花にひそむ宿痾 (お題:15後ろめたさ)

 穏やかに食事を終え、炭治郎が暇を告げようとしたとき、義勇が突然ひざを折った。
「義勇さんっ!?」
 あわてて走り寄り、うずくまる義勇の丸めた背をさする。どうしよう、なにか傷んだ食材でもあったのだろうか。思い至るものはなく、炭治郎は、脂汗の浮いた義勇の顔を見つめ泣きだしそうになった。
「大丈夫ですか? 苦しかったら吐いちゃってください! 俺がちゃんと片付けますから、気にしないで!」
 息せき切って言えば、義勇は、否と首を振ろうとしたように見えた。それが果たされなかったのは、かすかに身じろいだだけで激しい嘔吐感に見舞われたからだと、すぐにわかった。
「ぐ……っ」
「義勇さん!!」
 痙攣し、苦しげにゆれる瞳を虚空に据えて、義勇は、開いた唇を慄かせている。グッと隊服の襟元をつかんだ手には、いったいどれだけの力が込められたものか。ブチブチと、頑健な繊維でできているはずの隊服が引きちぎられる音がする。

 そして。
 義勇は、唾液にまみれた塊を、吐き出した。

 アカシア、姫金魚草、片栗、シロツメクサ……絶え間なく、吐き出されるのは、花、花、花。炭治郎も吐いたことのある、一途な恋心を伝える花だった。

 ゲホゲホと咳き込んで、花を吐きだしきっても、義勇の痙攣はやまなかった。一度にこれほどの花を吐けば、どれだけ苦しいか。炭治郎には容易に想像がつく。
 だが、義勇の苦痛を思い遣る余裕は、なかった。

 秘密の恋。恋に気づいて。初恋。私を……想って。

 知っている。全部、知っている。炭治郎の心から生まれた、義勇への想いの花と同じだから。
 炭治郎を襲った絶望は、義勇が恋をしたことではなかった。
 嫉妬など、心のどこにもない。ただただ、恐怖が胸に満ちた。体を真っ二つに引き裂かれるより、今、目の前で起きた事実が怖い。

「花……?」
 唾液にまみれた唇やあご先を拭いもせず、呆然とつぶやいた義勇の声は、炭治郎があげた絶叫にかき消された。
「誰っ、誰ですかっ!? 義勇さんが恋しい人は誰なんですか!? 俺、伝えてきます! 義勇さんが恋しく想ってる人に、義勇さんとお付き合いしてくださいって! ねぇ、早く! 教えてください!! 死んじゃう、義勇さんっ、早く!!」
 想像も、しなかったのだ。義勇がもしも恋をしたらと怯えて、こんな罪過を狂人のように行い続けたくせに。もし義勇が誰かに想いを寄せれば、義勇もまた、病に侵されるのだということを、考えずにいた。
 義勇は決して恋などしないと、思っていたかったからだ。無理やり思い込んで、自分の浅ましい感情から、目をそむけてきたからだ。
 恐慌状態で、早く、早く、教えてと、取りすがって泣く炭治郎を、義勇はどう思っているのだろう。義勇の反応を気にする余裕は炭治郎にはなかった。
 さすがは柱というべきか。炭治郎よりも数段早く呼吸を落ち着かせた義勇は、生理的な涙に潤んだ瞳を、じっと炭治郎に据えている。
 断罪の目だ。炭治郎は思った。身勝手な片恋の罪は暴かれた。終わりだ、なにもかも。
 柱に害をおよぼしたのだ。隊律違反で炭治郎は罰せられるだろう。せめて禰豆子のことだけは、守ってやってほしい。自分は処罰されるだろうが、禰豆子にはなんの罪もないのだから、どうか。
 自分の命は惜しくはない。禰豆子と、そして義勇さえ無事であるのなら。自分のなにを引き変えても、義勇の恋を叶えよう。それしか義勇に詫びる術などない。
 いや、詫びではない。生きていてほしいのだ。ただ、それだけだ。

