水天の如し 七 ◇少年、苦い邂逅を乗り越え進むの段◇

 炭治郎が洞窟に足を踏み入れたとたん、突然に周囲は暗闇に包まれた。とっさに振り返り見た入り口も闇に包まれて、並び立っていたはずの鱗滝たちの姿などどこにも見えない。前も後ろも真っ暗な闇だけがあった。
 一瞬ヒヤリと背が震えたけれども、慌てふためくことでもない。炭治郎は小さく息を吐きだすと、グッと唇を引きしめた。不思議なことが起こるたびに、いちいち慌てていては試験に合格するどころか、狭霧山では暮らしていくことさえできやしないのだ。
 けれども、明かりがなければ心もとないのも事実である。修業を始めてから、以前よりも夜目は利くようになった。だが洞窟の暗闇は、あまりにも深い。伸ばした自分の手すら見えない闇のなかでは、進むべき方向すらわからなかった。
 取れる手立ては二つ。このままとにかく進むか、敵が現れるまでこの場で待つか。
 炭治郎が選んだ選択肢は前者だった。待っていれば敵が現れるという確証はない。もちろん、進んだところでそれは変わらないのだけれど、地形すらわからぬ場所で立ち尽くすよりも、周囲を把握するためにも動くべきだろう。

「目だけに頼るな。匂いや空気の流れでも見るんだ」

 密やかな声でつぶやき、炭治郎は、深く息を吸い込んだ。呼吸は鼻から吸い、口から吐く。深く、深く。どんな場でも呼吸は乱してはいけない。今まで習ってきたすべてを、一つたりと軽んじるな。
 冷静に自分に言い聞かせ、炭治郎は、周囲の匂いや頬に感じる空気の流れに意識を集中した。
 音も同じだ。耳でも見る。先のつぶやきは、岩に反響することなく聞こえた。炭治郎はもう少しだけ大きく、わっ、と声をあげてみた。敵に聞きつけられるかもという怯えはなかった。ただ待っていたところで、試験なのだから襲ってこられることに違いはない。むしろ敵が現れ、空気の流れが生まれるほうが、打つ手も浮かぶ気がした。
 声は跳ね返ることなく吸い込まれていく。かなり広い空間なのだろうか。左手を真横へと伸ばす。じりっと足をすべらすように左へと向かっていくと、やがて手がゴツリとした岩肌に触れた。
 手探りで確かめ、炭治郎はひとまず岩壁に背を預けた。これで少なくとも背後からの奇襲はない、はずだ。けれども落ち着く間はない。刀を抜いてしまいたいところだが、それでは片手が塞がれる。周囲の地形すらわからぬ状況では、片手でいるのは心もとない。炭治郎はめまぐるしく思考を巡らせる。
 このままでは動けないが、さて、どうする。
「壁沿いに歩いてみるしかないか……」
 つい言葉にしてしまうのは、少しばかり不安が心に残っているからかもしれない。暗闇のなか、なんの音もしないというのは、なんとも心細くなるものだ。
 怯懦な己に喝を入れるべく、炭治郎は、よし! と一つうなずき歩き出した。手は岩壁につけたままだ。
 頭のなかで歩数を数える。どんな些細なものでも、情報はおろそかにできない。足元すらおぼつかないせいで、つい歩みはおっかなびっくりになりかける。けれどもそれでは意味がない。努めて歩幅を均等に保ちながら、炭治郎は慎重に進んだ。
「えーと、走るときと同じぐらいの歩幅じゃないと駄目だよな」
 ついつい独り言が口をつくのはご愛嬌だ。自分のつま先すら見えないのだ。無造作に足を踏み出した先に地面がなくとも、きっと落ちるまで気づけないだろう。警戒心から自然、歩みはそろりそろりとしたものになる。普段とくらべれば倍ほども時間のかかる歩みだ。
 知らず焦れそうになるが、焦ったところでいいことなどきっと一つもない。周章は冷静さを失わせるし、そうなれば敵の急襲への反応も遅れるだろう。冷静に、落ち着いてと自分に言い聞かせながら、炭治郎はゆっくりと前に進んでいく。とはいえ、この暗闇のなかでは、前も後ろも定かではないのだけれども。

