竜胆

※『800字分の愛を込めて』で書いたものを加筆修正しました。

「冨岡の援護、ですか?」
 お館様の呼び出しに煉獄が急ぎきてみれば、命じられたのは後方支援だった。それはいっこうにかまわないが、柱が二人であたらねばならぬ任務とは穏やかではない。よほどの鬼なのだろうか。
 緊張感を孕ませた煉獄の声に、お館様は静かに笑った。
「うん、鬼を斬るだけなら義勇だけで充分だろうけれど、それまでがちょっと厄介でね。お願いできるかい? 杏寿郎」
「はっ! お館様の命であれば否やなどありません! さっそく向かいます!」
 勇んで言って一礼した煉獄に、お館様の笑みが深まる。
「頼んだよ。義勇は人と話すのが苦手だからね、少し心配なんだ。下級の隊士には少々荷が重いようだしね」
 フフッと少し愉快そうに言うお館様に、わずかばかり疑問はわいたが、問い質すほどのことでもない。なによりも、冨岡との共同任務という一事に、煉獄の胸は隠しようなく弾んだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「よう、今から冨岡のとこか?」
 背後から聞こえた声に煉獄が振り返れば、宇髄が立っていた。庭の玉砂利を踏みしめ歩いても、宇髄が足音を立てることはない。忍者というのはすごいものだなと、毎度のことながら煉獄は感心してしまう。
「うむ! しかし、なぜ宇髄がそれを知っているんだ?」
「最初は俺様にきた話だからな。煉獄のほうが適任だって派手に推しておいてやったぜ。感謝しろよ?」
 ニヤリと笑う宇髄に、煉獄は大きな目をパチリとしばたたかせた。
 煉獄には任務の詳細は告げられていない。冨岡を探し、成り行き次第で助け出せとの命だ。冨岡に危険が及ぶほどの敵ともなれば、もしや上弦の鬼の可能性もあるのかと気色ばんだが、お館様の態度にはどうにも楽観の気配があった。詳細がわからないこともあり、今までの任務とはどうにも勝手が違う。
 しかも最初は宇髄が任にあたるはずだったなどと言われれば、ますます疑問は募る。
「冨岡に逢いさえすればわかると思っていたのだが……後方支援とは、なにをすればいいんだ?」
「お館様には冨岡を助け出せって言われたろ? そのまんまだよ。冨岡が危ないと思ったら、声をかけて連れ去ってやりゃあいい」
「冨岡に危険が及ぶ可能性があるのか? たしかに、お館様は下級隊士には荷が重い任務だとおっしゃっていた。柱である冨岡が向かわねばならなかったほどの相手ならば、危険なことに違いはないと思うが、よもや上弦か?」
 だが、それならば連れ去れというのは解せぬ。逃げろと同義ではないのか。鬼と相対しながら冨岡を連れて逃げろとは、いったいどういうことだろう。
「危険っちゃあ危険だろうが、おまえさんが考えてるようなもんじゃねぇよ。場所は聞いたんだろ?」
「あぁ。浅草十二階近辺だとか」
 あの辺りは治安が悪い。日本有数の歓楽地である浅草は、言うまでもなく浅草寺の門前町だが、それはすなわち花街としての顔を持つということだ。活気あふれる雷門からつづく仲見世通りはまだしも、凌雲閣りょううんかくの辺りなど煉獄にはとんと縁がない。
 清廉な印象の冨岡にもまた、不似合いな街だと煉獄は思う。
 なのに冨岡が選ばれたのはなぜだろう。改めて考えてみれば、どうにも腑に落ちない。
「鬼がいるのは間違いないが、それほど強いわけじゃなさそうだ。だが、身を隠すのがうまいようでな。下級隊士程度じゃ鬼の気配が見つけ出せねぇんだと。ともかく、冨岡に声をかけてくる奴らのなかに鬼がいねぇようなら、冨岡を連れてずらかるのがおまえさんの役目だよ」
「ふむ。子細はよくわからんが心得た! だが、なぜ俺に? 宇髄の手に余るというわけではないのだろう?」
 任務の内容以上にそちらのほうが、煉獄には解せない。万事派手好みの宇髄だが、潜入任務の後方支援など地味だから嫌だというわけでもあるまい。元忍びだけあって、情報収集に関して宇髄は一日の長がある。潜入任務にことさら煉獄を推す理由がわからなかった。
「あぁん? だっておまえさん、冨岡に惚れてんだろ?」
「よもや! 知られているとは思わなかった……その、そんなに俺は筒抜けだろうか」
 驚愕に知らず身を固くした煉獄に、宇髄は愉快そうに笑った。煉獄の肩をガシリと抱き、派手な化粧を施した顔を近づけてくる。
「俺様を誰だと思ってやがんだ? それぐらい察せなくてどうするよ。けどまぁ、ほかの奴らは気づいちゃいねぇだろうから安心しな」
「いや、俺は知られてもかまわないが……冨岡にまだ想いを告げたわけではないのだ。ほかの者から俺の想いが冨岡に伝わるというのは、少し悔しい!」
 伝えるのなら、誠実に、自分の口から伝えたいものだ。
 言えば宇髄は、先ほどの煉獄のようにキョトンとまばたくと、声をあげて笑った。
「あの朴念仁で辛気臭い野郎に、煉獄がテメェに惚れてるってよなんて、わざわざご注進する酔狂な奴はいねぇだろうが、まぁ気持ちはわからんでもないな。ま、派手に頑張れや」
「うむ! 応援感謝する! だが、冨岡は辛気臭いわけではないぞ。たしかに人慣れず交流下手ではあるがな! 麗しく努力家で、尊敬すべき柱だ!」
 人の輪に入ることを拒む傾向はあるが、不死川が言うように高飛車な奴だなどと、煉獄は思ったことがない。むしろ、冨岡は周りをよく見ている。わかりにくいやさしさは、人に伝わりにくいようだが、煉獄にとっては好ましさを覚えるものだった。
 断言した煉獄に、宇髄は笑いながら肩をすくめただけだった。宇髄には冨岡の素晴らしさはわからないのかと、ちょっとばかり煉獄は落胆したが、宇髄は気にした様子もない。

