昨日、お店で夕ご飯をご馳走になっているうちに降ってきた雨は、とうとう本格的な冬を連れてきたようでした。今朝の空気は昨日までよりぐんと冷たくて、炭治郎たちが吐く息も真っ白です。
真冬が来たなら年が替わる日も近づきます。このごろ『災い』が出たという話をあまり聞きませんが、『災い』の首魁はキメツの森に襲いかかる準備中なのかもしれません。それはとても恐ろしいことでした。
あんな怖い話を聞いたあとで雨のなかを帰るなんてと善逸が怯えるのを見て、洋服屋さんは、昨日もみんなに泊っていけと言ってくれました。昨夜も洋服屋さんに抱っこされて眠った炭治郎は元気いっぱいですが、やっぱり少し怖い気持ちは胸のなかにありました。
今日のお遣い先は、風柱様のお住まいです。お社は森を抜けた先の谷間にあります。今までのお遣い先である柱様のお住まいよりも、風柱様のお住まいはもっとずっと遠い場所でした。
風柱様は森の外側にお社をかまえ、外敵からの攻撃を先陣切って迎え撃っているのだそうです。
柱様たちはみんな『災い』を容赦なく斬り祓いますが、風柱様はとくに『災い』には厳しく、その戦いぶりは守られた動物さえも怯えてしまうことが多いのだと、噂好きな善逸が教えてくれました。
今日のお遣いは夜までに帰るのは無理ですから、洋服屋さんは、二日分のお弁当をみんなに用意してくれました。新鮮なお水がたっぷりと入った水筒も持たせてくれて、用意は万端です。これなら伊之助や善逸も、お腹を空かせずにすむでしょう。
出発するとき、洋服屋さんはみんなに、重々言い聞かせました。
まだ早い時間だと思っても、無理に帰ろうとせず風柱様のお住まいで夜を過ごさせてもらうこと。暗くなったら決して一人にはならないこと。そして、万が一『災い』に出くわしたら、すぐに誰でもいいから柱の名を呼ぶこと。
炭治郎たちは何度も復唱させられて、短気な伊之助などは、すっかり不機嫌になってしまったぐらいでした。
やはりお遣いはやめさせたほうがいいだろうか。洋服屋さんがそう思っていることは炭治郎にもわかりましたが、炭治郎は洋服屋さんのお手伝いをやめるつもりはありませんでした。
洋服屋さんのお手伝いをして、もっと仲良くなりたいのも確かなのですが、『災い』の首魁の話を聞いて、炭治郎は考えたのです。
炭治郎はただの子狐で、柱様のように戦うことなんてできませんし、洋服屋さんみたいに不思議なことだってできやしません。
けれど、柱様たちとお逢いしていくうちに、自分にもなにかできることが見つかるかもしれない。もしも自分にできることがあったなら、禰豆子たちを守るためにも精一杯やろう。炭治郎はそう思ったのです。
なので、今日も炭治郎は張り切って走りました。新しいマントを羽織ってご機嫌な禰豆子も、今日は遅れることなくついてきています。善逸や伊之助も、いろいろと考えることがあったのかもしれません。いつもだったら怯えて泣き言ばかり言う善逸も、文句を言わずにお手伝いに参加していました。
一所懸命走って、お弁当を食べてまた走って、風柱様のお住まいである谷間の上に着いたときには、もうお日様は山の端にかかりかけていました。
急いで崖を下りなければ、あっという間に暗くなってしまうでしょう。冬の日は落ちるのがとても早いのです。
慌てて炭治郎たちは谷へ下りる道を探しました。暗くなれば森の外のこと、『災い』が出てくる恐れは十分にあります。
「どうしよおぉぉ炭治郎ぉぉ! 谷に下りる道なんて全然ないじゃんっ! このままじゃ夜になっちゃうよぉぉ!!」
「もうこのまま崖を下ってこうぜ! これぐらい楽勝だぜ!」
善逸は泣きべそをかいているし、伊之助は無謀なことを言い出すしで、炭治郎と禰豆子も困ってしまって顔を見合わせました。
安全な道はどうしても見つかりません。もっと遠くまで行けばあるかもしれませんが、そこまで行く前に夜になってしまうでしょう。