「花吐き病という病が、あるらしいが……」
 これがそうかと、つぶやく義勇の声は、もうかなりの落ち着きを取り戻している。
 泣きながら必死にうなずく炭治郎を見つめたまま、義勇の手が、炭治郎の項をつかんだ。
「話に聞いただけだが……花吐き病は、患者の吐いた花に触れると罹患するんだったか。だが、俺は花になど触れてはいない」
 声は静かだったが、見据える瞳は強い光を放っていた。
「りょ、りょう、りに……料理に、入れました。俺が……お、俺が吐いた、花を、ち、小さく、切って……」
 しゃくり上げ言葉を詰まらせつつ言えば、見つめてくる群青の瞳が、色濃くなったような気がした。
「なぜだ」
 俺を殺したかったのかと、物騒な文言を口にするが、義勇の声はやはり穏やかだ。けれども、かすかに拭きかかる息はひどく熱く、瞳はギラギラと燃えているように見える。
 炭治郎は必死に首を振った。涙が散る。グッと、項をつかむ手に力が込められて、引き寄せられた。
「ならば、なぜ」
 黙秘も誤魔化しも許さないと言わんばかりに、額があわさりそうなぐらいに顔を近づけて、義勇は問う。
「……義勇さんが、恋をしてないって……誰も、好きじゃないって、安心、したかっ」
 告解は、最後まで言い切ることができなかった。
 重ねられた唇は、先の嘔吐でぬれていた。胃液の味がする。気持ちが悪いとは、思わなかった。驚愕と混乱に占められて、自失した炭治郎の脳裏に、そんな感想は浮かびもしない。
 強引に入り込んできた舌に、口中を犯されている。それをようやく理解したときには、ゾクゾクとした官能のしびれに全身を支配されて、駄目だと拒むことなどできやしない。
 どれぐらい貪られ、口を吸い続けられていたのだろう。ようやっと唇が解放されたときには、炭治郎の息は乱れに乱れていた。
「ぎゆ、さ……」
「花吐き病の治療法を、知っているか?」
 義勇の息も、わずかばかり乱れている。吐息が荒い。そして、火傷しそうに、熱い。
 小さく炭治郎はうなずいた。知っている。ちゃんと調べた。だからこそ、早く胸に住む人の名を教えてほしいのに、義勇はなぜ自分なぞにこんな真似をするのだろう。
「なら、来い。ここじゃ怪我をする」
 食事をしていた座敷だ。怪我をするような場所ではない。そもそも、義勇はなにをする気なのか。
 困惑しつつも、早く義勇を治療しなければという焦燥も、炭治郎のなかからは消えない。一刻も早く義勇の想い人へと、義勇の想いを伝えなければいけないのに。
 だが、義勇はそんな炭治郎の焦りなど、いっさい頓着する気がないのか、炭治郎の腕をつかみ、大股に廊下を進む。なかば引きずられるようにしてたどり着いた部屋は、義勇の寝所だ。
「義勇さん?」
 混乱の色濃い呼びかけにも、義勇は答えることなく、乱暴な手つきで押入れを開けると、布団を畳へと放り出した。行儀悪く蹴りはらうようにして布団を乱雑に広げると、ようやく炭治郎の腕を離し、また唇を重ねてくる。
 拒絶はできなかった。なにが起こっているのかわからず、ひたすら混乱しているせいもある。けれども、もとより拒めるはずもないのだ。なにをされようと、罪人である炭治郎に拒否権などありはしない。それに。
「おまえが吐いた花ということは、おまえも感染しているんだろう。治療行為だと思え」
 どこか急いて聞こえる声で言い、義勇は、炭治郎の体を乱れた布団に横たえた。

 違う。駄目だ。ちゃんと想っている人とでなければ、義勇の病は治らない。

 言いたいのに、言えなかった。
 だって、心のどこかでずっと望んでいた。義勇に求められることを。
 考えることもきっと罪だと、打ち消そうとしたって消えやしなかった望みが、たった一度でもかなえられるのなら。ただ一度きりでも、義勇の腕に抱かれ、義勇の熱に焼かれるのなら……このまま息絶えても、かまわない。それほどまでに、欲しいという言葉が全身を巡って、ほかの言葉など、なに一つ声にはならなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 嵐のような行為のなかで、炭治郎が口にした拒絶と言えば、痛和散なぞ用意がないと、足を担ぎ上げられたまま体を深く折り曲げられて、秘口を義勇の舌でなぶられたときぐらいだ。
 嫌だ、汚い、駄目だと必死に言いつのっても、義勇は容赦なくなぶり続け、決して止まってはくれなかったけれども。
 いや、拒絶の言葉は、そのときだけではなかったかもしれない。覚えていないだけで、何度となく口にしていた可能性はある。
 炭治郎の理性は、義勇の手指や舌で吹き飛ばされて、口から出るのはすべてうわ言のようであったので、もしかしたら嫌だ嫌だと言い続けていたかもしれない。グラグラと煮え立つような頭では、なにかを考えることすら難しく、ただひたすらに自然と口をつく音だけを慄く唇から漏らし続けていただけなのかもしれなかった。
 カラン、コロン、と、耳元で鳴る耳飾り。ぐちゅりと湿った音が淫靡にひびく。上ずる声が高く、意味のない音をつづる。
 互いに息が荒いでいた。義勇は、何度も「炭治郎」と名を呼んでくれていたように思う。よく、わからない。甘いひびきが、熱い吐息が、耳にそそぎこまれるたびに、全身を走る愉悦はとめどなく、脳髄がドロドロと煮詰められていくようで、なにも理解できなくなっていたから。
 それでも、蕩けて力の入らぬ自分の体に覆いかぶさって、義勇が「いいか」と確認の問いを投げかけてきたとき、炭治郎はこくりとうなずいた。