「はいはい。それよか、冨岡見て派手に腰抜かすなよ? 俺様の特訓の成果は上々らしいぜ?」

 思わせぶりな言とともに宇髄が浮かべたのは、楽しげだけれどどこか人が悪い笑みだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 凌雲閣――別名、浅草十二階を擁すその界隈は、日本有数の歓楽地である浅草のなかでも、もっとも人間の欲望が渦巻く場所であろう。数百を超える私娼窟が広がる、東京府の闇の顔。それが浅草十二階の一面だ。
 明治天皇の御代において、男色を禁じるべく発布施行された鶏姦律令により、吉原から消えた陰間茶屋も――今は秘密クラブなどと名称を変えてはいるが――この界隈ではいまだ健在である。
 芝居小屋やらカフェーなどが立ち並ぶ表通りから外れ、幟や看板もろくに見当たらないどこか薄暗い道筋をえらんで入り込めば、一気に頽廃的な空気が濃くなった。路地に立つ客引きや女性たちに、煉獄はかすかに眉を寄せる。どう見ても尋常小学校に通う年ごろの少女までもが路地に立ち、男に声をかけられているのを見るのは、なんとも不愉快だ。
 彼女たちにも様々な事情があるのだろうが、年端もない少女が身を売らねばならぬのかと、忸怩たる想いしか浮かばない。
 鬼に襲われることなどなくとも、悲劇はいくらでも転がっている。刃を振るうだけでは救えぬ人たちがいる。交渉が成立したのか父親ほどの男に手を引かれて、暗がりに消えていく少女のか細い背中を見つめ、煉獄は深く嘆息した。
 今夜の稼ぎ分の金をあの少女に与えてやることは簡単だ。そうすれば、あの子は今夜の客を取らずとも食事ができるのだろう。だが、それだけだ。苦しい暮らしをしているのは、もう見えなくなったあの子だけではない。煉獄に救えるものは、せいぜいが鬼の魔の手からだけだ。
 ならばせめてそれだけは必ずや守ってみせる。溜息一つで鬱屈を吐き捨てると、煉獄は顔をキッと上げ歩きだした。
 通りには甲高い笑い声がひびいていた。酒精に浮かれた嬌声が聞える。欲望の街の闇は深い。心理的にも、物理的にも。

