花にひそむ宿痾 (お題:15後ろめたさ)

※原作軸。花吐き病に独自設定あり。炭治郎が病み気味。異食描写があります、苦手な方は自衛してください。作中にある花言葉には、大正時代にはなかったもの(花自体は日本にあったことを確認してます)も含まれているかもしれません。ご了承ください。

「花吐き病?」
 聞き慣れない言葉に、炭治郎はきょとんと目をしばたたかせた。しかつめらしい顔でうなずいた善逸は、衆目をはばかるかのように声をひそめてなおも言う。
「なんでもさ、元々は上方辺りでの流行病だったらしいんだけど、最近、東京府でも罹った人が見つかったらしいんだよ」
 いかにも恐ろしげに語る声に、炭治郎は思わず苦笑した。
「病気にかかった人はお気の毒だけど、鬼殺隊にはしのぶさんがいるから大丈夫だよ」
「そりゃ、あの人の薬はすごいけどさぁ、そう簡単なもんじゃないんだって! なにせ薬のたぐいは一切効かないらしいぜ?」
 苦しい片恋をしている人だけが罹る、死に至る病。
 おまえも気をつけろよと言い募る善逸に、わかった、気をつけるよと笑いはしたが、その病は炭治郎にとっては、遠い異国のおとぎ話のように現実味がなかった。

 そんな会話をしたのは、いつだっただろうか。人が花を吐く。そんな奇病に、とまどいながらもどこか他人事のように思っていたのだから、柱稽古が始まるより前なのは確かだろう。
 もしも兄弟子に稽古をつけてもらえるようになってから聞いたのなら、炭治郎も少なからずヒヤリとしたに違いない。
 人気のない路地裏でゲホゲホと咳き込みながら、炭治郎は頭の片隅で、呑気でいられた自分を少しばかり恨んだ。
 もっとちゃんと善逸の話を聞いていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。自分の迂闊さを後悔したって、もう遅い。
 苦しい喉をかきむしりそうになりながら、ガハッと激しく嘔吐いて炭治郎が口から吐いたのは、姫金魚草1英名・リナリア。もう何度か吐いている花だ。目にした瞬間に花の名前が浮かぶほどには、見慣れている。
 炭治郎の目ににじむ涙は、花を吐く苦しさのせいばかりではない。とうに覚え込んでしまった花言葉2花言葉は大正時代にはすでにありましたが、当時は日本由来のものはありません。すべて海外でのものを訳して使用されていました。作中では日本で作られた現代版も含まれています。ご了承くださいが、身体的な苦しさなどくらべものにならぬ切なさをかきたてるから、胸が苦しいのだ。
 名前のとおり小さな金魚のような形の花は、うらびれた路地に無造作に転がっている。愛らしい姿にふさわしい花言葉を持つその花が、涙でぼやけた。

「違う……そんなこと、思ってない……っ」

 どんなに否定しようとしても、花は厳然としてそこにある。炭治郎の心の奥底に隠された叫びを具現化して、吐き出される。
 薄紫の可憐な花は、どこぞの庭先で見たのなら微笑んでいたかもしれない。けれども、炭治郎の唾液にまみれて地面に転がるその花に、炭治郎が浮かべたのは涙ばかりだ。

『この恋に気づいて』

 そんな言葉を持つ花など、見たくはない。思ってみても、花は吐き出される。炭治郎自身でさえ気づかずにいた本心を、暴き出すように。
 花を吐くたびに、追いつめられる。どんなに目をそらそうとしても、隠した恋心を、醜い嫉妬を、浅ましい欲を、花は炭治郎につきつけてきた。
「ごめ、な、さいっ、義勇さ……ごめん、なさい」
 麗しく凛とした彼の人の、静かな横顔を思い浮かべて、炭治郎は、落ちた花を握りつぶした。ぐしゃりとたやすく潰れた薄紫色の小さな花に、ぽたりと涙が落ちる。

 こんなふうに、俺の恋も握りつぶしてしまえたらいいのに。
 誰も愛さないと言う人に、愛を請うてどうなるというのか。

 自分が花を吐きだすこと自体も恐ろしいが、それ以上に恐ろしく苦しいのは、己の心そのものだ。狂おしい片恋こそが、人を死に至らしめる病なのだろう。
 そりゃあ薬も効くはずがないよな。嗚咽をこらえながら、炭治郎はつぶやき、小さく笑った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 話のきっかけは覚えていない。なにげない世間話でもしていたのだろう。
 義勇は口数こそ少ないものの、なにもまったく話をしてくれないわけではない。稽古の休憩中などに、並んで座って談笑することは、もはや珍しいことでもなかった。
 人に馴染もうとしない兄弟子が、自分には胸襟を開き、笑みさえ見せてくれる。炭治郎はその事実を、素直に幸せなだと思っていた。
 絶望の淵で、行く先を示してくれた人だ。己の命を賭けてまで、炭治郎と禰豆子を信じてくれた人。強さには純粋に憧れもしたし尊敬も深い。彼の人が胸に秘め続けた孤独を知ってからは、不遜ではあるが庇護欲めいたものもいだいた。孤独な横顔を見つめるたびに、彼がかかえる痛みを癒してあげたくてたまらなくなった。

 容貌の美醜で好意の度合いを変えたことなどない炭治郎でさえ、ときおり見惚れるほど、兄弟子である義勇は麗しい。こんなにきれいな人が自分の兄弟子であり、親しみを込めて自分に接してくれるのだと思うと、舞い上がりそうになるぐらいの喜びを感じる。

