは、このまま炭治郎が命を失ってしまったら水柱もどうなるかわからないと、義勇のことも心配していました。
とはいえ、傷ついた炭治郎のことも、泣きながら取り乱す義勇のことも、どうしてやることもできません。みな手をこまねいて見ているしかなかったのです。
誰かが神気を注ぎ込めば、失われていく炭治郎の神気を満たしてやることはできるでしょう。けれども、炭治郎の魂は神としてはまだ脆く、不安定なのが治らない傷でわかります。傷が癒えるほどの神気を与えてしまえば、炭治郎の魂が変質してしまうかもしれません。
そうなれば眷属よりももっと強くその神に縛り付けられて、傀儡と化してしまいます。炭治郎自身の意思も、感情も、失われてしまうことでしょう。柱たちは誰一人として、そんな炭治郎など望まなかったのです。
それでも炭治郎の命を救うには、もう時間がない。こらえきれずに義勇は、自分の神気を与え炭治郎の傷を癒そうとしました。それを止めたのは蟲柱でした。
「冨岡さん、今の炭治郎くんに冨岡さんの神気は強すぎます。おわかりでしょう? もっと穏やかに傷を癒していかなくては……」
「それならどうすればいいんだっ! 頼む胡蝶っ、炭治郎を助けてくれ……この子を俺から奪わないでくれ……っ」
血は神にとっては穢れです。己をも損ないかねないものでした。それを承知で、血に塗れた炭治郎を抱きしめる義勇に、蟲柱も言葉を失い目を伏せました。治癒や癒しを得意とする蟲柱でさえ、神と普通の狐の間で揺れる炭治郎の魂を変質させずに助けることはできなくて、どうしようもなかったのです。
「お兄ちゃんっ!!」
「炭治郎ぉぉぉっ!!」
「権八郎っ、親分の俺様を差し置いて勝手なことしてんじゃねぇぞっ!!」
そんな悲痛な声が響いてきたのは、柱たちにとっては驚くべきことでした。ご来光によって『災い』たちは消えたものの、瘴気を含んだ塵はまだ辺りにただよっています。瘴気は動物たちには猛毒で、神である柱たちだからこそ耐えられるものなのです。
声の主は炭治郎の妹や友達だと、みんなすぐにわかりました。神となった炭治郎と違って普通の動物の子供たちです。この場に来れば、子供たちもただでは済まないかもしれません。
「玄弥ァっ! テメェなんでそいつらを連れてきたァ!!」
「カナヲ、アオイ、駄目よっ! その子たちは瘴気に耐えられない、早く連れ戻してっ!」
禰豆子たちを運んできた眷属の子たちに向かい、風柱や蟲柱が声を上げました。
けれども眷属の子たちは、その声に逆らい、禰豆子たちを連れたまま降り立ちます。誰もがもう、炭治郎が危ない状態だと理解していたのです。せめて禰豆子たちを炭治郎のそばにと思うのを、止められなかったのでしょう。
柱たちの厳しい声など耳に入っていないのか、禰豆子たちは降り立った途端、一目散に炭治郎に駆け寄り、義勇にすがりつきました。
「洋服屋さんっ! お兄ちゃんは……お兄ちゃんは大丈夫なのっ!?」
「炭治郎を助けてくれよっ、洋服屋さんなら不思議な力でできるだろっ!?」
「お前、本当は神様なんだろっ!! 権八郎を早く治してやれよっ!!」
義勇の腕に抱きかかえられた炭治郎の傷だらけの体を見て、禰豆子たちが泣きながら口々に言うのに、義勇もハラハラと涙を落として小さく首を振りました。
真っ蒼になった禰豆子たちを見て、柱たちもまた、みな一様にそっと顔を伏せました。神であってもできないことはあるのです。
神の力は万能ではありません。動物や人が捧げる祈りの心がなければ、力を失い消えてしまうことだってあります。『災い』の攻撃で命を失った神だっていました。炭治郎を救うことも同様に、柱たちですらどうにもできないことだったのです。
「お兄ちゃん、いっぱい怪我してる……っ」
「布っ! そうだよ、あの布まだ残ってるよ禰豆子ちゃんっ!!」
善逸が小袋から白い布を取り出すのを見て、義勇はまた首を振りました。
「駄目だ……。お前たちの体の傷は癒せても、今の炭治郎は、その布ではどうにもならない……」
「うるせぇっ!! やってみなくちゃわかんねぇだろうがっ!!」
伊之助が怒鳴り声を上げたのと、禰豆子と善逸が炭治郎の大きな傷に布を当てたのは、同時でした。
神気が漏れ零れる大きな傷は九つ。伊之助も加わって、禰豆子たちは一所懸命に傷を拭いました。
「禰豆子さん……その布では神気を失うほどの大きな傷は治せません」
「諦めずに頑張ればお遣いだってできたもんっ!! 洋服屋さんのお手伝いで知ってるものっ!!」
蟲柱様がそっと止めようとしたのですが、禰豆子は振り返ることなく叫び、一心に炭治郎の傷を拭い続けます。瘴気に冒されているのでしょう、その手は震えていました。息もどんどん苦しげに掠れていきます。