「冨岡はどこにいるんだろう」

 煉獄には、冨岡の詳しい居場所は明かされていない。後方支援とはいうものの、詳しい任務内容は教えられぬままやってきた。
 潜入捜査であるからには、何日もかかるのはいたしかたないが、この街に冨岡がいるのかと思うと、ジリリと胸のうちが焦げつくような心持ちがする。
 思い浮かべる冨岡の玲瓏な横顔は、享楽的なこの街にはあまりにも不似合いだ。なぜ冨岡がこの任にと、煉獄はまた思う。この街では清廉な冨岡はかなり浮くだろうに。
 それでなくとも冨岡は口が重い。潜入任務には向かぬ性格だ。
 だからこそ援護が必要なのだろうが、いったい自分がなにをすればいいのかも、煉獄にはよくわからない。鬼よりもその前が厄介だという話だったが、冨岡はどこでなにをしているのか。
 冨岡がおくれを取るとは思わないが、なんとはなし不安にもなる。どんなに気が急いても、大声で呼びまわるわけにもいかない。潜入任務で目立つのはきっと悪手だ。
 とにかく自分の足で探し回るよりないかと、煉獄は油断なく周囲に視線を走らせながら、怪しげな通りを歩く。と、暗がりから不意に腕に触れた手があった。
「ねぇ、お兄さん。遊んでかない?」
 声をかけてきたのは、煉獄よりいくらか年上そうな女だった。はしたなく着崩した着物を見るまでもなく、明らかに私娼だ。
「すまん! 客ではないのだ。人を探している。この辺りで、長髪の、俺より少し背が低いくらいの男を見かけなかっただろうか。とても美しい人なので、見かければわかると思うのだが」
「なんだ、アンタも竜胆狙い?」
 チッとはすっぱな舌打ちをひびかせる女に、煉獄は怪訝に首をかしげた。
「竜胆?」
「名前も知らずに探してたのかい。あんたが探してんのは、最近流れてきた噂の男娼だろ? 吉原辺りで太夫も張れそうなシャンの立ちん坊がいるって、男どもが大騒ぎでさぁ。そりゃまぁ、ちらっと見たかぎりじゃ、たしかにきれいな子だったけどね」
 
 立ちん坊なんてしているわりに擦れた様子がなくて、品がある。長く厚い睫毛を少し伏せて、ちろりと視線を投げる瞳は瑠璃の青。私娼風情には過ぎた金額を提示されても、たやすくうなずかず、声を聞いた者はほとんどいない。
 