 ボサボサと無造作に跳ねさせたままの髪は、きっと手入れなどしたことがないに違いない。箸づかいはきれいだが食べるのが下手なのか、外食中だろうと頬にご飯粒までつけている。任務のない日でも着るものは隊服一辺倒。洒落っ気にはほど遠い人だ。きっと義勇自身は、自分の人並み外れて優れた容色になど、頓着したことはないのだろう。

 それでも義勇は美しい。

 均整の取れた体つきは、細身でありながら鋼の刀身のように鍛え抜かれている。大きく切れ長な目は、澄んだ群青色。暗く沈んでいるのが大半だが、ときおりきらめいて見えるときには、晴れ渡った満天の星空を炭治郎は思い浮かべた。紺に近い深い青に、金色のきらめきが散っている。善逸などに話しても、怪訝な顔をされるだけだから、もしかしたら義勇の瞳に星を見いだせるのは自分だけなのかもしれない。だが、義勇の容貌が秀でていることについては、誰も異論はないはずだ。
 義勇は鼻筋もすっと通り、理想的な形をしている。薄く小ぶりな唇はほとんどの場合引き結ばれているが、なんだか愛らしくすらあった。目元に影を落とすまつ毛は、長く厚い。それらは稀代の名人が作った人形のように、きちんと整い義勇の顔を作っている。水際立った美貌というのは、こういう顔を言うのだろう。
 それが証拠に、取り付く島もない鉄面皮っぷりだというのに、彼に向かう秋波は留まるところを知らない。色恋沙汰にはとんとうとい炭治郎でさえ気がつくほど、いつでも女性の注目を浴びている。並んで往来を歩けば、通りすがりの若い女性は、そろってチラチラと義勇を見やるのだ。ときには、男も。
 鬼殺隊のなかでもそれは変わらない。柱という立場ゆえか、憧れや尊敬の視線も相まって、隊士が義勇を見つめる視線は熱かった。
 義勇が望めばより取り見取り、いくらでも情を交わす相手は現れよう。だが義勇には、まったくと言っていいほど浮いた話がない。
 思いあまり告白する隊士もいるようだが、常に義勇の答えはつれないのだと聞く。あの冷ややかに思われがちな美貌をピクリとも動かすことなく、ほかを当たれとすげなく切り捨てられるそうだ。氷の刃でバッサリと斬り捨てられるような心地がしたと、誰かが涙ながらに言っていたと小耳に挟んだこともある。そんな噂のせいか、義勇は心根も冷たいのだと思いこんでいる者も、少なくはなかった。
 たぶんそのときも、そんな話を聞きおよび、どなたかとお付き合いする気はないんですかと、何気なく聞いたのだと思う。
 炭治郎には、とくに他意はなかった。自分ではそう思っている。柱稽古の合間に、いつもと少し毛色の変わった話題をと、口にしただけのことだ。

「誰かと情を交わす気はない」

 問答無用の一言は、なぜだか炭治郎の胸を突き刺した。
 絶句した炭治郎に、義勇はなにを思ったか、さらに言葉を重ねた。
「俺は、恋慕という感情がよくわからん。一度もそんなものを感じたことはないし、これからもないだろう。悪鬼滅殺の道に色恋など必要ないのだから」
 そっけない義勇の言葉に、しくりと胸の奥が傷んだ気がしたが、炭治郎は気に留めることはなかった。自分でもわからぬ衝撃が過ぎ去れば、あれほど持てモテる3「モテる」という言葉は大正時代(というか江戸時代からある)にも使われていましたが、表記は「持てる」です。カタカナで表すようになったのは昭和から。ちなみに、「マジ」「ムカつく」「ヤバイ」「ビビる」なんかも実は大正時代に(平安時代からのもあるw)すでに使われてたりします。のにもったいない、善逸が聞いたらわめきだしそうだなと、少しばかり苦笑しただけだ。
 恋という感情は、炭治郎だってよく知らない。女の子を見てかわいいなと思うことはあっても、それ以上の感情を抱いたことはなかった。特定の誰かに心を揺り動かされることなど、今まで一度もなかったのだ。
 いや、ないと思い込んでいただけだ。自分でも気がつかなかっただけ。花を吐いたそのときまで、己の心にさえ気づかずにいた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 義勇が柱稽古をつけてくれるようになってから、十日ほど経ったころだろうか。
 任務はもとより、柱稽古であっても大小の怪我はつきものだ。足りなくなった傷薬や包帯を補充させてもらおうと、炭治郎は、診察室へとおもむいた。
 家を持たない炭治郎たち三人組は、しのぶの厚意に甘え、蟲屋敷の病室を定宿がわりにさせてもらっている。岩屋敷で悲鳴嶼の稽古を受けている善逸と伊之助が不在の今、蝶屋敷に泊っているのは炭治郎一人だ。
 廊下の角に差しかかったとき、診察室から出てきた人影に、炭治郎の心はとたんにふわりと浮足立った。義勇だ。手にした袋を見るに、炭治郎と同じく常備薬を補充しにきたのだろう。
 今日も水屋敷で稽古をつけてもらう予定である。義勇には申し訳ないが少々待っていてもらって、一緒に水屋敷に向かえばいい。そうすれば稽古の休憩中だけでなく、屋敷に向かう道筋でも義勇とおしゃべりできる。