どうにも困ってしまった炭治郎たちは、とにかく少し落ち着こうと話し合うことにしました。
「道はないけど、崖が緩やかな場所はあっただろ? あそこからなら下りられないかな?」
「でもお兄ちゃん、綱かなにかあれば体を支えられるけど、なにもないよ?」
「いくら緩やかって言っても、やっぱり崖なんだぜっ!? 落ちたら大怪我するって!」
「へんっ、これぐらいの崖で怪我なんかするかよっ!」
伊之助はともかく、禰豆子や善逸が言うことはもっともです。けれど、ほかにいい案も見つかりません。炭治郎たちは恐る恐る崖を覗き込みました。
「ほら、ちょっとずつだけど足場になりそうな出っ張りがあるだろ。あれを伝っていけば、谷に下りられると思うんだ」
「下りるなら暗くなる前だな。足場が見えなくなったら、俺様はともかく弱みそな紋逸や子分その三は、足を踏み外して真っ逆さまに落っこちまうからな」
「いのっ、伊之助ぇぇっお前なぁぁっ! どうしてそういう不吉なこと言うんだよぉぉっ!! お前言霊って知ってる!? 知ってるかっ!? 知らねぇだろこの野郎!! 不吉なこと言って本当にそうなっちゃったらどうしてくれんだよっ、馬鹿ぁぁぁっっ!!」
伊之助のマフラーを掴んでブンブンと揺する善逸は、もはや本泣きです。もともと臆病なものだから、『災い』も怖ければ崖も怖いしで、とても落ち着いていられないようでした。
「善逸さん、落ち着いて。大丈夫よ。ゆっくりいけば落ちたりしないから。私も頑張るから、善逸さんも頑張って!」
禰豆子に言われて、目を回した伊之助をようやく放したものの、善逸はまだ泣きべそをかいています。それでも、禰豆子ちゃんが落ちそうになったら俺が助けるからねと、泣きながらも言うので、禰豆子は苦笑しつつもうれしそうでした。
「これしか谷間に下りる方法はなさそうだし、行こう!」
炭治郎の言葉に、勇気を振り絞って、みんなはゆっくりと崖を下り始めました。
伊之助を先頭に、炭治郎、善逸、禰豆子と続きます。少しでも明るいうちにと気がはやりますが、焦って足を踏み外したら大変です。よいしょ、よいしょと、炭治郎たちはゆっくり崖を下りていきました。
どんどん辺りは暗くなっていきます。あまり下を見ると目を回しそうで、足場だけを探しながら、炭治郎たちは少しずつ谷へと向かいます。いったいどれくらい下りたでしょう。お日様が沈み切る前に谷に着けるのでしょうか。不安になり始めたそのとき。
「あっ! もうすぐ谷に着くぜっ!」
大きな声でうれしそうに言った伊之助の言葉につられて、炭治郎たちは、思わず谷を見下ろしました。
「あ……っ」
振り向いた拍子に、禰豆子が右足をかけていた出っ張りが、ガラリと音を立てて崩れました。
「禰豆子ちゃんっ!」
「禰豆子っ!!」
足場を失って後ろに倒れかけた禰豆子の手が、崖から離れ、体が空へと投げ出されます。マントが花のように開いてはためくのが、なぜだかゆっくりとして見えました。
呆然としたのは一瞬で、炭治郎は善逸と一緒に落ちていく禰豆子へと必死に手を伸ばしましたが、とても届きません。
禰豆子が地面に落ちる前に抱きかかえて守れば、大怪我はしないですむかもしれない。悩む時間はありません。炭治郎たちが足場から飛び下りようとしたそのとき、大きくて真黒な鳥が一羽、ビュンっと飛んでくるのが見えました。
鳥は、禰豆子のマントをくちばしに銜えると、ゆっくり谷間へと舞い降りていきます。ホッとして、炭治郎たちは急いで崖を下りていきました。
「禰豆子ぉっ!!」
「禰豆子ちゃぁぁあぁあぁぁんんっっ!!」
「子分その三っ、大丈夫かっ!!」
谷間に足がついたと同時に、三人は禰豆子の元へと一目散に駆けていきました。
禰豆子はカタカタと震えています。炭治郎たちは禰豆子をぎゅっと抱きしめて、よかった、よかったと、泣きながら喜びました。
「ごめんね、お兄ちゃん。善逸さんと伊之助さんも。心配かけちゃった……」