「目の色と群れない様子が竜胆の花みたいだって、誰かが竜胆の君とか呼びだしたのさ」
 面白くなさげな声で女が述べる男娼は、聞けば聞くほど冨岡だと思わざるを得ない。だが男娼とは。どうにも冨岡の為人ひととなりとはかけ離れていて、煉獄は戸惑わずにはいられなかった。
「立ちん坊がなにをえり好みしてんだか知らないけど、店への引き抜きや大枚ちらつかせる客にも、ちっともうなずきゃしないんだよ。それがまた男どもに火をつけるみたいでさぁ。このところ、竜胆を買うのにみんな躍起になってんのよ」
「……竜胆という人は、客を取らずにいるということか?」
 それならばまだ、納得もいく。あくまでも街角に立ち鬼の気配を探っているだけなのだろう。
 だが、知らず安堵した煉獄の内心を嘲笑うように、女は小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「そんなわけないだろ。男娼が客を取らないでどうすんのさ。おまんまの食い上げになっちまう。客の取り方が変だって言ってんの。質の良さげな上客にもうなずかないくせに、やっとうなずいてついてったかと思えば風采のあがらない男ばかりでさぁ。なんだかおどおどした奴ばっかりで、竜胆のほうが客よりもよっぽど堂々として見えるらしいよ。あんな男にうなずいておいて、なんで俺じゃ駄目なんだって、やけ酒食らう男どもがうるさいのなんのって。好みにうるさいっていうよりも、やけっぱちなんじゃないかとさえ思えるぐらいだって噂だよ? まぁ、ろくでもないゴロツキはしっかり避けてるって話だから、そうとばかりも言えないと思うけどね」
 客ではないと断ったにもかかわらず、女の口はよく回る。この女も竜胆には興味津々なのかもしれない。
 思った端から、女の表情が不意に変わった。煉獄を見つめる瞳は、獲物を狙う猫のようだ。
「ね、お兄さん。お兄さんみたいな男前じゃ、きっと竜胆はうなずきゃしないよ。内緒だけどね、通りでブロマイド売ってるような役者だって、竜胆にゃ袖にされてんのさ。あたしにしときなって。お兄さんなら安くしといてあげるからさ」
「いや、ありがたい申し出なのかもしれないが、俺には無用だ!」
 するりと腕を絡ませて科を作ってみせる女に、あわてて再び断りを入れれば、女は鼻にしわを寄せまた舌打ちした。
「ったく、どいつもこいつも! お釜掘るのがそんなに楽しいかい! やってらんないよ!」
 女の悪態に、煉獄の脳髄が一瞬カッと熱く燃えた。
 今、こうしているあいだにも、竜胆――冨岡かもしれない男は、客を取っているかもしれないのだ。
 あくまでも捜査だ。本当に身を任せることはないだろう。思いはするが逆に言えば、任務のためならば必要と思い定めることもあるのではないのか。
 焦燥が身を焼いて、煉獄は我知らずギリッと奥歯を噛みしめた。
 任務だとわかっていても、悋気が胸を焼く。そんな自分の未熟さに軽く息を吐き、煉獄は努めて笑んでみせた。
 だがそれは、獰猛な獅子めいて見えたのだろう。ヒュッと息を呑んだ女は、いくぶん青ざめ口を閉ざした。
「いろいろと教えてくれて感謝する! ……俺が竜胆の客になれるかわからんが、ともかく探してみることにしよう」
「あ、あの、最近はあっちの通りに立つことが多いって聞いてるよ……」
 より闇が濃い通りを指す女の指先は、かすかに震えていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 いくらか礼を渡して女と別れたあとも、竜胆という名の男娼と、清涼な水を思わせる冨岡とがどうしても結びつかず、自然、煉獄の眉間にしわが寄る。
 本当に冨岡なのだろうか。任務ならば、男娼の真似事だろうと煉獄とて断る道理はない。男としての矜持など、無惨討伐の大願の前では些細なことだ。けれど。

 冨岡のそんな姿は見たくはないな。

 ふと浮かぶそんな言葉に、煉獄は不甲斐ないと嘆息した。
 任務だというのに悋気を覚えるなど、柱として己はまだまだ未熟である証左だろう。それでもほかの男に触れられる冨岡を思い浮かべれば、どうしても眦はつり上がり、獰猛な炎が身の内から吹き上がるような心地がする。恋とは本当にままならぬものだ。己の心一つ、制御しきれない。煉獄がこぼした吐息は少しばかり苦かった。
 恋に落ちたその瞬間など覚えていないが、恋心を自覚した日のことはよく覚えている。あの日も冨岡と共同で任に当たった。木枯らしが吹く、寒い夜だった。恋だと気づいたあの日の歓喜は、今も煉獄の胸を甘くうずかせる。
 冨岡に恋をするのに、特別なきっかけがあったわけではない。気がつけば目が自然と冨岡を追い、声を聞ければうれしくて。ゆっくりと、いつの間にやら恋い焦がれていた。自覚は唐突で、以来、煉獄は自分の存在を冨岡の心に植え付けるべく努力しているけれど、特筆すべき進展はない。話しかけてもろくに答えは返らず、会話はもっぱら煉獄が一方的にしゃべるばかりだし、食事に誘っても色よい返答は得られないままだ。冨岡との共闘も、あれ以来なかった。
 この任務で、少しでも冨岡との距離が縮まるといいのだが。思いふけりながら歩みを進めていた煉獄の耳に、嬉々とした男の声が飛び込んできた。
 