 ウキウキと声をかけようとした炭治郎は、けれども、義勇に近づくことすらできなかった。

 義勇につづいてすぐに姿をあらわしたのは、屋敷の主であるしのぶだ。当然だろう。今の今まで義勇がいたのは診察室だ。しのぶがいるのは当たり前である。
 それに、二人が一緒にいるのは、珍しいことではない。那田蜘蛛山でも一緒だった。
 柱が同じ任につくのは、別段おかしくはない。組む相手も、なにもしのぶばかりではないだろう。もしも上弦の鬼であれば、柱であっても一人きり立ち向かうのは手に余る。だから、今目の前に見える光景は、なにもおかしなものではないのだ。
 けれども義勇に親しげに笑いかけるしのぶを見て、炭治郎の胸に去来したのは、言い知れぬ不快感だった。
 怒りと悲しさがないまじり、心臓を鷲掴みにされたような心地がする。お似合いだ。そんな言葉が浮かんで、炭治郎の胸はますます痛みを増した。
 二人とも炭治郎にとっては心安い相手だ。いつものように声をかけ、話をすればいい。思うのに足は動かず、廊下の角に身を隠し、一声も発することはできなかった。

 結局、炭治郎は二人に声をかけるどころか、薬を求めることもなく、その場を立ち去った。

 その日の柱稽古は、散々だった。

 自分では変わらず集中しているつもりなのに、義勇の剣をよけきれない。義勇にしたたか打ち据えられるたび、義勇の顔はどんどんと険しくなっていった。
 打ちあい始めてからいくらも経たないうちに、もういいと、義勇は木刀を降ろした。
「やる気がないのなら来るな。時間の無駄だ」
 反論は、なぜだかできなかった。
 やる気がないわけじゃない。強くなりたいという思いは、変わらず心に根を下ろしている。
 けれども、どうしても消えないのだ。親しげな義勇としのぶの姿が。
 真剣に鍛錬していてさえ、しのぶの笑顔が、不愛想な義勇の顔に浮かんだわずかな笑みが、目の前にちらついて、呼吸が乱れそうになる。
 返す言葉もなく、すみませんでしたとうなだれた炭治郎に、義勇が小さくため息をついた。

 あきれられた――!

 思った刹那、傷口を指でほじくられるような痛みを胸に感じて、炭治郎は身をすくませた。さっさと帰れと追い返されると思ったのだが、義勇は、静かに炭治郎に近づくとそっと額に触れてきた。
 大きく固い義勇の手のひらが、自分の顔に触れている。
 ヒュッと息を飲み体を固くした炭治郎に、熱はないなとつぶやいて、義勇はわずかに眉を寄せていた。
 匂いを嗅がなくてもわかる。その顔は、怒っているというよりも、気遣わしげな色をたたえていた。
 心配してくれてる。思ったとたんにぶわりとふくれ上がり、あふれそうになった感情は、言葉にするならたった一言。

 好きです。

 それに気づいた瞬間、炭治郎は、泣きたくなった。一瞬で昂たかぶった感情は、涙をこらえられたのが不思議なくらいに強く、激しく、炭治郎の胸を打つ。
 絶句した炭治郎を見つめる義勇のまなざしが、心配げであればあるほど、胸が苦しかった。
「あの、大丈夫です。ちゃんとしますから、だから、あのっ、明日も稽古してもらえますか?」
 ようよう口にすれば、まだ不安そうな空気をまといつつも、義勇はしっかりとうなずいてくれた。
「気を散らせば怪我をする。体調管理も隊士の責務と心得ろ」
 具合が悪いのを押してきたとでも思ったのだろうか。今日はゆっくり休めと言う声は、厳しくもやさしかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 気づいてしまった兄弟子への恋心は、それでも、抑えることができるはずだった。
 禰豆子を人間に戻し、無惨を倒す。その切願と大義の前では、己の恋などとるに足らぬものでしかない。それでなくとも男同士だ。憧れや尊敬が高じて、恋と錯覚しているだけに違いない。
 実際、うまくやれていたと思う。間違いなく恋だったとしても、なにが変わるわけでもない。変わらず炭治郎は鍛錬にはげみ、義勇に笑いかけられれば心浮き立ち、あきれられないよう頑張ろうと心に強く誓うだけだ。
 それは今までの日常と、なんら変わりがなかった。
 一変したのは、苦しげに路地裏でうずくまる女の人を見かけてからだ。

「どうしましたっ? どこか痛むんですか?」
 心配して走り寄った炭治郎の目の前で、その人は、苦しげに痙攣しながら、花を吐いた。
 血鬼術!? 尋常でない事態に、とっさに思い浮かんだのは、鬼の存在だ。けれども、まだ日は高く、目の前の女性から鬼の匂いはしない。
 とにかく調べてみなければと、匂いを嗅ぐべく花を手にした炭治郎に、その人は悲鳴のような声をあげた。
「駄目、移るっ!」
「移る?」
 怪訝に首をかしげたそのとき、思い至ったのは、以前善逸から聞いた病の話。
 感染率の高い、死に至る流行病――花吐き病だ。