 いいよ。いいんです。あなたになら、なにをされても。

 なんの許しを請われたのはわからずとも、それだけはなにも変わらないのだから、答えは一つきりだ。ためらうことなくうなずくよりほかに、炭治郎には選択肢などありはしなかった。
 ググッと体のなかに押し込まれていく灼熱に、悲鳴じみた声をあげようと。堪えきれぬと言わんばかりに突き上げられ、嵐の波間の小舟のようにゆらされ続けようとも。

 義勇さんになら、なにをされても、好き。

 好き。好き。好きです。義勇さんが、好き。我を忘れ、熱に浮かされるように口にしつづけた言葉は、秘め続けた想いばかりだったろう。
 好きと炭治郎の唇がつづるたび、抽挿が激しくなっていく。追いつめられる。なにに? わからない。正体の知れない感覚が迫りくる。怖い。でも、やめないで。もっと。もっと、近くに。もっと深く。願いはちゃんと言葉になっていただろうか。
 わからないけれど、義勇は、グッと炭治郎を抱きしめてくれたし、深く深く、繋がっている気がしたから、それでいい。
 ひときわ大きな衝撃に、高く長くあがった声。背を仰け反らせて、義勇の背にすがった手に力を込めた。
「炭治郎、好きだ」
 聞こえた声は、幻か。白い闇に塗りつぶされるように、炭治郎の思考は途絶えてしまったから、それもわからなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ゆるゆると覚醒した意識は、まだぼんやりとしている。うっすらと目を開ければ、視界は暗かった。いったい今はなんどきだろう。障子を透かして差し込む月明りはおぼろで、周囲はよく見えない。
「大丈夫か」
 耳元で聞こえた声に、炭治郎の肩が、びくりと跳ねた。
 振り返れば義勇の麗しい顔が、至近距離にある。
「ぎ、義勇さん?」
「すまない。箍が外れた。つらくはないか?」
 ささやく声はやさしく、どこまでも気遣わしげだ。
「あの……」
「どこか痛むのか?」
 起き上がろうとする義勇にあわてて、炭治郎は、自分の頭の下にあった義勇の腕をとっさにつかんだ。
「大丈夫です。頑丈にできてますから」
「……鍛えられるような場所でもないだろう?」
 クスリと苦笑して言う声には、少しばかりからかいの色がにじんでいるような気がする。室内に漂う青臭いような匂いと、馴染んだ汗の匂い。それに混じって感じる義勇の匂いは、至極上機嫌であるのを炭治郎に伝えてくる。
「布団が湿って寝苦しいだろうが、我慢してくれ」
 次にはちゃんと痛和散や閨紙1閨(交合時)に使う紙の総称。「富貴紙」拭き紙:拭く紙の総称。明治時代に富貴と洒落た名称をつけて売り出されている。「もめた紙」交撚紙:汚れを防ぐための紙。下に敷いて使用する。も準備しておくと、言う声音もなぜだか楽しげである。
「閨紙……」
「いるだろう? 富貴紙が。もめた紙もか」
 毎回布団を汚すのでは、朝がいちいち面倒だ。言いながら項に触れてきた湿った感触は、義勇の唇だろうか。小さく肌を吸われ、思わず炭治郎は首をすくめた。
 いったいなにが起きているんだろう。もうちゃんと目覚めているはずなのに、思考が定まらない。