 どれだけ経っただろう。脳裏で二百歩とつぶやいたと同時に、つま先がコツンとなにかに当たった。そろりと動かしてみた足に感じる形状は、平面に思える。壁か? 曲がり角だろうかと足を止め、炭治郎は壁伝いに手を這わせた。
「……岩じゃ、ない? 木の感触っぽいけど……板かな?」
 自分の正面まできた手が触れたものは、ゴツリとした岩ではなかった。ソロソロと手を這わせ続けると、どうやら行く手を塞いでいるのは扉だと知れた。
 こんな洞窟に扉とは、いかにも怪しい。けれども開けぬという選択肢はなかった。
「進まないわけにはいかないもんな」
 つぶやきながら炭治郎は、手探りで取っ手に手をかけた。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず。ままよと勢いよく扉を開ければ、眩しい光が目を焼いた。
 思わずギュッと目を閉じた炭治郎は、己の失態に気づき慌てて無理やり目をこじ開けた。真っ暗闇から一転した明るさは、痛いほどだ。視界がうまく働かない。
 パチパチとせわしなくまばたきしながら、炭治郎は腰に差した刀に手をかけた。いま襲いかかられたら、避けられるだろうか。ヒヤリと背に汗が伝った。
 灯明ではありえぬ眩しさは、炭治郎の顔に温かさまで伝えてくる。闇のなかではかすかにも感じられなかった風が、頬を撫でていった。

「日射し……? 嘘だろ」

 呆然とつぶやいた炭治郎の声は、驚愕にかすれていた。ようやくまともに働き出した目が映す光景は、到底信じられぬものであった。
「町……だよな」
 大きく見開いた目に飛び込んできたのは、どこにでもある町の雑踏だ。明るい日が差し、風が吹いている。目の前に続く往来の脇には、商店が並んでいた。値段交渉する客と店主の会話、はしゃぎ声をあげて走っていく子供……ほんの二年ほど前まで炭治郎にとって日常だった光景が、そこにはあった。
 雲取山の麓の里よりいくぶん栄えた町の様子に、見覚えはない。けれども懐かしいと思えてしまう。穏やかな町並みは、焼き上がった茶器などを背負い、時に禰豆子や竹雄をともない行商に行った町に、どこか似ていた。
 泣きたくなるよな郷愁は、けれども炭治郎の背を冷やすばかりだ。洞窟を抜けたと考えるには、この光景はあまりにも突然過ぎる。こんな巨大な洞窟と隣接する町などあるものか。
「まやかしか?」
 気を引き締め直し、油断なく周囲をうかがうけれども、往来を行く人々の顔はいかにものんきだ。怪しいところなどまるで感じられない、ごく普通の人々である。スンッと鼻をうごめかせて匂いを探ってみても、異様な気配は微塵もない。
 一度戻ってみるか。思い振り向いた炭治郎の目が、ふたたび驚愕に見開かれた。
「ないっ! え、嘘だろ!? いつのまにっ?」
 キョロキョロと見回しても、つい一瞬前に通った扉は、跡形もなく消えている。前も後ろも町並みが続いているばかりだ。数秒前にいた場所がなくなっているのは、洞窟の入口と同じだ。だが此度こたびばかりは、驚くには値しないと冷静でいることはできなかった。

 なんてこった、これじゃ戻ることもできやしない。

 呆然としつつも、炭治郎は気を緩めることなく辺りを探る。なにひとつ見落とすわけにはいかない。ここがどこかは定かでないが、試験の一部であるのは確かだ。どう見ても怪しげなところなどまるでない市井の人たちであろうと、気を抜けばいきなり襲いかかってくる可能性はある。
 試験の内容は、害そうとしてくる敵をすべて倒す。このままのんびりと物見遊山で時が過ぎるなど、ありえないのだ。
 ここにいる人たちが、もしも一斉に襲いかかってきたら……。いや、それならまだマシだ。最悪なのは、無関係な人たちであった場合である。この場で敵が襲ってきたら、この人々は敵の人質にもなり得るし、盾にされる可能性も高い。
 ここは、まずい。もう少し人気のない場所に移動したほうがいいなと、炭治郎が足を踏み出したそのとき。