 ごめんなさいと泣く人に、大丈夫、気にしないでくださいと言って笑いかける余裕が、炭治郎にはあった。そのときは、まだ。
 恋はしている。かなうはずもない恋だ。けれどもそれは、自分の意思で抑え込めるものでもある。いうなれば、憧れが少しばかり度が過ぎただけのしろものだ。それに、死に至るという不安要素はあるにせよ、痣が発現している炭治郎にしてみれば、今さらでしかない。
 痣によってか任務の上でかはわからないが、死ぬ覚悟はすでにできている。だから、罹患したとしても、それによってなにかが変わるとは思わなかったのだ。
 そんな一幕からしばらくしても、花を吐く気配がなかったこともまた、炭治郎の楽観に拍車をかけた。発症しないのであれば、誰かに相談したり治療を頼む必要もない。もしかしたら、自分にはかからなかったのかもしれないとすら思っていた。
 だが、そんな認識は甘かったと思い知った。
 己が吐き出す、花によって。

 初めて炭治郎が花を吐いたのは、見知らぬ隊士の鴉が届けにきた、義勇宛の一通の文を見た日だ。
 稽古を終えるのを見計らったかのように舞い降りた鴉は、義勇に文を渡し、返事は手紙にある日時と場所でと告げ、飛びたった。差出人の隊士に言いふくめられていたのだろう。義勇が口を開くよりも早く、逃げるように飛んでいった。
 鴉を介しての文のやり取りはめずらしくはない。炭治郎とてよくしている。義勇へもたびたび出していた。義勇から返事がきたことはないが。
 自分のほかにも義勇に文をよこす人がいたのだなぁと、うれしい心持ちもしたが、チリッとした痛みも感じた。
 義勇は、この人には返事を書くのだろうか。思ったそばから、折りたたまれた紙片を開いた義勇の眉がわずかに寄せられた。おやと思う間もなく、無造作に破り捨てようとするから、思わず炭治郎は目をむいた。
「な、なにしてるんですかっ? 人様がくれた手紙を破ったりしちゃ駄目ですよっ!」
付文つけぶみ4ラブレターだ。渡されても困る」
 付文。胸の内で繰り返した拍子に、炭治郎の頭がスッと冷めた。知らずまじまじと見つめてしまった文に、ジクリと胸の奥ににじみ出た苦い感情は、しのぶに微笑みかけた義勇を見たときに感じたものとよく似ている。
 誰かの義勇への恋心がしたためられた紙片が、むしょうに憎らしく思えた。
 憎らしいだなんて。そんな感情が即座に浮かんだ自分に、炭治郎はうろたえた。

 駄目だ。うろたえるな。落ち着け。

 自分に言い聞かせながら、炭治郎はいつものように義勇に笑ってみせた。
「それでも、駄目、ですよ……。だって、きっとこの人、勇気を出して書いたんだと思います。ちゃんと返事をしてあげなくちゃ」
「どうせ断るのにか?」
 無駄なことだと言わんばかりに眉をひそめる兄弟子に、笑いかけた己の顔は、ぎこちなくはなかっただろうか。
 渋る義勇を説得する言葉は、我ながら白々しい。本心では露ほどもそんなこと思っちゃいないのに、待ち合わせ場所に行ってあげてくださいと笑う自分に、反吐が出そうになった。

 そして。その日の帰り道、炭治郎は、初めて花を吐いた。

 せり上がる激しい嘔吐感は、いまだかつて感じたことがないほどだった。胃の腑と言わず体中でなにかがうごめいて、身のうちから出てこようとする。息ができない。苦しい。痛い。生理的な涙は止まらず、口を閉じることもままならない。
 全身を痙攣させながら、喉をふさいで逆流してくる塊をやっとのことで吐き出せば、ボトリと地面に落ちたのは、上向きの赤い花びらがかがり火のように見える、大ぶりな花だった。
「は、な……」
 唾液にまみれてぬらぬらと光る花は、どこか淫靡だ。
 この花の名はなんと言うのだろう。見たことがない。あの女の人が吐いた花とは違う。山に咲く花ならば多少は炭治郎にも覚えがあるが、観賞用の高価な花だとしたら、山出しの炭治郎にはてんでわからない。
 混乱はしていたが、まだ絶望には遠かった。頭の片隅では、本当に自分は花吐き病にかかっていたのか、これからどうするのが最良だろうと、どこか冷静に考える自分もいる。

 花を吐くというのはこれほどまでに苦しいのか。これが続けば死に至る病と言われるのも道理だ。
 でも、我慢できないほどじゃない。俺は体力もあるし鍛えてもいる。それほどひどいことにはならないんじゃないのか?