「竜胆、やっと逢えた!」
 
 聞えた声にハッと我に返り、声のしたほうへ煉獄が視線を投げると、路地の暗がりから人の気配がした。
 とっさに壁に身を隠し、路地をうかがい見た煉獄の目が思わず見開く。月明かりだけに照らされた薄汚れた路地で、紳士然とした男に言い寄られているその人影は、見慣れた隊服ではもちろんない。だが、見間違えるわけもなかった。冨岡だ。
 それでも、煉獄の頭にとっさに浮かんだ言葉は
「誰だ、あれは」
 だった。

 袖を通さず肩に羽織っただけのトンビ(インバネスコート)の下の襯衣シャツは、胸元近くまでボタンが開けられ、くっきりとした鎖骨が露わになっている。街灯もない薄暗がりだというのに、わずかにのぞくその肌は、仄白く淫靡に発光しているかのように見えて、知らずゴクリと煉獄の喉が鳴った。
 動きを妨げぬよう余裕のある隊服と違って、肌にピタリと貼りついて見える洋袴ズボンは、脚の形が明確に見てとれる。張りのある太股やふくらはぎは、布地に包まれているというのになぜだか淫らな姿を見ている気にさせられて、煉獄は下腹がズンと重くなるのを感じた。ひどく喉が渇いてくる。
 丈の長い上着を羽織っているし、煉獄のいる曲がり角のほうを向いているから、腰回りは見えない。だが、だからこそ脳裏には締まった腰の細さや臀部の丸みが想像されて、今すぐにも邪魔な布地をはぎ取りたい衝動に襲われる。
 月明かりに映える白皙。小ぶりな唇はうっすらと開かれている。伏せられた長い睫毛に隠され、星月夜を思わせる瑠璃の瞳は見えない。いつもの凛とした佇まいではなく、どこか気だるげで隙のある立ち姿だ。
 あれは、誰だ。また思う。婀娜めいて頽廃的な色香をまとわせる男娼など、煉獄は知らない。あんな姿は、煉獄の知る彼とはちっとも重ならない。

 けれど、たしかにそれは、冨岡義勇その人だった。

「あぁ、本当にきれいだ、竜胆」
 酔いしれて聞こえる男の声音と、冨岡の鎖骨をなぞる手に、煉獄は脳髄がカッと熱を帯びるのを感じた。それに触れるなと怒鳴りたくなるのを、強く奥歯を噛みしめこらえる。悋気が胸を焼こうとも、煉獄は柱だ。怒りに我を忘れることはない。
 気配を消したまま、煉獄は静かに刀のつかに手をかけた。そのとき、わずかに顔をあげた冨岡の瑠璃色の瞳が、一瞬、煉獄の瞳をとらえた。迷わず煉獄は鯉口を切る。
 するりと冨岡の手が動いて、男の胸をトンッと押しやった。
 