「兄ちゃんっ!」

 幻聴かと思った。聞こえるはずのない声だ。もう二度と聞けぬと泣いたその声に、振り向き見た駆けてくる幼い姿に、炭治郎の目に大きな涙の粒が浮かび上がった。
「……六太」
 まさか。そんなはずはない。だって、六太は死んだのだ。鬼に食われて。体の半分しか残らずに。
 あぁ、足がある。走っている。六太はうれしそうに笑っていた。焼き物を売りに行った炭治郎が帰ると、いつでもそうしていたように、炭治郎に向かって朗らかな笑顔で駆けてくる。
 そんなに急いだら転ぶぞと、笑い返してやりたい。飛びついてくる小さな体を受け止め、ただいまと抱き上げてやりたい。けれども声にはならなかった。腕を広げてやることだってできない。
 炭治郎は、ポロポロと溢れる涙はそのままに、刀の柄に手をかけた。
 六太の亡骸を、炭治郎は見ている。冷えて凍りついた、上半身しか残されていなかった遺体を。どんなに嘘だと思いたくとも、事実はなにも変わらない。六太であるわけがなかった。
 六太でないのなら、なんだ。……敵だ。これが、試験か。泣きながら炭治郎は、刀を抜いた。
「兄ちゃん?」
 白刃を手にした炭治郎に、六太の足が止まった。キョトンと見上げてくる顔はあどけない。
 深く静かに呼吸する。臍下丹田せいかたんでんに火が灯る。命の炎が燃える場所。六太には、もうない。
 せめて苦しまないように。六太の姿をしているだけだとわかっていても、炭治郎の眉根は狂おしく寄せられた。
 怯えすら見せずにいとけなく見つめてくる六太へと、炭治郎は刀を振りかぶった。その手が聞こえてきた声にピタリと止まる。
「兄ちゃんだっ! 炭治郎兄ちゃんも来たの!? やったぁ!」
「ほんとだ。兄ちゃんも来てくれたんだね!」
 人並みからひょっこりと現れた笑顔に、炭治郎の顔がますます苦悩に歪む。
「茂……花子……っ」
「遅いよ、兄ちゃん。母ちゃん! やっと兄ちゃん来たよ!」
「竹雄っ。……母さん……っ」
 涙で視界がぼやける。悲しいのに、心のどこかで喜ぶ自分がいた。
「おかえり、炭治郎」
 笑いながら近づいてくる家族は、みな笑顔だ。痛々しげな傷などどこにも見えない。抱きしめてしまいたい。刀なんか放り出して、強く、ただ強く。けれどそんなことができるはずもなかった。
 もう、死んだのだ。みんな。だからこれは、幻と変わらない。
 うれしいはずの邂逅は、ただ苦い。もう二度と手にすることのできない、ささやかな幸せの形に、手を伸ばしたくなるけれど。己の手で切り捨てなければ、先には進めないのなら。

「……ごめん」

 涙声でつぶやいて、六太を斬るべく足を踏み出した炭治郎は、ふたたび立ちすくむことになった。
「兄ちゃん?」
 近づいてくる六太から、匂いがする。よく知る匂いだ。間違えるわけもない。六太の匂いだった。
 愕然と立ち尽くす炭治郎の足に、ぽふんと六太がしがみついてくる。
 駄目だ。油断するな、斬らなければ。
 胸中で己を叱咤しても、手も足も動かない。だって、六太だ。姿形だけでなく、匂いまでもが。小さな手からは馴染んだ温もりが伝わってくる。
 偽物じゃ、ないのか……。
 六太だけじゃない。炭治郎の手にある刀など目に入っていないかのように、笑って駆け寄ってきた茂たちからも、懐かしい匂いがする。みんな、みんな、絶対に間違えるはずのない、家族の匂いがしていた。
「なん、で……」
「どうしたの、炭治郎。顔色が悪いわ。あぁ、こんなに泣いて……なにかあったの?」
 頬に触れた母の手も、温かい。声がやさしい。
「母さん……鬼に、食われたんじゃ……」
 呆然とつぶやいた炭治郎に、竹雄が笑った。
「なに言ってんだよ」

 兄ちゃんだってそうだろ?

「……は?」
「もう、しっかりしろよな。だからここに来たんだろ?」
 パンッと背をたたかれた。ちゃんと痛い。
 なんなんだ。なにが起きてる?
「食べられたときはすっごく怖かったし痛かったけど、みんないっしょにいられるなら、ここでもいいよね」
 花子の声は明るい。憂いなどどこにも感じられない。笑う顔は白く、あの日の鮮血などどこにも見えなかった。
「兄ちゃんも食われたから来たんだろ? あのね、新しい家は、山で暮らしてた家よりもおっきいんだよ! 行こう、兄ちゃん!」
 震える炭治郎の手をとった茂の手は、温かかった。
 まさか。ありえない。けれど、匂いも温もりも本物だ。ならば、ここがおかしいのか。ここは、どこなんだ。

幽都ゆうとでも、家族で暮らせるなら幸せよ。ね、炭治郎」

 ゾクリと背が震えた。ではここは黄泉よみなのか。死者の住まう場所。だが、話に聞く幽都とは、陰鬱な地の底にあるのではなかったか。ここには日が差している。道行く人たちだって死者とは到底思えない。六太たちだってそうだ。笑う瞳には生気が見て取れる。
 もしも真実ここが幽都であるのなら、竹雄たちの言うとおり炭治郎も死んだことになる。だが、炭治郎にそんな覚えはない。だって炭治郎は今、試験の真っ最中だ。必死に呼吸を身につけ、剣の腕を磨いた日々こそが幻だったとでも言うのだろうか。