 そんな楽観が炭治郎を落ち着かせた。
 ともあれ病気についてもっと知っておかねばと、乱れた呼吸を整えて、岩屋敷へと急いだ。
 たいしたことがないのなら、大騒ぎする必要もない。しのぶやアオイに告げて大事にするよりも、まずは善逸にもっと詳しく話を聞いてみよう。そう考えて、岩屋敷に滞在し柱稽古に勤しんでいる善逸のもとを訪れたときには、まだ事態を楽観視していただろう。
 死に至るのは、花を吐くという物理的な苦しさのせいではないと、思い知るまでは。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 炭治郎の突然の訪問に、どこか思い詰めた顔で善逸は現れた。噂では鬼気迫るほど鍛錬にはげんでいるらしい。鍛錬の邪魔をしてしまったと申し訳なさを覚えたが、炭治郎の言葉を聞くなり善逸は、寸前までの真剣な面持ちなど消え失せた顔をして、すっとんきょうな声をあげた。
「はぁ? 花吐き病について教えてくれ?」
「花を吐く人を見たんだ」
 俺もかかってる、とは、言えなかった。自分が苦しい片恋をしているなどと、口にするのはためらわれる。相手は誰だと問われても、義勇の名を出すわけにはいかない。
「マジかよっ! うわぁ、本当に東京府でも広がってるんだ」
 青ざめた善逸は、ハッと目を見開くと、泡を食って炭治郎の肩をつかむとつめ寄ってきた。
「炭治郎っ、おまえ、その花触ったりしてないよなっ!? 花に触ったら絶対に花吐き病になっちゃうんだぞ! 死んじゃうんだぞ!」
 ガクガクと体を揺すぶられながら、炭治郎は、どうにかうなずいた。常ならば炭治郎が嘘をついていることぐらい、善逸ならすぐに気づいただろう。ブンブンと振られたのは、むしろ幸いだ。無理せず誤魔化すことができたらしい。
「まぁ、花吐き病が発症するのには条件があるらしいからなぁ。炭治郎なら大丈夫か」
 許されない、かなうはずもない、狂おしい片恋をしていること。それこそが、花吐き病を発症する第一条件だと、善逸は言う。
「吐いた花にも、意味があるらしいぜ。花言葉っていってさ、それぞれの花に意味がつけられてるんだ。たとえば、桃なら『恋の奴隷』とか。禰豆子ちゃんの夢見たときに桃が出てるとさぁ、俺の心そのまんま!って思うんだよなぁ。あとさあとさ、勿忘草の『真実の愛』とかぁ、も~俺の禰豆子ちゃんへの想いにぴったり!」
 くねくねと体をくねらせ脂下やにさがる善逸の言葉を、もう炭治郎は聞いていなかった。
 
 花言葉。花が持つ意味。
 俺が吐いたあの花は、なんという花なのだろう。どんな意味を持つ花なのか。

 ドキドキと速まりそうな心臓を懸命に落ち着けながら、炭治郎は、それでも問いかけた。
「吐く花は、一種類だけなのか? いつも同じ花? 人によって変わるのかな」
「ん? あぁ、一種類ってことはないよ。押し殺してた想いが花になるんだって聞いたぜ? だから、人によって変わるっていうよりも、そのとき感じてることが花になる感じかなぁ。自分じゃ認めたくなくても、花は嘘をつかないんだ」
 ならば、かがり火のようなあの赤い花は。あの花の持つ意味は、なんだろう。炭治郎の自分でも名をつけられない気持ちを、花はなんと告げていたのだろう。
 どうしてそんなに聞きたがるのかと善逸が不審に思う前に、あわただしく暇を告げた炭治郎は、だんだんとふくれ上がっていく不安に怯えて走った。
 なんてことない言葉に決まっている。たいした意味などない。誰かが触れたら困るからと、懐にしまい込んだままの花一輪は、ひどく重く感じた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「なほちゃん、すみちゃんときよちゃんもっ。あの、花について書いてある本ってないかな! えっと、花言葉ってやつも載ってて、花の絵が描いてあるのが見たいんだけどっ」

 蝶屋敷に戻るなり、急せいた声でたずねた炭治郎に、三人は顔を見あわせて「それならカナエ様がもってらっしゃいましたよ」
 と、一冊の洋装本を持ってきてくれた。
「これ、借りててもいいかな」
「はい。炭治郎さんなら汚さないでしょうし、しのぶ様もかまわないと言われると思います」
 にこりと笑う三人に礼を言い、炭治郎が自室としている病室へ戻る最中も、懐の花は一瞬たりと存在を薄れさせることはなかった。

 薄暗い部屋で、おそるおそる本を開く。震えながら頁をめくる炭治郎の手は、やがて一つの花に行き当たり止まった。
 めずらしい上向いた花びら。そこに描かれた図案は、たしかに炭治郎が吐いた花の姿をしている。
「シクラメン5「シクラメン」は発音に倣い「キクラメン」と表記している文献もありますが、わかりにくくなるので作中では「シクラメン」としています。……これだ」

――シクラメン。サクラソウ科。英名をサウブレッドと言ひ、『豚饅頭』と言ひ表されていたが、牧野富太郎博士により、花の形状をもつて『篝火花』と命名された――

「花言葉は……白、純潔。桃色、憧れ。赤……」

 赤いシクラメンの花言葉『嫉妬』

「嘘だ……」
 違う。違う。そんなこと思ってない。首を振っても、紙に記された文言は消えることなく、炭治郎の目に事実を突きつける。
 嫉妬。しのぶに、付文の差出人に、自分は悋気を抱いたというのか。あの痛みも怒りも切なさも、身を焼くほどの妬心だと。
 そんなはずはない。義勇への想いは淡い憧れに近しいものであるはずだ。
 けれど。

 許されない、かなうはずもない、狂おしい片恋により発症する病。

 ならば、花を吐いた時点で、炭治郎の想いは狂おしいほどに高まっていたのだ。自分でも気づかぬままに。
 震える手で懐から出した赤い花を、炭治郎は呆然と見つめた。
 すでに炭治郎の唾液は乾いている。けれども花は瑞々しさを失ってはいなかった。
 いっそ、しなびて枯れ果てていてくれたらいいのに。思っても、花は赤々と燃えるかがり火のように咲いている。

 隠さなければ。頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。

 それは切実さをともなって、炭治郎の頭を占めた。
 隠し通さなければならない。花吐き病に罹患していることも、胸にある恋心も。
 花吐き病にかかったことを知られれば、炭治郎が恋していることがバレる。誰にと探られたのなら、義勇へと行き着くこともたやすいだろう。
 それだけは、避けなければ。