「煉獄、こいつだ」
 
 冨岡の声は、小さいけれどよく通る。無言で剣を鞘走らせて駆け寄る煉獄に、男の形相が変わった。
「テメェら鬼狩りかっ!」
 ぐわりと開いた口に剥きだされた牙が、月光を弾いて光る。冨岡に伸ばされた手には切っ先の如き鋭い爪。その爪が冨岡に触れるより早く、サッと身をかわした冨岡の肩から上着が落ちて、次の瞬間には、背にした日輪刀が抜き放たれていた。
「なぶり尽くしてから食ってやるつもりだったのに、騙しやがって!」
「勝手なことを抜かすな」
「冨岡、よくわかったな!」
 人に紛れ生活しながら得物を狙う鬼は厄介だ。気配を隠し人のふりをするのがうまい。
「……触れられたとき、鬼の気配がした」
 本性を隠せぬほど興奮しきっていたということか。
 悟った瞬間、煉獄の剣が気迫とともに鬼に迫る。猛火のような苛烈さで振り抜かれた切っ先を、鬼は寸前でかわした。
 間髪入れずに冨岡の剣が襲う。波濤を思わせるその剣も、やはり髪一筋ほどの差でかわされた。届かない。鬼は大仰な動きをしているわけではないのに、ふたりの刃は鬼には届かず、空を切る。

「……遠近感が狂ってる」
「うむ、擬態というよりも目くらましの術を使うのかもしれんな。距離感がつかめん」

 油断なく刃を構えたままの冨岡の声に、煉獄も鬼から視線を外すことなく応えた。二人の会話に鬼が吼えた。
「ごちゃごちゃウルセェ! この際くたばってからでもかまわねぇや、こんな上玉をしゃぶりつくせる機会、滅多にねぇ。今まで食ったなかで、一番きれいだ。味もいいんだろうなぁ、いろいろと」
 ニヤニヤと笑う鬼は、不快感ばかりを煽る。舌なめずりする音も淫猥で、よしんば鬼でなかったとしても、こんな下衆の目に冨岡が映し出されることすら許しがたい。
「笑止!!」
 もはや怒りを押し殺す必要もないと、煉獄も吼えた。猛る獅子のような怒号をとどろかせるが、それでも冷静さを欠いてはいない。
「俺もまだ触れていないというのに、鬼風情に冨岡の肌を汚させるわけにはいかんなっ!」
 煉獄のふるった刃は、やはり鬼には届いてはいない。だが、鋭い斬撃の空圧は鬼にたたらを踏ませるには十分だった。以心伝心。呼びかけは必要なかった。鬼が見せたわずかな隙を見逃すことなく、冨岡の刃が鬼の頸へと迫り、一刀のもとに斬りはらう。
 悪態をつきながら塵になっていく鬼を一顧だにせず、ビュンと刃をふるって血のりを払う冨岡は、先ほどの退廃的な風情など露とない。凛と立つその姿は、凛々しく雄々しい。
 その姿に、煉獄は息を呑み見惚れた。

 あぁ、冨岡だ。

 不思議に深い感慨でもって、煉獄は冨岡を見つめる。
 婀娜めき欲を掻き立てる男娼のふりした冨岡の姿は、美しかった。だがそれ以上に、凛とした剣士として立つ冨岡こそが、煉獄を魅了するのだ。冨岡の洗練され優美とさえいえる剣は、冨岡そのものだと煉獄は思う。
 竜胆。たしかに冨岡に似合いの名だとふと思った。
 花の名の由来となった水神たる竜は、きっと冨岡のように気高く雄々しいのだろう。そして、竜胆は晴れた空の下、日に向かって咲く。猥雑な夜の闇のなかなどではなく。
 見惚れたままわずかに放心していた煉獄に、なにを思ったのか、冨岡が不意に口を開いた。