 順番に考えてみよう。昨夜は、いつものように二人で食事をして、俺が作った鮭大根を、義勇さんがおいしそうに食べてくれて……。

 カッと目を見開き、炭治郎は昨夜の出来事に思い至った瞬間、勢いよく起き上がった。
「義勇さんっ! 義勇さんの好きな人って誰なんですか!? 早く想いを告げないと!」
 組み敷くようにつめ寄れば、見上げてくる義勇の目が呆気にとられている。なんなら口もぽかんと開けられていた。
「おまえ……まさかまだわかってないのか?」
「わかりません! 誰ですか!? 俺、ちゃんと伝えてきますから!」
 痛む胸を押し殺して必死に言ったのに、義勇の眉はとたんに不機嫌そうに寄せられた。
「おまえは俺が好きなんじゃないのか? だから俺に花を食わせたんだと思っていたんだが」
「す、好きです……。でもっ、俺のことなんかどうでもいいんです! 義勇さんの病気を治さなくちゃ!」
 泣きだしそうに言えば、義勇は、心底疲れたようにため息をついた。
「義勇さ……わっ!」
 グイッと腕を引かれて、体勢を崩し義勇の胸に倒れ込めば、たくましい腕が抱きしめてくる。
「もうお互い完治するだろう。心配はいらない」
「そんな……花吐き病の治療方法は、両想いになることだけなんです。その、えっと……交合、は、治療方法じゃなくてですね」
 頬を寄せた義勇の胸から、穏やかな鼓動が聞こえてくる。鍛え上げられた胸は固い。けれど、温かく、しっとりと吸いつくような肌をしている。
 気持ちいい、なんて。場違いな感慨に自己嫌悪しそうになった炭治郎の耳に、落ちてきたのはあきれた声。
「だからもう完治は目の前だと言ってる。任務中に発症すると厄介だと胡蝶に忠告されているから、たいがいの流行病の知識はある。間違えていないはずだ」

 いい加減気がつけ、でないと治らないだろう。と、あきれた声はつづる。

 なんで? 治療法をちゃんと知っているのなら、なぜこの状態を完治間近だなんて義勇は言うんだろう。だって、好いた相手と想いを確かめあって、心を通じあわせなければならないのに、発症してから義勇が今の今まで一緒にいたのは、炭治郎一人だ。
 確かめあいようなど……。そこまで考えた炭治郎は、パチリとまばたいた。

「俺……?」

 まさか。そんなわけはない。うぬぼれるなと打ち消そうとしたが、当の義勇がそれを拒んだ。
「やっとわかったのか。判断が遅い」
「えっ!? いや、だってっ! えぇっ!?」
 飛び起きたかったが、それはかなわなかった。先んじた義勇の腕が、強く抱きしめてきたから。
「声が大きい」
「すみません! でもですねっ、今までそんな気配はなかったように思うんですけど!」
「そうだな。自覚したのはおまえが俺に花を食わせたと言ったときだから」
 呆然と言葉をなくせば、義勇は少しばかりバツが悪そうに空咳し、そして。
 密やかに、けれども強く、言った。
「おまえに惚れている、炭治郎」
「嘘……」
「嘘かどうかは、じきにわかる」
 ほのかに苦笑が交じった声音に誘われるように、ドクンと大きく心臓が鳴った。
「あ……っ」
 花を吐く。もはや馴染みきった感覚に、炭治郎はあわてて身を起こした。義勇もまた、苦しげにうめくと、身をよじる。

 そして。
 二人そろって吐き出したのは、白銀にきらめく百合の花。
 両想いになると、病の完治の証として吐き出される、美しい花が二輪。二人のあいだに重なるように落ちていた。

「ほら……これで、信じたか?」
 苦しいだろうに笑ってみせる義勇に、笑い返してやることはできなかった。
 あふれたのは想いだけではなく、盛大な嗚咽もだったから。

 いつからとか。これからどうすればとか。幸せばかりにひたるには、疑問も不安も山積みだ。世間や家族、仲間に対する後ろめたさは、消えないだろう。たとえ身近な人たちに祝福されたとしても、先のない関係なのかもしれない。幾久しくと誓うには、二人の行く道は険しく、いつまでともにいられるかなど、わかりはしなかった。
 それでも。
 死に至る流行病はこの身から去っても、決して治らぬ病に侵され続けて、二人、行けるところまで。

 花ではなく、己の言葉で温もりで、想いの丈を伝えあい、恋の病を抱えて生きる。