ぽろりと涙を落とした禰豆子に、善逸が大きな声で言いました。
「禰豆子ちゃんが悪いんじゃないよ! 伊之助がいきなり大きな声出したからだぞ!!」
「なんだとぉ!! お前だって、子分その三が落ちそうになったら助けるとか言っといて、なんにもできなかっただろうがっ!!」
泣きながら伊之助を睨んだ善逸に、伊之助も大きな声で怒鳴り返します。険悪な二人に、炭治郎と禰豆子は涙を拭くと、二人の喧嘩を止めようと慌ててあいだに入りました。
「禰豆子は無事だったんだ、それでいいじゃないか! 喧嘩をするのはやめないか!」
「お願い、喧嘩しないで。私が悪かったの! 二人が喧嘩することじゃないでしょ」
一所懸命に炭治郎と禰豆子が言っても、二人ともむぅっと顔をしかめていて、不満が消えたわけではないようです。それでも睨み合うのはやめてくれたので、ひとまず喧嘩はおしまいでしょう。ホッと胸を撫で下ろした炭治郎の耳に、聞き慣れない声が聞こえてきました。
「騒がしい奴らだな。そもそもこんな夕暮れに、崖を下りるのが悪いんじゃねぇか」
ビックリしてみんなが顔を向けると、いつの間にか鳥は消えていて、代わりに大柄な少年が腕組みして立っていました。
炭治郎たちを睨む少年の顔には大きな傷がありました。逆立てた髪や黒い服も相まって、見た目はちょっと怖い感じのする少年です。
「え? 誰?」
思わず呟いた善逸に、少年はチッと舌打ちすると、さっさと踵を返して立ち去ろうとしました。
「ま、待って! ねぇ、君! もしかして君は風柱様の眷属なのかな」
慌てて呼び止めた炭治郎を、少年は不機嫌そうな顔で振り返り見ました。
「だったらなんだよ」
「やっぱり! それじゃ、禰豆子を助けてくれた鳥は君なんだな! ありがとう! おかげで禰豆子は大怪我をしなくてすんだよ、本当にありがとう!」
少年に走り寄って礼を言う炭治郎を見て、善逸や伊之助、禰豆子も急いで駆け寄ってきました。
「助けてくれてありがとうございました!」
禰豆子と一緒に善逸も少年に頭を下げます。伊之助は頭こそ下げませんでしたが、助かったぜお前も俺の子分にしてやってもいいぞと、伊之助なりにお礼を言いました。
炭治郎たちが本当に嬉しそうに感謝するのを見て、少年は少し照れたようです。
「べつに、そんなにお礼なんか言わなくてもいい。柱の眷属なんだからこれぐらい当然だ。それよりも、もう夜になるぞ。お前らはお参りに来たんじゃないだろ、なんの用で来たんだ?」
照れくさいのかぶっきらぼうに言う少年に、炭治郎は慌てて言いました。
「風柱様にお逢いできるかな。俺たちは洋服屋さんのお手伝いで、風柱様から鳥の羽根を貰っていかなくちゃいけないんだ」
少年は炭治郎をまじまじと見つめ、やがて、まぁいいだろうとうなずきました。
「ついてきな」
さっさと歩きだす少年の後を慌てて追いかけて、炭治郎たちはよかったねと笑い合いました。
「でもさぁ、なんでお参りじゃないってわかったんだろう。っていうか、こんなところでお参りに来る人なんていんの? お参りのたびにあの崖を下りるなんて、危なくてしかたないだろ?」
善逸に言われて、炭治郎と禰豆子も首をひねりました。
たしかにそのとおりです。柱様のお住まいであるお社には、『災い』から守ってもらった動物たちが、感謝を告げにお参りにやってくるものです。これからもお守りくださいとお祈りだってするのです。崖下の谷間に、みんなどうやってお参りに来るのでしょうか。思い返してみれば、ほかの柱様達のお住まいだって、たやすく行ける場所ばかりではありません。
不思議に思っていると、炭治郎たちの会話が聞こえたのでしょう、少年が振り返ることなく言いました。
「お参りやお祈りに来る奴には、感謝や祈りの度合いによって道が現れるんだ。深い感謝や祈りほど、緩やかな道を進める。どっちでもない奴は、お前らみたいにあの崖を自力で下りなきゃここには辿り着けねぇんだ」