 幼いころの思い出が胸を冷やす。里の人に頼まれて、荷運びの手伝いに少し遠くの町まで行ったときのことだ。
 悲鳴に振り返った炭治郎の目がとらえたものは、巡査にサーベルの柄で殴りつけられる、男の姿だ。
 やめてください。手を繋いでいただけじゃないですか許してください。泣きだしそうな声が通りにひびく。巡査にすがった連れらしい男もまた、力まかせに殴られたのを見て、炭治郎は思わず走り寄りそうになった。
「やめとけっ。ありゃあ、きっと男色のたぐいだろうよ。犯罪者だ。関わりあっちゃ駄目だ」
「でもっ、あんなに殴ることないだろっ。あの人たち、あんなに泣いてるじゃないか!」
 義憤にいきどおる炭治郎の肩をつかみ、いいからとその場から連れ去った里の男は、苦々しく言ったものだ。
「江戸のころならともかく、男同士で乳繰り合うなんて正気の沙汰じゃないからな。お上が男色はまかりならんって定めたぐらいだ。おまえみたいな子どもが近づいていいやつらじゃないんだよ」

 男が口にしたいくつかの文言は、そのころの炭治郎には、まったく意味のわからない未知の言葉であった。遊郭の少女たちとの文通で、今でこそ艶事に関する知識は、知らず少しは増えたけれど、それだけだ。
 恋を知らなかった炭治郎にとっては、そういうたぐいの知識は無用の長物でしかなく、頬を染めて感心してそれきりのものである。
 男色に対しての事柄を文で知り、あれはああいうことだったのかと、悟りはした。でもそれだけだ。かわいそうにとチラリと思い、あの時の二人連れをあわれんだだけのことであった。
 おそらくは、世情に通じた風情だったあの小父さんも、本当のところは正しい知識など持ちあわせてはいなかっただろう。明治天皇の御代に、たしかに政府が発布し施行された『鶏姦律条例』6明治5年(1872年)11月に発令。鶏姦(アナルセックス)を禁止する法律です。翌明治6年(1873年)7月に「鶏姦罪」として規定し直され、違反した者は懲役刑とされました(平民は懲役90日。強姦の場合は懲役10年)。明治15年(1882年)に消滅した法律です。は、男色を禁じてはいたが、いつのまにやら立ち消えたことなど、知る由もなかったに違いない。
 鄙びた農村には、新聞などとっている家も少ない。聞きおよんだ知識や己が目にしたことが、世界のすべてと言える。
 いずれにせよ、男同士で情を交わしあうことを、世間は決して良しとはしないのだろう。いくらその法律はもう無効なのだと言ったところで、一度法で戒められたことなのだから、きっと罪悪に違いないと信じている。
 炭治郎だって、そうだ。
 悪いことをしたのかもしれないけれど、反省しているならいいじゃないかと、幼いころには思ったし、今もさして考え方は変わってはいない。
 男同士で恋をし情を交わしあう。炭治郎の暮らしてきた狭い世間のなかに、そんな概念は存在しなかった。本人たちがよければなど、法にもとることを言えるわけがない。子を生せない同性の関係は、家制度に反するだろう。
 戸主たる父と、それを支える母。家を継ぐ子ども。それが国の定めた正しい家族の在りかただ。亡くなった家族に、自分が世間の目をはばかる男色家になったなど、どの口が言えるだろう。
 ましてや。
 そうだ。義勇まで……あの麗しい人までもを、後ろ指さされ官憲に殴り飛ばされてもしかたのない目になど、遭わせられるはずがない。
 たとえ俺の片恋だ、彼にはそんな想念はありはしないのだと、炭治郎が必死に言いつのっても、人の口に戸は立てられない。噂はきっと尾ひれがついて、義勇をさげすみ、柱失格と言い立てる隊士も現れるかもしれない。

 駄目だ。誰にも言えない。言っちゃいけない。

 当然のことながら、義勇にも知られてはならない。この想いが実るなど、露ほども願ってはいけないのだ。義勇を思うのならば、決してこの恋が報われてはならない。
 忘れよう。恋を殺すのだ。そうすれば今までどおり、なにごともなく義勇に稽古をつけてもらい、ときに楽しく談笑し、たまにやさしく笑いかけてもらう日々を過ごせる。いつか自分の命の火がつきるまで。
 炭治郎はそれだけを願い、決心していた。