その声に、震えながらも止まらぬ手に、柱たちはみな息を呑みました。義勇も同様です。
禰豆子が、善逸が、伊之助が、涙を流しながらも真剣に傷口を拭い続けるのを見て、義勇は泣き止むと、ぐっと唇を引き締めました。
抱きかかえていた炭治郎をそっと地面に横たえると、義勇は、四人を包み込むようにゆっくりと両腕を広げました。途端に禰豆子や炭治郎が持っていたお守りのハンカチが光を放ち、青く透き通った光に包まれて、加護の力が瘴気を禰豆子たちから遠ざけていきます。
禰豆子たちの体にも、傷はたくさんありました。手も、顔も、足も、痛々しい傷や痣がいっぱいです。それでも三人は痛いとも苦しいとも言わず、必死に炭治郎の傷を拭い続けました。
やがて、禰豆子が拭っていた傷が塞がりだしました。続いて善逸や伊之助が拭っている傷からも神気が漏れるのが止まります。それを見て、蛇柱の色違いの両目が驚きに見開かれました。
「祈りか……。おい、もっと祈れ。必ず治ると信じろ。水柱から渡された布を信じろ。こいつの命の強さと自分達の想いを信じて、一心に祈れ。きっとそれがこいつの力になる」
俺は水柱のことは信用していないがなと言って、蛇柱はフイッとそっぽを向きました。その様子にポッと頬を染めた恋柱も、そのとおりだよと禰豆子たちを励まします。
「我らも祈ろう……この子供たちの祈りの強さと、新たな神の魂の強さを信じよう」
岩柱の言葉に炎柱と音柱も強くうなずきました。
「そうだな! この子供たちならば大丈夫だっ! 狐の少年、いや、我らが仲間の強さはこんな傷に負けるものではないっ!! この子達の想いの強さは必ずや神をも救うと俺も信じようっ!!」
「派手に祈ってやるから、絶対に助かれよ。炭治郎」
「炭治郎、頑張って。また一緒にお弁当を食べようよ」
「炭治郎くん、わかりますか? みんながあなたを信じてますよ? 戻っていらっしゃい、私たちの末っ子さん」
「てめぇは生意気だし水柱は気に食わねぇが、柱が消えるのはもっと胸糞悪ぃからなァ。おい、玄弥。おめぇも祈れやァ」
「言われなくても祈ってるよ! 俺だって炭治郎は気に入ってんだ。なぁ、炭治郎、治ったら禰豆子たちも一緒にさ、また空飛んでやるから、絶対に治れよ!」
「た、炭治郎、頑張って! 禰豆子ちゃんたちも、頑張って……っ」
口々に柱や眷属の子たちが声をかけるなか、炭治郎の傷が一つずつ癒えていきます。
治れ、助かれと、禰豆子も善逸も伊之助も、必死に祈りながら傷を拭いました。そして、とうとう傷は残り一つとなりました。
「どうしようっ、もう布がないよっ!!」
善逸が泣きながら小袋を逆さに振っても、残しておいた八枚の布は使い切ってしまっていて、どうしようもありません。塞がらない傷からまだ神気は零れ落ちていきます。
「炭治郎……一緒にご飯を食べて、一緒に眠るんだろう? 俺と一緒に、ずっと……」
言いながら、義勇の手が炭治郎の最後の傷に触れました。
額に汗を浮かべながら、義勇は疲れ切った体で神気をわずかずつ、手のひらから炭治郎に与えました。魂を変えてしまわないよう、少しずつ、少しずつ。それは無惨との戦いで自分も傷ついていた義勇にとっては、並大抵のことではありませんでした。神気を上手くコントロールできるほど、義勇に残された神気も多くはありません。眉間には深い皺が刻まれ、汗も流れ続けます。
けれど。
「洋服屋さん……ううん、水柱様。お兄ちゃんをどうか助けてくださいっ!」
「水柱様、炭治郎を助けてっ! 炭治郎は本当にいい奴なんだよぉっ!!」
「なんだって手伝ってやるよっ、だから頼む……炭治郎を助けてくれっ!!」
一心に祈る禰豆子たちの言葉が、心が、義勇に力を与えました。
「まさに手当てですね……。冨岡さん、もう大丈夫。炭治郎くんは助かりましたよ」
蟲柱のやさしい声は、少し涙ぐんでいるように聞こえました。その声にハッとして、義勇や禰豆子たちが炭治郎の顔を見ると、血の気を失っていた頬に赤みが差して、息も穏やかになっています。
「炭治郎……っ」
義勇が強く炭治郎を抱きかかえたのと、よかったぁと口を揃えて言った禰豆子たちが、くったりと倒れこんでしまったのは同時でした。
疲れ果てた体に瘴気を浴びたうえ、必死に祈り続けていた緊張の糸が切れたのでしょう。慌てた柱たちは、すぐにグゥグゥといびきをかきだした伊之助や善逸に、思わず顔を見合わせ、やがて大きく笑いだしました。
義勇もまた、小さく泣き笑いながら、炭治郎を抱きかかえたまま、眠る禰豆子たちの頭をそっと撫でました。
『災い』たちとの戦いは、まばゆい朝日のなかに響く楽しげな笑い声で、本当にすべて終わったのでした。