「へぇ! お参り用の道があるのか」
「ズルいっ! そんな道があるなら、そこを通らせてくれたっていいだろっ!」
少年は振り向くと、わめく善逸をムッとした顔で見やり、不機嫌な声で言いました。
「神だったら誰彼かまわず願いを聞いてくれるなんて思うなよ? 楽して願いを叶えてもらおうなんて、虫がよすぎるんだよ。苦労して勇気を振り絞って辿り着いた奴じゃなきゃ、神は願いを聞き届けたりしねぇ」
少年の言葉に、炭治郎たちは顔を見合わせました。それではきっと、今回の試験はこの崖なのでしょう。対価にするお弁当も持ってきてはいましたが、どうやら今日もお遣いは無事に果たせそうです。
「おい、そいつらァなんだ。俺の住まいになんの用だァ?」
しばらく歩いていくと、どこからか声が聞こえて、少年が立ち止まりました。
「兄貴、こいつらお遣いで来たらしいぜ」
少年が言うと、炭治郎たちの目の前でビュウッと旋風が巻き起こり、銀の髪をした傷だらけの男の人が現れました。眷属の少年は兄貴と呼んでいましたが、きっとこの人が風柱様でしょう。
「初めまして、風柱様。俺は狐の炭治郎、こっちは妹の禰豆子で、友達の善逸と伊之助です! 今日は洋服屋さんのお手伝いで、風柱様のお住まいにいる鳥の羽根をいただきに来ました!」
炭治郎はいつものように元気よく言いました。すると風柱様は炭治郎の胸元を見て目をすがめると、フンと鼻を鳴らしました。じろじろと炭治郎を眺めまわす目はいぶかしげです。
「……洋服屋だァ?」
「はい! 森の外れにある洋服屋さんです! とってもきれいで、とぉってもやさしい人です!」
自慢げに言った炭治郎に、風柱様はなぜだか不機嫌そうに舌打ちしました。
「欲しいもんがあんなら、てめぇで取りに来りゃあいいじゃねぇか。それをこんなガキどもに来させる奴の、どこがやさしいってんだァ?」
馬鹿にしたように言って、風柱様はフイッとそっぽを向いてしまいました。その様子には、炭治郎も思わずカチンときます。
だって洋服屋さんにはお店があるのです。自分で来られなくてもしかたないではありませんか。
そりゃあ、お客さんは滅多に来ないかもしれませんけれども、洋服屋さんがお店を離れたら、お客さんは買い物ができません。それに、洋服屋さんが炭治郎たちにお遣いを頼むのは、手袋やマフラーに払うお金の代わりなのです。
それなのに洋服屋さんは、炭治郎たちのためにご飯やお弁当を用意してくれて、暖かいベッドで眠らせてくれたりもします。どんなにお手伝いしても足りないくらい、洋服屋さんのほうがずっと多くのことを、炭治郎たちにしてくれているのです。
「お言葉ですが! 洋服屋さんは俺たちに本当にやさしくしてくれます! お手伝いはお代の代わりにしてるんです、洋服屋さんを悪く言うのはやめてください!」
きっぱりと大きな声で言った炭治郎に、善逸がギョッと目をむきました。
「お、おい、炭治郎っ。柱様になに言ってんだよっ」
慌てる善逸が止めても、炭治郎は一歩も引く気はありません。
「おい、テメェ。それが柱に対する態度かァ? 口の利き方を知らねぇガキだなァ」
すっかり気を悪くしたらしい風柱様に、眷属の少年もオロオロとしています。
「兄貴、こいつらはちゃんと自分で崖を下りてきたんだ。試験は合格してるんだよ。こんなチビどもが頑張ったんだぜ?」
取りなす少年を見て、風柱様はまた舌打ちすると、ピィッと指笛を吹きました。するとたちまち風が巻き起こり、どこからかやってきた鳥が、何羽も炭治郎たちの頭の上を飛び回りだしたではありませんか。
やがて、一羽の鳥が高く一声鳴くと、風柱様の手に真っ白な羽根を一本落としました。
その羽根を少年に手渡して、炭治郎たちに向かって顎をしゃくると、風柱様は言いました。
「おらよォ、これを持っていけや。あの野郎は気に食わねぇが、しかたねぇ。おい、俺の名前は不死川だァ。もしも俺を呼ぶときは、そう呼びかけるんだなァ」