<改ページ>
 けれど、恋は消えなかった。何度も、何度も、繰り返し炭治郎は花を吐く。
 花は、目をそらしても恋心を炭治郎につきつける。嘘つきめと嗤うように。

 きよたちから借り受けた本を、何度開いただろう。いくつかの花は、もう調べるまでもなく、名前も花言葉も覚えてしまった。

 姫金魚草、この恋に気づいて。
 赤いシクラメン、嫉妬。
 姫トリトマ、あなたを思うと胸が痛む。

 ほかにも、様々な花を炭治郎は吐いた。南天7私の愛は増すばかり、サギ草8夢でもあなたを思う、ジャノメギク9私を見つめて……吐く花はとりとめがないように見えて、一途な恋心を示すものばかりだ。
 願ってはならないと押し殺したはずの願望を、花はやすやすと暴き立てる。
 人目を避けて嘔吐するのも骨が折れた。万が一にも吐いたのが花だと知られてはいけない。うかつに人が触れても困る。だから最近、炭治郎は常に懐に高野紙10現在のトイレットペーパーを忍ばせて、花を吐くたび包んで厠に捨てている。
 鴉の目も、炭治郎には厄介だった。松衛門は常に炭治郎のそばにいるわけではないが、いつなんどき飛んでくるかわからない。炭治郎が花を吐く現場を見られては、確実にお館様へ報告されてしまうだろう。
 だから炭治郎には、気が休まるときがない。
 どんなに疲弊していようと、稽古の手を抜くことなど考えられず、義勇に見限られるのを想像するだけでも、身を切られるようにつらい。だから稽古を休むことなど論外だ。
 眠っているときだけが、唯一、気を抜ける。それなのに、片恋の切なさは、炭治郎から健やかな眠りも奪った。義勇の一挙一動に気持ちは浮き沈みし、床に就いてもなかなか寝付けないことは多々あった。
 どんなに炭治郎が否定しようとしても、花は、おまえの本心はこれだと吐き出される。そのたび、心が削られて行く気がした。

 ゆっくりと、削り取られて疲弊していく、心と体。淡い憧れだと思いこもうとしていた恋は、もう目をそらしようがないほどに、狂おしく燃え上がっている。
 花を吐くのは、義勇への想いが高まり、感情が抑えきれなくなった日にかぎられていた。ならば義勇と関わらなければいいようなものだが、ことはそんなに単純なものではなかった。
 義勇が所用で稽古を受けられない日には、炭治郎は、ほかの柱の稽古に混ぜてもらう。炭治郎一人きりが受ける義勇の稽古と違って、ほかの柱のもとでは多くの隊士が稽古を受けている。人が多ければ、会話も多く耳に入るのは道理だ。
 人というのは、聞きたくないことほど敏感にとらえてしまうのかもしれない。義勇のことを頬染め話す隊士の姿を見かけた日にも、花は、炭治郎の腹のうちから生み出された。
 弟切草11恨みに鬼百合12嫌悪……待雪草13あなたの死を望む
 浅ましい欲と、残酷な妬心を示す花言葉を、目にしたときの絶望。喉の奥から知らずほとばしり出た絶叫。すべてが炭治郎を打ちのめした。

 もう、やめよう。そう思った。
 忘れよう、こんな想いなど殺してしまおう。そう願うほど、義勇への想いは深く、重く、大きくなっていく。誰かを恨んでしまうほどに。
 ならば、もう、押し殺すのはやめてしまえ。だって、どうせ義勇は誰も愛さない。炭治郎をだけじゃない。誰のことも、愛さない。

 自分と同じだ。恋文を義勇にしたためた人も、頬染め水柱様に助けられたのだと話していた人も、自分となにも変わらない。山出しの無骨な自分とはくらべものにならぬ美しい人も、可愛らしい人も、義勇を好きになるだろう。けれども誰であろうと、決して義勇の恋情を得ることはないのだ。
 自分と同じく、あわれな恋をいだく同士だ。義勇は誰の手も取らないのだから、片恋に身を焼く者を恨む必要などない。

 本当に?

 義勇は、今は色恋などかけらも興味はないようだが、恋慕をいだくに足る誰かに出逢えてないだけなんじゃないのか。いつか、いや、もしかしたら明日にでも、その出逢いが義勇の身におとずれる可能性だってあるだろう。
 思えば、ゾッと背筋が震えた。おこり14悪寒や震えを発する病気。主にマラリアの一種である「三日熱」を指す。のように身震いがする。義勇に懸想する者を見るだけで、胸の内に嵐が巻き起こるのだ。もしも。もしも、義勇が誰かの手を取り、抱きしめる日がきたら。

「確かめよう……うん、そうしたら、きっと安心だ」

 ポツンとつぶやいて、炭治郎は小さく笑った。見開かれた瞳は、常軌を逸しかけていたが、それを指摘する声はどこにもなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「夕飯を?」
「はい! 毎日病人でもない俺のために食事を用意してもらうのは、蝶屋敷のみんなに悪いですし。それに、義勇さんにも稽古のお礼がしたいですから!」
 笑って言った炭治郎に、義勇は、軽く吐息しただけだった。
 あきれられたかと思ったが、材料費は俺が出すのが条件だと、素っ気なく言い、義勇は小さく笑う。炭治郎の胸が歓喜に満ちた。
「いいんですかっ!」
「おまえも胡蝶のところに戻ってから食事では、遠慮して落ち着かないだろう」
 稽古のあとでフラフラになり、動けなくなることはしばしばある。泊まるわけにもいかないと、夜半によろよろ帰っていく日だって、少なくはない。そのたび、アオイたちの手をわずらわせるのを、炭治郎が申しわけなく思っていることに、義勇も気づいていたのだろう。
 無愛想であっても義勇は、ちゃんと弟弟子である自分のことを、見ていてくれた。それがうれしくて、炭治郎の顔は知らず笑み崩れた。
「俺は炊事などほとんどしないから、手伝えないかもしれないが……」
「そんなっ、義勇さんにお手伝いしてもらったら、お礼にならないじゃないですか! 大丈夫です、俺、料理は得意なんですよ」
 なんて幸せなんだろう。胸の内に秘めた思惑への後ろめたさに目をつぶり、炭治郎は、義勇のまとうやわらかな空気に酔いしれた。
 自分の供する手料理を、義勇が食べてくれる。まるで家族か恋仲のように。