「……触りたいのか?」
「は?」

 唐突な冨岡の言葉に、煉獄は目を見開いた。いったいなんのことだろう。
 煉獄の答えを待っているのか、わずかに小首をかしげている冨岡に、煉獄も思わず首をひねってしまう。
 なにを言いたいのだろうと考えた刹那、先ほどの己の発言を思い出し、煉獄の顔がたちまち朱に染まる。
「すまんっ! 俺はとんでもないことを!」
「べつにいい」
 言うなり襯衣の襟元をさらにくつろげ、ん、と促してくるから眩暈がする。
「い、いやっ、冨岡、意味がわかっているのか!?」
「なんで触りたいのかは知らんが、煉獄ならかまわない」
 さらりと宣う冨岡には、まったく躊躇や羞恥は見られない。
 これは本気でわかっていないようだ。なんだか肩が落ちてしまうが、それもまた冨岡らしい気がして、煉獄は思わず笑った。
「やめておこう。俺が触れたがっていることだけ覚えていてくれたら、それでいい」
 言いながら襯衣の釦をとめてやれば、存外素直に冨岡はされるがままになっている。布地に隠されていく肌は、まとう襯衣よりもよほど白く輝いて見え、煉獄の目に強く焼きついた。
 煉獄になら触れられてもかまわないというのは、本心なのだろう。それはそれで舞い上がりそうにうれしくはあるが、それだけでは足りない。
 求めるだけではなく、求められたいのだ。冨岡とは、同じ想いで触れあいたい。
 落ちている上着を拾い、冨岡にはおらせてやりながら、煉獄は不敵に笑った。
「だが、冨岡が俺に触れられたいと思ってくれたのなら、遠慮はしない。覚悟しておいてくれ」
 わけがわからないと言わんばかりに首をかしげたままの冨岡は、それでも「わかった」とうなずくから、煉獄の笑みはますます深まる。
 
 群れずひっそりとひとり咲く竜胆の花。ほかの誰にも手折らせてなるものか。
 
「竜胆はかなり苦いそうだが、君は甘そうだ」
 先ほどまでとは違い、冨岡の唇はいつものように引き結ばれている。小ぶりなこの唇に触れたのなら、きっと天上の甘露の如く酔うのだろう。竜胆の花だって、薬になる根は苦くとも、蜜は甘いに違いない。
「……煉獄の言うことは、よくわからない」
「うむ、今はわからなくてもかまわん! わかってもらえるよう努力するまでだ!」
 快活に笑って、煉獄は手を差し出した。キョトリとまばたく瞳を見つめ、じっと待つ。
 首をひねりながらも冨岡は、そっと煉獄の手に己の手を重ねるから、ギュッとその手を握った。
 今はこれぐらいでいい。というよりも、これぐらいは許してほしい。
「この界隈は変な輩が多いからな! 手を繋いでいこう!」
「……子供みたいだ」
「たまには童心に帰るのもいいだろう?」
 
 心のうちにあるものは、子供のような純粋さばかりではないけれども。
 
 握り返しこそしないものの、拒まず煉獄の手に引かれる冨岡が、どうしようもなく愛おしい。
「しかし、堂に入ったものだったな! 君にあんな演技ができるとは思わなかった!」
「宇髄が、いつものようでは鬼は寄ってこないと。いろいろ教えてくれたが、俺はかなり不出来だったらしい。視線の遣り方が違うとか、もっと隙を見せろとか、いっぱい怒られた」
 常になく幼い物言いに、思わずキョトンとして冨岡を見やれば、冨岡は先ほどまでの凛々しさなどどこへやら、なにやらしょんぼりとしてさえ見える。まるで稚い子供のようで、微笑ましくすらあった。
「そんなことはない! 君は立派に潜入任務を務めあげた! 誰も君を疑う者などいなかっただろう?」
 わずかに小首をかしげる様が、慰められて甘える子どものように見える。ひとたび剣を振るえば勇ましく猛る竜の如くにも見えるのに、頑是ない子供のように煉獄を見つめてくるから、煉獄の胸には恋しさが募るばかりだ。
 凛々しく雄々しい剣士としての冨岡も、無垢な幼子のような冨岡も。男の欲を掻き立てる様もすべて含めて、冨岡が好きだと思う。そのどれもが冨岡義勇の一面であるのなら、すべてをこの目にしたい。冨岡のすべてを、いつかこの手にしたかった。
 今はまだ、こうして手を握るだけだけれど。

 朝はまだ遠い。こんな街では男同士で手を繋ぎ歩いていても、奇異の目で見る者もない。
 冷たく冴えた見た目と違い、冨岡の手は、ほんのりと温かかった。