 違う。違う、違う、違う! 炭治郎は首を打ち振った。

 狭霧山で過ごした二年近くの月日は、幻などではない。鱗滝や錆兎から受けた厳しい鍛錬。真菰の助言。全部、炭治郎が経験してきたことだ。炭治郎は刀を握ったままの自分の手に視線を落とした。
 土をこねて焼き暮らしてきたころよりも、固く傷だらけになった己の手。丹田は熱く燃えている。過ぎた月日の証拠が、ここにある。

 もしも、すべてが死にゆく自分が見た夢幻ならば、義勇はどうなる。義勇もまた、夢のなかの人でしかないとでも。

 たとえば、扉を開いたあの瞬間に、痛みもなく一瞬で殺されたのだとしたら。可能性は低いがないわけではない。けれどもそれは考えにくい。これは試験だ。敵を倒すのが試験の合否を決めるのならば、戦う余地もなく瞬時に殺されるような罠では意味がない。
 悟れぬ未熟さが悪いのだといえなくもないけれど、鱗滝がそんな罠を仕掛けるとは思えなかった。だってそれこそ無意味ではないか。敵の気配は、暗闇のなか微塵も感じられなかった。なにより、義勇の心を取り戻すのに、炭治郎の鼻は必須なのだ。
 簡単に殺してしまっては、すべての希望は水泡に帰す。
 それに……。

「そうだ……禰豆子っ。禰豆子を人に戻さなくちゃいけないんだ! 戻らなきゃ!」

 よしんばここが真実幽都であったとしても、炭治郎は生きている。生きて戻り、旅立たなければならないのだ。禰豆子を人に戻すために。義勇の感情の破片かけらを取り戻すために。
「ごめん……俺はここにはいられないんだ。禰豆子を助けなくちゃ」
 涙を拭い、刀を鞘に納めようとした炭治郎の手が、クスリと笑う声に止まった。

「禰豆子はもう鬼でしょう? 一人で生きていけるわ」
「ッ!!」

 信じられない母の言葉と同時に、足に激痛が走った。とっさに見下ろした先にあった光景は、母の言よりも信じがたい。
「六太……っ!」
「兄ちゃんもここにいよう? 死ねばいられるよ」
 にこにこと笑う幼い六太の手が、炭治郎の太腿に刃を突き立てていた。匂いも温もりも、炭治郎がよく知る六太のままで。それはまるで、中身がそっくり入れ替わったかのようだった。
「そうだよ。姉ちゃんは鬼になっちゃったから、もうここにはこられないもん。しょうがないじゃん」
「ね、兄ちゃんもみんな一緒がいいでしょ?」

 大丈夫、ちゃんと殺してあげるから。

「くっ!」
 笑いながら短刀を振りかざした花子に、炭治郎は、突き立てられた刃もそのままに飛び退すさった。
 周囲の人には驚く様子すらない。と、見る間に光景がゆらぎ、建物も人も霞のように消えていった。突然に幕が降ろされたかのように、薄闇が辺りを満たす。
 先までの一寸先も見えぬ暗闇ではない。だがなまじ視界が利くのが厄介だ。もはや家族だとは思えぬのに、姿形はやっぱり愛おしい家族のままなのだ。匂いすら本人と変わらない。
 けれど、ためらうわけにはいかなかった。
 もしも母たちが本人だったとしても、それは肉体だけだ。ここにいるのはみんな、炭治郎の家族ではない。

「俺の家族が禰豆子を見捨てるわけないだろう!」

 ビュンっと首筋を掠めた白刃を避け、炭治郎は怒鳴る。竹雄の刃を受け止め跳ね返し、タンッと地を蹴り跳び上がる。周囲はすでに洞窟へと戻っていた。
 黄泉で母たちが本当に暮らしているのなら、笑っていてほしいと思う。こんな心ない笑みではなく、貧しくとも互いに慈しみあっていたやさしく朗らかな笑みであってほしい。解放してやれるのが自分だけなら……やらなくては。それが長男である、自分の努めならば。
 足に走る激痛よりも、胸が痛い。ごめん。死んでまでまた痛い思いをさせる。胸中で詫びながら、炭治郎は振りかざした刃を六太の頸へと振り下ろした。
 悲鳴はなかった。
 炭治郎の目にも、涙は浮かばなかった。
 返す刀が花子の頸に迫る。せめて。せめて一刀のもとに。ためらうな。苦しみは、一瞬だけでいい。それぐらいしかできないのなら、せめて。