 たとえそれが、義勇にとっては、猛毒だとしても。

「知っている」
 笑みを含んだ声で言われ、一瞬、ひやりと背が冷えた。
「え?」
「おまえの握り飯はとてもうまいと、隊士たちが褒めているのを聞いた」
 言う義勇の目はやさしい。一度食べてみたいと思っていたと、少し微笑む義勇のまなざしは、どこか稚気をたたえている。噂される冷淡さなど、そこにはみじんもない。
「作ります……毎日だって作ります!」
 全身に満ち満ちる歓喜に、胸が震える。恋慕があふれだす。
「無理はしなくていい」
「無理なんかじゃありません! 義勇さんの好物はなんですか? 俺、それも作ります!」
 束の間、ためらう様子を見せた義勇が、小さく「鮭大根」と告げたとき、炭治郎の心には、ただひたすらに喜びがあった。幸せだった。

 たとえそれが、身のうちに抱える病を、重篤化させるものであったとしても。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 そして、今日も炭治郎は、水屋敷の厨に立っている。
 竃の前にしゃがみ込み、炭治郎は、クツクツと煮える鮭大根の鍋を慎重にかき混ぜる。煮物はあまり強く混ぜてはいけない。具が煮崩れる。
 義勇は甘めの味付けを好むのだということを、水屋敷で炊事するようになって知った。一緒に夕餉をとることにも、もう慣れた。最初は後ろめたさに心臓が止まりそうにもなっていたが、今では、ためらうことがない。
 義勇の好きな鮭大根はみそ仕立て。甘辛い味付けも、とろりとしたにごりも、好都合だ。
 小さく、小さく、刻んで入れた今日の花は、赤いテンジクアオイ15英名ゼラニウム。赤のゼラニウムは、君ありて幸福。炭治郎の腹で生まれた恋の花は、今日も義勇の口に運ばれ、飲みこまれることだろう。

 義勇は、一度も花を吐いてはいない。

 嘔吐中枢花被性疾患――通称、花吐き病と呼ばれる奇病は、狂おしい片恋に悩む者だけが発症する。
 夕飯の支度を買って出る前に、炭治郎は花吐き病についてもっと知るべきだと考えた。巷に流布した噂では安心しきれず、上野図書館までおもむき、花吐き病についての文献を時間が許すかぎり片っ端から調べてから、ことにおよんだのだ。
 閲覧料はかさんだが成果はあったと、炭治郎は、竃の前でくふんと笑った。

 許されない、かなうはずのない、狂おしい片恋。善逸から聞いたその条件は、実際は少々異なることを知った。
 片恋は、発症条件ではなく罹患条件だ。恋をしていない者、両想いの者には、病魔は手を伸ばせない。
 いずれ死に至るのも、どんな薬も効かないのも、事実だった。けれども、それは問題ではない。炭治郎はすでに死を覚悟しているのだ。死に至るのも、患者の自死によるものが多いことを知った。花を吐くことで、体力的にも精神的にも疲弊していくのは事実だ。けれども、死を決定づけるのは、花が突きつける本心に耐えきれるかどうかであるらしい。
 なるほど、それは理解できる。醜い嫉妬や悪意など、後ろめたい負の感情を認めるのはつらい。ましてや、目に見える形で突きつけられては、もう嫌だと己に刃を向ける者とて少なくはないだろう。
 決して消すことのできない切願や大義がなければ、炭治郎も、その一人に数えられていたかもしれない。
 けれども炭治郎は、心の平穏を手に入れた。少なくとも、恋については心穏やかでいられる。
 だって、義勇は花を吐かない。毎日のように、炭治郎の吐き出した花を忍び入れた食事をとっているのに、義勇は、花吐き病にかかった気配を見せなかった。

 義勇さんには、恋しい相手なんて、誰もいない。

 以前口にしたように、義勇は色恋には一切興味がないのだろう。今日も、そんなかたくなさをくつがえす出逢いは、義勇の身におとずれることはなかった。
 それを義勇の様子から確かめては、炭治郎は安堵した。
 義勇が苦しい片恋に身をやつさないかぎり、花吐き病を罹患することはない。
 なんて幸せな毎日だろう。
 もちろん、まだ無惨討伐の大願は果たされてはいない。それでも義勇が誰も選ばぬだけで、炭治郎は幸せだった。鬼殺隊士として、禰豆子の兄としての、宿願の成就だけを胸に邁進できる。
 炭治郎が落ち着いたことで、稽古をつけてくれる義勇も、安心したようだ。
 口には出さずとも、炭治郎が悩み、疲弊していくことには、気づいていたらしい。「憂いは晴れたようだな」と、少し微笑みながら言ってくれたとき、炭治郎は、多幸感と歓喜だけを胸に、はい!と笑い返すことができた。
 毎日のように、花を吐くようにはなった。それさえも、今はうれしい。自分の胸に積もる義勇への想いは、日を追うごとに澄んで、ただ恋しさだけが積もっていく。
 今日は、テンジクアオイ、昨日は藤16恋に酔うと、炭治郎の恋心を形にして花は生まれ出る。その思いを義勇が食べてくれるのだ。炭治郎のように苦しい思いも、命を削ることもないままに、義勇は炭治郎の心を口に入れる。

 幸せだ。どうしようもないほど、幸せだ。
 炭治郎は微笑む。今夜寝床で吐く花も、きっとこの幸せを示す花だろう。

 けれど、そんな幸せは、長くはつづかなかった。