 次々に倒れていく家族の亡骸が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめき消えていく。
 落ちた頸は、みなどこかホッとしたように笑っていた。

 母の姿が消えていくのを見つめながら、炭治郎はゆっくりと刀を鞘に収めた。知らずこぼれた息は熱く、掠れている。ひとしずく、頬を涙が伝った。
「……行かなきゃ」
 薄闇のなか、炭治郎はふたたび歩き出す。後戻りなどもうできやしない。やさしい夢を見続けることもできない。修羅の道になろうとも、禰豆子を人に戻し義勇の心を取り戻すまでは、立ち止まることなどできないし、したくない。
 歩むたびに、刺された足が痛む。身のうちで、消えぬ炎が燃えていた。

「……出てこい。おまえの傀儡くぐつは消えた」

 鱗滝がどれだけ優れた仙であっても、死者を呼び戻すことはしないだろう。高潔な師は、わざと家族を差し向けるような真似はすまい。ならば、これは誰の仕業なのか。言うまでもない。
 鬼だ。
 幻惑ではないのは、痛みが教えてくれる。ここに潜む鬼を倒す。きっとそれこそが、本当の試験だ。
 クツクツと忍び笑う声がした。薄闇のなか、一段と濃い暗がりから声は聞こえてくる。炭治郎は無言で刀を抜いた。
「傀儡があれだけだと思うたか? 甘い甘い。死者はいくらでもおるわ。次はおまえの父親を呼んでやろうか。それとも友がよいか? 祖母でも祖父でも、おまえが慕っていたものに逢わせてやろうよ。感謝しながらわしに食われるがよいわっ!」
 ケタケタと哄笑をひびかせて、暗がりからゆらりと現れた老人が、大きく手を広げた。道士姿の老人は、枯れ木のように細い。しわだらけの顔で赤い瞳だけが爛と光っている。
 ゆらりと空気が揺れて、老人と炭治郎の間に立ちはだかるように現れた人に、炭治郎は静かにつぶやいた。
「父さん……」
 静かに、けれども強く、怒りの炎が燃える。
 言葉もなく襲いかかってくる父の剣を、炭治郎の白刃が受け止める。キィンと高い音がひびき、炭治郎はすぐに飛び退き間合いをとった。次の瞬間、闇がぐんと濃くなった。視界が利かない。けれど焦りはなかった。
 ビュンッと空気を切る音がする。振るう刃が起こしたわずかな風が、頬をかすめ、炭治郎はまた一歩飛び退く。懐かしい父の匂いがする。闇のなかでも、見失うことはない。
 来る。
 目には見えぬまま、炭治郎は、頭上に振り下ろされた父の刀をあやまたず弾き飛ばした。
 鬼のいた場所までは目算で二十歩ほどあった。飛び退いた距離、方向、ちゃんとわかる。数えていた。ためらわず炭治郎は身を沈め、父の足を蹴り払うと駆けた。
 鬼の姿は見えない。けれども炭治郎は、確信とともに手にした刃を思い切り薙いだ。感じる手応え。捉えた!
 炭治郎の剣が振り抜かれるのと同時に、絶叫が闇のなかひびきわたった。

「強くなったな、炭治郎……」

 背後から聞こえた密やかな声に、ピクリと炭治郎の肩が揺れる。闇が晴れていく。ゆっくりと振り向いた炭治郎の視線の先で、父は微笑んでいた。
「禰豆子を、頼むぞ」
「……父さんっ!」
 思わず駆け寄った炭治郎の手が触れるより先に、父の姿がゆらいだ。懐かしくやさしい微笑みに向かい、炭治郎が強くうなずき返したのを、父はちゃんと見てくれただろうか。痕跡一つ残さずに消えた父に、確かめるすべはない。
「……父さん、母さん。竹雄たちも……約束するよ。必ず禰豆子を人に戻してみせる」

 だからどうか、安らかに。

 ギュッと目を閉じ、唇を噛みしめて、炭治郎は束の間愛おしい人たちを悼む。どれだけ泣こうと喚こうと、失った人は還らない。悲しみに足を止めて嘆いていても、救える人はいない。
 目を開くと、炭治郎はキッと顔を上げた。まだ試験終了の声は聞こえてこない。
 ふたたび歩き出した炭治郎の足取りは、痛みを訴えてはいても力強かった。